マーシャルと東北とアミモノ(10通目/瀬尾夏美)
聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。
今回は瀬尾さんから伊藤さんへのお手紙です。
亜紗さんこんにちは! わたしはいま宮城県丸森町にいます。
春の丸森は山々が明るく輝いていて、ああいいなあとしみじみ感じます。
昨年4月にも丸森にしばらく滞在していたのですが、丸森のおじさんから突然、「萌えてます!」というメッセージが来たので驚きました。返信でその意味を尋ねてみると、「山が萌えている感動を伝えたかった。居ても立っても居られないので、孫の世話の合間に山に行ってきた」ということでした。ああいいなあと嬉しくなって、わたしも誘われるように散歩に出ました。
丸森の人たちが身体の中に持っているタイムラインには、家族や友人といった人間たちのことだけではなく、植物の成長や季節の移り変わり、動物たち等の存在も含まれている。こういう感覚でいると、孤独というものを感じにくいのではないかな、と想像しています。人間のことだけを考えていると、コミュニケーションがうまくいかなかったり、すれ違いを感じたりしたときに落ち込んでしまいがちだけれど、相手が動植物や自然環境の場合は、あんまりそういうことがなさそうです。
わたしとしては、関係の構築やコミュニケーションを、おもに言葉(だけ)に頼っているかどうかの違いは大きいのではと感じています。動植物や自然を相手として関係を構築し、コミュニケーションをとることは可能だと思いますが、それは言葉上のやり取りだけではなく、具体的に触れたり感じたりと、体そのものや全身の感覚を使うものですよね。
また、丸森での暮らしには、しめ縄づくりや草刈りなど、たくさんの共同作業があるのもいいなと思います。そこでは、たとえ話すことがなかったとしても一緒にいられるし、作業していれば何かしら話したいことも浮かんでくる。何を話すか、何を話せるかではなく、とにかく集う場がある。そのことが、人びとに安心感を与えてくれると思うのです。
都市、あるいはSNS空間にいると、どうしても言葉に縛られてしまう感覚があるのですが、広々と風景が見渡せる場所に来て、そこに住む人たちの暮らしぶりに身近に触れると、体がぱっと開かれるように感じます。
さて、前回亜紗さんが教えてくれた、台北の広場に広がるノンクロンのふるまいから民話が生まれるという感覚、面白いなあと思いました。わたしも民話って、まずは集うこと、一緒の空間で過ごすことから生まれると思っています。そこでふるまいを共有する、つまり互いの動きや語りを真似しあったり引用しあったりすることから、物語の相互理解と共有、共作が始まっていく。
震災後、わたしたちの溜まり場だったメディアテークも、“わたしたち” の語りが生まれる器だったと記憶しています。おもに沿岸部の被災エリアで聞いてきたこと、記録してきたものを持ち寄り、たくさん語らう。終わらないおしゃべりを続けるなかで、“わたしたち” の経験の物語り方を探っていく。そんな空間に、まさに宮城の民話を何十年と記録してきた民話の会の方たちもいらしたのは、わたし(たち)にとってとても幸運なことでしたし、ごく必然的であるとも思えます。
ところで、語り継ぎの民話というと、同居しているおばあさんや母親から孫子へ、眠る前のうとうとした時間に語られているイメージがありますが、実際には、労働の場で語られることも多かったそうです。たとえば、夜中に針仕事や藁ないをする親たちから。あるいは、農作業の休憩の集まりで近所の人から。よそからやってきて泊まり込みで仕事する桶職人から……とくに幼少期にそのような場に居合わせて話を聞くことで、語り継がれてきた民話が体に染み込むように記憶される。こう考えてみると、民話は必ずしも土着的なものであるわけではなく、ぽつぽつと飛び火するように、場所を変えて伝わっていくものと捉えられます。
また、民話語りの場では、相槌(合いの手)も重要で、語り手と聞き手が一緒になってリズムを作りながらお話を進めていくものでもあったそうです。その様子はまるで餅つきのようでもあり、はたまた共同体のうたのようでもありますが、きっとお話自体だけでなく、このようなふるまい方自体も広く共有されていたのでしょう。
かつて世界中へ渡り、移民として生きた日本の人びとも、あちこちで民話語りの場を開いていたかもしれません。その輪がじわじわと地域へ馴染んでいったその様子を、想像してみたくなりました。
ここで、2月の末から3週間ほど滞在していたマーシャル諸島について書いてみてもいいでしょうか。太平洋上にある環礁と島々で構成されたこのちいさな国は、いまのわたしたちからするとあまり馴染みがない存在のようですが、実際に訪れてみると、そんなことは言っていられないのでした。
ここで歴史的経緯をすこしおさらいします。マーシャル諸島と日本との関わりは1890年代に商業貿易を通して始まり、第一次世界大戦後には日本が占領し、多くの日本人が移り住みました。第二次世界大戦時には日本とアメリカが直接ぶつかる戦場にされ、日本の敗戦によってアメリカ統治が始まりますが、1946年以降、アメリカは太平洋上で核実験を繰り返します。その後、独立の機運が高まり、1986年に現在のマーシャル諸島共和国が誕生しました。
このように、日本とマーシャル諸島の間には複雑な(という言葉では足りませんが)歴史の交差があるわけですが、わたしが実際に行ってみたいと思うきっかけになったのは、江東区にある第五福竜丸展示館でした。1954年、焼津港を出発したマグロ漁船・第五福竜丸は、アメリカによる核実験に居合わせ、被爆します。その場所が、マーシャル諸島のビキニ環礁でした。第五福竜丸展示館には、被爆した第五福竜丸の船体そのものがドンと置かれていますが、その展示内容は第五福竜丸のことだけではなく、核の実験場となったマーシャル諸島のことや、世界中のヒバクシャについても記述されています。
展示の終盤には、マーシャル諸島に生きるふたりのインタビュー映像(ドキュメンタリー作家・坂田雅子さんが撮影)が設置されており、マーシャル諸島は核実験による終わらない被害に加えて、気候変動の影響で海面が上昇しつづけているために、その国土が沈もうとしていることを伝えていました。わたしには、この語りとの出会いがとても重要だったんです。
インタビューに答えていたひとり、マーシャル諸島の元外相トニー・デブルムさんは、核実験の被害と気候危機の問題を重ねて語りました。大国が自国の利益を求めて取る行動が、小国を苦しめるという構図が常態化していると。
もうひとりは、キャシー・ジェトニル=キジナーさんというわたしと同世代の詩人で、彼女は力強い口調で端的に、「島の風景を変えることは私たちを変えるということです」と言いました。海面上昇によって居住エリアの多くが沈むと予測されているマーシャル諸島では、大規模な嵩上げ工事や人工島への移住が検討されているそうです。
映像を見て、マーシャル諸島をめぐるあまりに困難な状況に驚きつつも、わたしはこのふたつの語りから、これまで東北で聞いた声たちを思い出して……というより、より深く理解し直すような感覚を持ちました。
トニーさんの語った大国と小国の格差関係は、都市と地方の問題に――その筆頭は、東京に電力を送り続けてきた福島第二原発での事故と言えますが、わたしにとってより身近だったのは、丸森で聞いた語りの数々でした。労働力として人びとを都市に送り、集落の維持が難しくなっていったこと。他県の業者が丸森の山林を壊し、発電所を作ろうとしていること。2019年の台風による甚大な被害には、気候危機の影響が少なからずあるだろうということ……。
そして、キャシーさんの言葉は、津波被害を受けた陸前高田で、復旧のための嵩上げ工事を目の当たりにした人がつぶやいた「第二の喪失」という言葉の、その背後にあった感情と文化的背景を、とても明快に語ってくれているように感じたのです。
その後いくつかの大切な出会いがあって、いよいよマーシャル諸島を訪れることになったわけですが、首都のマジュロに到着して最初に思ったのは、あ、ここに住んでみたい、住めるのでは? ということでした。我ながらなかなか突拍子もないですが、本当なんです。夕暮れが過ぎた頃にちいさな空港に着いて、案外近かったなあ、などと旅路を反芻しながらホテルの送迎バスに揺られ、外を眺めていると、暗がりの庭先や空き地に集い、休んだり遊んだりする人びとの姿が見えました。その穏やかな様子が、とても好きだと思ったんです。
また、マジュロのまちなかでの移動は徒歩かタクシーになるのですが、日本人というか見知らぬ人が歩いていると、地元の人たちが「ヤッコエ(こんにちは)!」と挨拶してくれます。国の人口が約4万人、そのおよそ半数が暮らすマジュロは、細長い陸地の両サイドをエメラルドグリーンの海で挟まれたうつくしい場所ですが、とくに観光地として栄えている訳ではなさそうで、商売のためでも特別な警戒心を持ったものでもなさそうな彼らの「ヤッコエ!」は、東北のちいさな集落を歩いているときに地元の人と交わす会釈と重なる気がしました。ちなみに丸森の人口が約1万人、陸前高田が約1万7千人と人口規模がわりと近いので、人との距離感がちょっと似ているのかも? と思っています。
本当に刺激的な3週間で、書きたいことが山ほどあるのですが、何より印象に残ったのは、マーシャルの人たちが自分たちのうたと民話とアミモノ(ヤシやパンダナスの葉を乾燥させて裂いた繊維を使い、貝などを編み込んで作る伝統的な工芸品)をとても愛しているということ。老いも若きも集えばうたを歌い(この合唱が本当にすばらしいです。たとえばこんな感じ)、共有している民話がいかに自分たちのアイデンティティを支え、生活と分かちがたいかを語り、部屋や車を、そして自らの体をうつくしいアミモノで装飾しているんです。
加えて、これらの大切な文化が、この土地の風土や風景と不可分であることも実感しました。風景を変えることはわたしたちを変えることだ――海面上昇によって、彼らはいつかこの土地を離れることになるかもしれない。その別離の痛みはどれだけ壮絶なものになるのだろう。そして、つねにそのリスクと隣り合わせの日々のストレスは、どれだけ大きいのだろう。
大きく削れた砂浜や、高潮対策のために急ピッチで作られている防波堤、強風で吹き飛ばされた屋根や壁……まちのあちこちでこういったものを見るたびに、気候危機がごく身近に迫っていることを感じて恐ろしくなりました。
今回の旅では、うつくしいものもあたたかいものも不思議なものも圧倒的な理不尽もたくさん目の当たりにしましたが、意外なほど疲れず、体調も壊さずに過ごすことができました。マーシャル諸島の食べ物があっているとか空気感が穏やかであるとか、そういうこともあるとは思うのですが、自分なりの分析としては、マーシャル諸島で出会ったものごとを理解しようとする際に、丸森や陸前高田で見聞きしたことや、彼らの姿や暮らしぶりを自然と思い起こしていたことと関係があると思っています。これは、マーシャルと東北には似ている部分があるのでは? という話とはまた別で、これまでに見聞きしてきたものの蓄積が、初めてのものとの出会いのショックを和らげてくれる、異文化との関わりを仲立ちしてくれる力を持っている、ということかもしれません。
ただこうして、東北の語りに助けられながらマーシャル諸島を理解していくことに、個人的なざわざわ感もありました。わたしは東京で生まれ育った日本人で、つまり地方ではなく都市に、小国ではなく大国に暮らし、格差構造の利益を享受してきた側に立っていると言えるからです。
マジュロのタクシーに乗ると運転手さんが気さくに話しかけてくれるのですが、必ずと言っていいほど自分のルーツや親戚に日本人がいると教えてくれます。また、氏名のどちらかが日本風の人にもよく出会うし、「アミモノ」「チャチミ(刺身)」「チャンポ(散歩)」のように日本語由来の言葉もたくさん使われていて、これらはすべて日本の占領期の産物と言えます。また、あちこちに日米の戦争の遺物(たとえば錆びた戦車や軍艦など)が放置されており、遺骨収集事業も現在進行形で行われています。
ちょうど3月11日、マジュロの東側、リタという住宅街を地元の青年に案内してもらいました。入り組んだ小道の先に現れたかまぼこ型の巨大なコンクリートの塊は、第二次世界大戦の際に日本軍が作った防空壕だというのです。堅牢すぎて解体ができず、仕方がないので子どもたちが遊び場として、滑り台やかくれんぼに使っているということでした。同行していた日本人の友人が、なんだか本当に申し訳ない気持ちです、と青年に言うと、彼はいやいや、と首を横に振って、これもぼくたちの歴史だから、とちいさな声で答えました。
旧植民地を元支配側の国の人が訪ねるとき、こういったコミュニケーションのざわざわはつきまとうものかと思います。歴史の事実をできるだけ学ぶことや、逃れられない立場性を把握することと、個人としてのコミュニケーションは別のレイヤーにあるとも思うのですが、実際のやりとりには感情が乗りますし、どうしても入り混じります。
わたしとしては、マーシャルの人たちは日本との関係を感じずには生きられない、アイデンティティの一部に日本という存在が関わっているのに、日本のわたしたちは気まずさもあり、どこか遠ざけたまま、彼らのことを知ろうとせず、関わらずに生きていることに不均衡を感じました。なんだかなあ……と。
わたしはこれから、気候危機を伝える活動をしているマーシャルの若い人たちとプロジェクトを始めたいと思っているので、この問題についても考えたり実践的に向き合ったりする機会が続きそうです。彼らと一緒に、わたしたちが陸前高田でつくった映像作品を見たことがきっかけになりました。他者の気持ちを想像することや、経験を受け継ぐことについて、それを試行する場での喜びや困りごとについてたくさん話すことができて、あれ? わたしたち仲間だね! と打ち解け合うことができたんです。表現を介して話し合うことの可能性も感じられた旅でした。
あちこち移動して、また長いお手紙となってしまいました。
旅の話は楽しいですね。今回も読んでくださってありがとうございます!
きらきら光る新緑を見ながら