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シンポジウム「文学批評――その理論と展望」@慶應義塾大学

文学と社会の関係をどのように問うか   小倉孝誠

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文学とは作家と作品で完結するものではなく、その外部に文学の生産を規定する機構や制度が存在します。フランスの社会学者ピエール・ブルデューは「場」という概念を使い、印刷技術の発展や流通網の拡大、識字率の上昇、ジャーナリズムの登場といった経済・社会・政治の力学が文化的実践に影響を及ぼし、その時々で独自の「文学場」を形作っていく様を浮かび上がらせました。『批評理論を学ぶ人のために』の編者で、「テーマ批評」「ソシオクリティック」「文学の社会学」の執筆を担当した小倉孝誠氏が、文学とその外部の関係を読みときます。

1 文学は社会を表象する

 文学が社会の表現であるという認識は、目新しいものではない。フランスでは1800年に刊行されたスタール夫人の『文学論』に示されているように、19世紀初頭のロマン主義時代に明確になった考え方である。人文科学や社会科学の諸分野と並んで、そしてそれらとは異なる方法と想像力によって、文学もまた社会の多様な側面を問いかけ、えぐり出し、ときには社会を変容させてきたことは、あらためて強調するに値するだろう。
 現代日本の文学批評に例をとるならば、斎藤美奈子と高橋源一郎の対談集『この30年の小説、ぜんぶ――読んでしゃべって社会が見えた』(河出新書、2021年)のなかで、高橋源一郎は、平成時代の30年間に書かれた日本の小説を総括しながら、社会との密接なつながりを次のように指摘している。

ほんとうに社会のことが知りたいなら、小説を読むべきなのである。なぜなら、小説家たちは、誰よりも深く、社会の底まで潜り、そこで起こっていることを自分たちの目で調べ、確認し、そして、そのことを、わたしたちに知らせるために、また浮上してくる。そして、そのすべてを小説の中で報告してくれるのだから。 (5頁)

 また鴻巣友季子の『文学は予言する』(新潮社、2022年)は現代の世界文学を概観しながら、「ディストピア」「ウーマンフッド」「他者」という三つの大きなテーマ系にそくして、文学が社会の深層と硬直的な制度を可視化していることを強調する。高橋と鴻巣が共通して浮き彫りにするのは、文学は現在を語るだけでなく、来るべき社会の透視図を素描しているという点だ。
 では文学あるいは作家と、社会の関係性のあり方を問いかける批評の方法論として、現在どのようなものがあるのか、そして将来的にどのような可能性があるのだろうか。

2 作品のなかに社会を読み取る

 『批評理論を学ぶ人のために』の第Ⅲ部は「歴史と社会」と題されており、そこでは文学がはらむ複雑な社会性を問いかけ、そのさまざまな側面を明らかにしようとする批評理論が解説されている。英語圏で発達した新歴史主義や文化唯物論、ドイツの近年の大きな潮流であるシステム理論、ベルギー、スイス、カナダ・ケベックを含むフランス語圏で確かな地位を築いたソシオクリティックなど、国によって特徴がある。他方で、マルクス主義批評、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル批評、ジェンダー批評などは、今では国境を越えて普遍的に活用されている理論だ。
 これらの批評理論のなかで、ソシオクリティック、文化唯物論、ジェンダー批評は、作品の内部に社会や、政治性や、歴史や、イデオロギーを読み解くという点で共通している。作品の形式、構造、テーマ、登場人物どうしの関係が、同時代の現実と深く切り結ぶと同時に、その現実を象徴的にあぶり出すという前提がそこにある。

3 文化的実践あるいは制度としての文学

1)文学の「外部」へ
 他方、個別の作品の意味や作家の価値を問うのではなく、文学をひとつの文化的実践と捉え(その点では絵画、音楽、舞台芸術、映画などと同じ)、それを同時代の文化・社会空間のなかに組み入れながら、文学のあり方を探ろうとする試みがある。文学は、作家と作品のみで構成されるわけではない。作家と作品の外部に、文学とその生産を取り巻き、時には規定するさまざまな機構と制度(上流階級のサロン、出版界、読者、学校など)が存在する。ジャーナリズムが発展し、教育制度の整備にともなって読者層が増大した19世紀以降は、そうした文学の「外部」の存在が大きく、作家はその「外部」から完全に独立できるわけではない。現代では、ネットやSNSに代表されるような新たなメディア空間が成立しており、文学もそうしたメディア空間と無縁ではいられない。
 こうした文学の「外部」を問う研究としては、分析の対象をどこに設定するかによっていくつかの領域を区別できる。ある特定の時代に、どのような著作がいかなるルートで流通し、誰が、どのように読んでいたかという点は、書物と読者をめぐる文化史のテーマであり、歴史家が着目してきた問題だ。作田啓一(1922-2016)が提唱した「文学からの社会学」は、文学の分析をとおして社会学的な命題を再編し、その命題からなる理論によって逆に文学に新しい解釈を加えようとする方法論であり、文学研究であると同時に、社会学の一分野である。

2)ブルデューと「文学場」の理論
 文学制度に関する社会学的な研究として現在強いインパクトをもち、大きな成果を挙げているのが、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の理論だ。「社会的判断力批判」という副題をもつ主著『ディスタンクシオン』(1979)のなかで、ブルデューは「文化資本」「象徴財」「慣習行動」「場」など独自の概念を用いて、文化の生産、享受、継承のメカニズムを分析した。そこで展開された議論との連続性のもと、主に文学を対象にしたのが『芸術の規則』(1992)である。「文化資本」とは、文化に関わる有形、無形の獲得物の総体を指す。具体的には、家庭環境と学校をつうじて得られた趣味や教養、絵画など目に見えるものとして所有される文化的な財、そして教育制度をつうじて与えられる資格と学歴などだ。また「場(champ)」とは、一定の目的をもつ行為者の集団、およびそれに付随する組織、制度、価値観によって構成される社会領域を指す。文学の領域における場が「文学場」であり、『芸術の規則』はこの文学場をキーワードにして文学社会学を展開した。一定の文学場に生きる人たちは、一定の文化資本を獲得しており、文学場は合理的で、それなりの自律性を具えており、文学をめぐる実践は一定の時代状況において特徴的な文学場として構成される、というのがブルデューの基本的な考えである。
 文学場の構造と力学は時代によって変化していく。フランスにおける文学場の変遷を考察するに際して、ブルデューは1850年代を重視した。フランス文学史では、19世紀前半が広くロマン主義の時代であり、世紀後半になってリアリズム、自然主義、象徴主義の時代へと移行する。1850年代は、その移行を画する転換期で、小説家フロベール、詩人のボードレールとルコント・ド・リールが文壇に登場した時代。ちなみにこの時代を、フランスにおける文学の近代性と密接に関連づける点において、ブルデューはベンヤミンやサルトル(その浩瀚なフロベール論『家の馬鹿息子』)と共通している。
 では具体的に、何が起こったのだろうか。
 産業革命とそれにともなう印刷技術の発展、鉄道の発達による流通網の拡大、教育制度の整備による識字率の上昇によって、19世紀には、書物を取りまく社会的、文化的な環境が大きく変わる。新聞・雑誌、書籍の制作がスピード化され、発行部数が増え、したがって販売価格が下がるが、19世紀前半ではまだ読者層は限定されていた。それが第二帝政期(1852-1870、まさにフロベールとボードレールの時代)に入って、大衆ジャーナリズムの時代が到来する。そうした状況のなか、大衆的な文学、支配的なブルジョワ階層のイデオロギーに賛同する文学、社会的な有用性を主張する文学などに抵抗するかたちで、フロベールやボードレールは新たな自己規定を模索する。文学の絶対的な自律性を主張し、美の追求にみずからを捧げようとする「芸術のための芸術」(芸術至上主義)の立場だ。ブルデューによれば、このような立場表明は、たんに文学のひとつの理想を標榜することにとどまらず、時代の文学場において新たな位置を要求することでもあった。
 フロベールやボードレールなど、芸術至上主義の支持者には恵まれたブルジョワ階級出身の者が多かったことを指摘しておこう。権力場に近く、経済的にも文化資本の点でも恵まれていた彼らは、美学の面では、ブルジョワ芸術の商業性や、社会的芸術のボヘミアン性に対して距離を置いた。そのため世俗的な成功を得られず、それどころか出版に検閲を課していた当時の政府によって、法的な訴追さえ受けた。フロベール、ボードレール、ゴンクール兄弟の作品は、「公序良俗と宗教に反する」という罪で裁判沙汰になったくらいだ。とはいえ、それは彼らの文学場においてはむしろ一種の栄誉あるいは価値認定になった。文壇全体のなかで周縁化されていた彼らは、一部の同業者から象徴的な承認を得たのだから。政治権力から迫害されたことによって、彼らは文学的には一種の殉教者と見なされさえした。こうして文学と文学者の正統性を同胞たちによる評価のうちに見出し、権力と断絶し、商業的成功を拒否し、一般大衆に迎合しないことを、作家が作家として存在するための倫理的基盤にした。そこから生じる正統性が、彼らの文学場を自律的な空間にする根拠になっていったのである。
 このようにブルデューは、文学場という概念を活用して、フランスの第二帝政期を代表する作家たちの美学の背後にひそむ社会的、文化的要因を問いかけた。『芸術の規則』において、ブルデューは文学だけでなく、同時期に絵画の領域で新たな運動、その後「印象派」と呼ばれることになる運動の先鞭をつけたマネの美学についても、「芸術場」の視点から並行的に論じている。
 「文学場」の理論は、作品論や作家論とは異なる視点で、文学の文化的、社会的位相を問いかけることを可能にしてくれる。ブルデュー理論のインパクトは大きく、それを継承しながら文学史家や社会学者は、他の時代における文学場のあり方を問いかけた。たとえば、アラン・ヴィアラは『作家の誕生』(1985)のなかで、17世紀フランスの古典主義時代に文学場がいかにして形成されたかを考察してみせた。また19世紀から現代までを取りあげたジゼル・サピロの『作家の責任――フランスにおける文学、法、道徳(19-21世紀)』(2011)は、文学場の変貌という観点からいって重要ないくつかの時代と、その時代に活躍した作家、文化人の著作と活動を分析しながら、各時代の法、司法制度、倫理体系との関連で作家=知識人の社会的役割を考察してみせた。文学社会学であると同時に、知識人をめぐる見事な歴史社会学になっている。

4 新たな展望

 このように文学の社会性を問う批評は、現代では二つの領域で大きな可能性を拓いてくれるように思われる。

1)「世界文学論」への寄与
 20世紀末以来、「世界文学論」がしばしば話題になってきた。国や、地域や、言語の境界を越えて(したがって翻訳の問題が関係する)、「文学の読み方」を刷新するための概念となっている。この「世界文学論」が問題になるとき、しばしば言及される3人の論者がいる。
 まず、フランスのパスカル・カザノヴァが『世界文学空間』(1999)という著作において、一国の枠を超えて国際的な「文学場」のあり方を問いかけた。具体的には近・現代の欧米諸国を対象にして、地政学的な関係、言語がもつ文化的な力、承認媒介としての批評と翻訳などが複雑に絡みあって、世界文学空間が形成されてきたメカニズムを跡づけてみせた。第二にアメリカのデイヴィッド・ダムロッシュが、『世界文学とは何か』(2003)のなかで、世界文学とは各国における正典のテクスト(いわゆるカノン)の集成ではなく、ひとつの読みのモードであると主張した。そして第三に、イタリア人のフランコ・モレッティ(著作の多くは英語)は、『遠読――〈世界文学システム〉への挑戦』(2013)において、19世紀以降、資本主義にもとづく近代世界システムの広がりと並行するように、西欧文学のモデルが世界文学の構図を大きく決定づけてきた、と主張する。これら3人の論者に共通しているのは、世界文学という地平では時代によって優位な「文学場」が変化してきた、という認識である。
 カザノヴァは、「文学場」の概念を時代と地域を拡大して応用しており、ブルデュー的な文学社会学の有効性を示している。ダムロッシュとモレッティの理論的枠組みも、ブルデューのそれと重なる部分が少なくない。

2)文学史の刷新
 第二の領域は文学史である。どの国でも文学史が編まれ、その文学史では、大作家として取り上げられる作家のリストはかなり固定している。正典(カノン)となる作家や作品は、一国の文化遺産として伝統的に継承されてきたからだ。しかし長い時間軸で見れば、カノンは不変ではない。そもそも「文学史」というものがひとつの文化的制度であり、フランスでは、学校教育(中等教育と大学)のカリキュラムの一環としてフランス文学史が成立したのは19世紀末だった。
 文学史は客観的な知識の集成ではなく、つねに特定の文化的、思想的状況のもとで編まれてきた。社会が推移し、文学をめぐる認識が変化し、読者の意識が変われば、文学史にも刷新の動きが出てくるのは当然だろう。フランス文学の世界では、とりわけ21世紀に入ってからその趨勢が顕著である。たとえば自伝、回想録、旅行記への関心が高まり、現在では小説、詩、演劇と同じく独立したジャンルとして扱われることが多い。また埋もれていた女性作家たちが改めて脚光を浴びていることも、無視しがたい現象だ。ジェンダー研究やフェミニズム批評とともに、文学の社会学的考察が、これまで文学史から抹消されていた、あるいは不当なまでに周縁化されてきた女性作家たちを文学史的に復権させる理論的な武器になっているのだ。
 具体例を挙げておこう。フランスの場合、バルザック(1799-1850)が小説ジャンルで残した業績が巨大で、彼がもたらした刷新があまりに本質的なので、バルザック以前/バルザック以後という分類がなされることがある。小説の風景が、彼の前と後で大きく変貌したのは事実だとしても、最近の研究では、バルザックとほぼ同時代、あるいはそれより少し前の18世紀末~19世紀初頭にかけて多くの女性作家が活躍し、同時代的に多くの読者を獲得し、小説の構造や、テーマや、人物造型においてバルザック文学を先取りしていた面が少なくないことが指摘されている(たとえば私生活、家族制度、法と社会などのテーマ)。
 このような変化を踏まえて、マルティーヌ・リードは2020年に、『女性と文学――ひとつの文化史』と題された浩瀚な二巻の書物を編纂した。中世から現代までの女性作家たちに焦点を絞った、挑発的な文学史になっている。
 文学と社会の関係はさまざまな方法で問うことができる。とりわけ「文学場」の理論は、時代と文化圏を越えて汎用性が高い。時代が新しくなるほど文学とその受容を取り巻く出版、メディア、制度の機構が多様化するので、文学場の力学は複雑になり、そのぶん新たな問題を設定できるだろう。

【目次】

はじめに

Ⅰ 記号と物語

第1章 構造主義(下澤和義)
第2章 物語論(赤羽研三)
第3章 受容理論(川島建太郎)
第4章 脱構築批評(巽孝之)
◆コラム 法と文学(川島建太郎)

Ⅱ 欲望と想像力

第5章 精神分析批評(遠藤不比人)
第6章 テーマ批評(小倉孝誠)
第7章 フェミニズム批評(小平麻衣子)
第8章 ジェンダー批評(小平麻衣子)
第9章 生成論(鎌田隆行)
◆コラム 研究方法史の不在(小平麻衣子)

Ⅲ 歴史と社会

第10章 マルクス主義批評(竹峰義和)
第11章 文化唯物論/新歴史主義(山根亮一)
第12章 ソシオクリティック(小倉孝誠)
第13章 カルチュラル・スタディーズ(常山菜穂子)
第14章 システム理論(川島建太郎)
第15章 ポストコロニアル批評/トランスナショナリズム(巽孝之)
◆コラム 文学と検閲(小倉孝誠)

Ⅳ テクストの外部へ

第16章 文学の社会学(小倉孝誠)
第17章 メディア論(大宮勘一郎)
第18章 エコクリティシズム(波戸岡景太)
第19章 翻訳論(高榮蘭)
◆コラム 世界文学──精読・遠読・翻訳(巽孝之) 

あとがき

参考文献 
事項索引 
人名・作品名索引 

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著者略歴

  1. 小倉 孝誠

    慶應義塾大学教授。パリ・ソルボンヌ大学文学博士。
    著書に『歴史をどう語るか』(法政大学出版局、2021年)、『逸脱の文化史』(慶應義塾大学出版会、2019年)、『ゾラと近代フランス』(白水社、2017年)、『写真家ナダール』(中央公論新社、2016年)、『犯罪者の自伝を読む』(平凡社新書、2010年)、編著に『世界文学へのいざない』(新曜社、2020年)、『十九世紀フランス文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2014年)、訳書にアラン・コルバンほか監修『感情の歴史』(共訳、全3巻、藤原書店、2020-21年)、フローベール『紋切型辞典』(岩波文庫、2000年)など。

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