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モザイク都市ブリュッセル

映画から広がる世界

膨大なアーカイブを誇るシネマテック

 ブリュッセル中央駅から坂を上ると、王立美術館、王立図書館、楽器博物館などの文化施設が集まる「芸術の丘」とよばれるエリアがある。その中でもひときわ目立つ、アールデコ建築の傑作「芸術宮殿」の左手ファサードを奥に進むと、ひっそりと「CINEMATEK」と青いネオンサインが浮かんでいる。階段をおりると、大小二つの上映ホールで、古今の映画が毎晩遅くまで上映されている。ここはブリュッセルのフィルムセンター。この街に落ち着いて以来、私が最も頻繁に通っている場所の一つだ。

芸術の丘からの眺め

  正式名称はベルギー王立映画アーカイブ(Cinémathèque royale de Belgique/ Koninklijk Belgisch Filmarchief)。所蔵作品数7万2000、フィルム数18万を数える(注1)。世界的に知られるパリのシネマテークでさえ所蔵作品は約4万にとどまる。人口がフランスの6分の1であるベルギーのアーカイブに、7万を超える作品があるのだ。フィルムだけでなく映画関連資料も豊富で、付属図書館には6万冊の書籍、80万枚の写真、300万点の新聞・雑誌切り抜きが所蔵されている。知らないと見過ごしてしまいそうな「CINEMATEK」の小さく、飾り気のない入口の奥には、世界有数の映画の記憶が保存されている。

 映画アーカイブはブリュッセルだけでなく、世界各地に存在する。かつて住んだことのあるパリやニューヨークにも有名な映画アーカイブがあったし、東京にも国立映画アーカイブが存在する。だが私はこれらの場所に縁がなかった。映画を観るのは好きだが、専門知識があるわけでもないし、監督や作品を序列化し、映画の知識を競うようなことをするのも好きではない。正直、「シネフィル」と呼ばれる人びとには苦手意識さえあった。

 そんな私も、シネマテックにはいつのまにか足繁く通うようになった。まず惹かれたのは、その敷居の低さだ。入場料(6ユーロ、2026年3月当時)は一般映画館の半額以下なので、当たり外れを気にせず、気軽に足を運べる。またスタッフや観客も普段着で気取ったところがない。そして上映作品もシネフィル好みの難解な作品ばかりでなく、娯楽作品やコメディ、ホラー、社会派作品など、バラエティに富んでいる。

 29席の小ホールでは毎晩、ピアノの生演奏に合わせて無声映画を観ることができる。『戦艦ポチョムキン』『メトロポリス』『サンライズ』『街の灯』などの名作だけでなく、ジェームス・バリーの戯曲を映画化したハーバート・ブレノン監督の『ピーターパン』、1935年の上海を舞台にした蔡楚生監督のメロドラマ『新女性』など、それまで知らなかった作品にも数多く出会った。ジャンルも地域も異なる作品に触れるうちに、無声映画のイメージが大きく変わった。

 たまにトラブルが起きることもある。ピアニストが会場に現れず、文字通り「無声」での上映になったこともあったし、画面がずれて上映が始まり、観客の一人が映写技師を呼びに行くまで10分近くそのままだったこともあった。そんな時もスタッフは淡々と謝り、観客が騒ぎ立てることもない。いい意味で映画好きが集まる同好会のような、アマチュア的な雰囲気が残っている。入場料が格安であることも、その理由の一つだろう。そこには、お金を払った客が、その対価として完璧なサービスを求めるような関係とは、どこか違う空気が流れていた。それがシネマテックの居心地の良さの秘密なのかもしれない。


シネマテックの入り口

映画を通して旅する

 シネマテックに通うもう一つの楽しみは、世界各地の映画との出会いだ。その中から、特に心に残った作品をいくつか紹介したい。

 たとえば南米映画では、ブラジルの巨匠ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの『監獄の記憶』(原題:Memórias do Cárcere、1984年)が印象に残った。1930年代に監獄生活を経験した作家グラシリアーノ・ラモスの回想録を原作とする作品だ。主人公は軍事政権下で共産主義者として投獄される。地の果ての監獄に送られ、どん底の人びとと寝食を共にすることになった彼は、初めて接する生身の大衆の粗野な言動に思わず嫌悪感を抱く。だが極限状態の中で多くの試練を共に乗り越えていくうちに、いつしか彼らに心を開いていく。1930年代のブラジル史をほとんど知らなかった私には、それだけでも新鮮だった。だが、それ以上に惹かれたのは、大衆を高みから眺めてきた一人の作家が、監獄で彼らと同じ境遇に置かれるなかで、自らの傲慢さと偏見に気づいていく姿だった。人はいくつになっても、自分が当然だと思ってきた世界の見方を変えることができる。そのことが強く心に残った。

 東欧映画では、ハンガリーのパル・エルドス監督『プリンセス』(原題:Adj király katonát!、1982年)に心を打たれた。長年、地方から出稼ぎにくる女工たちをインタビューし、ドキュメンタリーを制作してきた監督の初めての長編フィクションだ。里親を亡くした15歳のユトゥカは、友人ジュジャと二人で故郷を離れ、ブダペストの繊維工場で働き始める。過酷な労働に従事する彼女たちのささやかな楽しみは、週末、街に繰り出し、カフェでおしゃべりに興じたり、男の子たちとの恋を楽しんだりすることだ。だが、未婚のまま妊娠してしまうなど、その行く手には多くの試練が待ち受けている。そのなかで何とか生き抜こうとする女工たちの姿をカメラは静謐なタッチで映し出していく。ドキュメンタリーを思わせる徹底したリアリズムと白黒の映像が、不思議なほどよく合っていた。特に忘れられないのは、現実に何度も打ちのめされながら、それでも毅然と織機の前に立つユトゥカを映したラストシーンだ。その姿が目に焼きつき、しばらく席を立てなかった。

『プリンセス』の1カット(Photo: NFI/Róbert Szabó、ハンガリー国立映画協会のアーカイブ

  また、本作を観て、ベルギー映画の巨匠ダルデンヌ兄弟を世界的に知らしめた『ロゼッタ』(1999年)を思い起こした。労働者や格差を描くという主題が重なるだけではない。大きな黒い瞳とふっくらした頬が印象的なユトゥカ役エリカ・オズダが、『ロゼッタ』の主演女優エミリー・ドゥケンヌと瓜二つなのだ。社会の周縁で孤独に働き、生き延びようとする二人の少女。その姿を見ているうち、17年後に撮られた『ロゼッタ』が何度も頭に浮かんだ。

 アフリカ関連の作品では、ビリー・ウッドベリー監督の『マリオ』(原題: Mario, 2023年)に感銘を受けた。反植民地闘争に身を捧げたパンアフリカ主義の活動家であり、詩人でもあったマリオ・ピント・デ・アンドラーデの生涯を追ったドキュメンタリーだ。ポルトガルの植民地だったアンゴラで生まれたマリオは、大学進学のため、ヨーロッパに渡った。帝都リスボンやパリで、アミカル・カブラルやフランツ・ファノンといったアフリカやカリブ海にルーツを持つ仲間と交友を深めるなかで、反植民地闘争に目覚めていく。1956年にはアンゴラ解放人民運動を創設して、ポルトガルからの独立闘争に身を投じた。また、1955年のバンドン会議や1966年のキューバの三大陸人民連帯会議といった国際会議のオーガナイザーとしても活躍し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの連帯に尽力した。だが、独立後のアフリカでは、ルムンバ(第7回参照)やベンバルカ、カブラル、サンカラなど傑出した指導者が次々に暗殺され、反植民地闘争の理想は冷戦と権力政治に翻弄されていく。マリオもアンゴラを追われ、ギニアビサウ、カーボベルデ、モザンビークなどを転々とした末、最後はロンドンで客死した。

 この作品を観て、マリオという偉大な知性と勇気をもった人物の存在を知った。だが私にとって何よりも衝撃だったのは、第三世界の歴史においてこれほど大きな役割を果たした人物が完全に忘却されていることだ。その理由は、マリオがカストロやナセル、ネルーといった第三世界の「偉人」よりも劣っていたからではない。つねに権力よりも社会変革を、個人的な地位よりも集団の利益を優先し、反植民地主義闘争の黒子に徹したために、忘却されたのだ。

 その記憶の断片を拾い集め、忘却から救い出したのが、アフリカン・ディアスポラの映像作家であることも偶然ではないだろう。1970年代にUCLAで学んだビリー・ウッドベリーは、アフリカ系アメリカ人の映像作家グループ、「L.A.リベリオン」の中心人物の一人として知られる。1984年には失業に喘ぐロスの黒人家庭を内側から描いた『小さな心に祝福を』(原題: Bless Their Little Hearts、2025年に日本でも公開)を発表し、高く評価された。その後、ウッドベリーは自らの作品を撮ることより、映画学校で教え、次世代の黒人映像作家を育てることに多くの時間を費やしてきたという。生活のためでもあったが、それだけではなかった。上映後の監督を招いたトークで彼の話を聞きながら、私はスクリーンで見たばかりのマリオの人生を思い出していた。権力や名声から距離を置き、自分よりも大きな何かのために働く。二人の人生が、どこか重なって見えた。

上映後にトークするウッドベリー監督(左)。トークの内容は以下のサイトで聴くことができる(Conversation with Billy Woodberry

 以上は、シネマテックで観た作品のほんの一部にすぎない。ここに通っていると、毎晩のように、映画を通して世界のどこかへ連れて行かれる。訪ねたこともない土地を旅し、その歴史や文化、人びとの暮らしに触れることができる。この点にこそ、ブリュッセルのシネマテックの魅力がある。

伝説のキュレーター、ジャック・ルドゥ

 なぜブリュッセルのシネマテックは、これほど国際色豊かなのだろうか? 多くの国立映画アーカイブが自国映画の保存・普及を中心とするなか、ここでは所蔵作品の実に7割を海外映画が占める。その理由をたどっていくと、第二次大戦直後のブリュッセルに行き着く。

 戦後、米国はマーシャル・プランによる欧州復興支援を進める一方、市場の開放を求め、ハリウッド映画も大量に欧州へ流れ込んだ。フランスなどがクォータ制や映画制作への公的支援によって自国映画の保護に乗り出したのに対し、ベルギーではそうした政策が弱く、外国映画が入りやすい市場が形成された。外国映画が次々とベルギーに入ってくるなか、ブリュッセルには米国をはじめとする海外の映画会社が拠点を構えた。とりわけ北駅周辺には、映画会社の支社や、輸入されたフィルムを現像・プリントする施設が集まっていた。

 それに目をつけたのが、初代キュレーターを務めたジャック・ルドゥだった。ルドゥはブリュッセルに拠点をおく海外の映画会社に片っ端から連絡し、「営利目的ではなく教育目的で利用する」との条件でフィルムを無償で譲り受け、コピーを作成しながら、収集を進めた。戦後のブリュッセルに海外作品が大量に流れ込んだという偶然を、ルドゥは世界映画を収集する好機へと変えたのだった。コレクションに加え、1949年には実験映画フェスティバルを立ち上げ、既存の映画に革命を起こし、新たな扉を開くことを促した。実験的作品を手がける若手の支援にも力を注いだ。フィルム会社から少し傷のあるフィルムを無料で譲り受け、お金のない若手に提供した。

 ルドゥは1988年に亡くなるまで、映画会社を説得し、多くの海外作品を集め続けた。彼は、職員が映画会社にフィルムを集めに行く際には「すでに棚に整理されているものではなく、そこら辺に転がっているものを集めよ」「誰も興味をもたないものに関心をもて」と指示していた。その狙いは、未知の作品との出会いを通して人びとの好奇心をかき立て、それまで知らなかった世界へと誘うことだったという。ルドゥが長い年月をかけて築いたのは、膨大なコレクションだけではなかった。未知の映画との出会いを通して、人びとの好奇心を世界へと開いていく場所でもあった。

ルドゥ(左)とアケルマン(後述のクリストフが編纂した JACQUES LEDOUX, CINEMATEK, 2021, pp.36)

『ジャンヌ・ディルマン』の衝撃

 こうして映画を通して世界各地を旅したが、なかでも忘れがたい作品の舞台は、意外にも自分が暮らすブリュッセルだった。シャンタル・アケルマン監督の『ジャンヌ・ディルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975年)だ。夫と死別し、高校生の息子と暮らす主婦ジャンヌは、日々の家事を淡々とこなしている。家計を支えるため、息子には内緒で、自宅で客も取っている。映画は、そんな彼女の三日間を、3時間21分にわたって追う。

 舞台は、ブリュッセルの北の外れにある、決して広くないアパートだ。ジャンヌは台所、浴室、寝室、居間、玄関を往復しながら、ジャガイモを茹で、皿を洗い、ベッドを整え、浴槽を磨き、夕食を用意する。ほとんど言葉を発さず、表情も変えず、決められた手順を淡々と繰り返す。

 驚かされたのは、これまで映画が「観るに値しないもの」として切り捨ててきた家事労働を、アケルマンが省略せず、その時間を観客にも経験させることだ。固定カメラの前で、一つひとつの動作が現実と同じ時間をかけて進んでいく。通常の映画なら数秒で飛ばされる反復と単調さを、観客もジャンヌとともに生きることになる。だからこそ、ジャガイモを焦がす、洗ったスプーンを置き忘れるといった小さな綻びが、恐ろしいほどの緊迫感を帯びて迫ってくる。そして、地表に生じた小さなひび割れが、やがて巨大な地滑りとなってすべてを飲み込むように、緊密に維持されてきた秩序が少しずつ崩れ、最後に一気に破局へと向かう。その3時間21分そのものが、革命的な映画体験だった。

『ジャンヌ・ディルマン』の1カット(Collections CINEMATEK © Chantal Akerman Foundation)

 ブリュッセル生まれのアケルマンがこの作品を撮ったのは、わずか25歳のときだった。当時、映画を撮る側の圧倒的多数は男性だった。何をカメラに収め、何を映さずにすませるのか。そうした映画の「当たり前」もまた、男性の視線によってつくられてきた。アケルマンが覆したのは、単に「女性を主人公にする」ことではない。女性の身体を性的な対象として映すことを避け、あえて家事やケアという女性の日常を画面の中心に据え、そこに費やされる時間をそのまま映画の時間にすることで、何が重要で、何が重要でないのかという映画の序列そのものをひっくり返したのだ。

 その意図を、アケルマン自身が端的な言葉で語っている。「私は、一つひとつの所作に、それが実際に要する時間を取り戻すことによって、あらためて価値を与えました」。そしてこう続ける。「私にとっては、20分間続くカーレースを見るよりも、あらゆる女性でありうる一人の女性が、3分間かけてベッドを整える姿を見るほうが、はるかに魅力的なのです」(注2)

 そして、アケルマンの映画人生は、シネマテックとも深く結びついている。若い頃は毎晩のようにここへ通い、膨大な作品に触れた。映画作家となった後も関係は続いた。晩年には自らシネマテックと協力し、初期作品の修復を進めた。現在では、彼女の全作品に加え、脚本や写真、書簡、制作資料など膨大な資料がここに収められ、シャンタル・アケルマン財団とともに、その作品と記憶を次世代へ伝える活動が続けられている。2024年にブリュッセルで始まり、その後パリなどを巡回した大規模展「シャンタル・アケルマン:旅する(Chantal Akerman: Travelling)」も、そうした協働の延長線上にある。

 シネマテックで『ジャンヌ・ディルマン』を観ることは、単に一本の映画を観ることではない。かつて若きアケルマンがここで多くの映画を観て育ち、時を経て、彼女がつくった映画を、今度は私たちが同じ場所で観ている。一本の映画は、それだけで存在しているわけではない。過去の映画との対話があり、それをつくる人、保存する人、上映する人、観る人がいる。映画は、そうした長い連なりのなかで生き続けていく。シネマテックで『ジャンヌ・ディルマン』を観ると、そのことを強く感じる。映画を保存するとは、フィルムを残すだけでなく、こうした連なりを次の世代へ手渡していくことなのかもしれない。

アーカイブを支える個性的なスタッフ

 シネマテックに通ううち、映画だけでなく、そこに集う人たちとの縁も広がっていった。受付で働くモハンドとルイも、そのなかで知り合った。モハンドは2002年からシネマテックで働く古参である。植民地支配への抵抗の歴史をもつモロッコ北部リーフ地方にルーツをもち、自身も反植民地主義などの政治運動に関わってきた。大学時代、「カフェに行くより安い」と毎日のように通ううち、いつのまにかここが居場所になった。ある時、求人が出たので応募しないかと声をかけられ、そのまま現在に至る。一方、勤め始めてまだ日の浅いルイは、働く前にシネマテックに来たのは一度だけ。ウォン・カーウァイ特集で長蛇の列ができており、結局、映画を観ずに帰ったという。本格的に映画を観るようになったのは、ここで働き始めてからだ。今では「観たい映画リスト」に2500本もの作品が並び、それを片っ端から観ている。フリーランスのウェブデザインを本業とし、シネマテックではパートタイムで働いている。2026年2月には3週間、日本を旅した。京都の居酒屋で一緒に食事をしたとき、「生を中ジョッキでお願いします」などと、そこだけ聞けばかなり日本語に慣れているのかと思うほど、きれいな発音で注文するのを聞いて驚いた。旅先で少しでも人と交流したいと、独学したという。そんなルイが薦めてくれたのが、世界各地で社会の変化とそこに生きる人びとを撮り続けたヨリス・イヴェンスの作品だった。

 なかでも、最も親しくなったのが、クリストフだ。シネマテックに行くと、細身で長身、メガネに口髭をたくわえた彼が、人に囲まれて楽しそうに話している姿によく出くわす。人懐っこく好奇心旺盛で、どこか少年のような人だ。そんな人柄のためか、クリストフには友だちがとにかく多い。シネマテックでも、街を一緒に歩いているときも、あちこちで声をかけられる。また交友関係が幅広く、20代にも80代にも親しい友だちがいる。そして、相手が誰であろうと、同じように敬意と好奇心、親しみもって接する彼に、私自身も深い愛着をもつようになった。

 クリストフはフランス語、オランダ語、英語を自在に操り、世界中を旅している。2025年5月には日本を訪れ、各地でさまざまな人たちと交流した。京都では「おもちゃ映画ミュージアム」を訪れ、すぐに交流を深めた。その時の様子は同ミュージアムのブログにも紹介されている(注3)。アケルマンの写真入りバッグを肩にかけた彼の姿を見ると、その人柄が伝わってくる。

 クリストフは無声映画を中心とした作品の収集と上映プログラム企画の責任者で、前述のアケルマン展覧会などの企画やカタログ制作、さらにジャック・ルドゥについての本を編纂した(注4)。私にとっては、シネマテックの道先案内人でもあった。私の映画の好みを知るようになると、「これはきっと好きだと思うよ」と、知らない作品をよく勧めてくれた。『監獄の記憶』『プリンセス』『マリオ』も、そんなふうにして彼から教えてもらった映画だ。

 映画が好きなのはもちろんだが、それを介して人とつながることも、若い頃から好きだったようだ。大学時代には友人たちとシネクラブを開き、卒業後も映画祭の運営に携わった。シネマテックで働き始めてからも、仕事を終えると頻繁に上映ホールに足を運び、観客と言葉を交わしている。そんな彼を見ていると、クリストフにとってシネマテックは、単なる職場ではないのだと思う。映画を集め、上映するだけでなく、人びとの好奇心を刺激し、映画を介して人と人をつなぐ。ルドゥの時代からこの場所で育まれてきた精神が、彼のなかにも息づいているように感じる。

作品を可能にしたシスターフッド

 そんなクリストフが、ある日、「ぜひ紹介したい人がいる」と声をかけてきた。マリリン・ワトレだった。雪の降る1月の寒い日、地下鉄駅のある聖カトリーヌ広場でクリストフと待ち合わせ、マリリンの自宅へ向かった。広場から北へ歩いていくと、道幅の広い通りが続き、中央には細長い公園が伸びている。車も人通りも少なく、とても静かだ。かつてセンヌ河が流れていた場所を埋め立ててつくられた通りだという。どこか見覚えがあると思っていると、壁に「コメルス湖畔通り」と書かれているのが目に入った。ジャンヌ・ディルマンが住んでいた23番地から、200メートルたらずのところにある建物にマリリンは住んでいるのだ。

コメルス湖畔通り付近にあるジャンヌ・ディルマン壁画(描いたのはAlba Fabre Sacristán)

 インターフォンを鳴らすと「エレベーターが壊れているので、7階まで頑張って上ってきて」と言われた。息を切らせて最上階にたどり着くと、扉が開き、小柄な女性が愛犬と共に迎えてくれた。温かい笑顔が印象的だった。通されたリビングには大きな窓が三つあり、コメルス湖畔通りを含む界隈が一望できた。「このあたりには、50年前、『ジャンヌ・ディルマン』を撮影していた頃の雰囲気がまだ残っている。でも、ブリュッセルでこんな場所が残っているのは、もうここくらい」とマリリンは話した。

 マリリンはシャンタル・アケルマン作品のプロデューサーを長年務め、自身も映画を撮ってきた。アケルマンとは、名門エミール・ジャックマン高校で出会った。二人は「女性は結婚し、家庭に入るもの」という家父長的な価値観への反発で意気投合し、やがて一緒に映画に夢中になった。放課後になると、シネマテックに入り浸った。あまりに毎日のように通うので、マリリンの親が「娘は本当に映画を見に行っているのだろうか」と確かめに来たことさえあったという。1967年夏には、前述のルドゥ主催の実験映画フェスティバルにも一緒に足を運んだ。

 その頃、アケルマンは映画や演劇を教えるブリュッセルの芸術学校INSASの入学試験のため、初めてカメラを手にする。撮影したのは、無音・モノクロの8ミリ短編4本。そのうちクノックの海辺で撮った二部構成の短編で、カメラの前に立ったのが、実母ナタリアとマリリンだった。のちに自らの映画世界を支えることになる二人が、すでに最初期のフィルムに登場していたのである。作品は長らく未公開だったが、近年発見され、現在はアケルマン財団のウェブサイトで詳しく紹介されている(注5)。その秋、アケルマンはINSASに進むが、そこにも長くはとどまらず、やがてパリ、そしてニューヨークへと渡った。

 1970年代半ば、アケルマンが初の長編フィクションをブリュッセルで制作することになったとき、真っ先に協力を頼んだのがマリリンだった。当時、マリリンはベルギー国営テレビ放送で脚本家として働いていた。親友に協力するため職場に長期休暇を申請したが、認められなかった。そこであっさり仕事を辞め、『ジャンヌ・ディルマン』の制作に加わった。同年、二人は制作会社パラダイス・プロダクションを設立し、以降、マリリンはアケルマン作品のプロデューサー兼助監督として活動してきた。

 「アケルマン作品に関わったのはあくまで友人としてだったの」と彼女は強調する。「シャンタルは予算もスケジュールもきちんと守る珍しい監督で、プロデューサーとしての仕事は楽だった」と、自らの功績についてはほとんど語ろうとしない。だが、男性監督が圧倒的多数を占めていた時代に、二人の若い女性が力を合わせて映画をつくり、その関係がその後も長く続いたことに、私は心を動かされた。マリリンの話を聞きながら、アケルマンが残した数々の作品が、二人の長い友情と協働のなかから生まれてきたことを知った。

1972 年のアケルマン(左)とマリリン©Jane Stein

無限に広がる好奇心

 マリリンはプロデューサー業の傍ら、世界への好奇心にあふれたドキュメンタリー映画を撮ってきた。1990年代半ばからシモン・ザレスキとともに本格的に作品を撮り始め、ベルギーから東欧、キューバ、アメリカ、アフリカへと旅をした。『ブラック・メタル』(1998年)では、退屈な日常から逃れようとコンサートに集うベルギーの地方の若者たちを追い、『チコ・サルヴァク』(2000年)では、スロヴァキア出身のロマの音楽家の旅を通してヨーロッパとロマの歴史を見つめた。『エリアン、囚われた子ども』(2001年)では、キューバからマイアミに漂着した少年をめぐる政治的熱狂を、『どんな逆境にも』(2004年)では、家族を支えるためヨーロッパ各地の市民マラソンを転戦するケニア人ランナーたちを描いた。

 こうしてマリリンは、映画を撮りながら世界各地を旅してきた。本棚に目をやると、東欧、ラテンアメリカ、アフリカ、アジアについての本が所狭しと並んでいる。そのなかに、谷崎潤一郎の『細雪』を見つけた。少し前に孫と日本を訪れ、すっかり気に入ったという。

マリリンとクリストフ

 食事を終え、帰る前に洗面所に立ち寄ると、鏡一面に黄色いポストイットが貼られていた。よく見ると「gochiso samadeshita」「kyo wa yoi tenki desune」などと日本語の表現が書き込まれている。「これは何?」と彼女に尋ねると、日本旅行の後、日本語を勉強しようと思い立ち、毎週レッスンを受けている、と答えた。「今年で78歳になるので、なかなか以前みたいに覚えられない。それで、お風呂場やトイレに貼ったの。でも次回、日本に行くときには日常会話ができるようになりたい」と微笑んだ。

 その瞬間、世界に開かれているとは、こういうことなのかもしれないと思った。若い頃、放課後になるとシネマテックに通い、スクリーンの向こうの世界を見つめていた少女は、78歳になった今も、次に出会う世界のために、新しい言葉を覚えようとしている。

 

【注】

(1)CINEMATEKのウェブサイトhttps://cinematek.be/collections

(2)『ル・モンド』( 1976年1月22日 ) に掲載されたアケルマンのインタビュー"Un film hyperréaliste sur l'occupation du temps"

https://www.lemonde.fr/archives/article/1976/01/22/un-film-hyperrealiste-sur-l-occupation-du-temps_2957569_1819218.html

(3)おもちゃ映画ミュージアム「ベルギーとイタリアからのお客様と愉快なひととき」https://toyfilm-museum.jp/blog/column/27348.html

(4)詳細は以下のウェブサイトを参照https://cinematek.myshopify.com/fr/collections/boeken/products/jacques-ledoux

(5)https://chantalakerman.foundation/works/examen-dentree-insas/

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著者略歴

  1. 森 千香子

    1972年生まれ。フランス社会科学高等研究院博士課程修了。博士(社会学)。
    南山大学外国語学部准教授、一橋大学大学院法学研究科、同社会学研究科准教授、プリンストン大学移民開発研究所客員研究員等を経て、現在は同志社大学社会学部教授、同志社大学都市共生研究センター(MICCS)センター長、ブリュッセル自由大学客員教授。
    主要著作に『国境政策のパラドクス』(共編、勁草書房、2014年)、『排外主義を問いなおす』(共編、勁草書房、2015年)、『排除と抵抗の郊外』(東京大学出版会、2016年、大佛次郎論壇賞、渋沢・クローデル賞特別賞受賞)、『グローバル関係学6 移民現象の新展開』(共編、岩波書店、2020年)、『ブルックリン化する世界』(東京大学出版会、2023年)などがある。

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