第1回 現場に身をおくことの意味
2026年6月19日(金)より全国公開されている濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。
本作の物語全体を導く重要な着想源であり、劇中演劇の参照元ともなっているのが、人類学者・松嶋健氏の著書『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』(世界思想社)です。
第79回カンヌ国際映画祭での〈最優秀女優賞〉受賞の興奮も冷めやらぬなか、前作『悪は存在しない』の上映が行われた「旅する大学」真庭企画にて実現した、二人の対談を全5回にわたってお届けします。
【編集部注】
2026年6月19日(金)より全国公開されている濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。本作の劇中演劇の参照元であるだけでなく、映画における物語全体を導く着想源が、人類学者・松嶋健氏の著書『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』(世界思想社)である。映画公開を記念し、前作『悪は存在しない』の上映が行われた「旅する大学」真庭企画で実現した二人の対話を5回にわたってお届けする(2026年6月6日、岡山県の真庭市立中央図書館にて収録)。第1回は、この対談が実現した経緯と、その土地を歩いてから映画を観るという経験の重要性について。
真庭の旭川 (撮影:松嶋 健)
旭川の橋の上を歩く、旅する大学の参加者たち (撮影:松嶋 健)
対談の前に
松嶋 健
前の週に終わったカンヌ国際映画祭の熱気もまだ覚めやらぬ6月初旬の夕方、ごった返す岡山駅で私はある人を待っていた。しばらくして階段を降りてきたその人に思わず私は、「マスクもしないで、声かけられませんでした?」と尋ねたが、「いや、全然大丈夫でした」とその人は飄々と答えた。これから車でさらに1時間半、鳥取県との県境にある岡山県真庭市にその人、映画監督の濱口竜介さんと一緒に向かうのだ。というのも、翌日、濱口監督の映画『悪は存在しない』の上映会とその後の対談が、真庭市立中央図書館で行われることになっていたからである。
今回の上映会は、松村圭一郎さんと私が一緒に2022年からやっている「旅する大学」、その真庭編の中の特別セッションとして企画されたもので、映画監督の山﨑樹一郎さんが世話人をつとめるManiwa Anthro Visionがホストとなった。そのせいもあってか、今回の「旅する大学」は、これまでの各回とは異なり、映画や小芝居などパフォーマンスが目白押しのプログラムとなった。https://note.com/itinerant_univ/n/n954c496672c0
岡山駅を出発した車は、松村圭一郎さんの「まるで重力を感じさせない」ような安全運転で高速道路を走る。真庭までの車中は、映画をめぐるさまざまな話に花が咲き(特になぜだかイタリアの女優モニカ・ベルッチの話で異様に盛り上がり)、気がついたらもう真庭に着いていた。
その日の夜は、「旅する大学」真庭編のホストの皆さんと一緒に、地元の旨い料理と日本酒(辻本店の御前酒)に舌鼓を打つ。濱口さんもリラックスしてとても楽しそうだった。
翌日は、「旅する大学」の初日。北は札幌、南は鹿児島から集まってきた参加者は、中国勝山駅からまずは歩くことになる。初夏の強い日差しのもと、旭川を渡ってぞろぞろと30分ほど歩き、清友健二さんの農園に着く。そこで清友さんが実践する農の話を聞く。映画『百姓の百の声』にも登場した清友さんの独特の語り口はとても魅力的で、濱口監督も興味をもっていろいろ質問をしていた。
そこからさらに1時間ほど歩き、今度は勝山町並み保存地区を散策する。たっぷり汗をかきだいぶ日焼けもした頃、ようやく昼食。「旅する大学」では、まずは現地をちょっと疲れるくらい歩いて、その土地や空気を自分のからだに馴染ませることがとても大事だと考えている。その後で食べた銀鱈の粕漬けのおいしかったこと!
その後で、午後のレクチャーが始まる。「はじまりとしての21世紀真庭塾」と題して、地元の企業家である中島浩一郎さん、行藤公典さん、そして御前酒蔵元の辻麻衣子さんが、真庭の現状や課題について語った。
レクチャーの後、今度は中央図書館に移動して、『悪は存在しない』の上映会。これには、「旅する大学」の参加者だけでなく、他の一般の方も多数参加されていた。そして映画が終わった後、いよいよ濱口監督との公の場での初めての対話が始まった。
©2023 NEOPA / Fictive
土地にからだを馴染ませる
松村:「旅する大学」の松村圭一郞と申します。今回の対談イベントが実現した経緯を簡単にご説明します。広島大学で教えておられる私の人類学の先輩でもある松嶋健さんが書かれた『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』という本があります。この本が、先頃カンヌ国際映画祭で上映された濱口監督の最新作『急に具合が悪くなる』の重要なパートの中で使われている、という話を昨年、松嶋さんから聞きました。それなら、松嶋さんとの対談であれば濱口監督も来てくれるんじゃないかと。それで、山﨑樹一郎さん経由で連絡を取っていただいたら、「松嶋さんとの対談なら、ぜひ行きます」と快諾いただき、カンヌ国際映画祭から帰国されたばかりの大変お忙しい中、このタイミングで対談が実現しました。今日は、先ほど上映された『悪は存在しない』を中心に、最新作にも触れながらお話いただければと思います。『プシコ ナウティカ』は分厚い本ですが、私たちがやっている「旅する大学」の理論的支柱でもあるような本なので、よかったらお手に取ってみていただければと思います。それではお二人よろしくお願いします。
濱口:『悪は存在しない』をご覧いただき、ありがとうございます。松村さんから言っていただいたような経緯で来たのですけれども、松嶋さんの『プシコ ナウティカ』を読みまして大変感銘を受けました。『急に具合が悪くなる』の中でもかなり直接的に引用しているのみならず、この映画の精神そのものの部分で、非常に共鳴している本だと思っています。『急に具合が悪くなる』は、磯野真穂さんという文化人類学者と宮野真生子さんという哲学者の方の間で交わされた往復書簡(『急に具合が悪くなる』晶文社)が原作ではあるのですけれども、物語としてはそこから大いに飛躍をした映画です。その飛躍の一つの支えになったのが、松嶋さんの『プシコ ナウティカ』でして、こうしてお話できるのを心から嬉しく思っております。
松嶋:こうやって真庭に実際に足を運んでいただいて、本当にありがと
これは「旅する大学」に通底するテーマでもあります。実際にその土地へ足を運び、みんなで歩いて土地にからだを馴染ませながら考えるということが現代においてどれだけ重要か。フィールドワークをその方法論の中心にもつ人類学者としては痛感しています。ですから、単に忙しいなかおいでいただいたということではなく、濱口さんが自分の身をここにおいてくださっているということの大きな意義をまず強調しておきたいと思います。
濱口:本当に朝から参加させていただいてよかったなと思っています。この会場には「旅する大学」に参加されていない方もいらっしゃるので、体験にグラデーションがあると思うんですけど、これはただの映画の上映イベントではないわけですね。「旅する大学」という一つの流れの中に位置づけられている。それで午前中から何をしていたかというと、まずは清友園芸さんを訪ねて清友さんのお話を直接に伺いました。例えば「こういう問題がある」とか「こういうふうに運動をしている」みたいなお話を聞く。しかも、中国勝山駅から歩いてそこまで行き、また駅まで戻って今度は檜舞台がある勝山新町を通ってこちらまで歩いて来ました。そしてお昼ご飯の後には銘建の中島さんや御前酒の辻さんや行藤さんのお話を伺うことができました。そこで語られていたのは、どこでも起きていること、「人口が減っていくなかどうやって暮らしを支えていくか」ということで、ここ真庭ではこういう取り組みをしている、それは単純に問題を解決するということじゃなくて、生きること、暮らしとしてやっている、というようなお話でした。映画の上映のとき隣で観ていた方が、「この映画を観るのは今日で2回目ですが、『旅する大学』で話を聞いてから観ると全然違いますね」とおっしゃっていて、私も本当にそうだと思いました。今日こういう流れの中で観られてとても良かったと思います。
松嶋:ここ真庭では、外から移住してこられた方と元からこの土地にいた人たちが一緒になっていろんなことをやっておられます。そうしたなかの一つとして、今回のように映画を観て話をしたりだとか、映画を一緒に作るといった試みもされています。
ところでいま、『悪は存在しない』をご覧になって皆さんそれぞれに印象に残ったシーンがいろいろあると思いますが、なかでも私が特に重要だと思うシーンとして、グランピングの建設をめぐる住民説明会があります。東京の芸能事務所プレイモードからやってきた高橋と黛という二人に対し、地元の住民たちが次々と意見を述べる、あの延々カメラがまわっているミーティングの場です。アッセンブレアとも呼ばれるこうした話し合いの場面を映画でこれだけ長く撮るというのは稀有なことだと思います。新作の『急に具合が悪くなる』でも、主人公のマリー=ルーが施設長をしている高齢者介護施設でのミーティングのシーンがかなり長く続くんですけれども、これを映画の中で自覚的にやっているのは、濱口監督と今回カンヌでパルム・ドールを受賞したクリスティアン・ムンジウの2人くらいだと思います。現代において映画で何を見せるのかというときに、アッセンブレアと言いますか、意見の異なる人々の対話の場面を見せるというのは、その映画がもつ社会的な意味においても、きわめて重要だと私は考えています。このことを逆に象徴的に示しているのは、『悪は存在しない』の中で、グランピングのコンサルタントと芸能事務所の社長は絶対に現場には来ないということです。
ちなみに『悪は存在しない』の舞台は「水挽町」ですね。架空の町ですが、実際には富士見町でしたか?
濱口:説明会の場所などは富士見町ですね。正確には長野と山梨県の県境で、山梨に行ったり長野に行ったりして撮っています。「ここは開拓でできた土地だ」というのは山梨のほうの特徴なんですけど、ここにある景色としては長野という感じで、それらを全部架空の町である水挽町としています。
松嶋:八ヶ岳のふもとから広がるあたりですよね。映画の中ではある一つの町の話ですが、日本の様々な地域において似たような問題が起こっています。そういう意味でも、ご覧になった方は自分たちの問題につながることとして受け止められたのではないかと思います。この映画を今日初めて観られた方も多いと思いますし、何回かご覧になった方もいると思います。ちなみに私は7回目です。
濱口:ははは、そんなに(笑)ありがとうございます!
松嶋:ちなみに濱口さんは何回目なんですか?
濱口:7、8回目くらいですかね。完成品になってからはそれくらいです。
松嶋:この映画を最初に観た人の多くは、ラストシーンで「なんじゃこりゃ!?」ってなるのではないかと思います。私も、公開された2024年の5月に映画館で観て「なんじゃこりゃ!?」となり、次の週にもう一度観に行って、また「なんじゃこりゃ!?」となり、結局三度劇場に足を運ぶことになりました。たぶん今日ここにおられる皆さんも「ラストシーンはどういうことなの?」というのをお聞きになりたいと思うんですけれども、それについてはひとまずおいておきましょう。(会場笑)
というのも濱口監督は、映画を観た皆さんが自分の中でいろいろ考えたり想像してほしいと考えてあのラストシーンを撮られたと思うからです。ラストシーンについてはまたあとで戻ってきます。
濱口:ああ、戻るんですか?(笑)
松嶋:だってさすがにそこについて何も聞かずに濱口監督を帰すわけにはいかないでしょう?
第2回へ続く
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[2023年/106分]©2023 NEOPA / Fictive
監督・脚本 濱口竜介
音楽:石橋英子/撮影:北川喜雄/録音・整音:松野泉/美術:布部雅人/照明:秋山恵二郎
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子ほか
第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員大賞)受賞
映画『急に具合が悪くなる』
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[2026年/196分]©2026 Cinéfrance Studios - Arte France Cinéma - Office Shirous - Bitters End - Heimatfilm - Tarantula - Gapbusters - Same Player - Soudain JPN Partners
監督・脚本:濱口竜介
音楽:サミュエル・アンドレイエフ/撮影:アラン・ギシャウア/録音:ピエール・メルタンス/サウンドエディター:ポール・エイマンス/ミキサー:トマ・ゴデール/美術:ミラ・プレリ
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞
書籍『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』
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[2014年/484ページ]©2014 sekaishisosha
著者:松嶋健
出版社:世界思想社
定価:6,380円(税込)
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