濱口竜介監督作『急に具合が悪くなる』映画評【松嶋 健(人類学者)】
第79回カンヌ国際映画祭にて最優秀女優賞を共同受賞し、世界中から熱い視線が注がれる濱口竜介監督最新作『急に具合が悪くなる』(6月19日公開)。原作から大幅に書き換えられた物語の決定的な着想源となった書物
『プシコ ナウティカ』に寄せられた濱口竜介監督の言葉
松嶋健さんの、イタリア地域精神保健をめぐるフィールドワークから編まれた強靭な思考。私は本書で初めてフランコ・バザーリアというイタリア精神医療の改革者を知って、静かな、深い衝撃を覚えた。それがそのまま『急に具合が悪くなる』の劇中演劇の題材となっている。それのみならず介護施設を舞台とする、原作から大いに飛躍した映画の物語を紡ぐ際に、本書が示す「〈人間〉に対するアニミズム」という言葉が、ひとつの大きな指針となった。私たちの社会は、そもそも人間を魂を持つ存在として扱っているか?


『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』
松嶋 健 著
定価 6,380円(税込)/世界思想社 刊
濱口竜介監督が「映画の物語を紡ぐ際に、ひとつの大きな指針となった」と寄せ、主演の岡本多緒氏が「一番感銘を受け、ここから学べること、伝えられることがいっぱいある」と語った映画『急に具合が悪くなる』の「もう一つの」原典。
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「映画における演劇」という映画的奇跡
濱口竜介監督によると、映画『急に具合が悪くなる』の脚本を書くのに2年半ほどの時間がかかったという。それだけ難しかったのである。1つには、同名の原作が哲学者と人類学者とのあいだの手紙のやりとりであるのに対し、映画では具体的な場所で二人の対話を実際に撮影しなければならないという、映画を作る上での現実的な制約からくるものだったろう。だがこの制約のおかげで、「原作から大いに飛躍した映画」は、原作とはまた別の相貌をもつ作品としてさらなる深さと広がりを得
哲学者と人類学者が、(哲学を学んだ)日本人の舞台演出家である真理と(人類学を学んだ)フランス人の介護施設長マリー=ルー(以下「マリー」)に変わったこと、その介護施設で認知症の高齢者に対しユマニチュードという技法が試みられていること、原作では2ヶ月強の期間に交わされた手紙のやりとりが、映画ではマリーと真理が出会う決定的な1日とその後の数週間という時間に凝縮されたことなど、複数の要素がこの「飛躍」を形づくっている。なかでもこの映画に深度と普遍性をもたらしたのは、映画のなかで演じられる劇中演劇である。
『ドライブ・マイ・カー』におけるチェーホフ『ワーニャ伯父さん』のように、映画内での演劇は、単なる1つのエピソードではなく、濱口作品におけるいわば魂の部分を担っている。このようなかたちで演劇をその起爆力への深い自覚とともに映画のなかに取り入れた監督としては、誰よりもまずイングマール・ベルイマンが思い浮かぶ。ベルイマンについてジャン=リュック・ゴダールはこう語っていた。「セットでは常に一人なのであり、そしてベルイマンにとって、一人だということは問いを発するということである。映画を作るということは、この問いに答えることなのだ」。これは映画監督について述べられたものだが、舞台の上の俳優についても当てはまる。

『急に具合が悪くなる』における劇中演劇は、長塚京三が見事に演じる舞台俳優吾朗の一人芝居というかたちをとっている。その吾朗が舞台上で発する問いはこうである。「健康な者たちは本当に生きているのか」。真理が演出家として手がけたこの劇のタイトルは、イタリア語でそのまま“Da vicino nessuno è normale”(近づいてみれば、誰もまともな人はいない)となっており、これは精神病院を全廃したイタリアにおける精神医療改革のスピリットを表す言葉からとられている。そして吾朗が演じるのは、その改革を担った中心人物フランコ・バザーリアその人である。先の問い、「健康な者たちは本当に生きているのか」は、バザーリアたちが為したことを『プシコ ナウティカ』において私なりの言葉で表現したものだが、この問いこそ本映画が、観る者すべてに突きつける問いにほかならない。濱口監督は今回、自ら戯曲を書き下ろすことでこの問いを独特なかたちで作品の核として立て、同時に196分という長さの映画を通してこの問いに答えようとしたのだ。ここにおいて、余命半年を宣告された真理の痛みと苦しみは、認知症となって施設で最期を迎える老人たち、さらには自らを健康であり、まるでいつまでも死なないかのように感じながら生きている「私たち」の問題へと一気に深まるのである。
カンヌ国際映画祭でのワールドプレミアの後、濱口監督は、前作の『悪は存在しない』と本作に共通しているのは「しんどさ」だと語っていた。どうして今の社会で生きていると、こんなにも毎日しんどいと感じるのだろうか。それは先の問いと一緒になって次のようなことを観る者に考えさせる。十全に生きることを阻む「何か」があり、それゆえ本当に生きるのが難しいということこそが、私たちの日々の生活にしんどさをもたらしているのではないか。

その「何か」をめぐって、マリーと真理は出会ったその日の夜、介護施設の休憩室で延々と語り合う、せっかく入れたコーヒーを飲むのも忘れて。哲学を学んだ真理はそこで、ホワイトボードに資本主義の「構造」とその「外」についての図を描きながら、マリーに構造の「内」と「外」の関係について説明する。原作の往復書簡にはないこのやりとりは、濱口監督が「しんどさ」の源を、末期がんのような特定の病気による個人の問題としてではなく、資本主義という「構造」との関連でより普遍的に捉えようとした証左と言えよう。そしてそれは、ユマニチュードという「人間的な」ケアの方法を介護施設に導入しようとするマリーが、予算や制度や「安全性」の追求や現場スタッフの抵抗に出会って感じる困難やしんどさと通底する。これは、たとえ具体的な事象としては異なっていたとしても、私たちが毎日、職場や学校、病院やもろもろの施設において遭遇している問題にほかならない。それはまた、映画づくりの現場において監督が常に直面する問題でもあるだろう。
イタリアでフランコ・バザーリアが為したのは、単に精神病者を収容する精神病院をなくしたということではない。彼は「精神疾患」や「精神障害」というものがあるのではなく、今の社会のなかで生きていく上での困難や危機がこじれた、様々なかたちの苦しみやしんどさこそがあるのだと考えていた。それゆえ彼は、精神科医として精神疾患を「治療」しようとしたのではなく、資本主義という巨大機械に組み込まれた施設と制度のなかで、その制度を別様に使いながら、生きる喜びや力がどうすればより湧いてきやすくなるかということを考え、様々なことを実験し実践したのである。それは結果として国の法律を変えるところまで至り、イタリア全土の精神病院は閉鎖された。そんなことがまさか可能であるとは誰も考えたことがなかったにもかかわらず。こうしたことが、「不可能なことは可能である」という、劇中で吾朗が繰り返す言葉の背景にはある。
そして、イタリアで「不可能なことを可能に」したのがアッセンブレア、すなわち、精神病院のなかで病者と医師と看護師がどんなことに関しても話し合う場である。意見や考えが異なっている者同士が、それでも同じ場に身体的に共に現前して考えを述べ(あるいは沈黙し)、他の者たちの「声」を聴くのである。「バザーリア的装置」とも呼ばれるこのアッセンブレア(このイタリア語には、集まり、集会、会議、そして議会という意味がある)こそが、誰もが「不可能事」だと暗黙のうちに前提していたことを少しずつ覆していったのである。濱口監督は、『悪は存在しない』でのグランピング「説明会」に続いて、本作でも介護施設におけるミーティングの場面を長い時間をかけて撮っている。そこでは、マリーの方針に反対するベテラン看護師をはじめ異なる思惑をもった人々とのあいだの齟齬や感情的対立が露わになる。だが、にもかかわらず、このバザーリア的装置こそが、マリーと真理の二人の対話を、人々の「あいだ」の世界へと開いていくのだ。このことの重要性は、「民主主義」の名の下に選挙を通じた「多数者による支配」が正当化される現代世界においていくら強調しても足りない。濱口監督はそのことをよくわかっていると思う。
さらに、私たちはもう一つ、「不可能なことは可能である」と示すことのできる装置を知っている。演劇である。人類の黎明のときからあるこの儀礼=芸術は、人間が「死」に直面するという、普段は不可能なことを可能にする装置でもある。観る者も身体的に共在しているにもかかわらずそれが可能なのは、演劇においては枠がある程度明確であるため、観る者があくまで play(遊び/ゲーム/芝居)であることを知りつつ観ることができるからであろう。映画の場合、それがフィクションだと知ってはいても、観客が映画のなかの「現実」に没入するよう基本的には作られている。このことが逆説的に、映画のなかの死をある登場人物の死として受け止め、映画を観終わった後にはそれを忘れることを可能にする。私たちの多くが、テレビで毎日無数の「死」を見ても、それを忘れて日常生活を送ることができるように。おそらく映画と演劇とのあいだのこうした逆説的な関係が、なぜ映画の中に演劇という装置が要請されることになるか、その理由を示唆しているだろう。
映画におけるドキュメンタリー的要素とフィクション的要素のバランスを常に意識している濱口監督は、劇中演劇というかたちをとらない場合でも、演劇的要素をその作品のなかでしばしば用いてきた。例えば、『偶然と想像』において、高校時代の友人と久しぶりに再会したと思った夏子とあやが人違いだとわかった後、それでもやはりその友人だったということにして互いに演じ始めるエピソード。あるいは、『寝ても覚めても』で朝子の前に現れる瓜二つの男性、麦と亮平。「あなたは一体誰?」。
「取り違え」や「双子」というのは、人類学が対象としてきた民族社会の神話では頻繁に出てくるテーマであるが、こうした仕掛けを通じて濱口竜介は、私たちがそうであると信じ込んでいる同一性に揺さぶりをかける。「認知症患者」とか「末期がん患者」、あるいは「私」といったアイデンティティをである。「私は〇〇である」のではなく、「私は私でありつつ、〇〇でもあり、△△でもある」あるいは「私は〇〇ではないし、△△ではないし、もしかすると「私」ですらない」。「まり(真理/マリー)、あなたは一体誰?」。こうした演劇的仕掛けによって濱口監督は、「私は〇〇である」という固定された視座からは不可能にしか見えなかった、別様でありうる私と世界の可能性を顕現させるのだ。
バザーリアがやったこともある意味では同じである。彼は「精神障害者」と「健常者」、あるいは精神病院の「内」と「外」の境界を揺るがし、それらを混ぜ合わせた。そうすることで、「内」と「外」が確たるものとしてあるのではなく、「内」のなかに「外」があり、それゆえ「内」にいながらにして「外」に出ることもやりようによってはできるのだということを示したのである。そこに、生きる喜びと力が湧いてくる、あるいは湧きやすくなる状況が生まれる。それは個人が「力」や「元気」をあげたりもらったりするという、最近誰もが使うようになった言い回しに見られる交換モデルとは違い、人々の「あいだ」に、そうした「場」に、「力」や「いのち」がどこからともなくふつふつと湧いてくるということである。そのような「あいだのいのち」が確かにあるのだ。そして、「あいだのいのち」が現出するとき、人は永遠を感じる。マリーと真理がセーヌ河畔を並んで歩きながら、そして介護施設で話しながら感じた、あの永遠に続くかのような夜のように。

それは、京丹波で二人が食べるインスタントヌードルの3分という計測可能な時間(クロノス)と対比されるような、いわば「無時間という時間性」(アイオーン)である。この時間性の次元に浸され「あいだのいのち」を感じた者は、人は死んでも死なないのだということを深く理解するだろう。そう、個体の生物学的な生命は死んでも、「あいだのいのち」は死なないのだ。
資本主義というのは根本的にクロノスの時間性における先取り競争であり、そこでは人はいつも遅れていると感じさせられ、追い立てられることになる。その無際限な成長へのプレッシャーは、個々の人間においては何十年という数字で計られる生物学的な生命をできるだけ(若さを保ったまま)永続させたいという欲望として現れる。この「不死への欲望」が資本主義機械を駆動する隠れたエンジンにほかならない。フランコ・バザーリア「について」の映画ならすでにあるが、精神疾患を資本主義に関わる諸制度の問題として捉えた彼の思想と実践の核を理解し、バザーリア「とともに」、バザーリア「を超えて」実現された映画というのは、この作品以外にはない。
映画のなかで濱口竜介はいつも、「あいだのいのち」が立ち現れる瞬間を捉え、フィルムに定着しようとする。そのようにして特別なその瞬間を記憶し反復しようとするのは、古代から儀礼や芸能が担ってきたのと同じ営為であるが、それは現代においては、ほぼ芸術だけに可能なことのように思われる。だからこそ、真の意味で芸術的であることがそのまま深く政治的でもありうるという、通常の意味での「政治的」とは異なる、資本主義機械への内在的批判になりうるのだ。この映画のスローなテンポに同調することで、観客は「不死への欲望」に突き動かされるのとは違う、別の時間性へといざなわれる。
そうしてこの映画は、死と時間性をめぐる深い洞察に達することになる。この点において本作品は、意外なことに、日本列島における演劇的芸能の極北ともいうべき能に近づく。映画はマリーの居眠りのシーンで始まり、マリーの居眠りのシーンで終わる。あたかも映画全編がマリーの見た束の間の夢であるかのように。生ける者と死せる者の境界を揺るがせながら生者と死者が交歓する複式夢幻能というかたちは、濱口映画における演劇的入れ子構造のなかに確かにこだましている。人類の古い記憶における演劇的儀礼の回帰とともに、この映画は観る人のからだとこころをゆっくりとしかし着実に変容させる。この映画を観た後、人は資本主義機械の中にいながらも魂をもった〈人間〉であろうと(無意識のうちにであれ)するにちがいない。この作品は、見終わった後にも永く静かに影響を与え続ける。それは確かに、「映画における演劇」がもたらす映画の奇跡なので
■映画情報
『急に具合が悪くなる』
6月19日(金)TOHO シネマズ日比谷ほか全国ロードショー
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
監督・脚本:濱口竜介
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
配給:ビターズ・エンド
製作:Cinéfrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimatfilm、Tarantula
フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
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