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聴いちゃった体

民話を育てる(8通目/瀬尾夏美)

聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。

今回は瀬尾さんから伊藤さんへのお手紙です。

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 亜紗さん、こんにちは。わたしはいま、雪の陸前高田にいます。

 というのも、このまちの若い人たちが、能登の状況が知りたいと言って招いてくれたからです。滞在しているのは、わたしと同じように、東日本大震災から間もない頃に陸前高田へ移住した友人が営んでいる古本屋兼B&Bなのですが、昨年末、そこで働くスタッフのAさんと一緒に能登へ行ったことがきっかけになりました。

 小さな報告会を開くと、顔見知りに混じって、初めて出会う若い人たちも来てくれました。みんなとても真剣です。かつて “被災地” だったまちで暮らす自分たちだからこそ、次の “被災地” にできることを見つけたい。そんな気持ちを抱えているのだと言います。

 そこで能登の話をしながら気がついたのは、彼らが「震災を知らない」ということ。たしかにこの数年で、つまりあたらしいまちが出来たあとに移住してきた人も多いし(スタッフのAさんもそうで、移住第二世代というらしい)、地元の人でもすこし内陸の出身だったりすると、当時は幼過ぎて状況がつかめず、その後もほとんど震災の話題に触れる機会がなかった、と言うのです。

 わたしはすっかり老婆心(若い人に自分の経験を伝えたくなる……これが老婆心か! と思いました)が出てきてしまい、これまで記録してきた陸前高田の写真を見せ、見聞きしてきたことの断片を話してみました。

 流されたまちに掲げられた鯉のぼり。

 屋敷跡を片付けて祭壇をつくり、花を手向ける。

 壊れた家屋が撤去されてホッとする一方で、更地になった風景に、記憶や思い出そのものを失ったようなさみしさを憶える。

 かつて暮らした集落一帯を耕し、広大な弔いの花畑をつくる。

 ついに嵩上げ工事が始まり、町跡が解体されるのを見守りながら膨れてくる不安と憤り。

 あたらしいまちが出来ていく過程で、亡くなった人たちが遠のく感覚があり、そのことに後ろめたさを感じる。

 そして、七回忌のタイミングで出来たあたらしいまち。

 わたしの説明だと、風景の変遷やその時々の心情などが中心になってしまうので、ずいぶん偏りがあるのですが、断片的な話でもしてみると、彼らが自分自身の経験と照らし合わせて、思考を巡らせているのが伝わってきます。

 あのときあの人が言っていたことはそういう意味だったのか。いつか母親がつぶやいた言葉には、こんな背景が含まれていたのかも。村の人間関係のなかだったら、あんなことも起こるのでは……思案している若い人たちの様子を見て、黙って同席していた年長者たちが語り始めます。当時のまちの雰囲気や具体的な復旧工事のディティール、あるいは政治の状況、などなど。

 そんなふうにみんなで話していると、いつの間にか能登の話に戻ってくる。被災建物の解体が進まないと言われているけれど、そこにはどんな問題があるのだろう。どんな気持ちがあるのだろう?

 2011年に被災した陸前高田と、2024年に被災した能登。異なる部分と重なる部分を慎重に切り分け、想像しながら、ぽつぽつと会話が進んでいく。わたしはこの場を見守りながら、こういう形の記憶継承もあるのか、と思いました。

 実際に能登へボランティアに行くと、阪神・淡路大震災の被災地域出身の学生によく出会います。現場に入っている支援団体は、たとえば熊本地震や九州の豪雨災害での活動歴を持っていたりするので、兵庫の学生たちがほかの被災地でのノウハウを教わりながら、能登の人たちを手伝っている……ということが起きたりする。もしかすると能登の人に、阪神・淡路大震災の復興について尋ねられて、彼らが家族や地域の大人たちに教わってきたことを伝える、という場面だってあるかもしれません。

 こうして災禍の経験や回復のための知恵は、人と人との具体的な関わりによって、その都度生まれる会話によって、距離を超えて、時間を超えて、継承されていく。陸前高田での会話と同じように、兵庫と能登、あるいはほかの被災地のエピソードが交差し、混ざり合い、それをひとりひとりが解釈して持ち帰っていく。

 このとき、会話する人の中で起きていることは、抽象化です。自分の経験とよその経験を照らし合わせ、普遍的なものを見つける。あるいは物語を構築していく。これが、民話の生成と似ているのでは、と考えています。じつは、わたしがふだん行なっていることのほとんどは、民話が生成される現場をつくりたい、という気持ちで続けていたりするので、ここで民話について書かせてもらえたらと思います。

 わたしが民話に出会ったのは、2015年、陸前高田から仙台に移った頃でした。当時仙台には、震災の記録を実践しているアーティストや映画関係者、研究者などがたくさんおり、せんだいメディアテークがみんなの溜まり場になっていました。そこで月に一度、みやぎ民話の会が定例会を開いていて、若手の記録者たちも同席させてもらうようになりました。実際に、わたしも民話の会の皆さんと一緒に語り手の方に会いに行き、記録を手伝わせてもらう機会があり、本当に得難い時間を過ごしました。

 この会を牽引してきた人が、宮城県を中心として50年来各地を訪ね歩き、民話を聞き、記録をしてきた小野和子さんです。小野さんは、すでに被災の語りを文章にし始めていたわたしを励ましてくださり、震災という大変なことが起きて、あちこちに物語の種が散っているのだから、それを育てなければならないのよ、と教えてくれました。いま思えば、このときの “育てる” は、物語の種を見つけた人が負うものではなく、それをみんなで共有していく、その連鎖の中で “育っていく” イメージだったのかなと想像します。これこそ人から人へ、口伝えで手渡されてきた物語=民話という営みそのものです。

 陸前高田で文章を書いていたわたし自身も、ひとりの経験をその人のものとして描くことに、難しさと閉塞感を感じていました。記憶を継承していく、体験を手渡していくことを考えたら、Bさんの経験をBさんのものとして正確に伝えることだけをよしとすると、語ることのハードルが高くなりすぎて、先細りしてしまう。もちろん、報道や研究、アーカイブなどの場面においてそれは大事なことではありますが、わたしとしては、誰かの貴重な経験を囲む語りの場が自然発生的に生まれ、つぎつぎに連鎖していくような、ある経験をみんなで分ち持つことを促すための表現が必要だと感じていました。そんなときに民話に出会い、そのたくましさとシンプルなあり方に痺れたのです。

 小野さんは、民話は “あったること” として語られる、とも教えてくれました。“あったること” とは、“本当にあったこと” という意味です。どんなに不思議なお話であっても、聞き手と語り手はそれを “あったること” だと信じるという約束をして、物語世界を共有してくのだと言います。それはいったい、どういうことだろう?

 わたしなりの解釈はこうです。むかしむかし、あるところに、語らずにはおれないような経験、たとえば大津波に遭った人がいたとします。命からがら助かったその人は、自分が目撃したことや感じたことを誰かに伝えようと、ことばの限りを尽くします。聞いた人は、これは大事な話だと思って、また別の誰かに伝えようとする。このとき、経験者(語り手)の気持ちを想像して付け足したり、自分なりの感想を述べたり、相手(聞き手)を傷つけないように比喩を用いたりもするかもしれません。

 そうして何十人、何百人、何千人……と語りが手渡されていく間に、やがて大津波はヘビや龍に変身し、話の展開が簡略化されたり面白みを付与されたりしながら、あるときは別の土地の物語として解釈され、あるときは別の出来事の解説として機能していきます。このような抽象化のプロセスを経ることで、無数の聞き手/語り手たちが、これは自分や身近な誰かの物語だと感じ、主体的に語れるような形を得ていくからこそ、語り継ぎの連鎖は途絶えない。それでも話の芯がひどくブレたり、おかしな改変が行われたりはしない(と思われる)のは、この物語が “あったること” であり、むかしむかし確かに存在した誰かが経験したことであって、それをみんなが真摯に手渡してきたのだ、という前提があり、そして、何よりも目の前で語ってくれた相手へのリスペクトがあるからなのだと思います。物語の種は、ある程度の変化を受容しながら、誰しもの経験や気持ちを受け入れる器になることで、したたかに残っていく。わたしはついこうして、“種” のほうを主語にしたくなってしまうのですが、こうして “種” を育てていくこともまた、前回亜紗さんが書かれていた「おおらかさ」を培う人間の知恵のひとつなのかもしれません。

 民話の語り手であるツヨシさんは、自分が経験したことは自分だけのものじゃないんだよ、と教えてくれました。被災を生きのびた経験は未来の誰かを助けるために語るべきだし、そもそも自分が生きのびたのは、過去の誰かの経験を聞いたおかげかもしれない。だから、自分の経験や誰かに聞いた大切な話は、自分の中に収めずに伝える努力をしなくちゃならない。だけどそもそも、話語れるって幸せなんだ。だってそれは、ひとりじゃないということだから。

 民話を語る人たちが持っている、他者という存在を信じる力にはいつも驚かされます。もちろん彼らは生活者として、他者に裏切られたり、理不尽な目に遭わされたりすることもあることをよく知りながら、それでも、なのだと思います。

 

 長々書いてしまいましたが、民話的な営みをいまの社会に持ち込むにはどうしたらよいのだろう? というのがわたしの問いです。本来の口伝えの民話は、見知った関係性の連鎖で語り継がれていくなかで、時間をかけて生成されるからこそ、抽象化されていくことに倫理的な問題が生じにくいのだと思います。しかしいまは、メディア環境が発達し、時差なく、しかもほとんど人の手を介さずに、現場の声が、とくに映像によって固定化された形で世界の隅々まで届いてしまう。民話が “あったること” であるためには、“遅さ” と顔が見える人間たちの存在が不可欠ですが、この必要条件を整えるのはかなり難しい。

 そこで、社会的に顔の見える存在としてのアーティストが、語り手自身と信頼関係を築きながら、ときには思い切りを持って抽象化をしてみよう……というのが、わたしがひとまず実践してみていることなのだと思います。

 アーティストというと、よく “自己表現する人” みたいなイメージを持たれてしまうのですが、わたしとしてはもっと広い意味で、表現の技術の専門家として、その歴史的・同時代的な知識を持ったうえで、表現の実践をしていく人だと捉えていて、聞いた語りや見た風景をどのように表すか、それをどのように手渡すかを日々試行錯誤している感じです。

 あちこち旅している体なので、べつべつの現場の声を交差させたり、過去の事例と重ねてみたりと、なかなか節操のないこともしていますが、それくらいのことをしないと多様な声を受け止める「おおらか」な器にはならない。民話をお手本にしてみると、もっと思い切ってみていいのかも、とも思うのですが、その塩梅は時と場合によることも感じていて、詩にしてみたり、物語にしてみたり、聞き書き風にしてみたり、あるいは絵画やドローイングにしてみたり、ワークショップや対話の場を組み立ててみたりと、その都度しっくりくるというか、なんとか成り立つような表現形態を探るようにしています。

 前回のお手紙に、「「経験した人だけにしか語れないことがある」ことを尊重しつつ、いかに「経験した人だけしか語ってはいけない状況」にならないようにするか、というところに対する知恵が、本当に重要だな、と。」と書かれていて、とても共感しました。わたしが民話の生成される現場づくりがしたいのも、まさにその問題意識です。一方で、情報が恐ろしいほど早く共有されてしまう社会状況だからこそ、戸惑うという作法自体は、とても大切な気がしています。

 去年の秋から、月に一度、東京から能登を応援する「のと部」というゆるやかな場を開いているのですが、思いがけず多くの人が参加してくれて、いまでは100名ほどがグループチャットに入って日常的に活動しています。

 SNS空間だと、悪意がどんどん暴走していくのに呆然とすることが多いですが、実際に声をかけて集まってみると、ボランティアや支援がしてみたいけど、これって自分がやっていいのかな? 関わっていいのかな? と戸惑っている人たちがたくさんいます。そんな人たちの善意がきちんと現場に届くように、それぞれが動き出せるように、互いにエンパワメントしあえる環境をつくることが必要なのかなと感じています。

 旧来型のカリスマやアイコニックな人物が中心にいて牽引していくタイプの運動体は、爆発力はあるけれど、次世代継承がかなり難しいことも感じています。すると、出来事や関係性、知恵や思想の囲い込みが起きて、その運動の軌跡自体が歴史に残りにくくなってしまう。そこで、もっとフラットな形で、みんながもぞもぞと動いてエンパワメントしあえるような運動体のあり方が模索できたら、と思うのです。それはきっと、ひそひそと民話を語り継ぐような、ゆるやかな変容を受け入れる器づくりに似ている予感がしています。

 

 またまた独り言みたいなお手紙になってしまい、大変失礼いたしました!

 来週からマーシャル諸島に行ってきます。しばらく里山に通っていたので、海の人たちの暮らしが気になっています。

 

もうすぐ震災から14年が経つ三陸にて

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著者略歴

  1. 伊藤 亜紗

    美学者。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、同リベラルアーツ研究教育院教授。哲学や身体、利他に関連しつつ、横断的な研究を行っている。主な著書に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく』(文藝春秋)など多数。サントリー学芸賞、日本学術振興会賞、学士院学術奨励賞、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞などを受賞。1979年東京生まれ。

  2. 瀬尾 夏美

    アーティスト、作家。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。さまざまな地域やコミュニティと協働しながら記録し、表現するコレクティブ「NOOK」を立ち上げ、災禍の記録を掘り起こし、それらを用いた表現を模索する「カロクリサイクル」に取り組みながら、語れなさや記憶の継承をテーマに旅をする。主な著書に『あわいゆくころ』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層』(生きのびるブックス)など。映像作家の小森はるかとの共同制作として、《波のした、土のうえ》(2014)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2020)、「11歳だったわたしは」(2021-)など。1988年東京生まれ。
    (撮影:Hiroshi Ikeda)

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