【前編】ケアする私たちの身体
名前のない不正義を明らかにし、誰かの負担によって誰かが利益を得る権力構造を問い続けてきたフェミニズム。他者や自分の弱さに向きあい、他者への関心と、誰もが抱える脆弱性から社会を考えてきたケアの議論。両者に共通するのは、「自立した強い個人」を前提とする社会像や、私的なこと/公的なこと、依存/自立といった二分法を問い直す視点です。
弱さから社会を照らし直したとき、知の定説はゆらぎ、生きられる経験の意味は変わりうるのではないか? 『フェミニズムを学ぶ人のために』『ケアを学ぶ人のために』の刊行を記念して、編者の申琪榮さんと西村ユミさんが「ケア的なことは政治的なこと」と題して対談しました(2026年7月25日、UNITÉ〔ユニテ〕)。その内容を2回にわけてレポートします。
連載トップページはこちら
どのような思いで本を編んだか
西村:私はこの対談のために、熱心に『フェミニズムを学ぶ人のために』を読みました。自分の編著の方を忘れてしまったほどなのですが(笑)、『ケアを学ぶ人のために』について簡単に紹介をさせていただきます。今、あらゆる分野でケアの議論がされています。それをできるだけ広く、同じ方向を向いていないような議論も含めて取りまとめたいと思いました。
私は看護師の資格を持つ研究者なので、日常的な仕事にケアという言葉を使います。一方、共編者の熊谷晋一郎先生は、「僕はケアを受けているほうだと社会から見られるかもしれません。でも、違うんです」と仰います。この「違うんです」のギャップがとてもユニークな方で、ほかでも一緒に研究していることもあり、ぜひ編者にと入っていただきました。障害を持っている方、疾患を持っている方も執筆にご参加いただきました。幅広い分野で活躍されている方々と一緒に本を作ることで、ケアを別の角度から見直してみることができるのではないかと考えました。
本の前半ではケアの定義や理論的な議論を扱い、後半ではより実践的なことや社会を作りかえていく活動について紹介しています。私たちが漠然と抱いている自立した強い個人を志向する社会観や価値観をどう変えていけるのかを考え、その活動に私も参加したいという思いがありました。
申:私は自己紹介をしながら本の紹介をさせていただきますね。私は2008年からお茶の水女子大学で教えています。専門は政治学ですけれども、政治学とフェミニズムの両輪でやってきました。自慢として申し上げるとすれば(笑)、生まれつきフェミニストということです。フェミニズムの視点から政治学を研究してきました。
ジェンダーやフェミニズムの本はたくさん出ていますが、それらとはアプローチが違うフェミニズムの本を作りたいとずっと思っていました。そのために二つの特徴を考えました。一つは、フェミニズムがどれだけ広い分野で知の生産に挑戦し続けてきたのかを見せること。各章のタイトルをご覧いただくとわかるように、「表象」や「認識論」、「政治代表性」というように一般名詞になっていて、学問分野を横断しています。あまりフェミニズムとセットでは考えられることのない「科学・技術」とか、「安全保障」なども入っています。フェミニズムは運動であると同時に、新しい知の生産として既存の学問を問い直してきたことがわかるような構成にしました。
二つ目の特徴は、日本という立場性とフェミニズムを交差して考えるということです。各分野(章)の論点を2節で整理した後、3節で日本という特別な歴史的・社会的・政治的文脈のなかでどのように語られてきたのかを述べています。そうすることによって、日本という場所においてフェミニズムがどのような意味を持つのかを、読者が考えられるようにしました。
西村:熱い思いをうかがいました。本も「厚い」のですよね(笑)。読むのに時間がかかりました。申先生が自己紹介をされたので、私も自分のことを少し振り返ってお話ししますね。
私はスポーツが好きで、大学に行きながらずっとスポーツをしていました。大学をやめてスポーツ選手になっちゃおうかなと思いながらも踏みとどまったのは、目の前にいる患者さんのケアを学生なりにするプロセスのなかで、今やろうとしていることにすごく意味があると感じたからなんです。そうして看護学の世界に行きました。本のなかにも書いたのですが、植物状態(遷延性意識障害)の方と接するなかで、意識がなく応答しないと言われている患者さんたちから何かを感じるんです。それって何だろう?ということをもっと考えたくて、哲学の方に道を変えました。でも、哲学に行ってしまうのではなく、哲学と看護の間に立とうとしています。
フェミニズムとケアの多面性と新しさ
西村:『フェミニズムを学ぶ人のために』は切り口が本当にいろいろですよね。私は「沖縄と暴力」という章にとくに関心を持ちました。女性、男性という二分法があるだけでなく、女性の中にも区別、差別がある。今まで見えてなかった/見てこなかった、自分も陥ってしまっている/加担している立場性を指摘されたように思いました。そのフェミニズム的レンズによって、何度もわれに返り、内省しました。
申:そんなふうに読んでもらいたいなと思っていたように、西村先生が読んでくださったと知って、本当ありがたく思います。
私はケアについては専門家ではないのですが、フェミニズムの立場からケアに対して二重の気持ちを抱いてきました。最初にケア論が出てきたとき、「これって、また女性たちにケアを押し付けることになるのでは?」と思いました。キャロル・ギリガンは『もうひとつの声で』(1982年/邦訳は『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』風行社、2022年)で、男性たちの正義の倫理とは違う、女性たちが日常的な関係性のなかで持ってきた倫理的な声を拾い上げようとしました。でも私は、ケアが女性に還元され、本質化されてしまうことへの警戒心が強くありました。近代的な人間像とは違う生き方や平等な関係づくりにおいて、ケア論が有効であることは承知しつつも、距離を置いてきました。
今回、『ケアを学ぶ人のために』を読んで、
ケアの実践は多面的ですし、美徳だけではなく抑圧的な側面もあります。身体性を取り上げることで、ケアすることは気持ちだけではないんだよと、誰かが体を動かして遂行しなければいけないんだよ、ということが見えてきます。身体を通じて接触が生まれますし、接触を通じて自分の体に刻みこまれる行動様式や態勢そのものが変わっていくんですね。そのことをいろいろな現場の声から拾い上げてくださっているので、もっとケアについて深く考えたいという気持ちになりました。オルタナティブな可能性を考えるために読むべき本だと思います。
大変おもしろかったのは「TALK BACK」というコラムです。重度身体障害者の立場から、「私は『ケア』が苦手だ」とストレートに書かれています。その声も非常に貴重なんですね。この本の作り自体が、ケアへの態度やアプローチの包摂性を表しています。ケア論に生じうる危険性をちゃんとふまえてから、議論すべきだという姿勢に感動を覚えました。
西村:私は『フェミニズムを学ぶ人のために』を読んで、著者のみなさんお一人お一人が知の構造を問い直そうという強い意志を持たれていることを感じ取りました。聞くところによると、7回も研究会をされたとか。どんな議論が交わされて、できあがっていったんでしょうか。
申:ちょうど私がサバティカルでアメリカに滞在していた時期だったんです。アメリカは夜で日本は朝という12時間の時差を乗り越えて、太平洋を越えて、オンラインで研究会をしました。執筆者を募る際、「みんなで研究会をしましょう。楽しいですよ!」と執筆者の皆さんにお声かけしました。議論して学び合いながら本を作るというのが魅力的に聞こえたらしく、全員快く引き受けてくださいました。1回の研究会は3時間で、1章について1時間、構成の発表と議論を行いました。他の章がどのような議論になるのかがあらかじめわかりますから、自然と章ごとの役割分担もできました。編者としては幸せな経験でした。
西村:『ケア~』の場合はですね、執筆者のキャラクターがみな個性的で、全員一緒に議論したらまとまらなかったもしれないです(笑)。とにかく広がりすぎたケアの議論をひとつの形にまとめてみることで何かわかってくることがあるのではないかと、そういう本づくりであったように思います。
ケアを労働と身体から考える
申:私が学んできたのはフェミニズムにおけるケア論なのですが、この本が扱っているのは医学とか実践とか、それとは違う議論が多いですね。私がとても勉強になったのは障害学からの議論です。
私はケアを二つの軸で考えています。一つは倫理です。関係性を重視する応答性、応答する責任といったことです。もう一つは、身体をもって遂行する労働です。フェミニズムはこの労働の部分に非常にこだわってきました。ケア労働はおもに無償で行われてきましたし、非常にジェンダー化されていますし、最近は人種化されています。その中で、ケアを担わなくてもすむ人たちがいるわけですね。フェミニズムは「誰がこの労働を担うのか?」と問うてきました。
『フェミニズムを学ぶ人のために』のなかにも「ケア」という章があるのですが、『ケアを学ぶ人のために』のなかの「ケア」とは方向性が違い、労働としての側面に焦点を当てています。しかし、共通する点があるとしたら、「身体」かなと思うんです。労働は体を通して実行されるもので、そこから価値が生まれますが、その身体には疲労も生じますし、回復も必要です。先生は身体性にどのようにアプローチしたのか、労働との関係をどう考えていらっしゃるのか、うかがいたいです。
西村:難しいですね。私は労働という観点で議論をしてこなかったように思います。なぜでしょうね…。私は看護師で、看護は労働です。コロナ以降、診療報酬の改定が何度かありましたが、報酬は全然上がらず、病院がつぶれていくという状況になっています。ですので、労働に対する関心をもっと持つ必要があるというのはそのとおりです。
ただ私は、経験から入ったところがあって。植物状態の患者さんたちに合わせて無意識に動いちゃう私たちの身体性ってなんだろう?というのが最初の問いだったんですね。本にも書いたエピソードなのですが、私が電車に乗っていたとき、隣に立っていた男性が突然倒れかかってきました。思わず体を支えたんですけれども、大柄な方だったため抱えきれずにいると、周りの人がサッと来て一緒に支えてくれ、座っていた人が「どうぞ」とその男性を座らせてくれました。「車掌さんに伝えてきます」という声が聞こえてきたら、次は「看護師さんを呼んできました」という声がしました。私も看護師なんですけれども(笑)。
何か起こったときに思わず体が動く、気になってじっと見る。思わず応答してしまう身体があるんですね。ならばそれをちゃんと可視化しよう。当たり前にやってしまっているために、気づいていないけれども日常的な身体性や関係性を考えよう。そうしたプリミティブな問いからスタートしているので、労働とのつながりが希薄なんだと思います。
習慣化/ジェンダー化される身体
申:身体性に注目するのは、関係性というのが思いやりとか心情的なものだけではないからなんですね。接することで自分の行動を変えていかなければならない。子どもが生まれたら抱っこしたことがなくても抱っこできるようにならないといけない。繰り返しているうちに身につけて、身体化されていきます。御本ではそれを切り取ってくださっている。それが非常に大事だと思います。労働も体を動かして、時間をかけて身につけていって専門家になっていくわけですけれども、女性がケアを行う場合、「女性だから自然にできるでしょ」と見なされて評価されず、労働の配分が不均衡になってしまうんですよね。
そう考えると、ケアを自然化せず、ケア労働の価値や社会的配分をどのように公平にしていけるのか、つまり「ケア・ジャスティス」という考え方も必要かなと思います。
西村:身体が思わず応答してしまうといっても、突然始まるわけではなくて、いろんな状況を通して獲得していくのだと思います。私の場合は、子どもの頃から女の子なんだからこうしなさいとか、女性はそんなことをしなくてもいいとか、そういうことを結構言われてきました。ある時期から私はそういう言われ方に反発しながら育ってきたのですが、それでもいろんなものにケア的に応答するということを知らない間に習慣化してきた可能性があります。
申:人がどのような行動をどのように身体化していき、それがいかに「自然」になっていくのか。このプロセスがジェンダーと強く結びついてきたのは否定しようが
ケア論になかなか入って行けない理由はもう一つありまして、定義が広がりすぎるところなんです。ジョアン・トロントは、ケアは生きるために行う「人類的な活動」と述べますが(『ケアリング・デモクラシー――市場、平等、正義』勁草書房、2024年)、そこまで広げると、ケアの特徴はなんなのか、むしろ議論ができなくなるのではないか、と思ってしまいます。そのような根本的な悩みはなかったでしょうか。『ケアを学ぶ人のために』の執筆者どうしで、ケアのとらえ方における対立はなかったでしょうか。
西村:著者どうしが対立するということはなかったのですが、内容が対立的に見える部分はあるかもしれません。先ほどふれていただいたTALK BACKがわかりやすいですが、当事者の一人・油田優衣さんが「ケアという言葉が苦手だ」とはっきり表明して、その理由を論理的に述べているんですよね。
とはいえ、ケアを肯定的に捉えて、ケアはいいですよ、と書いてある章がほとんどないのも事実です。これをケアだと名付ければ、ここではこういうことが起こっている、という切り口のものが多いです。どの章もケアはこうあるべきだというふうには書いていません。むしろ、ケアは一筋縄ではないということに気づきながらお読みいただけたらと思います。

本の詳細やネット書店でのご購入はこちらから
本の詳細やネット書店でのご購入はこちらから




