「あいだ」に生まれる物語(5通目/伊藤亜紗)
聴くのは楽しい!
でも、聴いたら最後、前の自分には戻れない!
美学者の伊藤亜紗さんと、作家でアーティストの瀬尾夏美さんの往復書簡。小さな声をひろい、そこから見える豊かな世界を描いているお二人が、「話を聴く」ことについて、聞き合い、語り合います。
今回は伊藤さんから瀬尾さんへのお手紙です。
つかのまの秋ですね。窓を開けてすごすのが好きなのですが、秋は遠くの音がよく聴こえるような気がします。
先日、京都でレジデンスをしていたフィリピンの詩人とお話をする機会がありました。日本滞在中の様子や彼の作品について聞くうちに、話題はフィリピン植民地時代の話になりました。
フィリピンの文化を語るにあたって、植民地の歴史を避けて通ることはできません。そもそも「フィリピン」という国名じたいがスペイン皇太子の名前に由来するものですし、1521年にマゼランがやってきて以降、その支配は1565年から1898年までと300年以上の長きにわたって続きます。1898年には独立を宣言してスペインを追い払うのですが、すぐにアメリカの統治下に。1941年には日本がやってきて1945年まで占領を続けました。
シリアスな雰囲気になりそうなトピックですが、彼が植民地時代の話をはじめたのは、「笑い」の例としてでした。
スペイン統治下で、宣教師たちはキリスト教の布教をはじめます。しかし、説教がスペイン語やラテン語で行われたとすると、フィリピンの人たちはほとんど聴き取ることができなかったのではないか、と彼は想像します。で、教会に集まっていた人たちはどうしたか。「えっと…『物売り』?」「『魚』?」「あ、『山』って言ったぞ」。かろうじて聴き取ることのできた断片的な単語をつなげて、彼らはオリジナルの聖書の物語を作ったのではないか、というのが彼の推測でした。たとえば「かごいっぱいに魚を積んだ物売りが山の方へ向かった」など??
もちろん、実際の受容がどうだったのか、正確なところは分かりません。案外、フィリピンの人たちは早々とスペイン語やラテン語を習得したかもしれないし、分かったふりをし続けたのかもしれない。上記はあくまで現代のフィリピン人として同国人のふるまいのパターンに慣れ親しんでいる、彼の想像にすぎません。
しかし、彼の解釈は、「聴く」ということのある種の本質を捉えているように思いました。人は、話を聞くとき、自分が理解できた断片的な情報をつなぎあわせて、別の話を作る。お互いに同じ言語(たとえば日本語)を使っていても、事情はたぶん同じでしょう。そもそも相手の言っていることをカーボンコピーのようにこちらに転写することが不可能である以上、理解できた断片から話を作る以上のことはできません。
つまり「聴く」とは、「聴き取る」ことである。些細な違いですが、この「取る」でしかありえないところに、大げさにいえば、人間の自由のようなものを感じます。正確に受け取ることとしての「聴く」を基準とすれば、「聴き取る」は失敗なのですが、でもそこに生まれるやむにやまれぬ創造性に対して寛容になれるときに、はじめて聴くことが意味を持つように思います。聴くたびにずれていくと考えるとなんだか可笑しいし、ちょっと不気味でもある。ずれているのに通じたことにしているのがコミュニケーションだからです。
瀬尾さんもよくご存知の濱口竜介監督とも、似たような話をしたことがあります。たとえば彼の『ドライブ・マイ・カー』という作品で、ドライバーの女性が、運転をしながら、幼いころの母親との関係について語るシーンがあります。映画のクライマックスに通じる、重要なシーンです。その、ドライバーがする母親の話を、後ろの席に座っていた主人公は、自分と妻の話として聞くのです。そして主人公はある決心に向かっていく。もちろん、主人公は、ドライバーが自分と妻の関係について話していると誤解したわけではないし、むしろ集中して彼女の話に耳を傾けていたはずです。にもかかわらず、集中すればするほど、主人公にとって、ドライバーの話は自分と妻の関係について語る啓示のようなものとして聴こえてくるのです。
映画を見るときや小説を読むときにも、同じようなことが起こっているのではないかと思っています。面白い作品であればあるほど、そしてそこで語られていることに集中していればいるほど、自分の頭と体が刺激されて、全然違うことを考えていたりする。目の前で展開するのは大きな凧をあげる話なのに、頭の中では幼いころに出かけたキャンプのシーンが再生されていたり…。それは、集中と散漫が同時に起こっているような時間です。客席を埋め尽くすお客さん全員が興奮しながら違うことを考えている光景。それはかなり不気味だという話を濱口さんとしました。
一般に「聴く」という行為は、「従順さ」の態度表明として理解されています。「言うことを聴く」という表現が、それだけで「服従」を意味するのは、まさにそのような理解が背後にあるからでしょう。一方、フィリピンの詩人が問いかけるのは、そのような前提を裏切るような「聴く」の側面です。征服者と住民という明確な力の不均衡があるときに、「聴く」という行為のなかから、その構図を脱臼させるような要素を、詩人は見出そうとしています。何しろ、宣教師の話から、全然違う物語が生まれてしまっているわけですから。
これを「抵抗」と呼んでしまうのは、たぶん言い過ぎでしょう。でも、「スペイン人がフィリピン人を支配した」や「キリスト教が土着の人々を改宗させた」のような教科書に出てくる大文字の歴史に対して、それとは別の違うリアリティに気づかせてくれる力が、詩人の視点にはあります。「聴く」が「聴き取る」でしかなく、突き詰めれば「取り違え」でしかないかもしれないこと。「従順さ」が「従うことのできなさ」を露呈してしまうこと。実際、この詩人は、聖書に出てくるノアの方舟の物語を、近年のフィリピンの洪水の物語として書き直すなど、積極的に「取り違える」作品を書いています。彼のアプローチは、「言うことを聴かされてきた」立場にとってフィクションがいかに「生きる道具」であったのかを感じさせます。
「聴くこと」と「聴き取ることのできなさ」のあいだ。「従順さ」と「従うことのできなさ」のあいだ。そこに生まれる物語に関心があります。
別の例ですが、やはり最近、明確な診断を得られないまま、長い間体調不良とともに生きてきた方の話をうかがう機会がありました。診断を求めて検査をしたのにかえって状態が悪化してしまったり、よい医師にめぐりあえずドクターショッピングのような状態になってしまったり。頭痛、めまい、疲労感、呼吸困難感など、日常生活を送るのが難しくなるほどの症状を抱えているにもかかわらず、二十五年ほどの長い時間にわたって、彼女は名前のよく分からない病とともに暮らすことを強いられてきました。
診断が得られないというのは、端的にいって「聴いてもらえない」状況です。病名が与えられないということは、「あなたの体の状態は、現在の医療の枠組みには当てはまらない」と、体まるごと拒絶されるということを意味します。「あなたの体が語っていること(症状)は、理解できない」。「理解できない」ならまだしも、医師によっては「病気のふりをしているだけなのではないか」という疑いの目を向けてくる場合もあったそうです。
病名が与えられないとどうなるか。この女性は、体調が悪くて寝込んでいるとき、この不調の原因を求めてぐるぐると考えこんでしまったといいます。自分の幼少時代の経験に原因があるのかと思い返してみたり、遺伝を疑って家族や親戚の病歴をあさってみたり、挙句の果てには出身地である広島の原爆が原因ではないかと疑ってみたり。原因が特定されないと、あらゆるものが「原因かもしれないこと」になっていくんですよね。逆にいえば、診断が得られるということは、原因探しの旅をやめられるということなのだと、そのとき納得しました。
原因探しの旅を終えられないことは、女性にとってもたいへんつらいものであっただろうと推測します。医療によって聴き取られない体は宙ぶらりんです。原因探しの旅は、自分の体がどこにつながっているのか、その着地しうる場所を探す旅でもあったと思います。
でもそこには、聴かれない体ゆえの物語が生まれているようにも感じました。彼女は、科学的な因果関係を超えて、傷をかかえたさまざまな人と、つながっていくのです。若くして亡くなった知人の恋人に思いを馳せ、太平洋戦争に出征したお年寄りの話を聞き、内戦地域に出かけていってそこに住む人たちと交流を重ねる。ただ想像するだけでなく、実際の行動も伴うのがすごいところです。
そうやって彼女は、医療によって聴かれなかった体に居場所が与えられるような「想像上の傷のネットワーク」とでも言うべきものを、個人の人生の時空間を超えたスケールで描きだそうとしている。私にはそう感じられました。医療に聴かれなかったからこそ、彼女の体は、医療とはちがう因果関係のネットワークに開かれざるを得なかった。聴かれないことのつらさを肯定するつもりはもちろんありませんが、その欠如をうめるDIYの物語の力に圧倒されます。
瀬尾さんの弟さんやDさんも、前回のお手紙から推察するかぎり、「聴かれることが難しい」人たちなのかなと想像しました。もちろん瀬尾さんをはじめ周囲の人たちの働きかけによって、「聴かれる」部分もある。でも生活のルーティンの中で、聴かれていないこともたくさんありそうです。この「聴かれること」と「聴かれない」ことの間で、何らかの物語やフィクションが生まれているということはあるのでしょうか。
想像ですが、Dさんが描く絵は、そのような物語を描いたものなのかなと思いました。自分が描いた絵にふせんを貼って、スタッフと瀬尾さんにハイタッチして去っていく姿がいいですよね。Dさんの自治の領域を見たような気がします。
そして同時に、次に会うときには、Dさんが私たちの予想を鮮やかに裏切っていくことも期待してしまいます。「この絵は何を描いたのですか?」「ロケットと月です」みたいに。トトロかと思っていたらDさんにとっては実はトトロではなくロケットだった! そんな返事が返ってきたとき、より鮮明に「聴けた」ような気がするんじゃないかな、と想像しました。
語らない人とのやりとりは、どうしても言い当てるようなやりとりになってしまうところが、難しい点なのではないかと思います。私が日常の中での「聴く」に関して気をつけていることがあるとすれば、それは、核心をつかないようにすることです。とくにこちらが優位に立つ相手、たとえば学生とのやりとりにおいては、そのことにかなり気をつかっています。核心を言い当ててしまうと、相手は逃げ場がなくなってしまうんですよね。どうやったら相手の逃げ場を作りながら追いかけるか。そんなことをいつも考えています。
だから、日常のなかでの「聴く」は、ちょっと的を外しながら、毎回違う球を打つ、みたいな感じになりがちです。
たとえば今、ちょうど中学3年生の息子が体調を崩していて、自分の部屋からリビングに降りてくるたびに、「くーん」という犬みたいな鳴き声を出してソファーにどっかりと腰をおろすんです。何なんでしょうね、この「くーん」。頭痛がひどいようで、「なんとかしてくれ」という悲鳴のような甘えのような声です。ちなみに息子は体重も身長もとっくに私を追い抜かしています。
それを聴かされる私は、「大丈夫?」と言ってみたり、「辛いねえ」と同情してみたり、ときに無視してみたり、毎回違う反応を返しています。けっこう「生返事」みたいな感じかもしれません。それが不満なら向こうはまた違う手を打ってくるでしょうし、ただ何でもいいから反応してほしいだけかもしれません。的を外しつつ、でも毎回違う反応を返すことが、せめてもの倫理観です。
寒くなってきましたので、瀬尾さんもどうかお体を大切に。能登からはもう戻られたのでしょうか? 現地のお話も聴いてみたいです。
二〇二四年十一月八日 散らかった自宅のテーブルの隅で