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ガクモンのめ

歴史を組み直す――「サハラ砂漠」と「国家」のあいだ【天野佑紀】

 若手研究者たちが、学問をつきつめる「おもしろさ」を伝えるリレー連載、「ガクモンのめ」。
 第12回は、「サハラ砂漠」の歴史を研究している天野佑紀さん。砂の中に埋もれた国境から、歴史学が無意識に作っていた枠組みを問い直します。

天野佑紀さん(フランス社会科学高等研究院 博士課程所属)

 「何を研究されているのですか?」「ご専門は何ですか?」。学問の世界にいれば名刺代わりに飛んでくるこの手の問いかけに対して、最近のわたしはもっぱら、「サハラ中部の歴史です」と答えるようにしている。アフリカ大陸の北方に鎮座するサハラ(もとになっているアラビア語の「サフラー[Ṣaḥrā’]」は砂漠一般を意味することもあるが、ここでは日本語で慣習的に使われるところの「サハラ砂漠」を指す)の名はそれなりに有名だろうが、サハラ「の」歴史とは一体どうしたことだろう、と思われる読者――多少なりとも歴史に詳しい方であっても――が殆どだろう。なんとも分かりづらい分野であることは承知のうえで、それでもわたしなりの信念を持って自らの専門を名乗っている。このエッセイでは、わたしが「サハラ中部の歴史」という看板を掲げることになった経緯をみながら、学問において既知の枠組みを揺るがすことにどのような意義があるのかについて考えたい。

サハラ「における」植民地主義への気づき

 現在の研究テーマとの出会いは、一見するとサハラはおろかアフリカにさえ関係のない、思いがけない所にあった。大学でフランス語を学んでいたわたしは、フランス中東部のグルノーブルという地方都市で交換留学生として一年を過ごした。この地に降り立ったばかりのわたしの目に入ったのは、四方を山々に囲まれたローヌ・アルプ地域独特の景観ではなく、TGV(フランスにおける高速鉄道)の発着駅近くに並ぶ原発関連の研究施設だった。しばらくのち、両親がともに関連施設で働いているという地元出身の友人ができた。この町が少し前まで実験用原子炉(現在は廃炉済み)を抱えていたことも知った。日本の文脈では原発の過疎地への押し付けが論争の的となる一方で、フランスではグルノーブルのような中規模都市の人びとさえ原発のある風景を生きている。この国が世界的にみて他例のない原発大国であることは何気なく知っていたが、そのような体制は何によって支えられてきたのだろうか、という素朴な疑問を抱いたのはこの時期だ。帰国後、卒業論文の題材として迷いなく「核とフランス」を据えたわたしは、調べを進めるうちに、それと接続するもう一つの問題系――現在の研究テーマであるサハラ「における」植民地主義の発現――に気づくことになる。

天野さんが史料収集のために通うフランス国立海外領文書館(エクサンプロヴァンス)

 フランスにおける原発建設が始まった1950年代は、同国が核保有国への仲間入りを果たした時期と重なる。独自の核兵器開発を目指すシャルル・ド=ゴール政権下のフランスが、懸案である核実験場の建設地に選んだのは、独立戦争の最中にあった当時の仏領アルジェリアの南部にひろがる砂漠地帯であった。1960年にこの地で地上実験を成功させたフランスは、アルジェリア共和国臨時政府(GPRA)とのあいだに締結したエヴィアン協定中の一条項に基づき、1962年のアルジェリアの独立後も5年間、同国南部の砂漠地帯にある核実験場の利用を継続した。その間に発生した被ばく者の補償問題は、今なお両国間の懸案の一つとなっている。また、サハラでは核実験と時を同じくして鉱物資源の採掘も始まっており、核燃料であるウランの重要な供給源にもなった。先にみた核実験のように、政治的独立を達成した国に植民地支配の遺制がみられる事象には、ほかにもさまざまな例がある。ニジェール北部の砂漠地帯では、フランス系企業が開発するウラン鉱山で働く人びと(近隣アフリカ諸国からの移民労働者を含む)の過酷な労働環境や健康被害にかんする報告がいまだ絶えないという。すなわち、核保有や原発そのものの是非はさておくとしても、前例のない規模で進められてきたフランスの核・原子力政策は、(旧)植民地、わけても砂漠地帯の人びとの犠牲を伴ってきた部分があることは否定できないわけだ。当初から明瞭に意識していたわけではなかったが、ここにわたしはサハラ「における」植民地主義の発現という問題系を見出したのである。

サハラ「の」歴史を書くということ

 こうして、漠然と「フランス植民地支配下のサハラでなにが起こったのか」に関心をもったわたしは、手始めに、現在のアルジェリア南部にある砂漠地帯の例から調べようと、「アルジェリア史」の文献にあたった。しかし、お目当てのサハラにかんする情報がなかなか出てこない。原因の一つは、当初のわたしが「アルジェリア」という国家的ナショナルな枠組みから自由ではなかったことにある。大まかにいえば、仏領期から現在までのアルジェリアの版図は、東西につらぬくサハラ・アトラス山脈を境として、地中海沿岸地域にある北のテル地方と、南のサハラ地方とに分けられる。そのうち、民間人の入植が前者に集中したためであろうか、仏領期を扱う「アルジェリア史」の先行研究では、テル地方において発現した、いわば入植植民地に特有のテーマが中心となっていた。例えば、先住者からの土地収奪や、ヨーロッパ系住民と「原住民」との法的地位の差異化など、がそれにあたる。わたしが求めるサハラにかんする記述に乏しいのも当然である。

 壁を打破するには、ひとまず「アルジェリア史」と距離を置き、「サハラ」をキーワードに、研究対象と学問分野の枠を越えてさまざまな文献を読み漁る必要があった。そのうちに、北米の人類学者、地理学者、歴史家らが中心となって、サハラ・スタディーズという分野を開拓しつつあることを知った。サハラ・スタディーズにおいて指向される方法的立場とは、サハラを分かつ現行の国家的ナショナルな枠組み――現在、サハラを跨ぐアフリカ諸国(西サハラを含む)の領域は11ヵ国に及ぶ――を取り外し、その地理環境に覆われた広域的な空間を射程に入れ、その内外で生起した/ている政治・経済・社会の動態を捉えようとするものである。たとえばわたしの場合、考察対象となる地域・共同体が現在でいうところのアルジェリア南部に位置していたとしても、その歴史を叙述するうえでは、植民地/国家の外枠としての「アルジェリア」は相対化され、「サハラ(中部)」という枠組みが拠り所となる。それは当該地域の均質性を見出すためとは限らない。むしろ、これまで国家的ナショナルな枠組みが前提となることで語られてこなかった諸問題を議論するためである。 もしあなたが歴史学一般に通じているならば、これが、フランスのフェルナン・ブローデルによって打ち立てられ、日本でも家島彦一らによって実践された「地中海史」や「インド洋海域史」と呼ばれる分野と同じ発想のもとにあることには容易に気づくだろう。

 このような新しい枠組みのもとでこそ立てられる問いはさまざまにある。たとえば、わたしの関心であるサハラ「における」植民地主義の発現という問題系を例にとってみよう。そもそも、植民地化以前のサハラの大部分は、点在するオアシスと、そのあいだを独自のリズムで往還する人びとを媒介項として、ネットワーク状に絡まり合う複雑な政治・経済・社会のあり方が広がっていた空間である。そこで展開した複雑な歴史については、ヨーロッパの探検家や植民地行政官が著したモノグラフのほか、旅行記や年代記をはじめとするアラビア語史料も残っており、植民地期以前のことも含めてかなり詳細に知ることができる。そうした歴史を念頭に置くと、19世紀中葉以降のサハラに「アルジェリア」をはじめとした一定の領域をもつ疑似国家的な統治形態が覆っていったこと――すなわち、そこに「アルジェリア」という植民地/国家があること・・・・自体――が異様に思えてくる。実際に古文書を紐解くと、植民地分割とともに新しい政治権力が介入してくるなかにあって、互いに離れたオアシス同士の相補関係と、それを可能にする人びとの移動によって成立する地域社会を何とか紡ごうとする人びとのさまを見て取ることができるのだ。

古文書が集まるフランス陸軍省文書館と、熱心に文書を繰る人々

 ここで、現在的な事象に目を向けてみよう。中東・アフリカ諸地域における紛争やさまざまな要因によって発生している「移民・難民」の問題を知らない方はいないだろう。その主要ルートの一つに、西アフリカのサヘル・サバンナ地帯からサハラを越え、さらに地中海を渡ってヨーロッパを目指すというものがある。この経路をめぐっては、サハラ中心部の国境地帯で「密航」を斡旋する業者の存在がしばしばやり玉に挙げられる。安全保障関連の学問分野では、武装勢力の拡大や政治体制の変動が国家による統治や国境管理の機能不全を招き、それによってこうした「非合法」ビジネスが横行しているのだと説明されるようだ。しかし、ここまで辛抱強くサハラをめぐる歴史話にお付き合いくださった読者であれば、そうした理解に幾ばくかの疑念を持つのではないだろうか。つまり、この地域の基層を成してきた人びとの移動を、国家体制の脆弱さ、国境管理の不手際という観点から議論するだけで十分なのだろうか、果たしてそれで問題の全体像を捉えきれるのだろうか、と。こうした要領で、当たり前だと思われてきた枠組みを相対化し、そのうえで歴史や、さらには現代的事象を捉え返すことの有効性を学んだわたしは、自らの専門として「サハラの歴史」を掲げ、現在まで研究を続けてきた。

「〇〇史」を組みなおす

 ここまで、一人の見習い歴史研究者としてのわたしが、既知の枠組みを取り外したことで、自らの問題関心に適したアプローチと議論の場を発見し、専門分野を定位するまでを語ってきた。最後に、思索の次元を一つ上げて、そもそも歴史学における下位の枠組みとしての「〇〇史」が何のためにあり、わざわざそれを揺るがして別のそれを組みなおすことにどんな意味があるのかについて考えたい。もっとも、わたしの専門は史学史や歴史理論ではないので、あくまで自分の経験に引きつけた語りになることは了承されたい。

 歴史学における「〇〇史」といっても、それこそ無限に存在する。原理的には、「日本」「ヨーロッパ」「政治」「経済」あるいは「科学」など、歴史叙述の対象としうる限りは〇〇には何でも入れられるのだが、ここでは空間を対象化するための「〇〇史」について考えていこう。もっともよく知られているところでは、20世紀のはじめに日本の教育・研究機関において採用された、「日本史(あるいは国史)」「西洋史」「東洋史」という三区分が挙げられる。そこには、当時のヨーロッパ的な世界認識に沿って歴史空間を西洋と(非西洋としての)東洋とに区分したうえで、日本に特別な地位を与えるという、かつての日本における歴史観が反映されており、それは今も多くの大学において専攻という形で機能している。ほかにも、日本の研究者にとって身近な(?)例として、科研費における「歴史学、考古学、博物館学およびその関連分野」部門のなかの応募種目をみると、「日本史」「ヨーロッパ・アメリカ史」「アジア・アフリカ史」「史学一般」という四区分が設けられている(それ以外の部門にも視野を広げれば、「経済史」「科学史」といった歴史関係の種目も存在するが、空間を対象化する分野ではないので、ここでは割愛する)。このように、何らか既存の世界認識や地域概念にもとづいて空間を括ることによって立てられた「〇〇史」は、その名を冠した大型の学会が組織されていることからもわかるように、学問の世界で歴史学にかかわる限り、制度的な枠組みとしてそこかしこで現れる。余談であるが、わたしは日本学術振興会の特別研究員に応募した際、「日本史」「ヨーロッパ・アメリカ史」と並列して「アジア・アフリカ史」が一纏めに審査されている現状に納得できる理由が思い浮かばなかったので、やむを得ず「その他」枠らしき「史学一般」種目に応募した。

 次に思い浮かぶのが、やはり国を単位とした「〇〇史」の立て方だろう。これは、一国史や各国史などと呼ばれ、一人の歴史研究者が自らの専門を名乗る場合にもっとも一般的なやり方であるように思われる。書店や図書館の歴史コーナーをみれば、その書棚の多くが「フランス史」「ドイツ史」といったようにして整理されているはずだ。先のところで問題にした「アルジェリア史」も、仏領期を扱うものも含めて、元をたどれば現在の国家的ナショナルな枠組みを歴史叙述の単位とするという発想のもとに生まれた分野だといえる。

 このように、歴史研究者は、大小さまざまなかたちで存在する「〇〇史」の枠組みのなかで、先達の成果を参照し、自らの立ち位置を定め、オリジナルな成果を生み出し、それをほかの研究者と議論するというサイクルのなかにある。わたし自身、そうした枠組みが丸ごと消滅すればよいなどとは思っておらず、むしろ、それがあるからこそ研究者間のコミュニケーションが活発化し、議論が深化する側面が大いにあると考えている。しかし、すでに示したように、既知の枠組みのなかで生産されたナラティヴによって不可視化されている問題系は、たしかに存在する。これに対して、新たな「〇〇史」を組みなおすことの意義は、微に入り細を穿った「専門」的な議論をすることではなく、むしろ、そうした問題系に光を当て、議論を重ねていった先に、「全体」の一断面を浮かび上がらせる点にある。

 わたし自身、初めから今の専門を志していたわけではなく、原子力、国境、「移民・難民」といった現実に起きているさまざまな問題と出会い、それを適切に捉え返すためのアプローチを模索するなかで、既存の枠からはみ出て「サハラの歴史」を組みなおすという方向に舵を切った。このような、先行する問題意識に支えられた思考の転換が、世界史の新たな一面を照射することもある。そんな信念をもってこれからも研究を続けていきたい。

 
《プロフィール》
天野佑紀(あまの・ゆうき)

1995年愛知県生まれ。フランス社会科学高等研究院(EHESS)歴史と文明専攻博士課程、アフリカ世界研究所(IMAF)所属。専門は現在のアルジェリア南部を中心としたサハラ中部の歴史、植民地研究。主な論文に「帰属をめぐるサハラ・オアシス住民の政治行動――アルジェリア戦争期のワルグラを事例に」『アフリカ研究』第100号(2021年)がある。

 

《人生を変えた本》

『地中海』
(フェルナン・ブローデル、2004年、藤原書店


 地中海を取り巻く世界の構造的な一体性を描き出した壮大な歴史書。初版の刊行は1949年。歴史といえば「一国史」が当たり前だった時代のことである。現代歴史学では、エッセイで触れたもの以外にも、トランスナショナル・ヒストリー、グローバル・ヒストリーなど、世界史の新たな一面を照射するために組みなおされた、さまざまな「〇〇史(○○・ヒストリー)」が実践されている。そうした知的潮流の原点にあたる本書は、何度でも手に取り、気の向くままに頁を繰る、わたしにとってのバイブル的な存在だ。

『トゥアレグ――自由への帰路』
(デコート豊崎アリサ、2022年、イースト・プレス)


 サハラとともに生きる人びと、トゥアレグの現在に迫ったルポルタージュ。日本の母とフランスの父をもつ著者が、現地語の一つであるタマシェクを操り、男たちのキャラヴァンに交じり、道すがらのキャンプやオアシスで人びとと語らい、果てはドキュメンタリー映画の撮影やウラン鉱山への潜入取材に挑む。わたしの専門柄、古くから書き継がれてきたサハラ探検記はそれなりに読んできたのだが、本書を読むなかで、サハラを取り巻く時代状況、そしてなにより著者自身の立場性・感性も相まって、あまりにも新しい景色が見えたことに驚愕した。

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著者略歴

  1. 天野 佑紀

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