生まれくる生命(いのち)と対峙する――出生前診断とハンナ・アーレント【大形綾】
若手研究者たちが、学問をつきつめる「おもしろさ」を伝えるリレー連載「ガクモンのめ」。
第9回は、政治哲学者ハンナ・アーレントの思想を手がかりに、出生前診断をめぐる倫理的問題を考察している大形綾さんです。「生まれる」とはどういうことか、私たちと世界はどのように関わり合っているのか、「誕生」や「生殖」に着目して人間を捉え直す試みをご覧ください。
大形綾さん(京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点ASHBi非常勤研究員)
20世紀を代表する政治哲学者ハンナ・アーレント。ドイツ・ナチスによる迫害から逃れてアメリカに亡命した経験を持つ彼女のテクストは、さまざまな解釈へとひらかれている。アーレントの作品を読むひとは、彼女の思索に触れることで、思いもよらなかった問いを自らのうちに発見したり、社会を眺める独創的な視点を手にすることになるだろう。
アーレントが提示した問いをめぐる対話には終わりがない。そんな終わりなき対話の空間へと私たちをいざなってくれるところが、アーレントの魅力の一つである。彼女を導き手としながら、私はいま、「誕生」や「生殖」について考えようとしている。
第二子の妊娠
ごく個人的なことから話を始めたい。2016年の春、私は京都大学の博士後期課程に編入学した。アーレントを研究テーマに掲げていた私は、ドイツ思想が専門の細見和之先生の下で、手厚い指導を受けながら自由に研究を行っていた。
プライベートでは、結婚してしばらくのちに第一子を授かった。妊娠中に大きなトラブルもなく、安産で、子どもは元気にすくすくと育っていった。育児と研究で目が回るような日々だったが、穏やかで、幸福な時間でもあった。
そんな幸福な人生のただなかで、博士論文の提出が迫った2020年秋の暮れに、第二子を妊娠していることが分かった。眠気や吐き気といった「つわり」の典型的な症状に苦しめられながらも、私はなんとか博論を提出することができた。
ある日、妊婦検診のために病院を訪れた私は、忘れられない言葉を聞くことになる。赤ちゃんの様子を確認したあとで、産婦人科の医師は遠慮がちにこう告げた。
「お腹の赤ちゃんはダウン症の可能性があります」。
続いて、「出生前診断」についての説明を受け、結果が陽性だった場合は妊娠中絶を選択することができる、と説明された。ただし、今から2週間以内に手術を終える必要がある、と。その時、私はすでに妊娠20週を迎えていたため、中絶手術が可能な22週までに、10日ほどしか残されていなかった。
当時の私は、ダウン症という言葉から暗い未来しか想像することができなかった。さまざまな疑問が浮かんでは消えた。日々の生活はどうなるのか。私たちが死んだら、この子はどうやって生きていくのだろうか。上の子に我慢を強いることになりはしないか。ささやかながら築きあげてきた私のキャリアはどうなるのか……。
まるで袋小路にはまり込んだような気分だった。なにがいけなかったのだろうか、と絶望的な気持ちで過去をなんども振り返った。未来を考えるとき、私とパートナーの前には恐ろしい選択肢がちらついていた。中絶という選択肢だ。
後日、担当医から紹介された県外の病院を受診して、胎児の様子をエコーで確認した。そのときもやはり、ダウン症の可能性があると告げられた。じつはこの日、私とパートナーは出生前診断(羊水検査)を受けるために、この病院を訪問していた。羊水検査とは、妊婦のお腹に針を刺して羊水を採取し、胎児の染色体異常の有無を調べる検査である。
しかし結局、私たちは羊水検査を受けずに病院を後にした。なぜ検査を受けなかったのかを説明することは難しいが、それは論理的というより、直感的な判断だった。
覚えているのは、次のような感情である。最新の機器を備えた病院の大きなスクリーンにはっきりと映し出された赤ちゃんは、元気に手足を動かし、お腹の中でくるくると回っていた。その姿を見つめながら、シンプルに、そして強くこう思った。この子に会いたい。この子の顔を見て、声を聴きたい、と。
出生前診断を受けないことを自ら選択したとはいえ、私たちは迷いのなかにあった。これでよかったんだと思う日と、なぜ検査をしなかったのかと思う日が、かわるがわる訪れた。出産までの数か月間は精神的に不安定な日々が続いたが、医師や看護師らの手厚いサポートによって、第二子はぶじ生まれてきた。その子はもう、2歳をむかえている。
アーレントの「出生性」概念
このような体験をして、私は当初、アーレント研究とはまったくべつの問題として、出生前診断や妊娠中絶、それらをめぐる社会のありようを考えていた。なぜなら、アーレントの思想と、出産や生殖にまつわる女性の選択や、医療技術の発展、生命倫理などは無関係だ、と感じていたからである。
そんなことをなにげなくパートナーに話したとき、あっさりと切り返された。「アーレント思想と生命倫理はなんでつながらへんの? 全体主義に反対して、人間が生まれてくることを大切にしたひとなんでしょ」。
そぼくに首をかしげるパートナーの問いにうながされて、私もあらためて考えてみた。なるほど、どうしてアーレント思想は、出産や生殖という問題とつなげて論じられてこなかったのだろう。一般的に、アーレントはフェミニズムと相性が悪い、と考えられている。それはどうしてなのだろう? 彼女は長らくフェミニストからの評判が悪かったけれど、その評価はほんとうに正しいのだろうか?
アーレントは、著書である『全体主義の起原』や『活動的生(英語版のタイトルは『人間の条件』)』のなかで、人間にのみ与えられた重要な能力の一つに「出生性」がある、と語った。出生性、それは「予測することができないようなまったく新しいなにごとかを始める」人間の能力であるという。アーレント思想の核となる「出生性」概念を理解するために、まずは「世界」、「死」、「誕生」、というキーワードから説明しよう。ここからやや込み入った議論になるが、しばしおつきあいいただきたい。
ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳
『全体主義の起原1【新版】――反ユダヤ主義』みすず書房、2017年
ハンナ・アーレント著、森一郎訳『活動的生』みすず書房、2015年
この世界に生まれ、死にゆくこと
私たちがこの「世界」に生まれたとき、生まれるまえからすでにこの世界は存在していた。私たちが「死」によってこの世界を去るとき、私たちの肉体の消滅とは無関係に、世界は存続しつづける。この、個々の人間の生死を超えて永続する世界に、私たちは「誕生」し、一時的に留まり、死して去る。なにものも永続するものはない。このような儚さは、世界にあるすべての生物・物質に共通する、根本的な条件である。
しかし、生物のなかでもただ思考する能力を持つ人間だけが、死を意識し、死に思いをはせることができる。そして、死に注目し死の考察を深めた哲学者が、アーレントの師事したマルティン・ハイデガーだった。
アーレントはハイデガーからさまざまな影響を受けている。彼の哲学によってもたらされた、豊かな思想上の影響の一つが、「誕生」である。ハイデガーが「死に魅入られた哲学者」なら、アーレントは「誕生に目を凝らした政治哲学者」だと言うことができるだろう。
人間がこの世界に生まれることを、アーレントは「第一の誕生」、あるいは単に「誕生」と呼んだ。しかし、ただ誕生しただけでは人間らしい生を生きることはできない、と言う。人間が人間らしい生を享受するためには、言葉を交わし、行為することで、自分が「誰か」ということを他者に示さなければならない。この、言葉や身振りを交えて行為することを、彼女は、「第二の誕生」すなわち「出生性」と呼んだ。
出生性、それは言葉をもちいて人びとのあいだで行為し、交流し、自由に動きまわることである。この、「第二の誕生」たる出生性は、「(第一の)誕生」なしには生じえない。つまり、人びとが新たに生まれてこないかぎり、人びとの語り合いも、交流も、あるいは私たちが生きる世界も、存続することはできないのだ。
誕生に目を凝らした政治哲学者アーレントは、ひとがこの世界に「生まれ―暮らし―生涯を終える」、その動的な変化にたいして細やかな感性を有したひとだったのかもしれない。
ベルギーにあるHannah Arendt Instituutでは、アーレントが素敵な笑顔で迎えてくれる
アーレントと生殖、そして社会の問題へ
ひとは、ひとりぼっちで死に、生まれるときもひとりぼっちだ、と言われることがある。赤子は裸のままこの世界に生まれ落ち、老人は死の旅路にむかうとき孤独のうちにその一歩を踏み出さなければならない。
もちろん、多くの人は生まれた直後から医療従事者たちのケアを受けるし、死ぬ直前まで人びとに見守られケアを受ける。こうしたことは、「私たちは誕生してから死ぬまでの期間を人びとのあいだにとどまり続ける」というアーレントの洞察が、医療の現場においても実践されていることを証明する。
ここで、もう少し視野を広げてみよう。私たちは、そもそも複数の個体が生殖活動を行うことによって、この世界に呼び出され、産み落とされたのではなかったか。あるいは、産むことができるのは女性だけであっても、人が誕生する最初の契機には、男性の存在が必要である。妊娠や出産は女性の身体だけに生じるが、それは男性とのかかわりなしには生じえない。
しかしいま、生殖医療技術の発展によって、男女の性別や身体すらも、誕生のための条件から切り離されつつある。代理出産や体外受精、出生前診断など、生殖医療は目覚ましい発展を遂げている。これらの医療技術は、さまざまな誕生を可能にする、夢のような世界を約束するのだろうか。あるいは、望ましいひとだけを選択的に産み出す、悪夢のような世界の到来を告げているのだろうか。
いまはまだ、夢とも悪夢ともつかない「あわい」を、私たちは彷徨っている。しかしいずれ、どちらかに傾くときが来るだろう。悪夢を回避したいと願うのであれば、私たちは、望ましい未来に思いをはせながら、生殖や誕生についていまこそ語り合わなければならない。現在を生きる私たちの行為や言説の積み重ねは、未来を形作る礎となるのだから。
生殖について考えることは、ひとりぼっちであることを定められているかに見える人間の起源に、複数の人びとの存在と行為があったことを教えてくれる。それとともに、性差を超えて、誕生や人間を見つめなおす機会を与えてくれる。医療技術とともにある私たちの未来に希望が持てるか否かは、私たちの行動にかけられている。
こうしたことは、つぎのように言い換えることができるだろう――複数の人びとによる生殖行為は、単数の人間をこの世界へと呼びだした。それによって、ひとは、複数の人びとのなかで生き暮らすことが可能になった。ひとは、最後には単数の人間としてこの世を去るが、残された複数の人びとによって彼/彼女の生は記憶され、世界が維持される。
もしかしたら、人間は、複数的な存在でも単数的な存在でもないのかもしれない。ひとは、ときに複数でときに単数である生と営みを繰り返すなかで、日々の暮らしやこの世界を、未来へと手渡している。
金沢のパフューマリー「BLISS Natural Perfumery」から販売された、アーレントをイメージした香水「Amor Mundi」(2023年)
生殖をめぐる対話の空間を切り開く
私はいま、生殖という視点がアーレント思想に内包されているのか/いないのか、という、いまだ明らかでない問いに着手しようとしている。
第二子出産後に「京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点ASHBi」で働きはじめた私は、こうした個人的な関心にもとづく問いが、現代社会の問題とつながっていることを強く意識するようになった。医師や生物学、生命倫理の研究者たちと共同研究を行い、対話を重ねるなかで、私は生殖医療技術の発展がもたらす利益と弊害について考えるようになっていった。
この問題は、第二子の妊娠中に、まさしく私が直面したものだった。選択的妊娠中絶は、膨大な議論の蓄積がありつつも、いまだ決着のついていない生命倫理上の問題である。中絶をめぐる問いはいま、出生前診断として、妊娠中の女性たちやこれから子どもを産みたいと考えている人びとの前に突如現れるようになっている。この重たい選択肢は、ときに、女性の心を粉々に打ち砕く。
苦しく辛い決断を迫られる女性たちの気持ちを、何よりも大切にしたい。そして、こうした問いを「女性の問題」と考えてきたこれまでの閉じた議論から、「すべての人の問題」という開かれた議論へと変えていくために、私にできる限りの力を尽くしたい。この問いを考えるための手がかりは、誕生の手前にある〈生殖〉と、私たちの死後にのこされる〈子ども〉たち、にあるのではないだろうか。
子どもの誕生は、生殖の結果である。生殖は、複数の人びととジェンダーの交わりのなかで、行為され、実現される。進歩し続ける生殖医療技術は、カップルや子どもたち、医療従事者や技術の開発者、そして社会の人びとを巻き込みながら、これからも誕生にかかわる人びとを押し広げていくだろう。生殖と誕生をめぐってさまざまな人びとが紡ぎだす豊かな言説は、終わりなき対話の空間を切り開くはずである。それらはやがて大きなうねりとなって、希望に満ちた未来をも切り拓くに違いない。
京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点ASHBi非常勤研究員。京都大学人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は思想史。著書に、日本アーレント研究会編『アーレント読本』(分担執筆、法政大学出版局、2020年)、共訳書に、マリー・ルイーズ・クノット編、ダーヴィト・エレディア編集協力、細見和之・大形綾・関口彩乃・橋本紘樹訳『アーレント=ショーレム往復書簡集』(岩波書房、2019年)、キャサリン・T・ガインズ著、百木漠・橋爪大輝・大形綾訳『ハンナ・アーレントと黒人問題』(人文書院、2024年、近刊)。金沢のパフューマリー「BLISS Natural Perfumery」から販売された、アーレントをイメージした香水「Amor Mundi」(2023年)の製作に携わる。
『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』
(矢野久美子、2002年〔書影は新装版、2023年〕、みすず書房)
アーレントをテーマに卒論を書きたいと思いつつも、その思想があまりにも複雑だったので諦めかかっていたとき、ぐうぜん手にした一冊。アーレント思想への深い理解と、伝記的事実を扱うさいの繊細な手つきが印象的な本書は、それまでの「難解な思想家アーレント」という印象を一変させた。アーレントとは誰なのかを問い直す、私の博論の原点となった作品。
『生殖する人間の哲学――母性と血縁を問い直す』
(中真生、2021年、勁草書房)
第二子出産後の産休中に読みはじめ、その斬新な主張になんども目からうろこが落ちる思いがした。生殖という観点から眺めれば、性差を超えて人間を定義しなおすことができる、という筆者の力強い主張は、私のこれからの研究の道筋を明るく照らしてくれている。「生殖」というテーマについて考えるきっかけとなった、大切な作品。