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ガクモンのめ

議員は抽選で選べるか?――代表制デモクラシーを政治哲学の観点から問い直す【山口晃人】

 若手研究者たちが、学問をつきつめる「おもしろさ」を伝えるリレー連載、「ガクモンのめ」。
 第8回は、政治制度の「あたりまえ」を問い直し、政治や社会のあるべき姿を研究されている山口晃人やまぐち あきとさんです。私たちの生活に関わるルールや方針は「政治」によって決められています。「みんなのことはみんなで決める」という民主主義において、どんなふうにして決めるとより良い社会になるのでしょうか。現状から一歩離れて、新しい見方を提案します。

山口晃人さん(日本学術振興会特別研究員(PD)、駒澤大学非常勤講師)

 日本を含め、現在「民主主義国」と呼ばれる国々では、政治制度として代表制デモクラシーと呼ばれる仕組みが採用されています。代表制デモクラシーでは、一定年齢以上のすべての市民によって、一人一票の平等選挙を通じて、立法府の代表者が任命されます。

 私の研究テーマは、そうした代表制デモクラシーを政治哲学の観点から問い直すことです。政治哲学では、規範的な価値や原理に基づいて、政治や社会のあるべき姿を考えていきます。代表制デモクラシーは、一般に最善の立法制度であると考えられていますが、それはどれほど妥当なのでしょうか。

参議院抽選制

 私が大学に入ったばかり(2013年6月)のことです。私は当時、政治学に関連する幅広い分野の本を読んで議論する牧原出まきはら いづる先生のゼミに参加していました。その週の課題図書は『参議院とは何か 1947~2010』(竹中治堅著、中公叢書)でしたが、ゼミの最中、ある先輩が呟いた一言が印象に残りました。

「参議院議員を一般市民から抽選で選んだらどうか」

 私は当時、第一高等学校・東京大学弁論部というサークルに所属しており、新入生は夏合宿で「弁論」と呼ばれる10分間スピーチを披露することになっていました。そこで私は、先輩のアイディアを拝借し、「参議院抽選制」をテーマに弁論をすることにしました。

 新入生弁論大会では、弁論部の同期が「参議院議員を大学教授からの互選で選ぶ」という弁論を披露していました。同期の弁論を聴き、自分が弁論をする直前に「大学教授や選挙された政治家ではなく、一般市民こそが「良識の府」にはふさわしい」と原稿に書き加えたことを覚えています。

 その後、私は、同じ参議院抽選制をテーマに、2度にわたり弁論大会に出場することになります(2014年の五月祭記念弁論大会、2015年の文部科学大臣杯全国青年弁論大会)。どちらの大会も論旨の評価は高かったものの、演説が拙かったため、芳しい結果を残すことはできませんでした。しかしながら、そのことはかえって、このアイディアをどうにかして発表したいという気持ちを強めることになりました。

弁論部当時の写真(2015年度尾崎行雄(咢堂)杯演説大会)

J・S・ミルと競技ディベート

 時は流れて、2016年。大学4年生になった私は、卒業論文で19世紀イギリスの哲学者であるジョン・スチュアート・ミルの政治思想を扱いました。ミルを卒論のテーマに選んだのは、彼の『自由論』を読んだことがきっかけです。この本を初めて読んだとき、ページをめくる手が止まらず、そのまま朝まで徹夜で読んだことを覚えています。特に感銘を受けたのは、「言論の自由」に関する部分です。ミルは、言論の自由の必要性を真理追究の観点から説明します。それによると、世の中で対立する主張の一方のみが真理であることは少なく、対立する主張はどちらも「半真理」であることが多いとされます。また、片方の言説が完全に誤りであるとしても、その主張を禁止してしまえば、誤った主張を批判する機会も失われてしまいます。したがって、反対意見は、それがある程度正しい場合はもちろんのこと、全く間違ったものである場合にも重要なのです。

 こうした言論の自由に関するミルの考え方は、私自身の経験からも納得のいくものでした。私は先述した弁論部で、競技ディベートの活動にも参加していました。ディベートでは、「死刑制度を廃止すべきか否か」とか「積極的安楽死を認めるべきか否か」といった論題を討論します。ディベートはしばしば相手を「論破する」活動とみなされがちですが、こうした見方は競技ディベートには当てはまりません。競技ディベートは、(第三者である)審判を「説得する」活動です。そして、肯定側・否定側のどちらか一方だけに立つのではなく、試合ごとに肯否を入れ替えて、両方の側を経験し、また審判として中立の立場でも議論を評価します。私はディベートでの経験から、適切な意思決定には、肯定側、否定側、そして審判の三者がどれも必要であると感じました。論題の肯定側や否定側をしているとき、どうしても自身の側に有利に議論を評価しがちです。その意味で、競技ディベートにおいて、最も適切に議論を評価できる立場にあるのは審判であると言えます。しかしながら、中立な審判だけでは、適切な意思決定を下すことはできません。ミルが『自由論』で主張するように、適切な意思決定には、対立する主張を真剣に唱える人々が不可欠だからです。卒論以降、ミルの研究からは離れることになりましたが、ミルのこうした言論観は現在もなお、私の中に生き続けています。

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)

ロトクラシー研究――抽選制議会構想

 学部を卒業後、私はそのまま大学院に進学しました。大学院での研究テーマ設定には紆余曲折がありましたが、最終的に行き着いたのが、ロトクラシー研究でした。

 ロトクラシーは、選挙ではなく、一般市民からのくじ引きで立法府の代表者を任命する抽選制議会構想です。ロトクラシーの最大の利点は、選挙に比べて、民意をより良く反映できると考えられることです。現在の選挙制議会では、裕福な中高年男性が議席を占める割合が大きくなりがちです。それに対し、ロトクラシーであれば、一定数以上の人数を選ぶ場合、無作為抽出によって「人口全体の縮図」を作り出すことができます。例えば、⽇本の国会における⼥性議員⽐率は、衆議院で9.7%(2021年10月)、参議院で27.4%(2022年7月)ですが(内閣府男女参画局「1 令和4年度男女共同参画社会の形成の状況 現状編」)ロトクラシー議会の場合、議員の半数は女性になります。  

 ただ、こうした抽選制議会論には、一般市民から選ばれただけの政治の素人に議員が務まるのかという疑問が生じるかと思います。確かに、政治経験がない一般市民が一から法案を起草するというのはあまり現実的ではないでしょう。しかしながら、「参議院抽選制」のように、選挙制の衆議院と抽選制参議院が並立する場合はどうでしょうか。選挙制議院を通過した法案について、抽選制議院の市民代表が、選挙制議院の法案賛成派(与党)と法案反対派(野党)の主張を聴き、熟慮の上で法案の賛否を決定するのです。

 司法の場では既に、2009年に導入された裁判員制度の下、素人である一般市民が重大な意思決定を下しています。こうした事実の存在によって、市民の能力に対する懸念はある程度払拭されるのではないでしょうか。そして、もし、抽選制の批判者が主張するように、市民代表に熟慮の上で法案の賛否を決める能力さえないとしたら、選挙の際に投票者が適切な候補者を選べるとも言えなくなるでしょう。市民の能力への懐疑は、抽選制だけでなく選挙制の基盤をも掘り崩すことになります。

 また、法案の賛成側と反対側の討論を聴き、その上で中立の第三者が賛否の決定を下すという仕組みは、適切な意思決定を下すやり方として、非常に望ましいものであると考えられます。先述した競技ディベートもそうですが、もっと一般的なところでは、刑事裁判において、検察官と弁護士の両方の主張を聴いた上で、第三者である裁判官が判決を下すという仕組みがあります。この刑事裁判のモデルからすると、選挙制議会は非常に奇妙に映ります。選挙制議会では、刑事裁判における検察官と弁護士の立場にあるのは、法案の賛成派(与党)と法案の反対派(野党)ですが、決定を下す裁判官はおらず、事実上、与野党の頭数で、法案の成否が決まってしまうのです。これでは、国会では、十分な論議を経て、理由に基づく決定が行われているとはとても言えないでしょう。

 それでは、立法において、誰が裁判官役を務めるべきなのでしょうか。私は、それが無作為抽出された市民代表であると思います。立法の問題については、彼らほど中立的な判定者として適切な存在はいないように思われます。したがって、私は、10年前と変わらず、以下のように主張したいと思います。

「大学教授や選挙された政治家ではなく、一般市民こそが「良識の府」にはふさわしい」

デモクラシーの向かう先

 私が支持するロトクラシーのようなアイディアは、荒唐無稽に思われるかもしれません。確かに、数十年以内に日本でこうした制度が実現する可能性は非常に低いと思います。しかしながら、その確率はゼロではありません。現在私たちが当たり前だと思っている女性参政権が実現したのはわずか100年前、代表制デモクラシーも300年前にはこの地球上に存在しなかったのです。そして、それよりも前の時代の人々は、デモクラシーを選挙制ではなく、むしろ抽選制と結びつけて理解していました。このように考えると、数十年後の日本で、これらの制度が採用されていることは決してあり得ないとは言えないでしょう。

 また、こうした制度が即座に実現することはないとしても、代替案の可能性を考えることは現状のあり方を見直す一つのきっかけになります。現在では自明に思われていることであっても、歴史的な偶然によってもたらされたものに過ぎないということがたくさんあります。そして、その典型例がまさに、代表制デモクラシーです。その成立が偶然のものに過ぎない以上、代替案との比較を経ずして、代表制デモクラシーを最善の立法制度と呼ぶことはできません。ミルの「言論の自由」の議論に立ち返るならば、選挙制が最善であるという主張が「真理」であり続けるためには、ロトクラシーなどの代替案を「誤謬ごびゅう」として退ける必要があります。批判に絶えず応答し、洗練させていくことなしに、思想も制度も適切な仕方で維持することはできないのです。

 私はロトクラシーの構想が「半真理」であると信じていますが、それは提唱者ゆえの歪みに基づくもので、実際には退けられるべき「誤謬」なのかもしれません。しかしながら、たとえそれが「誤謬」だとしても、そのことを確認することはそれ自体として重要であるはずです。未来の人々が適切な意思決定を下すための一助となると信じ、今後も研究を続けたいと思います。

 
《プロフィール》
山口晃人(やまぐち・あきと)

1995年生まれ。2023年、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は政治哲学・政治理論(代表制デモクラシー論)。現在、日本学術振興会特別研究員(PD)、駒澤大学非常勤講師。論文に「ロトクラシー : 籤に基づく代表制民主主義の検討」(『政治思想研究』第20号)、「子どもの参政権の政治哲学的検討——智者政批判との関係から——」(『年報政治学』第72(2)号)など。

 

《人生を変えた本》

『代議制統治論』
(J. S.ミル著、水田洋訳、1997年、岩波文庫〔書影は関口正司訳、2019年、岩波書店〕


 学部の卒業論文で扱ったJ・S・ミルの主著の一つです。J・S・ミルの著作は、『自由論』『女性の解放』『大学教育について』など、現代でも意義を失っていないものばかりですが、本書も同様です。本書で提案された複数投票制(一定の教育水準を認められた人に選挙での追加の投票権を与える制度)は、後述するエピストクラシー構想の一つとして、現代でも議論されています。

The Principle of Representative Government
(Manin, B.1997 Cambridge University Press. 〔ベルナール・マナン『代表制統治の原理』〕)

 現在の研究のきっかけになった本①。本書では、古代ギリシャと中世イタリアにおける民主政がどのような仕方で抽選制を用いていたか、なぜ近代の代表制において抽選制ではなく選挙制が採用されたかが論じられます。私が本書を読んだのは、修士1年の3月、家族でイタリア旅行に行ったときでした。旅行でちょうど訪れているフィレンツェやヴェネツィアで抽選制が行われていたという事実に運命的なものを感じ、学部時代に考えていた抽選制論に取り組むきっかけになりました。

 

『アゲインスト・デモクラシー(上・下)』
(ジェイソン・ブレナン著、井上彰・小林卓人・辻悠佑・福島弦・福原正人・福家佑亮訳、2022年、勁草書房)

 現在の研究のきっかけになった本②。本書では、選挙権を不平等に分配するなどして、智者により多くの政治的発言権を与える「エピストクラシー」構想が擁護されます。本書の原著を初めて読んだのは、修士2年の春、井上彰先生のゼミでした。初回授業の解説の中で、井上先生がロトクラシーについても触れられていて、そのことが上述のマナンの著作を読んだこととともに、現在のロトクラシー研究を始めるきっかけとなりました。また、エピストクラシーは、本文で述べたロトクラシーとともに、私の主要な研究テーマでもあります。個人的には、エピストクラシーの立場には反対ですが、本書をはじめとするエピストクラシーからのデモクラシー批判は非常に強力であると考えています。現代デモクラシー論における最重要の著作です。

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著者略歴

  1. 山口 晃人

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