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聴いちゃった体

「語らない人」の語り(4通目/瀬尾夏美)

聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。

今回は瀬尾さんから伊藤さんへのお手紙です。

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 亜紗さん、こんにちは。お返事遅くなって申し訳ありません。

 いよいよ、ようやっと夏が終わったという感じですが、お察しの通り、わたしは夏生まれです。ちなみに妹はアキコ、弟はハルキという名前で、うちでは季節ごとにきょうだいの誕生日が巡ってきます。

 亜紗さんの二通目を読みながら、どこからお返事しようかと考えていたのですが、それと同時に、自分にとっての「聴く」の原点を思い出していたので、先にそれを書いてみます。

 わたしの家は、「語らない人」を中心に回っていました。多い時には7人で暮らしていた二世帯住宅のうちのふたりが、いわゆる“言葉”ではほとんど語らない人でした。ひとりは祖父で、彼はわたしが生まれるずっと前から脳に障害を負っていて、言葉らしきものはつねに発していたけれど、もごもごとして聞き取ることは難しかったし、聞こえたとしてもあまり意味をなしてはいませんでした。弟は重度の自閉症で、ごく簡単な受け答えはできますが、こちらが使う言葉を理解しているかというと、おそらくそうではありません。

 祖父は15年ほど前に亡くなりましたが、彼らふたりは、言語のほかにも生活で不自由することがたくさんあるので、わたしたち家族(とくに母や祖母)は、彼らのサポートをしながら暮らしてきました。サポートの必要な人と暮らすって(これはもしかしたら子育てでも似た部分があるかもしれませんが)、自分自身のしたいことやしなくちゃならないことの時間を確保するために、日々攻防戦を繰り広げている状態でもあります。もちろん、できるだけふたりのサポートはしたいけど、自分のすべての時間を使うことはできません。

 なので、生活の中では、非常に聞き取りづらい彼らの声を聞くことは後回しになりがちでした。ごはんにどのふりかけをかけるかとか、お風呂にいつ入るかとか、そういうことは尋ねるけれど、たとえば祖父にだったら戦争体験の記憶であったり、弟にだったら将来どうしたいかとか、そんなことを聞く余裕はなかなかありません。これらの話題は本来とても大切なものではありますが、しっかり聞き出すまでには時間がかかるし、聞いてしまうことの怖さもあります。彼らがどんな欲求や願いを持っているのかがはっきりすれば、それを叶えるサポートをしなければならない。これもまた、暮らしの攻防戦に関わってきてしまうことです。残酷なようにも思えますが、障害の有無にかかわらず、近しい人間関係においては、日常的なやりとりとしてありえることかもしれません。

 つくづく、暮らしと「聴くこと」って相性が悪いなあと感じます。彼らはいつも我が家の中心にいたけれど、その語りはほとんど聞かれていなかった。同居家族のひとりとしては、そのことがいつも喉に引っかかった小骨みたいな感じで、けっこう気がかりでありながらも、日々は過ぎていく。とくにわたしは、祖父がいつも戦争や信仰に関わるような単語をぶつぶつとつぶやいていたのに、それをろくに聴かなかったことに対して、申し訳なさともったいなさを感じてきました。

 ところで、わたしが「聴くこと」の面白さを知ったのは、東日本大震災の“被災地”に通うようになってからです。大変な災禍を経験して間がなく、そのことを語らずにはおれない状態にある人たちのそばにいて、必然的にわたしは聞き手になり、たとえばボランティアの休憩時間や、道中で立ち寄ったコンビニ、バス停、あるいはまちが流された後に出来た草はらなどで、本当にたくさんのお話を聞かせてもらいました。

 ちなみに、祖父に聞けなかったことは、あちこちの旅先で戦争体験を持つお年寄りたちに出会い、お茶飲み話の席に混ぜてもらうなかで、その空白を埋めていくみたいにしながら、聞き直しているような感覚があります。ただ、もし祖父が流暢に語る人だったとしても、話を聴くことはできなかったのでは、とも思います。実感として、「聴くこと」は、それが自分の役割だと思えるとき、つまり、相手との関係において、自分自身が聞き手を引き受け、ある意味でその役割を演じられる距離が保てるときにこそ、うまくいきやすいからです。そのためには、いったん生活圏を出る必要があります。

 亜紗さんが前回のお手紙で、わたしが「聴く場」を想定するときに、壁の外までを含む広さを想定していると指摘されましたが、もうひとつ気にしていることがあるとすれば、対象との距離をどのように設定するかだと思います。これはつまり、カメラポジションをどうするか、ということです。あまり近づき過ぎても声は聞き取れないし、かと言って、遠すぎればどれが聴くべき声なのかさえ判断ができません。

 書きながら気がついたのは、わたしはいままでカメラポジションの話を、「記録すること」について解説するために使ってきたけれど、これはどうやら、「聴くこと」にも応用できそうだということです。わたしにとって「聴くこと」と「記録すること」はほとんどセットになっていて、「聴かせてもらったこと」の応答や返礼として、せめて記録がしたいと思っている。そして、こういった互酬の感覚は、家族や友人関係など、近しすぎる間柄にはそぐわないものとも感じています。

 前回亜紗さんが、社会モデルの当事者たちが同じ障害の仲間たちと団体を結成し、活動するなかで、個人の「ためらい」が消されてしまうことがあったと教えてくれましたが、わたしも仲間たちと小さな法人をやっているので、規模や質は違えど、その危うさをすこし想像することができました。

 これはいろんな側面をすっ飛ばした見解なのですが、運動体/組織の持つ難しさのひとつに、仲間たちの存在が生活圏の中に入ってしまっている、ということがあるかもしれません。そうして、部分的にでも暮らしの利害を共有しているからこそ、社会変革を求めて影響力を持とうと必死になるとき、仲間それぞれが抱える違和感に耳を傾ける余裕や意識がなくなり、ひとまず“束”としてしまう。留意しなければならないのは、そうして束にしたときに生じる困りごとは、組織の上の方に立つ人よりも、下の方に置かれた人に降りかかりがちだということです。

 数年前、かつて青い芝の会の中心メンバーだった方にお話を伺う機会があり、以来メッセージのやりとりをしているのですが、彼自身は団体のあり方に疑問を持って脱退したのち、地元に戻って幼馴染と法人を立ち上げ、70歳を越えた今でも第一線で活動されています。その人に当時のことを聞いていると、彼らが成し遂げたもののうえに自分たちの暮らしがある(わたしはとくに弟のことについてあれこれ考えます)と感じる一方で、確かに取りこぼされ、見過ごされてきたものがあることを実感し、これからは違う仕方を模索しなければならないのだと思えます。わたしたちはどんなふうにメッセージを発信し、社会をよりよくしていけるだろう。さまざまな当事者に話を聴き、言葉で記述していく亜紗さんの実践は、その意味でも、とても意義深いものだと感じます。

 

 つらつらと書いてきましたが、ここから、亜紗さんがくださった問いについて考えていきたいと思います。

 わたしが最初の手紙で、「とにかく体が置いてきぼりになっている」と書いたのは、SNSの情報空間で大量に生成される「倫理的な問いらしきものと模範解答」に取り囲まれてしまうと、自然な欲求として生まれてくる善意の気持ちや行動が抑圧されてしまうと感じているからです。そして、この抑圧からいったん解放されて、ひとりひとりが体の感覚を取り戻せば、もしかしたら市民社会が息を吹き返すのでは? などという期待を持っていたりもします。

 亜紗さんはそのお返事で、

「体を置いてきぼりにしない」というのは、つきつめると「正解を知っている人がいない状況を持続させる」ということなのではないか、と思うからです。それはある意味では、とても民主的な状態です。

と書かれていました。正直わたしは、一読しただけではこの意味がうまく取れなかったのですが、何度か読み返しながら、亜紗さんがその前に書いている「存在論的なレベルでいえば、体というものが人間的なものと自然的なものの混合物である」という前提が自分の中で抜け落ちていたからかも、と思いました。亜紗さんは、(その体について)「本人でさえ説明できない部分は謎であり、だからこそ本人以外も立ち入れるコモンズになりうる」とも書かれていましたが、そう捉え直してみると、とてもわくわくします。これは、一貫性のなさを許容し合うということですよね。人と人がともにいることの基盤として、なんて大事なことだろうと思いました。でも、わたしはそれがどこかで抜けていたんです。

 こういうわけで、「聴くときに出会う「謎」「よくわからないこと」とのつきあい方」を問われた時に、わたしがぱっと想像したのは、相手が語った言葉の意味がよくわからない、というシーンでした。けれど、こちらの「よくわからない」は、語り手と聞き手の間に生じる知識や経験、背景の差異によるもので、一方が自由に指摘したり解釈したりしてもよいタイプの開かれた謎ではありません。

 わたしは災禍の体験について聞くことが多いのですが、語り手が言葉にすることはどうしても、その人の中でよくわかっていたり、すでに納得していたりする部分や、瞬間的にでもこれをこう定義してみようと判断できた部分だったりします。たとえばわたしが、会話の中で言葉としては聞けなかったけれど、相手の中にありそうな感覚や記憶について確かめてみたいと思うとき、部分的に似た体験を持つ別の人が語っていた言葉などを引用して、こんなことはありますか? と問いかけることがあります。けれど、その人の中でまだ謎である部分を聞こうとすることって、あまりしたことがないかもしれません。わたしが日々立ち会っている「聴く場」での「語ること」は、語り手の体の内側にある体験を「物語る」、かたどっていくための行為であって、聞き手の役割はその補助をすることだと考えています。もちろんやりとりの中で、語り手と聞き手が反転するようなタイミングは多々あるのですが。

 ただ、このことは、わたしの「聴く」の原点が「語らない人」にあることと、けっこう矛盾しています。いわゆる言語を持たない人の語りをどう聴くのか。――言葉をほとんど持たない弟にとって、言葉を使う人たちが圧倒的マジョリティである社会は、とても生きづらいと思います。だから生活においては、彼の代わりに他の人間が意思決定しなくてはならない場面がたくさんあり、その多くを両親がルーティン的に担っているのが現状です。わたしはそんな弟の姉として、彼はいったい何を考えていて、何が伝えたいのか、なんとかして聴いてあげなければ、と思っています。それが、両親よりもすこしだけ距離を取って彼に接することができる“きょうだい”の役割だと感じている。でも、いったいどういうふうにできるのか。

 もう10年ほど前のことになりますが、仙台のある福祉作業所へ、Dさんという利用者の方に会いに行ったことがあります。わたしは、アートと福祉をつなぐ活動をしているNPOに声をかけられて、今度開催する展覧会でDさんの描いた絵を展示するのを任されていました。当時、Dさんの絵は、「パワフルでミステリアスな抽象画」みたいな評価をされていたのですが、描かれた絵を並べて見ていくと、いくつかのモチーフが繰り返し描かれているらしいとわかったので、いったい何を描いているのか、どうやって描いたのかなど、直接尋ねてみたいと思っていました。

 その施設へ伺うと、すでに併設されたアトリエの一室に、Dさんがこれまでに描いたたくさんの絵(キャンバスにアクリル絵の具で描かれたものが40枚ほどはあったでしょうか)を並べてくださっていました。その光景は壮観で、とても嬉しくなったのを覚えています。わたしがスタッフの方に、Dさんとの意思疎通の方法について尋ねると、彼は喋るのは得意ではないけど、文字がすこしだけ書けるからと言って、ふせんを用意し、Dさんを連れてきてくれました。自分の絵がたくさん並んでいる様子を見て、にこにこと笑っているDさんに、「この絵は何を描いたのですか?」と尋ねてみます。すると、とたんに真剣な顔でふせんに文字を書き始めました。

 ドロドロドドドロロ。月です。

 ところどころひっくり返った文字でそう書き上げると、Dさんは目の前の絵の右上に、そのふせんをぱしんと貼り付けて、にやりと笑いました。おお、たしかにこれは……月と、トトロ? 何枚もの絵に描かれていたマスコットみたいな生き物は、まわりの人たちからは「神さま」と呼ばれていました。だけど、たぶん、これは『となりのトトロ』のトトロです。

 「他のはどうですか?」と聞くと、Dさんは、ふうとため息をついてからどんどんふせんを書き、部屋中の絵にぱしぱしと貼っていきました。

 トトロ。うかんでいる月です。

 まど。ふねとうみです。

 迷いなくペンを進める様子に呆気にとられているうちに、Dさんはすべてを書き終えました。そして、スタッフの方とわたしにハイタッチをして、満足そうな雰囲気でさっさとアトリエに戻って行きました。

 わたしにとってこのときの経験は、とても得難いものでした。一見意思疎通が難しそうであっても、相手にあった聞き方さえ見つけられれば、話が聞けるのかもしれない。相手とわたしが意思疎通するための言語というものは、その場その場でいちいち生成されるものであって、お互いにとって十全なものではないかもしれないけれど、十分に機能するものらしい。

 翻って、家族たちやわたしは、弟との日常的なコミュニケーションにおいて、このようなことを自然に行なっているのかもしれない、と思えました。また、お互いにより納得感が得られる会話の方法を、まだ他にも見つけられるはずだ、とも。

 家という小さな拠点で一緒に暮らしていて、互いの体がむき出しになりすぎているからこそ、それは難しいかもしれない、という予感はしつつ。それでも、このとき、ぱっと明るいような開放感があったのを覚えています。

 ながなが書いてきて、なんだかあちこちに行ってしまいました。もしよかったら、亜紗さんに、研究者としてではないような、ごく近しい間柄での「聴く」についても伺ってみたいです。

 

台風からちょうど5年が経った宮城県丸森町にて

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著者略歴

  1. 伊藤 亜紗

    美学者。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、同リベラルアーツ研究教育院教授。哲学や身体、利他に関連しつつ、横断的な研究を行っている。主な著書に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく』(文藝春秋)など多数。サントリー学芸賞、日本学術振興会賞、学士院学術奨励賞、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞などを受賞。1979年東京生まれ。

  2. 瀬尾 夏美

    アーティスト、作家。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。さまざまな地域やコミュニティと協働しながら記録し、表現するコレクティブ「NOOK」を立ち上げ、災禍の記録を掘り起こし、それらを用いた表現を模索する「カロクリサイクル」に取り組みながら、語れなさや記憶の継承をテーマに旅をする。主な著書に『あわいゆくころ』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層』(生きのびるブックス)など。映像作家の小森はるかとの共同制作として、《波のした、土のうえ》(2014)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2020)、「11歳だったわたしは」(2021-)など。1988年東京生まれ。
    (撮影:Hiroshi Ikeda)

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