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聴いちゃった体

地べたとおしゃべりとケア(9通目/伊藤亜紗)

聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。

今回は伊藤さんから瀬尾さんへのお手紙です。

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 瀬尾さん、春ですね。陸前高田からのお便りをありがとうございます。

 そっか、昔ながらの民話であれば、抽象化が長い時間をかけて起こるから、主体性が物語のほうに移っていくわけですね。だからこそそれはみんなのものになりえて、多くの人の経験や気持ちを受け入れる器になりうる。一方現代ではメディア環境が発達して情報が即座に伝わるから、こうした「自然な抽象化」を待つことができない。そんな時代にどうしたら器を作れるのか? そこに瀬尾さんたちの挑戦がある、と理解しました。

 お手紙を読んで、そうしたご活動の原風景になっているのは、やはり震災直後にせんだいメディアテークで過ごされた時間なのかなと思いました。

 瀬尾さんは、メディアテークは溜まり場だったと書かれています。確かに、器の第一の機能は「溜めること」ですね。水のように流れていってしまいがちなものを、ひとつの場所にとどめておくことで、思いがけない出会いの確率を高めたり、それが必要になったときのために備えておいたりすることができる。ここにすでに時間性がありますね。

 他の場所ですでにお話されていることかとは思いますが、東北の震災直後、せんだいメディアテークが、空間として、どんな場所だったか、あらためてうかがってみたいなと思いました。

 

 溜まり場は、実は私自身の最近の関心でもあります。メディアテークとどのくらい似ているのか、似ていないのか、分かりませんが、そのことをお話ししてみます。

 先週の日曜日、私は出張先のとある巨大な溜まり場で午後の時間を過ごしていました。場所は台湾の首都・台北、その交通の要所である台北駅のメインホールです。台湾ですが、集まっている人の多くは、インドネシアから来た人々。ほとんどは、移民労働者として台湾に来ています。ヒジャブをつけたり、ちょっとギャルっぽい格好をしている若者たちが、地べたに座り込み、そこかしこで車座になって、おしゃべりを楽しんでいる。まるで桜なきお花見のようなこの室内空間は、それ自体が巨大な器であり、民話の種が生まれる場なのではないかと思いました。

(以下に記す私の観察はあくまで「外から」です。通訳してくれる人はいたものの、私はインドネシア語も中国語も理解できませんし、滞在できたのも五時間程度でした。)

 溜まり場となっていたメインホールは、台北駅の一階にあります。台湾は地下街が立体的に発達していて、迷うこと必須の迷宮として知られているのですが、メインホールはいわばその迷宮の上に乗っています。だから迷いにくい、とも言えますが、別の言い方をすれば、通勤通学で日常的に駅を使う人にとっては、あまり来る機会のない場所とも言えます。乗り換えや買い物は地下で完結してしまうため、多くの人にとって、わざわざ一階に出てくる機会は少ないのだそうです。

 そのわりには、メインホールにいるとそれなりに人通りがある。実は、ここを利用するのは、主に長距離列車で地方から台北に出てくる人たちなのだそうです。確かにメインホールには長距離列車の切符を売る窓口があったり、インフォメーションデスクがあったり、「おのぼりさん」にとって助かる機能が用意されています。ホールという名前ですが、日本語ではコンコースといったほうがイメージに近い場所。遠くから来た人にとっては、ここに出ると「台北に来た」という実感が湧くのかもしれません。

 広さにすると、一般的な日本の小学校の体育館二つ分くらいでしょうか。高さは二倍から三倍くらい。はるか頭上に見える天井は温室のようなガラス張りで、午後の柔らかい光が床まで落ちています。太陽の光が差し込むと、そこはみんなのものだという雰囲気が生まれるから不思議。一方で室内なのでエアコンはばっちりで、ここなら暑い日でも快適に過ごせるだろうなあ、というような空間でした。

 先ほどもお伝えしたとおり、メインホールに集まっているのは、主にインドネシアからの移民労働者たちです。私が滞在していた午後の時間帯で、最大一〇〇人程度の人が集まっていたでしょうか。統計をとったわけではありませんが、この日はちょうどラマダン明けの日だったので、いつもより多くの人が集まっていたのかもしれません。圧倒的に女性が多く、半分くらいの人がヒジャブをつけている。何人かの方にインタビューをしましたが、休みを合わせてこの日に、やはり地方から列車に乗って出てきたとのことでした。週明けの水曜日にも再びメインホールに行ってみましたが、平日はがらんとしていました。

 台湾は、日本と同じように少子高齢化が進んでいて、深刻な人手不足に直面しています。二〇二二年のデータによれば、台湾にいる外国人労働者の数は七〇・七万人(日本は一八二・三万人)。人口比にして約三%に相当します(日本は約一・五%)。送り出し国の割合は、インドネシアとベトナムがそれぞれ三割程度。これに続くのはフィリピンで、全体の二割を占めます(日本への最大の送り出し国は、全体の四分の一を占めるベトナムです)。

 女性移民労働者の場合、従事する仕事はほとんどが介護の仕事です。介護といっても、日本のように高齢者施設等に勤務する形ではなく、メイドさんのように家庭内で行う「住み込み」が中心。自分専用の部屋が用意されているケースは少ないようで、寝る時も自分が担当するお年寄りの隣で寝るそうです。だから、家族よりも近いところで、長時間、お年寄りと過ごすことになる。制服を着たりするようなこともなく、ヒジャブに私服の格好で、オムツを変えたり、食事の世話をしたりしています。

 一方男性の場合は、半導体などをつくる工場での労働、あるいは漁業などの一次産業で働く人が多いようです。この場合は企業に雇われ、シフトに従って働くことになるので、介護のように私生活と仕事の境界が曖昧になることは少ないようです。ただし、台湾人がやりたがらないきつい・汚い・危険な仕事を、外国人労働者の労働力でまかっているという事情は変わりません。

 出張中、メインホールで、あるいは別の場所で、何人かの移民労働者にインタビューする機会をもつことができました。もちろんぞれぞれの環境や価値観が違っているので、一般化することはできませんが、中には明らかに過酷な状況を語る人も。送り出し国と台湾のそれぞれにエージェント(ブローカー)がいて、彼らが要求する月収の何倍もの紹介料を払うために借金をしているというのは「当たり前」の話だし、トラブルがあってもエージェントは基本的に雇い主の味方なので使い捨てられてしまう、という話も何度も聞きました。

 想像を絶するほど休暇が少ないのも特徴的です。工場労働の場合であれば、法律に基づいて毎週休暇があるのですが、家庭内の介護になると「月に一日」や「一年に数日」しか休みがなかったりする。ひどいケースでは数年間にまったく休みをもらえなかったり、一番極端なケースでは「十四年間で休みは二回」という女性もいました。もっとも、後者のケースでは、雇い主からは休暇の申し出があったのですが、日曜日に働くとより多くの給料がもらえるため、本人が望んで休暇をとらなかったのだそうです。そうやってお金をためて、自分の子供や家族のためになるべく多くの仕送りをしようとしています。はたから見れば過酷に思える労働環境でも、経済格差を背景にして需要と供給が一致してしまっているのが難しいところです。

 そんな労働者たちが、貴重な休みを過ごしにやって来るのが、この台湾駅のメインホールなのです。彼ら彼女らはもちろんここに来たくて来ているのでしょうが、一方で来ざるを得ない事情もあります。先述のとおり、多くの女性たちが従事しているのは住み込みの介護の仕事であり、雇い主の家の中で自分のプライベートの時間を確保することが難しいのです。中には、休暇をとることができなかったのか、雇用主の許可をとって、自分が世話するお年寄りと「同伴」でここに来ている女性もいます。

 おもしろいのは、彼らがここにたむろするときの、そのスタイルです。冒頭に書いたとおり、ヒジャブをつけている人も、ちょっとギャルっぽい女の子も、その彼氏とおぼしき男の子も、みんな基本的に地べたに腰をおろし、二人から十人程度で車座になっているのです。靴を脱いで裸足でくつろいでいる人もいて、「なんかプロだなあ」と関心してしまう。中には、ビニールシートやキャンプ用のチェアをもちこんでいる人もあり、文字通りの「桜なきお花見」状態が広がっていました。

 しゃがみこんで長時間おしゃべりしながら過ごすのは、「ノンクロン」と呼ばれるインドネシアの人たちの習慣です。台湾や日本では地べたに座るのはちょっとお行儀が悪いというイメージがありますが、インドネシアでは当たり前。実際、インドネシアに行くと、家の玄関ポーチや半屋外の東屋などで人々が座り込んで話している光景によく出くわします。それも「一、二時間お茶する」というレベルではない。ときにメンバーが出たり入ったりしながら、五、六時間、平気で座り込んで話しています。

 そうしたおしゃべりの中には、アイドルの話もあれば、恋愛の話もあれば、洋服の話もあるでしょう。でも、そうした他愛もない話に混じって、ボスの悪口や、労働条件に対する不満、見かけなくなった子の噂話、新しい移民先に渡る方法、といった話題も出てくるはずです。中には、明らかな人権侵害で正当なところに被害を訴えるべき話もあるかもしれないし、逆に彼ら彼女らが違法な行為に巻き込まれたような話もあるかもしれない。でもそういったことを含めて、地べたに座ってだらだらと話しながら時間を過ごすことが、彼らにとって、日々の労働の疲れや困難を癒すケアになっている。

 そうした姿は、もしかしたらフィリピンからの移民労働者の目には、ちょっと歯痒くうつっているかもしれません。フィリピンの人たちも同じように台湾で介護や工場労働に従事していますが、彼らが自分たちをケアするやり方は、労働者の権利を守る組合を作ったり、逃げ込めるシェルターを整えたりするなど、社会運動に近いやり方をとっているからです。彼ら彼女らからすれば、ノンクロンしておしゃべりしているだけでは状況は良くならない、と見えるかもしれない。実際、インタビューしたフィリピンからの移民労働者の女性は、「介護労働者の労働組合のインドネシア版も作っていきたい」と意気込んでいました。

 自分たちが抱える苦労をケアする道具は、権利なのか、ノンクロンなのか、今の私には判断できません(そもそも二者択一ではないと思いますが)。いずれにせよ、面白いのは、インドネシアの人にせよ、フィリピンの人にせよ、もともと自分の国にあった「困ったときにはこうする」という文化を、異国の土地でも実践しているということです。インドネシアではノンクロンをするのが当たり前だし、フィリピンでは社会運動の歴史がある。それが、移民労働者の物理的な移動とともに、台湾に「輸出」されています。そして、そのそれぞれのやり方に応じて、台湾における移民労働という現実から、異なる民話が生みだされているのだと思います。

 このあたりは、今後より詳しくリサーチしてみたいと思いますが、フィリピンの人たちが自分の移民労働の経験を語るスタイルは、笑いや涙をふんだんにもりこんだ「冒険譚」とか「英雄物語」になる傾向があるように思います。「あなたはどんな経験をしましたか」と質問すると、「よくぞ聞いてくれた」といった風情で、一〇分くらいの長い物語を滔々と語り始める。一方でインドネシアの人たちは、そのような「私の物語」をパッケージ化してはおらず、語りは演説というよりおしゃべりベース、より集団的で断片的な語りをやりとりすることのほうに力点があるように感じます。あくまで、現時点での大雑把な仮説ですが。

 そうした違いを踏まえつつ、あらためてインドネシアの人たちが集まる台北駅メインホールがおもしろいのは、そうした民話の生成が、言葉だけでなく、彼らの体のふるまいとセットになっているということです。そこが異国の地であったとしても、体にしみついたノンクロンのスタイルで時間を過ごすならば、その姿勢そのものが、「私」と「みんな」をつなぐ民話になり得るのではないでしょうか。彼らにとって、多くの人がノンクロンしている場に混じることは、直接は言葉を交わしていない同郷の人々ともふるまいを通じてつながり、安心できる景色に自分を溶け込ませることでもあるのではないか。そんなふうに想像しました。

 しかも、興味深いことに、ふるまいだからこそ、それはフォロワーを生みつつあります。メインホールでノンクロンしているのは、大部分はインドネシアの移民労働者ですが、実は、台湾の人もちらほらまざっているのです。本来、台湾の人の感覚では地べたに座るのは「お行儀が悪いこと」であるはずなのですが、もちこまれたノンクロンの文化が、台湾の人にも少しずつ浸透しつつあるのです。(もっとも、移民たちをホールから排斥する運動もあり、実際に危険を感じてほかの場所でノンクロンする移民もいるようなので、この「浸透」は決して一筋縄ではないのですが。)

 さらに、長時間観察していると、ノンクロンする人たちを中心にして、メインホールの中に「生態系」のようなものができつつあることも見えてきます。たとえば、ノンクロンしている人たちを相手に、食べ物を売ろうとしている人。ただし、メインホールで食べ物を売ることは公式には禁止されているので、彼らは決して売り子のように声を出したりはしません。あくまで「たまたまそこを通っている」風を装いながら、バクソーやサテといったインドネシア料理を大量に袋につめて、「お花見」している人たちのあいだを歩いてまわるのです。

 ほかにも、移民が自国の言葉で本を読めるようにと初老の夫婦が移動書店を開いているかと思えば、その背後では「有名な」そうじのおばちゃんが移民たちにちょっかいを出していたりする。私たちのように移民たちに声をかける外国人もけっこういるし、ひとりでスマホの画面に熱中している人もいる。そして、そのすべてが移民たちによってスマホで撮影され、台湾の生活の様子として全世界にライブストリーミングされる。日が暮れる時間帯になれば、ラマダンの断食を終え、炊飯器ごと持って来た白米とおかずで夕食をとる人があらわれ、そのそばで自分を介護してくれるはずの女の子の「社交」につきあっている車椅子のお年寄りがおり、そのぼんやりとしたまなざしの先にはダンスの練習をしている若者がいる…。

 ふるまいと結びついたケアの技法が、こんなふうに別の場所に種を飛ばし、根を張り、育っていくのはたくましいなと思います。もちろんそれがトラブルの原因になることもあるので、簡単に「面白い」と言って済ますことはできない問題をはらんでいますが、それを民話の生成のような共同作業として見てみると、このメインホールという器に流れ込んでいるものの多さとその流れつきの偶然に圧倒されるような思いがします。またいつか、ぼうっと日曜の午後を過ごしてみたい場所です。そのときには、すっかり生態系が変わってしまっているかもしれませんが。

 

はちみつ紅茶をのみながら

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著者略歴

  1. 伊藤 亜紗

    美学者。東京科学大学未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。哲学や身体、利他に関連しつつ、横断的な研究を行っている。主な著書に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく』(文藝春秋)など多数。サントリー学芸賞、日本学術振興会賞、学士院学術奨励賞、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞などを受賞。1979年東京生まれ。

  2. 瀬尾 夏美

    アーティスト、作家。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。さまざまな地域やコミュニティと協働しながら記録し、表現するコレクティブ「NOOK」を立ち上げ、災禍の記録を掘り起こし、それらを用いた表現を模索する「カロクリサイクル」に取り組みながら、語れなさや記憶の継承をテーマに旅をする。主な著書に『あわいゆくころ』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層』(生きのびるブックス)など。映像作家の小森はるかとの共同制作として、《波のした、土のうえ》(2014)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2020)、「11歳だったわたしは」(2021-)など。1988年東京生まれ。
    (撮影:Hiroshi Ikeda)

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