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ガクモンのめ

「科学的な知識」はどのように成り立っているのか――パンデミック時の細菌学研究史を通じて【野坂しおり】

 若手研究者たちが、学問をつきつめる「おもしろさ」を伝えるリレー連載、「ガクモンのめ」。
 第5回は、科学的知識や技術がいかに編み出され、社会に定着していくのかを、日仏独の細菌学史を通して研究されている野坂しおりさんです。
 新型コロナウイルスによるパンデミックを経験した私たちにとって、過去のコレラやペストといった感染症と人間との関わりは遠いものではありません。社会・政治と複雑に絡み合い、人々の価値観や社会の構造的な問題を映し出す科学・技術のあり方に迫ります。

野坂しおりさん(フランス社会科学高等研究院〔EHESS〕博士課程)

科学的な知識のゆらぎ

 2011年3月に東日本大震災と福島原発事故が起こったとき、私は神戸大学国際文化学部の1年生でした。放射線はどのように人体に影響を及ぼすのか?という問いに対して「科学的な知識」が答えを導いてくれるだろうと考えていた私は、相反する科学的な意見が次々に現れる事態に衝撃を受けました。科学的知識とは事実の積み重ねであり、正しいと証明された知識があれば、そこに疑問を挟む余地はないものと考えていたためです。この経験から、「科学的に証明されているから正しい」とみなされる事柄はいつ、誰が、どのように、どのような意図をもって発表したのか、またこれがどのような社会的な影響・意味を持つのか、ということを歴史的に調査する研究分野に興味を持ちはじめました。

 研究者としての進路を決めるもうひとつのきっかけとなったのは、学部のプログラムを通じてパリに留学したことでした。留学先の政治学部で、フランス語が堪能な留学生やフランス人の友人に助けてもらいながら必死で授業についていきました。フランス語の環境に慣れてきた頃、フランス社会科学高等研究院(EHESS)の授業を見にいく機会がありました。

 この頃、フランスの科学史、特に医学史に興味を持ち、ジョルジュ・カンギレムやフランソワ・ダゴニェといった哲学者の著作を読んでいました。彼らの研究は、病や身体に関する新しい知識を提唱した化学者のルイ・パストゥールや、生理学者のクロード・ベルナールといった科学者・医学者の思想を掘り下げ、それがもたらした価値観やその歴史的なつながりを分析する科学哲学・科学認識論と呼ばれる分野に属しています。このように現代の生や健康に関する倫理問題に示唆を与えることを意図する思想研究の存在を知りました。さらに、科学を社会の具体的な実践のひとつとして捉える科学史、科学技術社会論が盛んになっていることも知りました。

 そうして、様々な出自やアプローチを持つ研究者が集まり議論を深めていくパリの学術環境に興味を持ち、EHESSの大学院に進学することを決めました。博士課程に在籍する今は、細菌学とパンデミック時の感染症対策の関係の歴史について研究を進めています。

社会のなかの細菌学

 細菌学の歴史というと、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。一般的には、歴史に名を残した人物とともに語られることが多いでしょう。たとえば、ドイツの医師であるロベルト・コッホは、動物実験によって病原菌を特定する実験方法を編み出しました。この方法を使ってコッホが炭疽菌や結核菌を特定したことで、様々な伝染病に関する病原菌の解明が19世紀末に急速に進みます。コッホのもとへ研究留学した日本の北里柴三郎は、留学中に破傷風菌を特定し、帰国してからは日本の医学研究の発展に貢献しました。また同時期にフランスでは、化学者のルイ・パストゥールが、病原菌を人工的に弱毒化する技術を生み出したことで、ワクチンを大量に生産し多くの人々に接種する道が開かれました。

 以上のような著名な個人の偉業に対する反響は今日でも大きく、その人物の伝記も多く刊行されています。しかし実際のところ科学の歴史は彼らの偉業のみによって説明できるほど単純なものではない、ということを近年の歴史研究は示してきました。というのも、彼らの業績を重要なものとみなすのはより多くの人々を巻き込むプロセスであり、そこには合意・選択をする人々や社会の価値観が反映されるからです。

 たとえばコレラ菌の存在はコッホの実験を経て世に知られるようになりますが、コッホは自身が確立した実験方法ではこの菌を特定できない事態に直面します。そこで、コレラの感染経路を調査するという細菌学が登場する以前の調査方法を交えてコレラ菌を断定します。

 他方、コッホより30年前、イタリアの医師フィリポ・パチーニは同じ菌をコレラの病原菌として発表していました。ただ、彼の業績はそのときは注目されませんでした。当時、感染症にかかった患者の身体から微生物を分離・観察し、これを病の原因として発表する医学者はパチーニ以外にも多数いました。しかし、これが本当に病気を生み出す要因なのか、それは常に起きる現象なのか、気候や体質など他の要因のほうが重要なのではないか、といった議論があり、病を説明するうえで細菌の役割に着目することの重要性について意見が分かれている状態でした。コッホが動物実験を通じて、特定の微生物が生き物に必ず病気を生み出す、ということを主張して初めて、細菌学の知識は感染症対策に有用だろうという見方が強まりました。このような考えがある時代にようやくパチーニは再評価されたのです。

 細菌学の知識や技術を広く感染症対策に応用するにあたっても、社会的な仕組みを必要としました。パストゥールが開発した炭疽病ワクチンを例に挙げましょう。1888年にパストゥール研究所が開設され、炭疽病ワクチンの大量生産が始まります。しかし広く使われるようになってからも、製造単位によって接種した人の身につく免疫力にばらつきがある状態でした。他の研究機関や製薬会社も製造を始めるようになってから、ばらつきはさらに広がったため、1920年代に初めて国際的な基準を作ろうという動きが登場します。

 このように、科学研究を通じて編み出された知識や技術が社会に定着する過程を記録しようとするならば、個人の科学者の業績は歴史の中の一部でしかなく、知識や技術が社会的価値や仕組みと接する場面に着目することこそが重要であることがわかります。このような先行研究の主張は、私が学部生のときに持った問題意識と重なるものでした。また、社会の決まりや人々の交渉、さらには歴史に名を残さない人々の仕事に着目して科学活動を記述する手法を使えば、今を生きる私たちにも過去のシナリオをリアリティをもつ形で提示することができると感じています。

パンデミックと帝国主義

 博士課程に進むことを決めた頃の私の興味は、19世紀末以降、日本・フランス・ドイツの間でなされた細菌学の知的交流を分析し、学派の分断や個人の業績にとどまらない、国際的な細菌学のあり方を記述することにありました。しかし、文献を読み進めるにつれて、細菌学の国際的な議論が進んだ背景にあったパンデミック対策、また帝国主義が細菌学の発達に重要な影響を与えていたことを議論する必要があると感じるようになりました。

 19世紀末、列強の植民地支配や貿易拡大の影響で国境をこえた人の移動が活発化し、コレラやペストといった感染症が大流行します。ヨーロッパでは1817年のパンデミックを皮切りに、コレラが数度にわたって大流行しました。日本でも幕末から明治・大正時代にかけてコレラが流行し、多いときでは年間10万人以上の死者を出します。病人の処置が間に合わず、息のあるうちから火葬場へ送られるといった事態も発生しました。感染症が大発生した国の政府は感染拡大を防ぐため、汚染物の消毒、患者・患家の隔離、飲食物への注意喚起、上下水道の整備などの対策を講じます。また対外的には船や汽車の移動が制限され、検疫のため船や汽車を隔離する対策も取られました。

 しかしこのような対策は政府にとって膨大な費用を費やすものでした。そのうえ、列強は船の検疫がもたらす経済的な打撃を憂慮します。感染症の拡大を防止すると同時に経済的利益を保護する方法を模索するため、ヨーロッパの列強は19世紀半ばより国際会議を開き議論しました。19世紀末からは当時感染が拡大していたペストも議論の対象になります。その頃に国際会議で出された結論は、コレラやペストはインドや中国、中東からもたらされる感染症であるから、その感染経路をヨーロッパの手前で断ち切ろうというものでした。この目的のもと、当時開設されて間もないスエズ運河付近に国際検疫所が設置されます。フランスの歴史学者シルヴィア・シフォロー(Sylvia Chiffoleau)さんによると、そこで主に検査・隔離の対象となったのは聖地巡礼を行うイスラム教徒や、労働者として国境を移動する人々でした。

 結核や腸チフス、スペイン風邪、またその前身であるロシア風邪といった感染症も同時期には世界的に深刻な問題であったにもかかわらず、国際検疫の対象となったのはコレラ、ペスト、そして中南米を中心に発生していた黄熱病という、列強が「外」からもたらされると考えた感染症のみでした。私が研究対象としていたのは、このような「外」の感染症対策のために発達した細菌学の国際交流だったということに気づき、私の関心も変化していきました。

 列強の利害が反映された感染症の見方と感染症対策、そして細菌学の技術や知識はどのような関係を保ちながら発達したのでしょう。この疑問に答えるため、ヨーロッパの列強とは異なる立場にあった日本の視点から、感染症対策の体制が確立する1880年から1930年の時代を研究しています。 

コレラ、ペストに対する日本の研究開発 

 日本の細菌学研究者を国際的な研究や開発競争に参入させるきっかけとなったのは、「外」の感染症であるコレラやペストがたびたび日本に発生していたことでした。具体的な例を挙げると、日本の細菌学者たちは、東京や大阪、台北などでドイツ・フランス式技術を使った臨床試験を行い、実際の感染症対策に適した技術として定着させていきました。この過程を通じて、外来の感染症に対してワクチンを使用して対処するという新しい認識と仕組みが確立されていきます。

 また20世紀初頭よりコレラ菌の生物学的分類、またペスト菌の感染経路が細菌学の国際的な研究テーマとなりますが、ここでも日本の研究者たちは日本の領土に置かれた衛生試験所の技術者たちのネットワークを通じて細菌学の理論を様々な場面で検証します。こうして蓄積された知識は、1926年の国際衛生条約を制定する際の議論にも用いられました。

 日本の細菌学研究はこのように国際的な地位を確立しますが、その中で、自身の土地をコレラ・ペストの発生地というイメージから切り離し、中国やインド、植民地、といった場所がもたらす危険から身を守る技術を確立することに専念しました。感染症の感染源を見出しその経路を遮断する、病原菌の人体に対する影響を軽減する、という技術的なアプローチは権力者の期待を集めます。

 これは他方で感染症拡大の重要な要因のひとつである貧困問題や労働条件、差別問題といった経済的・社会的要素から目を逸らす口実を作ってしまいました。それどころか、病原菌の蔓延を人種的・文化的・風土的な要素と結びつけて説明する見方を助長しました。歴史学者の安保則夫さんは神戸の感染症対策を通じて差別構造が作られる過程を『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム――社会的差別形成史の研究』(学芸出版社、1989年)で明らかにされましたが、このような構造は、国際的な議論や学術的な実践も通じて作られていたのです。

 細菌学の技術や議論は、自らとは違う他者を作り上げつつ社会に定着していきました。当時の感染症をめぐる科学と社会の関わりは、現代にもその痕跡を残しています。

新型コロナウイルス対策をへて歴史を振り返る

 2020年、私たちは新型コロナウイルスがもたらすパンデミックに直面しました。フランス政府が全国的なロックダウンに踏み切った3月、フランスに住む人々はロックダウンの宣言から実施まで丸一日もないなかで、どれだけ続くのかわからない状況をどう過ごすのかを決めなくてはなりませんでした。パリ近郊では、地方に実家がある人は首都圏を離れ、自宅に残る人はせわしなく買い出しに出かけました。私は研究室に置いていた本を自宅アパートに持ち帰り、博士論文を執筆する生活を始めました。

 ロックダウン中、世界中の識者が20世紀初頭のスペイン風邪はじめ過去のパンデミックの記憶を呼びさまし、日本では、歴史学者の藤原辰史さんが書かれたウェブ記事(「パンデミックを生きる指針――歴史研究のアプローチ」)が注目されました。それらのなかで、過去の感染症と同様に、新型コロナウイルスもケアワーカーやエッセンシャルワーカーとして働く女性や低所得者、有色人種とされる人びとが感染しやすい状況に置かれている問題が指摘されました。私自身、感染経路の遮断や消毒の強化といった過去の感染症対策の手法や、それが社会的格差をあらわにする状況が新型コロナウイルスにも当てはまると感じていました。

 あれから3年が経ち、WHOが「緊急事態宣言」の終了を発表しました。この間、アメリカやイギリスを中心に、実験開発段階にあった新しいワクチン技術の応用に資金と労力が費やされました。私たちは、ワクチンが実用可能になったとたん、これを経済大国が大量購入し、経済活動の再開が目指される状況を目にしました。こうした集中的な投資と競争、大国を優先する一極集中型の科学のあり方は、かつてのコレラとペスト対策にも共通します。

 コロナウイルスを経験した私たちに対して、歴史がもたらす問いはどのようなものでしょう。それは、科学や技術の問題は国際政治など規模の大きな問題であり、社会の価値観や選択を如実に表すということです。同時に、格差や差別といった社会的構造の問題と不可分であり、個々人の人生に深くかかわる問題であるということです。技術開発にのみ注目が集まると、社会的な問題をも技術で解決しようとする思考につながりやすくなるだけでなく、個々人の生活や人生を軽視して、単なる感染症対策の対象とみなす思考も生まれてしまいます。

 科学的知識や技術は、「他者」との分断を正当化してしまう危うさや、社会の不安定性を反映してしまうゆらぎをはらんでいます。このようなゆらぎを描き出すことで、規模の大きな出来事を等身大の感覚から捉え直し、より「ひと」に焦点を当てた社会のあり方を模索することができるのではないかと考えています。

 
《プロフィール》
野坂しおり(のさか・しおり)

フランス社会科学高等研究院(EHESS)博士課程、医療・科学・健康・精神保健・社会問題研究センター(CERMES3)所属。パリ・シテ大学任期付常勤講師(科学史・科学哲学学科)。専門は科学史、科学技術社会論、医学史、日欧における細菌学の知的交流、近代日本の感染症対策史。訳書にクリストフ・ボヌイユ、ジャン⁼バティスト・フレソズ『人新世とは何か――〈地球と人類の時代〉の思想史』(青土社、2018年)。論考に「人新世は誰のものか――環境危機をめぐる対話と合意の政治性」(『地質学史懇話会会報』54号、2020年)、「19世紀末日本の海港検疫体制における中央衛生会の役割」(『生物学史研究』101号、2021年)など。

 

《人生を変えた本》

『科学者とは何か』
(村上陽一郎、1994年、新潮社)


日本の代表的な科学史・科学哲学者によるエッセイです。環境汚染に代表される現代社会の問題は一定の知識のみでは答えられないにもかかわらず、細分化した近代科学がそれぞれの専門のみに頼って対応しようとする姿勢を批判し、このような分化こそが問題を増幅させていること、異なる分野同士の協力・対話を通じて複雑な問題に対して総合的な判断をなすことが必要であると述べられています。高校生の頃、現代文のテキストとして読んだ際、近代科学の万能性を批判する論調が印象に残りました。大学に入ってからこれが科学史・科学哲学や科学技術社会論という分野に属していることを知り、この分野に足を踏み入れるきっかけのひとつとなりました。

 

『自分ひとりの部屋』
(ヴァージニア・ウルフ、片山亜紀訳、2015年、平凡社/A Room of One’s Own, 1929)

今から約100年前、イギリスの小説家がケンブリッジ大学の女学生向けに行った講演がもとになった評論です。大学から与えられたテーマは「女性と小説」でしたが、ウルフはそもそも女性による小説が非常に少ないことに注目します。そこから、女性を家庭に縛り付ける家父長制や差別の問題を指摘し、いかに物質的・経済的不平等が女性の学問や職業、自由に思考しものを書く可能性を狭めているのかを語ります。「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」という言葉は有名です。ウルフは、これが果たされるにはあと100年が必要だと述べますが、ジェンダー格差が根強く残る今を生きる私たちはこの言葉をどう受け取るでしょうか。

 

『虚構の「近代」――科学人類学は警告する』
(ブルーノ・ラトゥール、川村久美子訳、2008年、新評論/Nous n’avons jamais été modernes, 1991)

環境問題を出発点として近代科学の細分化・専門化が抱える問題を扱ったフランスの科学哲学者の著作です。ラトゥールは近代における自然科学と社会科学の分断に着目し、近現代人はこのような分け方が不可能な現実の世界に生きているにもかかわらず、あたかもこういった分断が存在すると主張することで社会の進歩や近代性を担保してきたこと、このような言説が近代社会の条件であったと主張します。ラトゥールの著作は哲学的・批判的であると同時に、世界を細分化できないものとして分析する方法を提唱している点で実践的でもあり、たえず刺激を与えてくれます。

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著者略歴

  1. 野坂 しおり


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