新年を三度迎える
ベルギーといえばチョコレートとワッフルとビール? そんなイメージがひっくり返る!
大国に挟まれ、
都市空間と移民・
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ブリュッセルには鉄道の駅が複数ある。国際列車が発着するのは中央駅ではなく南駅だ。南駅を出て北東に進み、中心街パンタゴンを囲む環状道路を渡れば、そこは主要モロッコ人街のひとつ、アネッセン地区(quartier Anneessens)だ。目抜通りには、モロッコ人の経営する飲食店やホテル、食料品店、雑貨屋、パン屋、銀行、旅行代理店、携帯電話販売店が立ちならび、人びとの装いも、飛び交う言葉も、漂う香辛料の香りも、ヨーロッパより北アフリカを感じさせる。
ブリュッセルはヨーロッパ最大のモロッコ人口を有し、住民の約5分の1がモロッコ系だ(2024年、Migratie Museum Migrationデータ)。フランスのアルジェリア移民や英国のジャマイカ移民の場合とは異なり、ベルギーとモロッコの間に植民地支配の歴史はない。にもかかわらず、EUの首都にこれほどモロッコ人が多いのはなぜか。その背景には、第二次世界大戦後の移民政策がある。ベルギーは高度経済成長期に労働力不足を補うため、1964年2月17日にモロッコと二国間移民協定を締結した。以降、20~35歳のモロッコ人男性がベルギーに渡り、炭鉱や鉄工業、製造業、建設業で働き、成長を支えた。こうして年間、数万単位の労働者を迎え入れた「陸の玄関」にモロッコ人街が形成されていった。
幻のバスティラ
アネッセン地区にはおいしいモロッコ料理店がいくつもある。モロッコ料理と聞いて、まず思い浮かぶのはタジンだろう。円錐形の蓋が特徴的な土鍋に野菜や豆、肉、ドライフルーツ、アーモンド、スパイスなどを入れて作る煮込み料理で、ほんのりした甘味で知られる。パリやブリュッセルの移民街のモロッコ料理店で、タジンを置いていない店はまずない。
それに対してバスティラ(あるいはパスティラ)はどこにでもある料理ではない。お祝いなどでふるまう特別な料理だ。私は2023年10月、国際会議でカサブランカを訪れた時に、その存在を知った。帰国前夜、カサブランカ市が催した豪華なビュッフェ・パーティーに招待され、そこで目玉料理としてバスティラが出てきたのだ。「なかなか他で食べられないよ」と友人に強く勧められ、ぜひ食べようと楽しみにしていた。ところが参加者と少し話をしているうちに、バスティラの周りに人だかりができ、あっという間に跡形もなく消えた。地団駄を踏んだが、後の祭りだった。
カサブランカで食べ損ねた幻のバスティラ。それと再び遭遇する「奇跡」が約1年後にブリュッセルで訪れた。アネッセンに住む友人Aが大晦日にホームパーティーを開き、バスティラをふるまってくれたのだ。
当日、夜8時半ごろAの家に到着すると、食事の準備はすでに完璧に整っていた。テーブルにはさまざまな料理が置かれ、その真ん中で本日の主役バスティラが存在感を放っている。一見するとお菓子のようだが、立派なメインディッシュだ。
バスティラは、わかりやすくいうなら一種のミートパイだ。だが、単なるミートパイではなく、とても手が込んでいる。いろいろなレシピがあるが、Aがお姉さんから受け継いだバスティラは三層に分かれている。一層目はアーモンドを砕いてシナモンと粉砂糖、オレンジフラワーウォーター(オレンジの花びらを蒸留して作った香り漬けの液体)をからめたもの。二層目は肉。肉は鳩肉、手に入らなければ鶏肉を使い、細かく刻んだ肉を玉ねぎ、パセリ、スパイス、サフラン、砂糖などとバターで炒め、水を入れて煮込む。三層目は、肉汁に卵などを混ぜて作ったソース。それぞれの層のあいだにパイ生地が敷かれ、最後のパイ生地で蓋をしたものをオーブンで焼き、しあげに粉砂糖やシナモンパウダーをかける。Aは、下準備も含めると3日間かけて「作品」を作りあげ、粉砂糖で2025と書く演出までしてくれた。
総勢5名でテーブルを囲み、ついにバスティラに手をのばした。砂糖のかかったミートパイというと奇妙な組み合わせに思えるが、予想に反して違和感がない。甘みと同時にスパイスの効いたとろみのある肉が、刻みアーモンドのしゃりしゃりした食感と重厚なソースと混ざり、サクッとしたパイの感触をおぼえた次の瞬間、すべてが口の中で溶けあう。シュクレ・サレとよばれる塩味と甘味の同居にくわえ、香ばしいパイとアーモンドと煮込み肉の異なる食感が融合し、口のなかで目まぐるしい起承転結が繰り返される。意外性に富んだ素晴らしい味覚の冒険だった。
2025と書かれたバスティラ
日本の年越しというと、おそばを食べ、除夜の鐘をきき…と、普段より静かで、どこか厳かな雰囲気が漂う。特に、京都に越して以来、静かに年を越すことが多かった。それに対し、欧州の年越しはお祭り騒ぎになることが多い。ベルギーやオランダでは花火や爆竹で祝う習慣がある。このように賑やかな年越しに、特別料理バスティラはぴったりだと思った。
花火が落ち着いた後、ひとしきり友人たちと話をして、午前2時ごろにAの家をあとにした。ブリュッセルの公共交通機関は通常は12時台に終わるが、一年でこの日だけは一晩中トラムが動いている。乗り物の中でも通りでも、人々が普段以上に陽気な感じで(半分以上、酔っ払っているのだが)、通りすがりの人と何度も「ボナネー!(新年おめでとう)」と声をかけあった。
帰宅する途中、深夜のトラムに揺られながら、ふと考えた。
なぜAは多忙を極めるにもかかわらず、非常に手間隙のかかるバスティラを作ってくれたのだろうか。
バスティラは、モロッコでは年越しに食べる料理ではない。しかしAの家では、新年を迎える時にお母さんが作るバスティラを皆で食べるのが慣例だった。お母さんのレシピをお姉さんから受け継いで、Aは家族から遠く離れた異国の地でバスティラを作り、友人たちにふるまってくれた。時間をかけて準備し、なつかしい味を確認しながら、家族と迎えていた新年を思い出していたのかもしれない。そう考えると、Aが3日間かけてバスティラを作り、ふるまってくれたことの意味もわかる気がした。
謎の数字、2975
通常、年越しは1年に1回しか来ない。
だが2025年の年越しはここで終わらなかった。
バスティラ・パーティーから約10日後、今度は「アマジーグ新年」を祝う機会に恵まれたのだ。
アマジーグ(Amazigh)は、アラブ人征服の前から北アフリカで暮らす先住民族の総称だ。ベルベル人とも呼ばれるが、「自由の民」を意味するアマジーグという自称を当事者は好むようだ。モロッコでは人口の半数、アルジェリアでは5分の1を占める。リビア、モーリタニアなどの北アフリカ諸国のほか、「サハラ以南アフリカ」に分類されるニジェールやマリの北部にも多く存在する。アルジェリアのカビール、モロッコのリーフ、ニジェールのトゥアレーグなど地域ごとに多様性が見られるが、共通のアマジーグ文化が存在する。
またヨーロッパに移住したアマジーグの子孫たち、つまりディアスポラ・アマジーグの存在も忘れてはならない。モロッコ系住民の多いブリュッセルは拠点の一つであり、2009年にオープンした、劇場や図書館などを備えたカルチャーセンター、エスパス・マグ(Espace Magh/Espaceは「空間」、Maghは「マグレブ」
路面の水たまりが凍るほど寒い晩だったが、会場の前には人だかりができていた。中に入ると、あちこちに「2975」という謎めいた数字が書かれている。
いったい何の数字なのだろう。何かの暗号なのだろうか。
イベントのウェブサイトの写真
受付の女性にたずねると2975年なのだと教えられた。
2975年?
一瞬、SF映画の設定かと思ったが、そうではなくアマジーグ暦2975年のことだった。
アマジーグ暦は、紀元前950年を起源とする。つまり、現在世界で広く用いられる「西暦」よりずっと長い歴史をもっていることになる。
その一方、「アマジーグ暦」が用いられるようになったのは、1980年からと日が浅い。
なぜ、このような矛盾が生じたのだろうか。
アマジーグは北アフリカの先住民族として長い歴史をもつが、アラブ人征服、欧州諸国の植民地支配によって抑圧を受けてきた。アルジェリア戦争(1954~62)の敗北でフランスの統治が(公式には)終了したが、アマジーグの苦難は終わらなかった。アルジェリアでは1962年の独立後、アラブ・イスラーム化政策が進められ、それ以外の言語や文化は抑圧の対象となったのだ。
こうしたなか、アマジーグの言語や文化、歴史を保全する運動は、本国から遠く離れたヨーロッパの地でディアスポラ・アマジーグによって支えられた。アルジェリア独立から4年後の1966年、パリで設立されたベルベル・アカデミーは代表的な組織だ。同アカデミーはベルベルの言語・
その一人が、アルジェリア生まれの作家アマール・ネガディ(Ammar Negadi, 1943-2008)だ。ネガディは1960年代にフランスでアマジーグ文化保全運動を牽引し、その歴史や伝統、文化を掘り起こす作業に力を注いだ。なかでもネガディの功績とされるのが、アマジーグ暦の起源について文献や情報を集め、1980年に「紀元前950年をアマジーグ暦元年に定めること」を提唱した点だ。リビア系エジプト人として初めてエジプト王朝を創設したシェションク1世の即位年にちなんでいるという。
アマジーグ暦の新年「イェナイェー(Yennayer)」は、ユリウス暦の正月(1月13日)前後とされる。おもしろいのは、ディアスポラ・アマジーグが移住先のフランスで提唱したアマジーグ暦が次第に広く受容されるようになり、ついには本国の政府に採用されるに至った点だ。
アルジェリアでは2018年、アマジーグ正月を1月12日と定め、国民の休日とすることが決まった。モロッコでは国王モハメッド6世が2023年、アマジーグ正月を1月14日と定めると発表した。
アマジーグ暦の話が長くなったが、エスパス・マグでの2975年イベントは大盛況だった。パリを拠点に活動する舞踊団「キフキフ・ブレディ」によるアマジーグ舞踊は、柔らかさのなかに戦闘的なものを感じさせ、実に見応えがあった。観客も一緒に踊ることが想定されており、ショーというよりはダンスパーティーに近かった。私は5階に入り口のある天井桟敷席にいた。一階フロア席を眺めると、冒頭から観客がガンガンに踊っている。だが天井桟敷席は傾斜が激しく、前後左右の幅も狭い。どう考えても、ここで踊るのは無理だろう。そう思って、傍観者に徹するつもりでいたのだが、甘かった。最初の演目が終わった後、ダンサーの一人が天井桟敷席を見あげて促すと、待ってましたとばかりに周囲の観客が次々にたち上がった。そして肩を小刻みに震わせ、足を激しく踏み鳴らして踊り出した。
さまざまな年代の踊り手がいる。母と娘、友だち同士、若者、年配のグループ、一人で来ている人もいるが、圧倒的に女性が多い。ただでさえ狭いところで激しく踊るので、椅子の上に置かれたコートやマフラーが床に散乱していたが、皆、それを踏んづけ、蹴り上げながら、ものともせずに踊る。長椅子の間の狭いスペースが突如、拡大していくようだった。場所は与えられるものではなく、作るものなのだ。私もつられてたちあがり、見よう見まねで体を震わせてみた。
アマジーグ新年、ふたたび
熱気に満ちたダンスパーティーの翌日、ふたたびアマジーグ新年を祝った。ことし3度目の新年パーティーだ。
1月12日夕方、モレンベークに住むKの自宅に招かれた。Kはカビール人の親のもとにパリで生まれ、パリ政治学院で学んだ。10年前のパリ同時多発襲撃事件の後、反イスラム感情の高まるパリを飛びだし、ブリュッセルに移住。数か月のつもりだったが、現在に至っている。1年半前にベルギー人と結婚したのを機に、庭付き三階建の現在の家に引っ越した。Kは「中心部から遠くなった」と笑うが、南駅から地下鉄で5駅、ブリュッセル有数の商店街ショセ・ドゥ・ガンから数分という便利な場所だ。200平米ある老朽化した家を安く手に入れ、生活しながら少しずつ改修する予定だが、半年前に娘が誕生し、作業は遅れ気味という。
10人がけの長いテーブルの中央には、蝋燭の入った足の長いグラス4つが置かれ、それを囲むようにカビールのベルト、アグス――赤、オレンジ、黒、白、緑の羊毛の紐で編まれたカラフルなベルト――が飾られている。周りにはアマジーグの伝統的図柄をあしらった華やかな食器が置かれ、料理やお菓子が並ぶ。
カビールのベルト、アグス
あまりにおいしかったので、食べたものを列記する。バクリール(デュラム小麦で作られた小さなクレープ)、ムスンメン(四角いフラットブレッドで中にいくつもの層がある)、ニンジンとコリアンダーのサラダ、トマトとパプリカのペースト、アルジェリアの伝統菓子、食用花の入ったクスクス。アマジーグの料理とならんでチョコレートやフランドル風ガレット・デ・ロワといったベルギーらしいものもあった。
だが何より私の目をひいたのは、脇にあった大きなツボだった。キャンディがあふれんばかりに入っている。
Kにたずねると、アマジーグ伝統にちなんだ「儀式」に使うのだという。新年に一家で最年少の子どもを大皿にいれ、キャンディをふりかけて幸せを願う風習があるそうだ。地域によってはキャンディの代わりに胡桃を用いたりもするらしい。
Kの娘はまだ5か月と10日になったばかりだ。赤ちゃん用のソファにもたれ、灰色がかった青い大きな目を見開いて、テーブルを囲む大人たちの会話を静かに観察している。そのうち彼女はKに抱きあげられ、テーブル脇に準備されたカゴに移された。Kが大きなツボからキャンディを両手いっぱいにつかんだ時、彼女は少し不安気な表情を見せた。しかし、母がふりかけるキャンディの雨を泣くこともなく堂々と受けとめ、大人たちの拍手喝采を浴びたのだった。
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社会学者のタマラ・モス・ブラウンは、ニューヨークのカリブ海出身移民女性について調査を行い、故郷の料理を同胞とともに食べることが、女性たちの間に絆を生み、孤立を妨げていると指摘し、共に食す空間を「ソーシャル・フード・スペース」と名づけた(Tamara Mose Brown, 2011, Raising Brooklyn: Nannies, Childcare, and Caribbeans Creating Community, NYU Press)。同じことは料理だけでなく、祭りや伝統行事にも言えるだろう。仲間とバスティラを食べたり、アマジーグの新年行事を祝うことで、幼少期から慣れ親しんだ味や香り、感覚、興奮を再現し、身体で感じ、楽しさをわかちあう。こうして得られる一体感は、異国で暮らすディアスポラにとって家族や故郷の記憶を留める以上の意味をもつ。それは、主流社会の同調圧力をかわして自分たちのアイデンティティを保ち、新たな空間を切りひらく役割も果たしている。
2週間に3回の年越しを経験して、そのことを垣間見た気がした。