ユダヤ人街の記憶
ベルギーといえばチョコレートとワッフルとビール? そんなイメージがひっくり返る!
大国に挟まれ、
都市空間と移民・
連載トップページはこちら
ブリュッセルのランドマークのひとつに最高裁判所がある。丘の上に建つ約26,000平方メートルの巨大なグレコロマン建築は、裁判所というより「司法宮殿」と呼ぶにふさわしい迫力だ。建物の中心に聳える金色のドーム屋根は、かなり離れた場所からも目にとまり、ひときわ存在感を放つ。周辺には司法や金融機関の入った立派な石造りのビルやホテル、超高級ブランドの路面店がならび、広大な道路は整備が行き届いている。まさに富と権力を感じさせるエリアだ。
だが、裁判所脇のエレベーターで約30メートル下に降りると、がらっと雰囲気が変わる。建物は古びた煉瓦やコンクリート製だ。2、3階建ての低層で窓は小さく、ブルジョワ建築にあるようなバルコニーも装飾もない。薄暗く狭い道が入り組み、商店や飲食店が並ぶ。プレートに書かれた「樽職人通り」「椅子職人通り」「刺繍職人通り」「大工通り」の地名が職人街だったことをうかがわせる。
歴史的に下町として知られたマロール地区は、中世より癩病患者の収容施設(現在のサン⁼ピエール病院)や皮なめし業が配置され、貧しい労働者や職人の街として発展した。近代にはワロン地方や外国出身の労働者が流入する街としての性格を強め、住む家のない労働者が利用する「住居カフェ(café-logement)」が増加する一方、貧困層に施しを与える宗教団体も地域に定着した。ビルキッタ会通り(Rue des Brigittines)、ミニーム会通り(Rue des Minimes)、カプチン修道会通り(Rue des Capucins)などの通りの名前が、当時の様子を偲ばせる。20世紀になると貧困層向けの住宅も作られた。1915年、ブリュッセル市当局は建築家エミール・エマンスに依頼し、低所得者を対象とした社会住宅「エマンス団地」をマロールに建設した。全272戸にキッチン、トイレ、水道が備えられ、デザインもアール・ヌーヴォー風の当時としては画期的なもので、現在でも使用されている。
マロール地区
もっともマロールの景観とアイデンティティは、度重なる再開発やジェントリフィケーションの波に晒され、大きく変化してきた。オート通りやブリュッセル最大の蚤の市が開かれるジュ・ドゥ・バル広場界隈はアンティーク家具街となり、ビンテージものの衣服を扱うブティックも増えた。流行のレストランやバーは若者や観光客で遅くまでにぎわい、有名漫画家のカラフルな壁画が通行人の目を楽しませる。
だがマロールが完全に「高級地区化」したかといえば、そうではない。ホームレスのシェルターは活動を続けているし、低所得層向けの社会住宅もエリア内に点在する。ビンテージ洋服店の隣には、寄付された服や物品を売って貧困層支援にあてる慈善団体の店舗もある。ノートルダム・ドゥ・ラ・シャペル教会前広場のスケートパークはスプレーアートや落書きで埋め尽くされ、アンティーク街にいるのとは異なる雰囲気の若者たちが集まる。下町の面影は随所に残されている。
歩道に埋められた記憶の痕跡
だがマロールには、もうひとつの重要な過去がある。それはかつてユダヤ人街でもあったことだ。それを知ったのは、先日友人とタヌール(なめし皮職人の意味)通りを歩いている時だった。雨の多いブリュッセルではめずらしい天気の良い日だったが、16世紀から20世紀初頭までなめし皮職人の工場が並んでいた通りはどこか薄暗かった。イベントのチラシをとりにいった友人を待ちながら足元に目をやると、石畳を敷き詰めた歩道に小さなプレートが埋め込まれているのに気づいた。
石畳より一回り小さな約10センチ四方の真鍮には、文字が刻まれている。
ここに住んでいた
Ida Eisenstab
1926年フランス生まれ
1942年8月11日逮捕
マリーヌ収容
1942年8月15日
アウシュヴィッツ送還
殺害
周囲を注意深く見ると、同様のプレートが次々に見つかった。数メートル先には5つのプレートがあった。Schultz一家は夫がポーランド、妻がベルギー生まれ。20歳と11歳の息子、18歳の娘を含め、全員がマリーヌに収容され、アウシュヴィッツに送られた。斜向かいの歩道には10個のプレートがあった。Grynszpan家、Tencer家、Berenbaum家という三家族の一人ひとりの名前が刻まれている。全員ポーランド出身だ。3歳から60歳までの10人がここで逮捕され、マリーヌを経由してアウシュヴィッツで殺された。
タヌール通りに埋められた三家族のプレート
それらがホロコーストの犠牲者を弔う「つまずきの石」なのだとわかった。ナチスに殺されたり、収監や迫害を受けたりした人びとが最後に住んでいた場所の歩道に、その人の生誕や死に関する数行の情報を真鍮のキューブに刻んで埋め込む追悼プロジェクトだ。1990年代にドイツのアーティスト、グンター・デムニヒが始めて以来、民間団体や学校などの依頼を受けて、広がっていった。2023年5月時点で欧州27か国の2,000か所を超える地域に10万を超えるプレートが埋められている(Stefan Dege, “‘Stolpersteine': Commemorating victims of Nazi persecution”, DW, 30 May 2023)。ブリュッセルでは2014年ごろに始まり、なかでもマロールには多くのプレートが埋められている。その数はタヌール通りだけでも100を超える。
ベルギーのユダヤ人は19世紀後半より増加した。特に1920年代以降、東欧から多くの人が移住し、第二次大戦前夜には全国で55,000人(移民博物館の統計では70,000人ともされる)、ブリュッセルには25,000人が住んでいた。ほとんどはポーランド、ベラルーシ、ドイツ、オーストリアから貧困や迫害を逃れてきた人たちで、マロールの皮革、繊維業などで働いた。94%が外国籍だったが、ベルギー国籍の人も少数存在し、ビジネスや金融業に従事していた。しかし第二次大戦が勃発し、ベルギーがドイツに占領されると、ナチスのユダヤ人絶滅政策の対象となったのである。
真鍮プレートでくり返し用いられる表現のひとつに、Rafle、「警察による一斉検挙」があった。
ここに住んでいた
Ingel Grinberg
1875年ルーマニア生まれ
1942年9月一斉検挙
1942年9月死亡
身を屈め、プレートを探しまわりながら、考えた。この検挙とは、1942年9月3日夜のユダヤ人一斉検挙のことだろう。同年10月のデータでは17,000人を超えるユダヤ人がベルギーからアウシュヴィッツに送られた。また1942年の一斉検挙では外国籍のユダヤ人のみが対象となったが、ちょうど一年後の1943年9月3日には、ベルギー国籍ユダヤ人の一斉検挙が行われ、750名がブリュッセルからアウシュヴィッツに送還された(Kesteloot Chanta, « 3 septembre 1942. La rafle des Juifs de Bruxelles », BELGIUM WWII)。
タヌール通りのユダヤ人のほとんどはアウシュヴィッツで殺されたが、若干ながら生還した人もいた。Fanny Gelbardは1943年に検挙され、ブリュッセルとブリュージュの刑務所に収監されたが、1944年に解放された。ポーランド生まれのWolf Grunspanとオーストリア生まれのLotte Gruspan-Buchはドイツ・カッセルで結婚し、工場を経営していたが、ナチスが台頭したため、親戚を頼ってブリュッセルに移住した。しかしベルギーでも雲行きが悪くなり、フランスに逃走中に逮捕され、リヴザルト収容所を経由し、ギュルス収容所に移送された。だがそこで逃走に成功し、フランス南西部のネラック村に身を隠すことで、生き延びた。
ここに住んでいた
Wolf Grunspan
1892年ポーランド生まれ
1942年夏逮捕
リヴザルト収容所・ギュルス収容所
脱走
フランス・ネラック村潜伏
生還
ここに住んでいた
Lotte Gruspan-Buch
1892年オーストリア生まれ
1942年夏逮捕
リヴザルト収容所・ギュルス収容所
脱走
フランス・ネラック村潜伏
生還
Jacky Rychterは生まれた年に母親が、翌年に父親が検挙され、マロール労働者相互扶助に匿われて育った。こうして両親はアウシュヴィッツで亡くなったが、彼は生き延びることができた。
ここに住んでいた
Jacky Rychter
1942年生まれ
潜伏
マロール労働者相互扶助
生還
収容所から命がけで脱出した後に再び捕まり、殺された者もいた。1902年ポーランド生まれのSzymon Imerglikと1903年生まれの Jacheta Imerglik-Baumはタヌール通り142番地に住んでいた。1942年に逮捕され、夫は強制労働、妻はマリーヌに送られたが、同年10月末にそれぞれ脱出に成功した。しかし1943年に二人とも再逮捕され、アウシュヴィッツで殺された。ナチスの迫害を免れてなんとか生き延びようと、ポーランドからベルギーへと逃走を繰り広げた末の無念の最期だった。
脱走したが再逮捕され、殺害された夫妻のプレート
今日のタヌール通りには、かつてユダヤ人の生活の場があったことを示すものは何も見当たらない。ユダヤ人学校もコーシャフード(ユダヤ教徒が食べてもよいとされる食品)の店もない。ただ歩道に埋められた小さなプレートだけが、ここにユダヤ人街がたしかに存在し、ドイツ占領下の暴力によって抹消された事実を証言している。このタヌール通りだけでも800人のユダヤ人が絶滅収容所に送られたという。
真鍮に記されたのは、たった数行の情報にすぎない。かつてこの街で暮らし、暴力の犠牲になった人びとの生涯は数行の記録に要約できるものではない。だが刻まれた情報の限定性が、プレートを見る者の想像力をかえって強く刺激してくるように感じた。わずか10センチ四方の、しかも石畳と見紛うような燻んだプレートが存在することで、抹消されたユダヤ人街の記憶が救い出され、この通りで暮らしていたユダヤ人住民の顔や声が突如よみがえってくるようだった。
夢中でプレートを探している間に日が傾いていた。急に暗さを増した通りで、しばし目を閉じ、ユダヤ人の労働者や家族でタヌール通りがにぎわっていた当時の光景を思い浮かべてみた。
マロールからメヘレンへ
ベルギーユダヤ人のアウシュヴィッツ送還の中継地だったマリーヌ(Malines)という地名が、頭から離れなかった。帰宅後に調べると、マリーヌとはブリュッセルから電車で30分の地方都市メヘレン( Mechelen )のフランス語表記だった。メヘレンにあった収容所跡地には、ドサン兵舎というホロコースト博物館と記念館があるらしい。
ブリュッセル、メヘレン、アントウェルペン
そこでマロール散歩の翌日、メヘレンに足を運んだ。
メヘレンはブリュッセルとアントウェルペンのちょうど中間に位置し、距離的にはブリュッセル郊外のように感じるが、フランデレン地方アントウェルペン州の第二の都市で、完全なオランダ語圏の世界である。実際、南駅からアントウェルペン行きの電車に乗ると、車内はオランダ語しかきこえてこない。地図を見ると、二言語を公用語とするブリュッセルが、オランダ語圏の飛地なのがわかる。
ベルギー言語共同体(黄色はオランダ語〔フラマン語〕、赤はフランス語、青はドイツ語。黄色と赤の縞模様がブリュッセル)
ぼんやりと景色を眺めていたら、あっという間にメヘレン・ネッケルスプール駅に到着した。メヘレン中心街は13世紀に建設の始まった聖ロンバウツ大聖堂をはじめ、歴史建造物が並ぶ、美しい景観で知られる。だがホロコースト博物館が位置する北部は、さびれた工業地帯という風情で、華やかさとは無縁の街並みだ。中心部と郊外を隔てる幹線道路と並行するダイレ川沿いを西に15分ほど歩くと、白い巨大な建物が見えてきた。最上階以外には窓が一切ない、壁の塊のような造りだ。下からみあげると、圧迫感で息が詰まりそうになった。
ドサン兵舎は1756年、この地がハプスブルク家の支配下にあった時代にマリア・テレジアの命令でオーストリア兵のために建設され、その後第二次大戦まではベルギーの軍事用施設として利用された。だがナチス・ドイツの占領下では、ユダヤ人とロマをポーランドの絶滅収容所に移送するための中継収容所となった。1944年9月までにベルギーと北フランスからのユダヤ人とロマをあわせて25,800人以上が収容され、28の「死の貨物列車」に乗せられて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所へと移送された。大半が到着直後にガス室に送られ、生き延びた人は5%にすぎない。
戦後はしばらくベルギー国家の管轄となったが、1970年代後半にメヘレン市の管理下に置かれた。ベルギー・ホロコースト犠牲者の会など当事者団体が市や地方に働きかけ、1996年に博物館・記念館としてオープンした。現在、年間30,000人の来場者を数える(KAZERNE DOSSIN, “About Kazerne Dossin”)。
まずは博物館の正面にある記念館を訪れた。扉をあけ、フットライトを頼りに真っ暗な長い廊下を進むと、ある部屋にたどり着いた。暗い室内の壁には9つのガラスケースが埋め込まれ、白く弱い明かりで照らされている。ケースの内側は、夥しい数の身分証明書やパスポート、婚姻証明書などで埋め尽くされている。書類の言語やパスポートの発行国は多様で、証明書に貼られた写真にある人びとの顔つきも実にさまざまだ。ベルギーのユダヤ人たちがどれほど多様だったのかが伝わってきた。だが唯一の共通点は身分証明書に捺されたJood-Juif(Joodはオランダ語、Juifはフランス語でともにユダヤ人を表す)という赤いスタンプだった。部屋の中央にある机の上に古びた黒いタイプライターと紙が置かれ、カンカン、カン、カンカンカン、と文字盤を打つ機械的な音が静寂な室内に響く。
ここに移送されてきたユダヤ人とロマは、所持品を取り上げられ、自由を失っただけではない。身分証明書、そして名前までも奪われた。そして名前の代わりに番号が機械的に付与された。こうして収容者のアイデンティティは破壊され、単なる数字となった。そのような人間性剥奪の機械性を、Aufnahme(登録)と名づけられたこの部屋は証言しているようだった。
展示室Aufnahme
ガラスケース内の証明書類
記念館を出て、通りをわたって博物館に入ると、受付の男性から「録音プロジェクトをやっているので、よかったら参加しませんか」と声をかけられた。地下にあるプロジェクトルームに足を運んでみると、40代くらいの女性がにこやかに迎え入れてくれた。「すべての名前は重要だ(Every name matters)」プロジェクトは、メヘレン収容所に移送された25,843人(2025年2月20日時点)のうちひとりの名前を来場者に呼んでもらい、それを録音するという。一見素朴な企画だが、そこには深い意味が込められている。メヘレンの収容者はここで名前を奪われ、単なる数字に還元された。その人びとが名前を奪われた場所で名前を返すという象徴的な行為を通して、人間性を回復するのが狙いだ。全員の名前が録音された時点で、それを「音声メモリアル」として記念館の一室で流す予定だという。ソファーに座って説明を受けながら、壁一面を埋め尽くす収容者の写真に目を奪われた。ほとんどが白黒で、時折混ざっているセピア色が数少ない生還者を表す。
Elke naam telt (オランダ語で「すべての名前は重要だ」)プロジェクトルーム
説明が終わると、タブレットを渡され、自分の名前と生年月日、住所、メールアドレスなどを入力する。登録が完了すると、室内に設置された小宇宙船のような録音室に入る。中にいた係の女性が、私が呼ぶ人の名前と年齢を教えてくれた。入力した個人情報に基づいて、呼ばれる収容者と呼ぶ来場者に何らかの共通点があるようにマッチングされる仕組みだ。私は自分と同じ誕生日の1895年生まれの男性の名前を呼ぶことになった。準備が整ったら、マイクにむかって3度、名前と年齢を呼びかける。たったそれだけのことなのに、少し緊張を感じた。名前の発音が間違っていないかを係の女性に確認し、深呼吸した後、ゆっくりと呼びかけた。
Chil, Mayer, Kantor. Age forty-seven.
Chil, Mayer, Kantor. Age forty-seven.
Chil, Mayer, Kantor. Age forty-seven.
録音室を出ると、先ほどプロジェクトを説明してくれた女性が、ソファーの傍にあったパネルを用いて、私が名前を呼んだ男性の写真を見せてくれた。彼は1895年ワルシャワ生まれの鞄職人だった。大きな瞳と口角の上がった唇が印象的で、とても47歳には見えなかった。おそらく若い頃に撮影されたのだろう。髪は綺麗に整えられ、ジャケットにネクタイを締め、胸ポケットからチーフがのぞいている。エレガントで知的な雰囲気だ。そこで、もう一度写真にむかって呼びかけてみた。
Chil, Mayer, Kantor
すると、写真の顔がこちらにむかって少し微笑んだような気がした。
Chil Mayer Kantorさんの写真(©Kazerne Dossin)