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おかあさんのミカターー変わる子育て、変わらないこころ

3歳まではなぜ大切かー「三つ子の魂」に刻まれていること

連載「おかあさんのミカタ」が本になりました!

https://sekaishisosha.jp/book/b583743.html
世界思想社ウェブマガジン「せかいしそう」で、2019年12月から2020年11月まで連載したエッセイ「おかあさんのミカタ――変わる子育て、変わらないこころ」に、書き下ろし4本を加えた書籍版を刊行しました。単行本化にあたり、「子育ての常識から自由になるレッスン――おかあさんのミカタ」と改題しました。

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 「三つ子の魂百まで」ということわざがあります。最近は大学の授業でたとえに用いると、よくわからないという表情をされることが増えてきたので、死語に近づきつつあるのかもしれませんが、日本人の子育てのなかでは長く言い習わされてきた常套句です。

 みなさんは、どんな時にこの言葉を聞き、またどんな意味だと理解されているでしょうか。

 子育て支援に関わる専門家やボランティアの方への研修、若いおかあさん、おとうさんへの子育て講座などで、私はよくこのことわざの意味を尋ねてみます。すると、世代によって返ってくる答えが対照的に異なるので、いつも面白いなと思うのです。

 まず、社会の一線を退いた後や、自分の子どもを育て上げた後に、何か役に立ちたいと思って参加してきた高齢の人は、たいてい「3歳までの子育てが大切で、ちゃんとしつけをして分別をつけさせておかないと、大きくなってから手がつけられなくなるという意味です」とおっしゃられます。なかには、「だから、言っても聞き分けないときは、(わが子を)叩いて育てました」と、信念をもって発言する方さえいます。

 実際、私の幼少期の記憶をたどってみても、この言葉を聞いたのは、母親に厳しく叱られたり罰せられたりした時が多かったように思います。「こんなふうにするのは、そうしておかないと一生あなたが困るから」「あなたのためを思って」という理由付けとして語られました。はっきり記憶に残っているということは、3歳を過ぎてもっと成長してからも語られ、繰り返し私の心に、痛みと共に刻みつけられたからでしょう。そのせいか、私は自分自身の子育てのなかで、このことわざを口から発したことはたぶんありません。

 一方、若い参加者の場合は、立場にかかわらず、たいていこのように答えてくれます。「3歳までの子育てが大事で、それまでに母と子の絆を作り、信頼関係をしっかり築いておかないと、大きくなってから心の病に罹ったり、不登校になったり、困ったことになるという意味です」。そして、絆を作るためには、3歳までは母親は子どものそばにいて、わが子の要求を細やかに感じ取り、応えてあげることが必要だ、という趣旨の説明が続きます。若い世代の場合は、「3歳までが大事」という理解は高齢世代と同じでも、その理由付けは対照的に異なり、いわゆる「3歳児神話」と呼ばれる、「3歳までは母親の手で育てるべき」という価値観が浸透していることが感じられるのです。さらに、三つ子は文字通り「3歳」という実年齢としてイメージされている場合が多いのではないでしょうか。

 長期政権を維持する今の首相が、2度目の就任後間もない2013年の春に打ち出した「成長戦略」の一つに、女性活躍社会実現のための育児休業制度拡充があり、(おかあさんはわが子を)「3年間抱っこし放題」というキャッチフレーズをふりまいて、世論が分かれたことがありました。当時1年間だった育児休業制度を3年間に拡充するよう企業にはたらきかけるから、安心して子育てと仕事を両立できますよというメッセージを、メディアを通して強く発信したのです。ここでは、「3歳まで」が「3年間」という物理的時間に置き換えられてしまっています。

 しかし、この施策は多数派の女性の賛同を得られませんでした。一番の理由は、このメッセージがダブルバインド(相矛盾する内容を同時に含んでいる)だったからだと私は思っています。つまり、「3年間抱っこし放題」とは、女性は社会に出てもっと働け、しかし母親となった女性は子どもが幼いうちはわが子を抱っこして家にいなさい、という政府の促しを示していて、たとえば数年おきに複数の子どもを産めば、女性はもう「社会に出るな」と言われているのと同じになってしまうということです。為政者の無意識的な価値観には、3歳児神話が根強く生きていて、若い世代の人々も、そのダブルバインドメッセージに対して何か違和感を覚えながらも、やはり影響を受け続けているのが今日の現状ではないかと思います。

 

「三つ子の魂百まで」の話に戻りましょう。

 ことわざや昔話に出てくる数字は、物理的な数や期間を示すのではなく、象徴的に用いられている場合が多いものです。眠りの森の姫(グリム童話の「いばら姫」)が、呪いにかかって死の代わりの眠りに落ち、王子のキスによって百年の眠りから覚めるというとき、その「百」は、少女が思春期に入り、成熟した女性に変貌を遂げるまでの「数えられないほど長く感じられるあいだ」という主観的な時間を意味しています。「三つ子の魂百まで」や、それに似たことわざの「雀百まで踊り忘れず」の「百」も、物理的な百歳ではなく、質的な長い時間を表しています。「三」のほうも同様に、3歳ではなく、幼いことを表しているに過ぎません。

 このことわざのもともとの意味は、「幼い頃に表れている気質や特徴は、歳をとっても変わらない」ということです。英語に翻訳する際の例に、The leopard cannot change his spots(ヒョウは斑点を変えることはできない)があるように、どちらかというと、持って生まれた特徴は一生変わらないことを言っています。どこにも「育て方次第」というニュアンスはありません。したがって、世代にかかわらず、私たち現代人はこの言葉を誤用しているわけです。

 「3歳」にこだわる心理がどこから来るのかを考えてみることは、私たちの子育て観を見直すうえでヒントを与えてくれるのではないでしょうか。「脳科学の研究でわかった」というふれ込みのもと、「3歳まで」を皮切りに、「5歳まで」「7歳まで」「9歳まで」にこういう子育てをしたら頭のよい子に育つ、才能のある子に育つ、といったコマーシャルが巷に溢れています。多くは早期教育の薦めで、教材や受講の費用を母親が払いたくなるように工夫されています。今、自分が子どもの教育のために使うお金や努力を惜しんだら、取り返しのつかないマイナスポイントがわが子についてしまう、という不安をかき立てるようなストーリーが作られています。

 これまでの回でも触れてきましたが、神話と科学は必ずしも全く別次元の原理で成り立っているわけではありません。科学的手続きは常に不備を含んでいるものであり、得られた結論は限られた条件のもとで成立する証拠にすぎません。たとえば、その時代の政府が期待する成果の得られそうな研究プロジェクトには、より多くの資金が投入され発展しますが、反証するための研究にはそのような支援は得られないのが普通です。また、科学的に反証するデータが出ても、メディアは積極的には取り上げないので、市民が知る機会は限られてしまいます。巷に流れる情報は、政策の成功や企業の利益追求の意図によって色づけられているため、鵜呑みにしないよう気をつける必要があります。広い視野と長い年月のスパンで考えれば、科学もまた「神話」の一つという見方が可能です。人が信じたいように、また信じさせたいように、科学の証拠も積み上げられていくのです。

 

 仮に「三つ子の魂百まで」の「三つ」が年齢を指しているとしても、これは数え年なので、実年齢で言えば2歳児のことを指しています。にもかかわらず、私たちが、このことわざを含めて「3歳」という年齢を大切な節目と信じるのはなぜでしょうか。幼稚園教育は、なぜ3歳から始まるのでしょうか。

 子どもの心理学的発達の観点からは、以下のような知見と結びつけて理解することが可能です。

 前回に紹介したマーガレット・マーラーをはじめ、乳幼児の観察研究やこころの治療実践を行った研究者が共通して見いだしているのは、生まれた直後は母子一体の世界に生きていた赤ちゃんが、少しずつ「自己」の感覚を育て、歩行や言語の獲得によって物理的・心理的な母子分離を進め、途中で揺り戻しの時期(再接近期)を経て、3歳に達する頃には母親が物理的にはそばにいなくても、一人でいられるようになる(「個」としての自分を獲得する)というプロセスです。このプロセスの最後の段階は、「対象恒常性の獲得」という用語で表されることもあります。

 幼稚園教育が3歳から始まるというのは、この「対象恒常性の獲得」と深く関連しています。この発達段階になると、たいていの子どもは一定時間主たる養育者(多くはおかあさん)と離れても、不安なときに自分を守ってくれる養育者のイメージを呼び出し、次に出会えるときまで自分をコントロールして待つことが可能になります。優しいときも怖いときもあるトータルとしての「おかあさん」像を、こころの内に保持し続けることができるのです。それは同時に、明日も明後日も変わらない「じぶん」がある、という感覚をもつことと表裏です。そうして獲得された「じぶん」は、言葉を駆使して自分をなだめたり鼓舞したり、再会した母親に不在の間に経験したことを伝えたり、逆に家庭での経験を保育者や友達に伝えたりして、自分の内的世界を身近な他者と共有できるようになっていきます。言い換えれば、集団の中での学びが有効になるということです。

 大人になってからFirst Memory(一番昔の記憶)を尋ねられて思い出せるのが3~4歳のエピソードであることが多いのも、同じ能力のおかげと考えられます。刹那刹那を生きていた赤ちゃんは、3歳頃になると、自分の内的経験を長期的に保持できるようになります。確かに、「3歳」前後というのは、子どもの発達過程のなかで、一番大きな節目と言ってもよいでしょう。これもまた「科学という神話」の物語かもしれない、という留保を付けた上で、子育てに向き合う際に大事に考えることには意味があると思います。

 

 ただ、せっかくこだわるなら、ただ「3歳が大事」ではなく、もう少しみなさんと考えてみたいことがあります。

 「三つ子の魂」とは、先ほども書いたように、3歳ではなくもっと幼い子どものこころのことでした。私は、「3歳」という節目よりも、3歳に向かう育ちのプロセスが大事なのだと感じています。昔の(たとえば江戸時代の)人々は、対象恒常性が獲得され、文法構造の整った言葉が話せるようになる前の、つまり言語以前の刹那の時間と世界を生きる幼子が見せる様子がその後の長い人生を予見することを、経験的に知っていたのだと思います。

 改めて尋ねると、「三つ子の魂」に刻まれるものとは、何なのでしょうか。

 対象恒常性が獲得される前の子どもが経験した内容は、成長後に記憶として想起されることは、例外的なものを除いて通常はありません。でも、記憶に残らない(想起できない)ものは重要ではないと理解するのは早計です。

 解剖学者で、保育についても多くの講演録を残している三木成夫という先生は、私たちが成長後に何かの対象(人やモノ)を認識するとき、そこには「生命記憶」と名づけられる、乳幼児期からの五感の体験すべてが込められていると説きます(『内蔵とこころ』河出文庫、2013年)。

 たとえば、一つの「丸いコップ」を見るとき、私たちはただそれを視覚情報として同じように受け取るわけではありません。自分がかつて幼い頃、丸いコップを無心になめ廻し、撫で、叩き、握り、それで何かを飲んだ、あらゆる記憶と渾然一体に認識するのだということです。私たちは丸いコップを見たとき、その縁の舌触りや、手に持ったときの温もりや重みを、からだごと体験しています。幼い頃の経験が一人ずつ違うように、「丸いコップ」をどう感じるかも、一人として同じではないのです。

 人をどう認識するかも同じです。つらい表情や嬉しい表情をしている人に出会ったとき、私たちは言語で考えるより先に、自分自身の過去の非言語的経験を一瞬のうちに参照し、想像し、その人を理解しているのだと思います。つまり、「3歳」に至るまでに、言葉が主な手段になる前に、どれくらい情動的、運動感覚的な生の対象(人やモノ)とのかかわりが持てたかが、その後の生涯にわたって影響をもたらすと考えられるのです。

 

 この「生命記憶」ということから私が思い出すのは、次のようなエピソードです。

 少し前の年末、家の大掃除をしていたら、古いビデオテープが出てきました。タイトルは「さくらんぼぐみのおともだち」。長女が0歳児クラスのときの保育所での生活を、先生方がかわるがわる記録してくださっていたものです。初めて歩いた姿も、みんなと一緒にビニールプールではしゃぐ姿も、室内の設定遊びでよちよち歩きの友達とケンカしている姿も、当たり前の日常として映し出されていました。前回、阪神淡路大震災後のことを少し書きましたが、半年間の他府県での生活を経てやっともとのところへ戻ったとき、避難所にもなっていた公立保育所の混乱状況の中で大事に保管されていたそのビデオテープを、担任の先生が手渡してくださったのです。

 20年ぶりにそのビデオを再生してみて一番驚いたのは、広い園庭で外遊びをしている場面でした。0歳から2歳まで、十数名ぐらいの子どもたちが、まさに放牧のように園庭に放たれて、めいめいに好きなように過ごしているのです。まだはいはいの男の子は、砂や側溝の蓋の上を、イモムシのようにうねって進んでいます。疲れると、地面の上に気持ちよさそうにほおをくっつけて休みます。今ならきっと、そのような保育は「危険」「不衛生極まりない」と、保護者からクレームが出ることでしょう。

 私がその光景を久しぶりに見たときの率直な思いは、「感謝」でした。そのビデオは、天井や園庭に設置されたデジタルカメラでモニターされた記録ではありません。片手にカメラを持ち、両目で子どもたちをしっかり見つめる保育者の方々のまなざしが、そこには生きているのです。地面にほおをつけるイモムシ君は、大地の安心感を、陽の温もりと、においと、周囲から聞こえる声や音とともに、全身で感じ取っていたに違いありません。大人になって踏みしめる大地は、あの園庭の記憶とともに、温かく彼を支えてくれるよりどころとなるはずです。そして、娘たちにもそのような日々の経験を与えてくれた当時の保育所と先生方に、改めて感謝の思いが湧き上がりました。

 

 「三つ子の魂」に刻まれているのは、このような、言葉以前のさまざまな生の体験です。抱っこされたときの温もりや肌触りや聞こえる声色はもちろんですが、「おかあさんの」とは限りません。さまざまな人に抱き上げられたときの重力からの解放感、ベビーベッドの柵越しに踊る日の光、掴んだ玩具の手触りや匂い、床や土を踏みしめる裸足の感覚、初めてかじったプチトマトの歯ざわりと味、スマホ越しに聞こえる祖父母の声など、心地よいものもよくないものも、すべてが刻まれていくと想像してみて下さい。こういった豊かな体験世界の上にこそ、おかあさんのさまざまな子育ての努力が活きていくのだと思います。

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著者略歴

  1. 高石 恭子

    甲南大学文学部教授、学生相談室専任カウンセラー。専門は臨床心理学。乳幼児期から青年期の親子関係の研究や、子育て支援の研究を行う。著書に『臨床心理士の子育て相談』(人文書院、2010年)、『自我体験とは何か』(創元社、2020年)、編著に『子別れのための子育て』(平凡社、2012年)、『学生相談と発達障害』(学苑社、2012年)、『働くママと子どもの〈ほどよい距離〉のとり方』(柘植書房新社、2016年)などがある。

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