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ガクモンのめ

いつからが「戦後」なのだろう――写真家たちが見つめた暮らしから辿り直す【吉成哲平】

 若手研究者たちが、学問の「おもしろさ」を伝えるリレー連載、「ガクモンのめ」。
 第3回は、写真家たちの生きた軌跡から「戦後」のひとびとの暮らしを描く研究をされているよしなりてっぺいさんです。
 今年で終戦から78年を迎えます。戦争体験を次の未来につなげるためにはどうしたらいいか。私たち一人ひとりが自分事として考えるためのヒントを、写真家たちの試みから探ります。

 
吉成哲平さん(大阪大学大学院人間科学研究科・博士後期課程)

切り分けられない「戦時」と「戦後」

 今年3月、私はある写真家の足跡を辿るために沖縄を訪れ、各地の戦跡や資料館を歩いて回っていた。その中で、私にとって忘れ難い風景との出会いがあった。それは、沖縄戦の終焉の地・にある「ひめゆりの塔」を訪れた後、近くに広がる海を前にした時のことだ(写真1)。しばらく歩くと少し汗ばんでくる早春の陽気の中、ゆるやかに海岸へ続く畑の中の一本道を下ると、透明な海が開け、そこにはサーフィンを楽しむ人の姿も見えた。

写真1 沖縄県糸満市・こめやまぐすく海岸(2023年、筆者撮影)

 そのとき私の胸に迫っていたのは、直前に資料館で観た学徒隊の生存者の証言と、眼前に広がる穏やかな風景との対比だった。ここは、沖縄戦で多くの人が砲弾の雨の中、命を落とした場所でもある。岩場に腰掛け、カメラのファインダー越しに海を見つめていると、いつからが「戦後」なのかという問いが湧き上がってきた。

 今回、私が沖縄で出会った方々のお話から身につまされたことの一つは、「戦時」から「戦後」への連続性についてだ。例えば、日本では終戦の日は「8月15日」とされ、そして沖縄戦の慰霊の日は「6月23日」である。しかし、1945年4月に米軍が沖縄島に上陸してすぐに占領された地域がある一方、「本土決戦」を遅らせるため徹底した持久戦が続けられた地域がある。また、私も訪れたコザでは、南西諸島の日本軍の降伏調印式が行われた「9月7日」のほうがより重みを持つという。つまり暮らしの中から沖縄戦を捉える時、その様相は大きく異なり、容易には「戦時」と「戦後」に切り分けられないことに気付かされる。

 海原を写した冒頭の写真は、こうして現地で学んだ事柄を自分自身の中で重ね合わせながら撮影した一枚でもある。中学生の頃から写真を撮ってきた私は、その場所にかつて息づいていたひとびとの暮らしの営みやその痕跡を感じる時、シャッターを切ることが多い。そして今回、私が強く感じたのは、沖縄に生きるひとびとが経てきた歴史と、戦争も基地も知らない自分との遠い「距離」でもあった(写真2)。

写真2 わん市・かず高台公園(2023年、筆者撮影)
普天間基地を見渡せるこの地は、沖縄戦の激戦地の一つでもある

 筆舌に尽くし難い戦争の過去から現在へのつながりを、どうしたら少しでもわが事として受け止め、次の未来へ伝えてゆけるだろうか。このことを紐解くために、私は敗戦を経て生きていったひとびとの暮らしのありようを、後述する「写真実践」という独自の方法論から描く研究に取り組んでいる。

独自の方法論としての「写真実践」

 多くの人が日常的にスマホで写真を撮る一方で、毎日の慌ただしさから撮ったままになっている人も少なくないかもしれない。研究を通じ、戦後写真家たちの軌跡を辿り直している私自身は、撮り手の「心」と共に、いつかそれを誰かが見る「未来」のために撮られるものとして写真を捉えている。例えば、昔撮った写真を当時の情景と共に懐かしく見返した経験は、誰しも一度はあるだろう。つまり、写真は過去の断片的な情報ではなく、それを撮った人がその時の暮らしや社会と向き合い、未来へ残した表現でもあると言える。

 これまで私が写真を撮る中で魅せられてきた写真家たちの撮影プロセスには、「なぜ撮るのか?」を問いながら、暮らしへと眼差しを深めてゆく共通項が見えてきた。そこで私は、写真家たちが撮影行為を介して受け止め、表現していった現実を体系的に捉え直す新たな方法論として「写真実践」を提起している。具体的には、写真集や雑誌、新聞記事など写真家が刻々と残した記録から、彼らが捉えた現実の意味を読み解き直している。ここでのポイントは、現在から過去を回顧するのではなく、写真家が生きた当時の視点に立ち、その時々に直面した現実のありようを描いてゆく点だ。

 今回、私が沖縄を訪れたのは、「戦後写真の巨人」と称された写真家・とうまつしょうめい(1930-2012)の足跡を辿り直すためでもあった。その歩みからは、東松が敗戦を経験した一人として、ひとびとの生きざまを未来へと伝えようとした模索の意味が浮かび上がってくる。

戦争体験を抱え東松が埋めていった、ひとびととの「距離」

 写真史において東松は、1950年代より半世紀以上にわたり戦後日本を見つめた写真家として知られ、列島各地で撮影した貴重な諸作品を残している。私が「写真実践」という視点に立つことで見えてきたのは、東松が敗戦と占領という割り切れない原体験を抱えながら、撮影へと絶えず駆り立てられてゆく足どりだった。東松は、戦中に軍国主義を説いた大人たちが敗戦を境に民主主義を唱える変節への疑問や、占領により急速に進む「アメリカニゼーション」への衝撃を原動力に、変容する戦後社会の現実を捉えてゆく。

 とりわけ東松にとって「決定的な意味」を持った出来事の一つが、60年代初頭の長崎に暮らす被爆者との出会いだった。東松は、復興した街で未だ一人ひとりの被爆者が、原爆の炸裂した「11時2分」で時が止まったままであるかのような厳しい生活を余儀なくされる現状を初めて知る。そして、撮影をする時に抱いた戸惑いを次のように自問した。

「そう、あなたは、『私でないと出来ないもの』としてカメラの前に立たれました。では、そういうあなたを撮った私自身は、私でないと出来ないこととしてシャッターを切っただろうかと。」(「福田須磨子様」1977年)

 それゆえに、彼は被爆者の傷跡を写すことへのためらいと、終わらない原爆被害の実相を伝える責任との狭間で葛藤しつつ、数十年をかけて一人ひとりと関係性を築いていった。現に東松は、大戦前夜の同じ1930年に生まれ、60年代より交流を続けてきたある被爆者との出会いを、晩年に以下のように振り返る。

「勤労動員で彼は長崎、私は名古屋で働いた。入れ替わっていれば私が被爆者になっていた」(「「まばたき」で撮る長崎」『長崎新聞』2009年7月30日)

 つまり、自らも年を重ね、病を抱える中で、戦中戦後を生きてきた同じ「生活者」として、被爆者と自分の人生を次第に重ね合わせてゆく眼差しが浮き彫りとなったのである。

 そして東松は、1969年に復帰前の沖縄を初めて訪れ、長崎と同様に、その現実に突き動かされることで晩年まで同地を撮り続けてゆくことになる。当時、彼が鮮烈に意識したのは、日本本土から分断された、米軍統治下の「基地の中の沖縄」への自らの「無知」であった。それゆえ、日本本土では自分自身も基地の「被害者」である一方、本土の人間として沖縄へは「加害者」の位置に立つことを内省し、日本とアメリカの狭間に置かれたひとびとの不安定な生活を捉えていった。例えばそれは、日本国憲法の適用されない当時の沖縄で、いつ米軍から不許可になるか分からない「黙認耕作地」を耕す農民との出会いや、日米の「二つの国の血」が流れる少女が、復帰を前にした日本への不信感から「自分のなかのアメリカに帰ろうとする」(『OKINAWA 沖繩 OKINAWA』1969年)さまを目の当たりにしたことからも窺える。

 このとき東松の胸には、平和憲法や民主主義への無関心の広がる「祖国の退廃に対して何もし得なかった本土の人間の一人」(「日本国・沖縄県」1969年)として、復帰を容易には肯定出来ない複雑な葛藤があった。それゆえに本土に暮らす「私たち」の問いとして沖縄の現実を拓こうとした点は、復帰から51年目の今日を考える上でも示唆に富む。

 ただし、ここで忘れてはならないのは、撮影にあたっての東松の立ち位置だ。例えば、敗戦後の窮状を克明に写した「リアリズム写真」で知られる土門拳は、広島の被爆者の傷跡を生々しく訴えた。しかし東松は、土門を念頭に「私はどうしても長崎で叫ぶことができない」(『東松照明(昭和写真・全仕事 series 15)』1984年)と述べる。つまり、現実を告発することを掲げて撮影に臨むのではなく、ひとびとの直面する状況を知り、その矛盾に自らも思い悩みつつ表現していった点に、時代を越え私たちと分かち合える共通項があるように思う。

「弱い個人」としての戦後の生活者の思想的営為

 それでは、東松がひとびととの「距離」を埋めてゆく中で見つめた戦後社会の実相は、戦争体験の継承が問われる今、私たちに何を投げかけるだろうか。

 「八紘一宇」や「一億玉砕」のように観念的な言葉が支配する中で破局を迎えた戦中への反省を胸に、「戦後」は現場での実感や経験をもう一度大切にしようとする一人ひとりの志から出発したと言える。それは、戦時下に国家の名のもとに押し潰されてきた暮らしの再建と擁護でもあった。特に、敗戦という未曾有の出来事を経たひとびとが平和を希求した動きから思い起こされるのは、60年安保やベトナム反戦運動にも参加した哲学者である鶴見俊輔の「弱い個人」という言葉だ。

 敗戦の意味を問い続けた鶴見は、戦時下に、反戦を訴えて獄死するまで一人で抵抗した一握りの「強い個人」を念頭に、戦後の平和はそれとは異なる「弱い個人」が共に担い、実現してゆく可能性に期待を寄せた。つまり、私たちは弱さや曖昧さ、脆さを心の内に抱えるからこそ、誰をも「殺すな」、「戦争はいやだ」という各々の思いが戦争を防いでゆく根となりうる。この「初心」に立ち戻り、揺れ動く社会を前に私たち一人ひとりが日常の暮らしの中から感じ、考え、行動していく営みとして「思想」を捉え直すのならば、長崎や沖縄において東松が見つめたのもまた、暮らしの中から敗戦以後の現実と向き合い続けた、「弱い個人」としての生活者の思想であったのではないだろうか。

現在の研究に至るまで

 私が現在の研究に取り組むきっかけは中学生の頃、英語の教科書の中で、アラスカの人間と自然の営みを撮り続けた写真家である星野道夫(1952-1996)の作品に出会ったことだった。そして学部生の頃にアラスカへ留学した後(写真3)、生活環境論がご専門である指導教員の三好恵真子先生のもとで、自分が写真を撮り続けてきた経験を活かすことで、研究を積み重ねている。

 写真3 南東アラスカ・シトカ(2017年、筆者撮影)
右側に写るのは、先住民であるトリンギット族の祖先の物語が刻まれたトーテムポール

 特に「写真実践」から捉える時、様々な社会課題を抱えるアラスカのひとびとの暮らしを、彼らと同じ時代を共に生きる一人として星野が見つめたことは、図らずも東松の眼差しへとつながっていった。つまり写真家たちは、異なる土地に暮らす「彼ら」の問題が「私たち」自身の問いでもあることに気づき、自らが直面した現実との「距離」を徐々に埋めていったのである。それは、私たちが分かち合えるものとして生活の営みを捉え直してゆく歩みであったと言える。

生活から「戦後」を問い直してゆく

 終戦から78年を経て戦争体験者が減少する一方、今、その継承に向け各地で精力的な活動が日々続けられている。私自身も、沖縄と同様に東松の足跡を辿る中で長崎を訪ねているが(写真4, 5)、このとき心を打つのは、被爆した方々が「8月9日」を無事に共に迎えられたことを喜び合いながら再会する姿であり、そして被爆以後、今日まで流れ続けてきた代え難いその時間の重みである。

写真4 長崎県防空本部跡(2021年、筆者撮影)

写真5 長崎市立城山小学校のざくら(2021年、筆者撮影)
子どもたちをはじめ地域の方々の力により、原爆で失われた命と平和への祈りを伝え続ける

 長崎での経験も踏まえ、私が沖縄で抱いた「いつからが『戦後』なのか」という問いに戻れば、その始まりと終わりを絶対的に捉えることには慎重でありたい。その上で東松の歩みが伝えるように、歴史の中に埋もれつつある、見過ごされた「戦後」の実相を、一人ひとりの生活の次元から重層的に問い直す必要がある。焦土の中で営まれたひとびとの暮らしは、今日へどのように続いてきたのか。私も現場で学び続けながら、写真家たちの眼を通じ、敗戦という経験が貫いてきた生活者の思想の普遍性を描き出していきたい。

 
《プロフィール》
吉成哲平(よしなり・てっぺい)
大阪大学大学院人間科学研究科・環境行動学研究分野・博士後期課程。大阪大学・学際融合を推進し社会実装を担う次世代挑戦的研究者育成プロジェクト生。専門は生活環境論であり、自身も写真を撮る者として、写真家たちの生きた軌跡から「戦後」のひとびとの暮らしを描く研究に取り組んでいる。主な著作として、『写真家 星野道夫が問い続けた「人間と自然の関わり」』(単著、三好恵真子監修、大阪大学出版会、2021年)、「「戦争の影」を抱え展開し続ける「写真実践」――東松照明が生活の現場から証した、長崎の被爆者の生と死」(共著、『生活学論叢』39号、2021年)、「写真家 東松照明が直面した「基地の中の沖縄」――日米の狭間で揺らぐ復帰前の現実と歴史への責任」(共著、『生活学論叢』41号、2022年)。写真HP「勿忘草」https://forget-me-not.myportfolio.com/
 

   

 
《人生を変えた本》
 『イニュニック [生命]――アラスカの原野を旅する』
(星野道夫、1993年、新潮社〔書影は文庫版、1998年〕)
アラスカを旅してきた星野がその土地に根を下ろし、遥かな昔から続く生命の営みの果てに自らも生きていることを感じ取る中で、アラスカの風景を見つめ直してゆく日々を描いたエッセイである。様々なひとびとの人生と出会う中で星野が暮らしへ注ぐ眼差しは、遠いアラスカのことではなく、異なる土地に生きる私たちの生活にも繋がっていることに気づかされる。初めて読んだ中学生の頃に本書から漠然と感じていたことを、いま、研究を通じ一歩ずつ表現しているのだと感じている。
 
 
『魂との出会い――写真家と社会学者の対話』
(大石芳野・鶴見和子 、2007年、藤原書店)
世界各地で傷つきながらも生きるひとびとの姿を見つめ続ける写真家・大石芳野と、社会学者の鶴見和子による対談集である。「その地域や社会、人びとの一番根っ子にあるものを表現し伝えたい」と大石が述べるように、それぞれの写真に込められたメッセージから「人間の内発性」を巡る問いへと拓かれてゆく両者の応答は、ともすれば写真が情報として消費されがちな今、一層示唆に富む。『イニュニック』と共に、高校生の頃に本書を手にした私が写真家に魅せられていった始まりの1冊である。
 

 

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