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聴いちゃった体

置いてきぼりの体(2通目/瀬尾夏美)

聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。
今回は瀬尾さんから伊藤さんへのお手紙です。

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 亜紗さん、こんにちは。ほぼ、初めまして!

 どんな一通目が届くのだろうと、どきどきしながら過ごしておりました。分厚いお手紙に圧倒されて、どうお返ししていこうかなと思いつつ、書き始めてみます。

 初めてお会いしたのはたしか山形で、ダンサーの砂連尾理さんが、障害のある人たちが多く参加する公演に向けてひらいていた連続ワークショップでした。会場は、きれいにリノベーションされたばかりの元小学校。砂連尾マジック!とでも言いたくなるような不思議な語りと手ほどきで、各教室でさまざまなダンスが生まれていました。

 亜紗さんはそこへ分身ロボットのOriHimeを連れてきていて、大切そうに胸に抱えながら校内を移動していたのを覚えています。ある教室に入ると、亜紗さんはOriHimeをそっと床に置きました。そして、何やらセッティングが済むと、関東にいるパイロットのさえさんが搭乗してきて、教室のアキヨさんとの静かなダンスが始まります。

 アキヨさんは目の前にいる小さなOriHimeに対峙するように、床にあぐらをかいて背中を丸め、遠方のさえさんに呼応して動くOriHimeの羽のような手に、触れるか触れないかの距離を保ちながら、やわらかそうな白い手首と指先をじっくりと動かし、体を揺らしていました。

 光の射す教室。ふたりのダンスが浮かび上がります。アキヨさんはさえさんの存在に集中していて、きっと関東の自室にいるさえさんも同様に、アキヨさんに集中しているのだろうと想像できました。その光景はとても胸を打つもので、わたしを含めた何人かの見学者たちが、感嘆のため息を漏らしていました。

 アキヨさんは、あのときたしかにさえさんと踊っていました。また同時に、OriHimeと踊っていたのでした。

 ――さらにいうと、アキヨさんは、砂連尾さんが山形のスタッフたちと設えた場に、ダンスサークルの仲間たちと一緒にやってきていて、それでいま、ほかの教室には仲間たちがいて、自分と同じように(でもまったく異なる仕方で)ダンスを踊っている。アキヨさんには光の射す教室が与えられて、砂連尾さんや母親、あるいは見知らぬ人で構成された見学者たちが見守る中で、記録用のカメラにじっと見つめられながら、亜紗さんが連れてきたOriHimeを介して、さえさんと踊っているのでした。

 だからふたりは、ふたりきりではなかったのです。もちろんアキヨさんのダンスは、アキヨさんのものです。アキヨさんとさえさん、ふたりのダンスは、ふたりのものです。しかしそれらは、場を共有する人たちとの関わりあいと、その場を支える文脈、あの空間に充満した空気感の中で、起きる事象のひとつひとつにふたりが反応しながら動いていくことで、一度きりの形として生まれてくるものなのだ、云々……、とわたしは考えていました。

 でももしかすると、このような感覚は、わたしが話を聞くことと書くことを続けているなかで身につけてしまったものかもしれません。わたしはとくに、災害や戦争の体験に関わる話を聞いているために、倫理的な作法やロジックを問われることが多く、それに応えなければという義務感のようなものを内面化してきたところがあります。

 だからたとえば、被災をした “当事者”が語るとき、それはどのようなシチュエーションでなされているのか、という問いに向き合うことになる。そこで、語りの場に生じる細やかな権力構造を図式化して、もちろん彼彼女らの語りは語り手その人のものだけれど、同時に、聞き手の質問や思惑、場の設えに応えようという配慮のなかで語られているのだから、その人だけに負わせるべきではない、と考えてきました。

 わたしはついこのような、“被災地”というひとつの現場で構築してきた、素手のロジックの延長線上で物事を捉えようとしがちです。おかげで、ふたりのダンスはふたりを取り囲む要素によっても形づくられている……などと考えている。それはまったくの見当違いでもないかもしれないけれど、最近は、こうしてなんでもかんでも一元的に捉えてしまうことで、たくさんのものを見落としてきたのでは、とも感じています。

 そのひとつがまさに、体に出会う経験なのかもしれない、と思い至りました。アキヨさんとさえさんのダンスを見た時のわたしは、心身はめちゃくちゃ感動しているのに、頭の片隅では、すでに定型化されたような図を描き、目の前で起きていることをばらばらに解体し、その図に当てはめて理解しようとしていました。言葉がつくるその裂け目に、いったいどんなものが落ちていったのだろう?

 そもそも、ふたりが互いの存在にじっと集中し、ダンスしているときには、この場の経緯や、周りの人びとの存在はぐっと後景化し、気にならないものなのかもしれません。ふたりは実際、とても複雑な空間にいるのだけれど、それとは切り離されて、ふたりきりになっている。観客たちは、何かに集中し、自分らの存在を気にしない人たちの姿を間近に見て、感嘆のため息を漏らします。

 このときの感動はもしかすると、「ぞくぞくする感じ」と近いところがあるでしょうか。もちろんふたりは、ここでダンスすることを了承していて、観客の存在を受け入れているのだから、「公認のぞき見」も成立していると言えるかもしれません。

 ダンスにもさまざまな形式やジャンルがありますが、こういうマジカルな時間、日常的な倫理からはすこし外れた空間をつくってしまうものを、ダンスと呼んでみたい、と思いました。目の前の体に出会い、どきどきすることが許される場に戸惑う自分がいるのですが、えいやと踏みとどまって、そのどきどきを味わえたらいいなと思っています(砂連尾さんには、瀬尾さんは本当に力を抜くのがヘタだと言われております……)。

 ところで正直に言えば、実は(というかすでにバレているのではと思いますが)わたしは、SNSのタイムラインを体の一部に取り込んでしまっているタイプの人間です。

 これには、わたしが文章を書き始めた場所が、2011年のTwitterであったこととも関係しています。東日本大震災から間もない頃、いままさに起きている、あるいは復旧途上にある災害の“当事者”に話を聞く場合、できるだけ時差なくそれを発信することが求められましたし、自ら心がけてもいました。とくに当時のわたしにとっては、「聴いちゃった」ということと、「なるべくすぐに伝える」ことは分かち難くセットになっていたのです。

 それでSNSを使うため、語ってくれた人や現地のコミュニティに悪い影響が出ないようにと、トレンドになっている議論を日常的に追いかけて、自分が投稿する文章について問われるであろうことを先んじて検討し、あれこれ予防線を張る癖がついてしまいました。

 また、わたしは、たとえば小説や短歌といった明確なジャンルや文体、アカデミックな言論の基盤を持っていません。それは気楽な反面、現場での経験や感覚しか後ろ盾がないという不安と隣り合わせでもあって、ちょっと気を抜くと、SNS上のあちこちで生まれては消えていく「倫理的な問いらしきものと模範解答」のパッケージの山に飲まれてしまいそうになるのです。

 今年の元旦、能登半島地震が起きました。わたしは5月と7月に能登を訪ねたのですが、くずおれたままの家屋が続くまちなみと、なによりも人通りがなく、シンとしていることにとても驚きました。もともと人口が少なく、高齢化が進んでいる地域とはいえ、日中もボランティアや支援者の姿さえほとんど見かけないのです。発災から手厚い支援を続けている知人は、市民社会は死んだのか? と問いました。被災した人たちに話を聞けば、その多くが、もう見放されてしまったのかな、と言ってため息をつきます。

 発災直後、SNS上では現地の状況を案じる声があがる一方で、「役に立たない者に関わる資格はない」「半端なボランティアは迷惑になる」といった投稿も盛んで、何かしらの支援をしたいと願う人たちの気持ちが、ここでかなり削がれてしまったのでは、と感じています。

 思い返せば(というよりも、あらためて記録を読み返せば)、東日本大震災の時にもこのような投稿はたくさんありました。けれど、SNSがいまほどは普及していなかったために、現実世界はまた別物だと割り切って行動することも容易かったと思います。

 そして、ひとたび現地に入ってみると、当時のわたしのような学生から、ずっと年配の方まで、職種も特技も特性も異なる人たちが集まっていて、地域の人たちを含め、未知の出会いに溢れていたのです。そこには、ついわくわくしてしまうようなエネルギーがありました。

 しかし、きっといまは当時よりも、「SNSのタイムラインを体の一部に取り込んでしまっている」人が多いために、内心では何かやりたいと思っていても、つねに誰かに「あなたにその資格はあるのか?」などと問われているような気がして、なかなか行動に移しにくいのではと想像します。もし“被災地”にたどり着いたとしても、「ついわくわく」してしまったときには、その感覚を抑え込もうとしてしまうのでは、とも思います。

 それでもわたしが能登に行こうと決められたのは(結局発災から5ヶ月も経とうとする頃でしたが)、東日本大震災の時の具体的な経験があったからだと思います。あのとき、重いものを撤去したり、心身に治療を施すような力や技術がないわたしにも、話を聞いたり記録したりするという役割が見つけられたのだから、きっと今回も何かあるはずだ、と考えることができました。

 それは、ある種の自信なのだと思います。金沢からレンタカーに乗って、現地を見てくるだけでも意味はある。そこで考えたことを東京や仙台の友だちと話せば、次のアクションにだって繋げられるはず。だから、とにかく行ってみよう。こうして、過去の具体的な経験を参照することで、ポジティブな未来予測が立てられたのです。

 もちろん、特別役に立つ人だけが被災地に行ける、というような資格があるわけではありません(あるならいったい誰がどんな基準で出すの? と聞きたくなります)。けれど、「SNSのタイムラインを体の一部に取り込んでしまっている」人の場合、そこらじゅうに溢れ返っている「倫理的な問いらしきものと模範解答」たちを、自分なりの論理や方法で、なんとかして乗り越えていく必要があるのです。とてもやっかいなことですが……。

 さて、こんなことをぐるぐると考えている時、わたしはいつも、とにかく体が置いてきぼりになっている、と感じています。たとえ遠方にいても、被災の情報や現地の映像を見れば、いてもたってもいられなくなる。困っている人がいたら助けたい、何か自分ができることをしたいと願うのは、もはや生理現象のようなものだと思っていて、そのためにとる行動が過剰に抑え込まれることは、健康的ではないと感じています。さらに結果として、当の“被災地”が閑散として、被災した人たちが「見放されている」と感じてしまうのだとしたら、大変悲しい悪循環です。

 しかし、SNS的な世界では、あらゆるものに対して一貫している(ように見える)正しい行いをし続けないとなりません。「被災地のボランティアに行った」と書けば、「じゃあなんでこの問題には声を上げないの?」とか「ほんとは優しくないくせに」と返ってきたりもします。

 この傾向が加速すると(すでに大変なことになっていますが)、現実世界の複雑さや個々人の背景がまったくないことにされ、たとえ誰かの役に立ちたいと願っても、行動に移すのが億劫になってしまいます。あらゆることに一貫して正しい行動を求められ続けたら、個人の生活はままならなくなります。先に述べたように、わたし自身も、なんでもかんでも一元的に捉えようとする欲求をすでに持っています。なんとも危ういと思うのですが、抜け出すのは容易ではなさそうです。

 けれど、芯の部分でわたしを支えてくれているのは、〇〇さんに話を聞かせてもらっていい時間を過ごせたな、という実感だったり、被災した町跡にシロツメクサが繁茂しているのに感動したり……というごく具体的なシーンです。だからこそ、聞く現場で起きることに、すでに定型化してしまっているような倫理らしきものは持ち込まないようにしてきました。

 あなたとわたしという間柄で、話せることはなんでも話してよいという信頼関係が出来たときには、(おそらく)互いが「聴いちゃった」「話せちゃった」と感じられるようなやりとりが生まれることがあります。すると、互いの存在が強く肯定されるみたいに思えて、とても嬉しくなるのです。ふたりだけのルールで大切な秘密を共有して、特別な友情が芽生えます(もしかしたら、アキヨさんとさえさんの間にも、似たようなことが起きていたのかもしれません)。

 思えばこれまでわたしは、自分の活動について話すとき、倫理的な作法やロジックについては必死に説明してきましたが、その前にある、現場での具体的な出来事や自分の内側で起きていることについてはあまり言葉にしてきませんでした。

 わたしはずっと、自分の体を置いてきぼりにしてきたのかもしれません。何かがもったいなくて言葉にしてこなかったのか、ただのうっかりなのか、それとも現場の機微はわかってもらえないと先回りして傷つき、勝手に諦めていたのか……理由はいろいろあるようでいて、そうでもないのかもしれませんが、このあたりのことを言葉にしてみたくなってきました。

 長々と書いてしまいましたが、山形で一緒にダンスを見たあのとき、こうして亜紗さんと往復書簡を始めることになるとは夢にも思っていませんでした。世界思想社の望月さんが、亜紗さんとわたしの共通点として「聴く」というキーワードを見つけてくださったおかげで、この場が生まれています。人との出会いは、誰かによってもたらされることが多いですね。わたしはこうして亜紗さんのお手紙を読みながら、望月さんがイメージする「聴く」とはどんなものだったのだろう、ということも考えていました。

 この連載のタイトルを3人で考えている時、亜紗さんが、「わたしの連載、いつも<体>っていう言葉が入ってしまうんですよね」と言っていて、今回もその通りになってしまったわけですが、わたしにとっては体を知る、置いてきぼりにしてきたものにあらためて向き合う貴重な機会となりそうです。

 なんだか大げさかもしれませんが、ひとりひとりが体の感覚を取り戻していけば、市民社会が息を吹き返すのでは、なんていう予感すらしてきました。

 これからどうぞどうぞ、よろしくお願いいたします。

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著者略歴

  1. 伊藤 亜紗

    美学者。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長、同リベラルアーツ研究教育院教授。哲学や身体、利他に関連しつつ、横断的な研究を行っている。主な著書に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく』(文藝春秋)など多数。サントリー学芸賞、日本学術振興会賞、学士院学術奨励賞、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞などを受賞。1979年東京生まれ。

  2. 瀬尾 夏美

    アーティスト、作家。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。さまざまな地域やコミュニティと協働しながら記録し、表現するコレクティブ「NOOK」を立ち上げ、災禍の記録を掘り起こし、それらを用いた表現を模索する「カロクリサイクル」に取り組みながら、語れなさや記憶の継承をテーマに旅をする。主な著書に『あわいゆくころ』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層』(生きのびるブックス)など。映像作家の小森はるかとの共同制作として、《波のした、土のうえ》(2014)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2020)、「11歳だったわたしは」(2021-)など。1988年東京生まれ。
    (撮影:Hiroshi Ikeda)

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