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聴いちゃった体

島の人は約束をしない(7通目/伊藤亜紗)

聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。

今回は伊藤さんから瀬尾さんへのお手紙です。

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 あけましておめでとうございます。瀬尾さんは年末年始も変わらず動いていらしたのでしょうか? 私は体こそ台湾に移動しましたが、毎日かなりのんびりすごしていました。あらゆる料理に入っている八角の香りと花椒のビリビリに感電して、そのまま長いスリープモードに入った感じです。

 さて6通目のお手紙をありがとうございました。

 各地をとびまわる瀬尾さんは、ご自身の聴き手としての誠実さを常に自問していらっしゃる。一方、一つの土地に根ざして生きる人たちは、誠実さを問う隙さえない与えない確かさで、他の土地の災禍の経験に思いを馳せることができる。その理由を、瀬尾さんが、土地に根ざして生きる社会では、「ひとりの人のなかに何十人分ものタイムラインが走っている」からだと説明しているのが面白いなと思いました。

 もしかしたら、ここは瀬尾さんとは少しスタンスが違うかもしれないのですが、私自身は、「当事者の経験をいかに絶対化しないか」ということにかなり注意を払っています。もちろん、当事者の経験をめぐる語り(私の場合は障害や病の経験が主ですが)が持つ豊かさは果てしなく、その想定外の奥行きには、インタビューをするたびに圧倒されてしまいます。聞き取りをすること自体は、もちろん私の研究活動のいちばん大切な土台です。

 でも同時に、彼らの経験が、同じ経験をしていない人にとってどのような意味をもつか、ということも意識しています。具体的には、たとえばAという経験(障害や病気)をした人と、それとは違うBという経験(障害や病気)をした人の語りをつきあわせて、そこに関連性がないかをさぐります。そして、新しい抽象化や新しいカテゴリーを作り出すことができないか、ということをいつも考えています。

 たとえばAを「盲導犬と暮らす全盲の女性」、Bを「病気で片足を切断した義足の男性」としましょう。一見関係のない経験にも思えますが、よくよく話を分析すると、どちらも「自分の体の一部のようでいて一部でないもの(盲導犬や義足)と暮らす経験」について語っていると考えると、意外な共通点が見えてきます。あるいはもうちょっと大くくりに、「中途障害の経験」というカテゴリーの問題として考えることも有効かもしれません。このAとBは、そうはいっても障害や病気という意味で比較的近い経験ですが、さらに拡張して、たとえば破産や被災といった、より遠い経験と関係づけて考えることもきっと可能だ、という前提でいたい。「あっちで聴いた話とこっちで聴いた話」を積極的につなげている感じです。だいぶ、節操がないですね(笑)。

 なぜそんなことをするのか。あらためて理由を考えてみると、三つくらいある気がします。一つめはアカデミックな理由です。医療や学問の世界では、たとえばAなら視覚障害、Bなら四肢切断というラベルがついていて、それによって福祉や教育の制度が明確に作られています。それ自体は先人たちの大いなる努力の成果ではありますが、細分化されすぎていて縦割り化してしまっているのも事実です。Aの知とBの知をつなげることで、AやBの経験を違うパースペクティブで見てみたい、抽象化やカテゴリー化のパターンを増やしたい、という思いがあります。閉じている状況に対して、「違うリンク」を貼りたいんです。

 二つめの理由は、当事者サイドのものです。3通目のお手紙にも書きましたが、特定の障害や病名を冠する集まりに居場所を見出さない当事者が増えています。「視覚障害者だけど困り事は視覚障害そのものじゃない」とかね。ならば「足を切断した方の義足の経験が参考になるのでは?」と、斜め後ろから提案する感じです。この場合、「違うリンク」が当事者にとって「逃げ道」になり得ます。実際に相手に会うところまでいかなくても、一見自分とは違う経験をしている人の語りを通じて自分の経験を見直すことで、意外な言葉で自分の経験を語り直すことができるようになる。体を持つすべての人(つまりすべての人間ですね)が、自分とは違うけれども意外なつながりをもつ誰かと、体をめぐって架空の対話ができる状況を作り出したいのかもしれません。

 三つ目の理由は、これが一番大きいのですが、社会の分断です。これについては瀬尾さんもこれまでにいろいろな場面に遭遇され、すでにそれを乗り越えるさまざまな実践をされていると思いますが、「経験した人だけにしか語れないことがある」ことを尊重しつつ、いかに「経験した人だけしか語ってはいけない状況」にならないようにするか、というところに対する知恵が、本当に重要だな、と。特に今は、マイクロアグレッションへの意識が高まっているので、あらゆるコミュニケーションに慎重さが要求され、「無自覚に相手を傷つけてしまったらどうしよう」というためらいが強いように思います。結果として非当事者や非経験者が言葉を飲み込む機会が増えていくと、ますます分断が深まっていってしまうのではないか、ということを危惧しています。どうしたら、「当事者の声を社会が聴く」という構図で終わらずに、「当事者の経験に学びみんなで社会をつくる」という構図にできるのか。

 それは、「聴く」や「伝える」のさらに先の問題ですね。細やかな違いをひとつひとつ確認する繊細さも大事なのですが、それだけだと溝がどんどん深まってしまう。だから同時に、異なるものを束ねるおおらかさというか、言ってもいい雰囲気というか、動きながら調整していくようなダイナミックさを、もう片方の手には持っていたい。おおらかさこそ人間の知恵だと思うんですよね。2020年から利他の研究をしているのですが、利他とは結局、立場や経験や視点が違う人どうしが、違いをよく認識してぶつからないために作り上げた知恵だ、と思うようになりました。

 その意味で、何十人分ものタイムラインが走っている、というのは、まさに異なるものを束ねる感覚に通じていて、とても示唆的だと思いました。確かに、地域に根ざして生きている人たちのあいだには、そういう感覚があるのかもしれないですね。

 たとえばよく「島の人は約束をしない」なんて言いますよね。私がこの言葉を知ったのは、東京の八丈島にいるときなのですが、確かに八丈島の人は約束しないんです。昨年、島の人が開催するイベントに呼んでもらったのですが、空港に着くと、主催した人が車で迎えに来てくれているんです。びっくりして「あれ、迎えに来るって言ってなかったよね?」って訊いたら、「来るって分かってるんだから迎えにいくのが当然でしょ」って。私は空港からイベントの会場までどうやって向かおうか思案して密かにタクシーを予約していたので、よい意味で肩透かしをくらった感じでした。

 同じようなことはイベント会場に着いてからも続きました。イベントの会場は廃校になった小学校だったのですが、到着するなり、ある女性が、山から切り出してきた植物のつるや南国らしい大きな葉っぱを使って、会場を飾り付けているんですよね。バナナの葉で作られたステージで話したのは後にも先にもあのときだけで、その美しい飾り付けに心の底から感動したのですが、主催した人に訊いたら「別に頼んだわけじゃない」と。私はてっきり、その飾り付けをした女性は、「装飾担当」だと思っていたのですが、そのような約束が事前にあったわけではなく、これもまた「人が集まるならその場を飾るのが当然」という感覚でやられたようです。すごい。

 瀬尾さんがおっしゃるように、彼らの中には何十人分ものタイムラインが走っているんでしょうね。あの人は今日の午後あそこに行くはずだから自分も行ってみよう、とか、明日はあそこで集まりがあるからその後はあの人とあの人があの店で飲むはずだ、とか、島の人たちの行動がその空間的な位置とともに常にイメージされていて、それとの関係で自分も動いている。だから約束する必要がない。島全体が大きな音楽のバンドで、お互いの間合いを読みながら全体でひとつの音楽を奏でているみたいだなと思いました。

 もちろん、それは面倒な部分もあると思います。誰がどの車に乗っているかもお互いに分かっているので、あらゆる行動が人に監視されているともいえる。その良し悪しは措くとして、面白いなと思ったのは、島の人のそうした情報共有が、意外とシステマティックに行われているということでした。「田舎は噂が伝わるのが早い」なんて言われますが、それは単に噂が好きということではなくて、ある意味でコストを払って、情報が伝わるシステムを作ってきてもいるんですよね。

 たとえば八丈島だと、「朝参り」という習慣があります。これは、1年365日、早朝に誰かのビニールハウスなどに集まって情報交換する習慣で、明治時代からあったと言われています。暗いうちから、懐中電灯をもってやってくる人もいるみたい。島の人の感覚では、「一週間に一回やるのでは情報が遅すぎて意味がない」そう。地域によっては「昼参り」のところもあるようです(『八丈島ぐらし通信 25号』2023年11-12月合併号、NPO法人八丈島移住定住促進協議会)。

 島の新聞「南海タイムス」も重要な情報源だったとみなさん語っていました。昭和6年に創刊され、残念ながら2020年に休刊してしまったのですが、そのせいで情報共有がずいぶん困難になってしまったと聞きます。「政治的に中立で、どんな立場の人も読む新聞になっていた」。政治だけでなく、漁業や酪農に関わる情報など、暮らしに直結する情報がたくさん掲載されていました。島の本屋に縮刷版があると聞いて、昔の電話帳のように分厚い本を三冊分、買って帰りました。

 もちろん、若い世代だとSNSを駆使しています。Xをやっている人が多いと感じます。投稿されている内容で、その人が島のどこにいるかだいたい分かる。Xだと伊豆諸島の他の島の人ともつながれるのが特徴ですね。

 なぜ「何十人分ものタイムライン」を可能にするシステムに興味をもったかというと、これもまた、「土地に根ざして暮らしている人たち」だけの特別なものにしない方法はないのかな、と考えてしまうからなんです。もちろん島なら島という条件によって可能になっている人間関係や気分というものが確かにあって、その歴史には絶対に敵いません。でも、何か、私のような「土地に根ざして暮らしていない人たち」の生活に、これを翻訳することはできないのかな…そんなふうに考えてしまいます。

 具体的なアイディアはまだありません。ただ参考になりそうだなと興味をもっている事例がいくつかあります。ひとつは、昨年末にたまたまお話をうかがう機会があった四国の「もりとみず基金」の取り組みです。

 利他を考えるときに、必ず出てくるテーマとして、「川の上流の住民と下流の住民はどうやったら共存できるか」という問題があります。「もりとみず基金」は、まさにこの問題に「基金」という仕組みでアプローチしています。上流と下流では、使える資源も、暮らしのための生業も、見ている景色も、全然違います。しかも、物理的に離れているので、ふだんはお互いのことを忘れてしまう。もりとみず基金のある四国の場合、水源が高知県、利水域が香川県という行政区分の違いもあります。

 しかし、この断絶を超えて「お互いのタイムラインを共有」しないと、川は守れません。上流の人が汚いものを流せばそれがそのままの下流に行くし、木を切りすぎれば下流で洪水が起こります。逆に下流の人は都市的な生活をしているので、「水道」と「川」が結びついていない。「もりとみず基金」は、上流の⾼知県⼟佐町、本⼭町、下流の香川県高松市という3自治体が共同出資して昨年設立され、水資源を守るためのさまざまな活動を進めていくそうです。「共通のお財布をもつ」ことが人の交流を生み、最終的に「タイムラインを共有する」ことにつながるのかどうか。来月、現地に出向いてお話をうかがってくる予定です。

 体の感覚という絶対に人と共有できないものを研究しているからこそ、そのずれを超えて違うものが束ねられていくこと、そしてそのことがその人の身体感覚を物理的な限界を超えて拡張していくこと、に興味が向いてしまうのかもしれません。新年の長いおしゃべりで失礼しました。今年もどうぞよろしくお願いします。

 

常連ばかりで公民館みたいな近所のエクセルシオールカフェにて

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著者略歴

  1. 伊藤 亜紗

    美学者。東京科学大学未来社会創成研究院・リベラルアーツ研究教育院教授。哲学や身体、利他に関連しつつ、横断的な研究を行っている。主な著書に『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『きみの体は何者か』(ちくまQブックス)、『体はゆく』(文藝春秋)など多数。サントリー学芸賞、日本学術振興会賞、学士院学術奨励賞、(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞などを受賞。1979年東京生まれ。

  2. 瀬尾 夏美

    アーティスト、作家。土地の人びとの言葉と風景の記録を考えながら、絵や文章をつくる。さまざまな地域やコミュニティと協働しながら記録し、表現するコレクティブ「NOOK」を立ち上げ、災禍の記録を掘り起こし、それらを用いた表現を模索する「カロクリサイクル」に取り組みながら、語れなさや記憶の継承をテーマに旅をする。主な著書に『あわいゆくころ』(晶文社)、『二重のまち/交代地のうた』(書肆侃侃房)、『声の地層』(生きのびるブックス)など。映像作家の小森はるかとの共同制作として、《波のした、土のうえ》(2014)、《二重のまち/交代地のうたを編む》(2020)、「11歳だったわたしは」(2021-)など。1988年東京生まれ。
    (撮影:Hiroshi Ikeda)

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