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モザイク都市ブリュッセル

パレスチナと出会う

窓辺に掲げられる旗

 ブリュッセルを歩いていると、思いのほか多くの旗に出くわす。最初に目につくのが国際機関の旗だ。EU本部が置かれる「欧州の首都」では、38のEU関連機関やNATOなどの国際機関の旗がはためいている(Bruxelles, capitale internationale et véritable atout pour notre pays)。

 世界各国の旗も風景の一部となっている。大使館やEU代表部が集まるヨーロッパ地区だけでなく、観光客が行き交う都心やそれ以外のエリアでもさまざまな国旗を目にする。黒、黄色、赤のベルギーの国旗もあるが、それ以外の国の旗のほうが断然多い。人口の6割が外国生まれで、180以上の国籍の人たちが暮らすモザイク都市ブリュッセルの多様性を示していると言えるだろう(Evolution démographique en Région bruxelloise)。

 だが、これらの色とりどりの旗のなかでも、一際目立つ旗がある。水平に黒、白、緑の三色、左端に赤い三角形が重なる鮮やかなデザインの旗だ。それは街角にあるごく普通の民家や集合住宅の窓辺、バルコニーの手摺りなどにかけられていた。中心部でも、閑静な住宅街でも頻繁に見かけた。

 そう、パレスチナの旗だ。


マロール地区の住宅。手前の石畳には、第3回で論じたホロコーストの犠牲者を弔う「つまずきの石」が見える。かつてナチスに虐殺されたユダヤ人の住んでいた場所で、今日、イスラエル軍によるパレスチナ人虐殺への抗議の旗が掲げられている(筆者撮影)


イクセル地区の住宅(筆者撮影)

 2023年10月7日、ハマスの戦闘員が(イスラエルがパレスチナ自治区ガザを囲って設置した)フェンスを突破して、民間人を含む1200人を殺害した。その報復として翌日からイスラエル軍がガザ地区への空爆を開始し、地上戦を含む本格的な「戦争」に突入した。だが「戦争」とは言うものの、実態は圧倒的な軍事力を背景にイスラエル軍がガザを破壊し、廃墟にしていったのである。その死者数は、民間人を中心に7万人以上に上る。さらに、イスラエル軍の封鎖による医療崩壊と兵糧攻めの犠牲者を含めれば、10万人を上回ると言われる。また12万3000棟以上の建物が全壊、約7万5000棟が損傷するなど、全建造物の8割以上が破壊され、ガザは瓦礫の山と化した(Daily Press Briefing by the Office of the Spokesperson for the Secretary-General)。その様子がソーシャル・メディアを介して連日拡散されることで、世界はリアルタイムでジェノサイドを目撃したのである。

 ガザ侵攻が始まると、欧州諸国の政府は、ただちにハマスを非難し、一斉にイスラエルの自衛権を擁護した。その後、地上戦に突入し、民間人の犠牲者が急増すると、「深刻な人道的懸念」などを表明しつつも、イスラエルへの非難や制裁を避けた。国際法や人権の擁護を唱えながら、ガザで繰り広げられている殺戮には沈黙する欧米のダブルスタンダードが露呈したのである。欧州各国で抗議運動が沸き起こったが、各国政府はそれらを「反ユダヤ主義」として厳しく弾圧した。米国のイスラエル抗議デモに関与した元学生の逮捕などは、日本でも報道され、よく知られているが、ヨーロッパも例外ではない。ベルギーでは、行政が抗議集会を大幅に制限し、無許可で行われた場合は、機動隊を導入し、徹底的に弾圧した。

 ブリュッセル自由大学で知りあったLも弾圧を体験した一人だ。アルジェリア移民二世としてフランスで生まれ育った彼女は、華やかで底抜けに明るく、大輪の向日葵を思わせる。だが同時に、差別や不正への鋭い感受性を備え、学部卒業後にはパレスチナに渡って、平和教育に携わってきた。そのLが、ブリュッセル中央駅前の広場にパレスチナ支援団体のメンバーと集まり、「FREE GAZA!」のシュプレヒコールをあげていたところ、機動隊の突撃を受け、棍棒で激しく殴られた。太ももがあざだらけになったうえ、罰金500ユーロ(約9万2500円)まで科された。こうして恐怖と金銭的制裁を与えることで、抗議の声を封じ込めることが政府の狙いだった。だが非暴力的な抗議運動に対する国家の過剰な弾圧は、ガザで起きている不正義の重みをより際立たせることにもなった。抗議行動の許可は滅多に下りず、無許可の行動が厳しく取り締まられるなか、人びとはパレスチナの旗を窓辺に掲げることで抗議と連帯を表明するようになったのだ。 

 考えてみると、ブリュッセルで見かけた多くの旗とパレスチナの旗の間には大きな違いがある。ほとんどの旗が公的機関を象徴するものとして公共空間で誇示されているのに対し、パレスチナの旗は自宅の窓辺という私的空間の内側にありながら、公共空間からしっかり見える位置にかけられているのだった。権力がいくら抑圧しても、不正を消し去ることはできない。窓辺の旗は、無言でそう訴えているかのようだった。

 ガザが破壊されていくにつれ、連帯のシンボルはブリュッセル中に増殖し、次第に窓の内側から外側にも広がっていった。ブリュッセル自由大学のキャンパスでも、学生が自主運営する食堂の壁に大きな旗が堂々とかけられていた。大学だけではない。一部の公的施設でもパレスチナの旗を見かけた。風が身を切るように冷たい1月のある日、北駅から徒歩圏内にあるスカルベーク区庁舎を通りがかると、ブリュッセル首都圏の旗やEUの旗などと並んでパレスチナの旗が揺れていた。それは、草の根での抵抗の広がりがローカルな公共空間に変化を起こしていることを物語っていた。


学食にかけられた旗(筆者撮影)


スカルベーク区庁舎正面に掲げられたパレスチナの旗(筆者撮影)

街角で、パレスチナに出くわす

 パレスチナへの連帯行動やイベントもあちこちで開かれていた。そこで懐かしい顔との再会もあった。その一人が、ディディエ・ファッサンである。ファッサンはかつて医師として開発途上国の公衆衛生や人道医療に従事した後、人類学者となった異色のキャリアを持つ。人道主義、移民・難民、警察、差別、不平等などのテーマを研究し、「道徳の人類学」を打ち立てたことで知られる。パリ社会科学高等研究院の教授を務めた後、2009年よりプリンストン大学高等研究所の教授となった。私が彼にお世話になったのは、2015~2016年の米国での在外研究中に、セミナーに参加させてもらったときだ。世界各国から研究者が集まり、「境界」と「国境」の関係について、毎回緊張感と知的刺激に満ちた議論が行われていた。日本からの飛び入りの私も、そこから多くを学ばせてもらった。

 ファッサンは2022年よりフランス研究機関の最高峰コレージュ・ド・フランスの教授に選出され、人類学・社会学の国際的な権威となった。その彼が2023年11月1日、仏メディアAOCに「ガザに忍び寄るジェノサイドの影」(« Le spectre d’un génocide à Gaza » )という論考を発表すると「反ユダヤ主義に加担している」などと各方面から激しいバッシングを受けた。申し分のないキャリアを持ち、学問界の頂点にたつファッサンでさえも、ジェノサイドという言葉を使った途端、「反ユダヤ主義」のレッテルが貼られたのだ。そのときの経験をもとに書かれたのが『ある奇妙な敗北――ガザの破壊に対する黙認について』(Didier Fassin, Une étrange défaite. Sur le consentement à l’écrasement de Gaza, La Découverte, 2024)である。

 2025年5月、そのファッサンがブリュッセル自由大学に招聘され、講演会が開かれるというので、駆けつけた。演題は「言葉の裏切り――ガザ戦争で傷ついた言語」だった。


ファッサン講演会のチラシ

 ジョージ・オーウェルが『1984年』でニュースピークという言語を描いたように、戦時に国家は言葉の意味を歪めたりすり替えたりするが、イスラエル軍のガザ攻撃をめぐっても同じことが起きている。たとえばメディアは「大量虐殺」という言葉をハマスのイスラエル攻撃には用いるが、イスラエル軍のガザ攻撃には使わない。またイスラエル軍は「兵士」と呼ばれるが、ハマス側は単なる「テロリスト」とされる。政府や一部の学者、メディアはイスラエル政府の使う言葉や枠組みを無批判に採用する一方、それ以外の解釈には「反ユダヤ主義」のレッテルを貼り、イスラエルへの批判を退けてきた。つまり、「ガザ戦争」とは、軍事的戦争だけでなく言葉をめぐる戦争でもある。

 講演会は予約制で、複数の警備員が会場を巡回するなどピリピリした雰囲気だった。1年前、パレスチナ関係のイベントが開催されると、シオニスト系のユダヤ人団体の学生が乱入し、騒動に発展したため、主催者は慎重な対策を講じたのだった。だがファッサンはまったく動じず、にこやかに、かつメモを一切見ずに、澱みなく明晰な議論を展開した。その一言一句に会場に詰めかけた聴衆は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。パレスチナをめぐって起きていることをどう考えたらいいのか、その手がかりを必死に求めているようだった。「ガザ戦争」は対岸の火事ではない。自分たちもその渦中にいるのだと感じた。

 ファッサンとの再会のほかに、もうひとつ思いがけぬ出来事があった。パレスチナ人映画監督ミシェル・クレイフィとの再会だ。ガリレア北部(現イスラエル)のナザレで生まれたクレイフィは、20歳でベルギーに渡り、国立高等舞台芸術学校で映画制作を学んだ。以来、ブリュッセルを拠点に、パレスチナをテーマにしたドキュメンタリーや長編作品を撮ってきた。私も、ガリレア地方の村を舞台に世代間の葛藤を描いた『ガリレアの婚礼』(1987年)に感銘を受けた一人だ。そのクレイフィが2005年10月に日本に招待され、故・徐京植ソ・キョンシクさん主催の上映会とトークが東京経済大学で行われたとき、彼の通訳を担当した。それから20年後、ブリュッセルでクレイフィの息子ナエルとも知り合った。「今度パレスチナ支援集会が開かれ、父のドキュメンタリー『マアルール村はその破壊を祝う』(1985年)が上映される」ときいて、足を運んだ。

 1948年イスラエル当局は250のパレスチナの村を破壊し、地図から抹消した。ナザレの西10キロのマアルール村もそのひとつで、いまや廃墟となっている。だがマアルールでは、強制退去させられたかつての村人が年に一度、イスラエル独立記念日に村に戻ることを許されており、毎年大人たちは大勢の子どもを連れて廃墟でピクニックをする。その帰還の1日を描いたのが、この作品だ。「忘れないために毎年来るんだ。子どもたちは忘れてしまうかもしれない。でも、ここで生まれた自分たちは忘れることはない。あらゆる権利は求め続けるかぎり死なないから」という男性の言葉が静かに、重く響いた。

 テロップが流れ、場内が明るくなると、登壇するクレイフィの姿が見えた。20年ぶりに見た彼は、年はとったものの、変わらぬユーモアと温かさにあふれていた。クレイフィは、自分はパレスチナ人であり、パレスチナ人として映画を撮る以上、作品は政治的にならざるをえないと語った。だが「政治的である」ことはプロパガンダ映画をつくることではない。それは普遍的な物語を通して、人々の想像力を養い、考えるように促すことだ。本作が30分と短いのも、上映後に議論できるよう、長すぎないようにしたことが明かされた。


討論会でマイクを持つクレイフィ(筆者撮影)

  熱気に満ちた会場を出ると、時計の針は21時半を回っていた。サンジル区庁舎前のカフェで遅めの夕食を注文し、ぼんやり待っていると、隣の席の会話が聞こえてきた。若い2人の女性が先ほどの上映会について話している。「作品を議論するのはいいけれど、イスラエルの批判はいけない」と一人が言った。すると、もう一人はしばし沈黙の後「なぜいけないの?」と問い返した。陽気な音楽のかかる夜更けのカフェには不釣り合いな、緊張感あるやり取りだった。このような場所でもパレスチナをめぐる「言葉の闘い」が繰り広げられていた。

街角に溢れた赤色のデモ

 闘いは路上でも行われていた。

 滞在中、行政が許可した数少ないパレスチナ連帯デモに参加した。2024年10月20日のデモには7万人が集まり、多くのパレスチナの旗が風になびいていた(À Bruxelles, des dizaines de milliers de manifestants exigent un cessez-le-feu au Proche-Orient, des organisations juives présentes)。参加者の年齢層は幅広く、小さな子どもを連れた家族の姿も目立った。子どもたちもシュプレヒコールをあげたり、バナーを掲げたり、積極的に役割を担っていた。


集合場所の北駅付近、アルベール2世王通りに詰めかける人びと(筆者撮影)

 2025年6月15日のデモには、さらに多くの人が集まった。

 地下鉄で集合場所の北駅にむかうと、途中の駅で、赤い服装の人たちが続々と乗り込んできて、北駅に着く頃には車内は赤に染まった。地上に出ると、路上は赤い人びとで埋め尽くされていた。

 今回、主催者は「赤い服や装飾品をつけてくるように」と呼びかけていた。イスラエル軍による攻撃がレッドライン =「越えてはいけない一線」を越えていることを表現するためだった。

 赤い波のような参列が、うねりをあげるように、北駅を出発した。

 10月のデモ同様、老若男女、実に多様な人たちが参加していた。子どもの姿もあちこちに見えた。


デモの様子(筆者撮影)



パレスチナの象徴、スイカ模様のワンピースをきた子ども(筆者撮影)


ヒジャーブをまとうムスリム女性の参加者(筆者撮影)

 

 多くの言葉もあふれていた。団体による横断幕だけでなく、各自が思いを綴った手作りバナーを手にする人も多かった。そこには、ファッサンが問題にしていた「政府や大手メディアの言葉」とは対照的な言葉が書き込まれていた。


「ガザはアウシュヴィッツだ」(筆者撮影)



「パレスチナからメキシコまで、すべての壁よなくなれ!」(筆者撮影)



「これはジェノサイドではない」――パイプの絵の下に「これはパイプではない」との文字を書き込んだベルギーの画家ルネ・マグリットの有名な作品をもじって書かれている(筆者撮影)

 主催者によれば、この日11万人が参加した(110 000 personnes tracent une ligne rouge : « Il est temps que les responsables politiques agissent »)。ブリュッセル首都圏の10人に1人近くが参加したことになる。みなさんは想像できるだろうか。東京ならば140万人に相当する数である。

抵抗のメトニミー

 帰宅してから、考えた。

 なぜ、これほど多くの人たちが、パレスチナ連帯デモに参加するのだろうか。

 ブリュッセルはモロッコ人をはじめムスリムの多い都市だ。なかでも中心部のパンタゴン地区は住民の5人に1人がモロッコ系である。アラブ=イスラーム世界にルーツを持つ人たちにとって、ガザはアラブ世界全体に対する不正義の象徴でもある。だからこそ、アラブ系住民がパレスチナ人の置かれた状況を「自分ごと」として捉え、自然と感情移入するのは理解できる。

 当日、ベビーカーに10ヶ月の娘を乗せたKにばったり会った。彼女はアルジェリア移民の両親のもとフランスで生まれ育ったが、10年前のパリ同時多発テロ事件を機にブリュッセルに移住した。Kはパリでの学生時代からパレスチナ運動に関わってきた。赤ちゃんを連れて大変だね、と声をかけたら、ここに来たのは自分のためなの、と彼女は言った。デモに来たからといって、虐殺を止められるなんて思っていない。でも、ガザの人びとを思うと気が狂いそうになる。だから、正気を保つためにデモに来た、とKは語った。

 パレスチナにおける不正義に怒り、行動する人たちはアラブ系だけではない。Rはナミュールの教員家庭に生まれ、大学進学以降はブリュッセルに住んでいる。学生時代の仲間たちがかつての夢を捨て、安定した収入を得られる職に就いたのに対し、彼はソーシャルワーカーの仕事をしながら、ミュージシャンとして自分の音楽と世界観を追求してきた。そんなRも2000年代前半の第二次インティファーダ以来、パレスチナ支援に関わってきた。だって、音楽にかかわる者として、無関心ってわけにはいかないだろ? パレスチナ問題は世界の最たる不正義だ――そう語るRの腕にはFree Palestineという刺青が刻まれていた。

 だがデモにいたのは、KやRのような人ばかりではない。11万人もの参加者の大半がパレスチナに家族や友人がいるとは考えられないからだ。それでは、かれらを突き動かしたものは、いったい何なのだろうか。

 そう考えて、ふと浮かんだのが、2週間前に会ったPの顔だった。ブリュッセル首都圏の政府系非営利団体で、難民申請者に宿泊を提供するためのデータベース構築・管理に携わる彼とは、友人の紹介で知りあった。ある晩、サッカー談義で意気投合すると、UEFAチャンピオンズリーグの決勝戦を一緒に観よう、と自宅に招いてくれた。スカルベークにある「熊の檻」という不思議な名前の広場に面したタウンハウスの3階だった。妻と別れ、愛犬と一緒に3ヶ月前に越してきたばかりの室内は、まだ段ボールが置かれるなど雑然としていた。

 リビングに入り、ソファーに座ると、壁に飾られた大きな白黒のポスターが目に留まった。一人のサッカー選手がボールを蹴り上げ、走り抜ける姿を捉えていた。上半身をよじっていて顔は見えない。だが、縦に太いストライプが入ったユニフォームの背中に大きく「10」と書かれている。

 スラムが生んだサッカー界の反逆児、ディエゴ・マラドーナだ。

 かっこいいね、私も大好きだった。

 するとPはニコッと笑い、引っ越して最初にしたのは、このポスターを壁にかけることだった、と答えた。

 Pは1973年、チリの首都サンティアゴで生まれた。その年は、3年前の大統領選挙で勝利したサルバドール・アジェンデの社会主義政権が、アウグスト・ピノチェトの軍事クーデターに打倒された年でもあった。Pの母は軍への反対運動に身を投じて投獄された後、1978年に幼い息子を連れてベルギーに亡命した。チリの民政移管が実現したのは1990年だった。Pは、いずれ祖国の再建に貢献したいと考え、ブリュッセル自由大学で電子工学を学んだ。だが祖国帰還の展望が見えないなか、家族を形成し、ブリュッセルに根づいた。

 寡黙で思慮深いPはネイティブと変わらない、まったく訛りのないフランス語を話す。安定した仕事を持ち、一見、完全にベルギー社会に同化しているように見える。だが、自分の子どもは2人ともスペイン語が操れないんだと言い、愛犬にスペイン語で語りかけている時の少し寂しそうな様子をみると、簡単にそうとも言えないように感じた。彼はコロナが明けて以来、毎年冬に1ヶ月の休みをとって南米を旅している。3ヶ月前にも、娘を連れて、チリからアルゼンチンを3週間旅行した。そんな彼にとって、第三世界の英雄マラドーナが特別な存在であることは、想像に難くなかった。

 だが次の瞬間、ハッとするものが目に入った。 

 リビングの窓にパレスチナの旗が大きく掲げられていたのである。

 旗について尋ねると、Pは静かに話はじめた。

 これまで家に旗を掲げたことなんて、ただの一度もなかった。祖国チリの旗でさえ、掲げたことがない。だけど、いまガザで起きていることは……。世界中が見ているなかで、ガザは抹殺されようとしている。もうすぐ完全に破壊され、消え去ってしまう。そう思うと、いてもたってもいられなくなり、2週間前、人生で初めて窓に旗を掲げたんだ。

 ラテン系の容姿の彼は、若いころから執拗に警察の職務質問を受け、不当な扱いをされてきた。そのためか、昔からヨーロッパ系よりモロッコ系と気が合い、友だちもモロッコ系が多かった。別れた妻もモロッコ系だ。「ベルギー国籍は持っているけれど、自分は白人ではない」。そんなマイノリティ意識を抱いてきた。

 そんな彼の話を思い返しながら、なぜ一見、パレスチナと直接縁のない人たちがデモにやってくるのか、少し理解できたような気がした。

 パレスチナとは、単なる物理的な場所ではなく、それ以上の何かを象徴している。ブリュッセルでマイノリティとして暮らし、多くの差別を目の当たりにしたり、時には自分自身も経験してきた彼にとって、パレスチナは不正義に満ちた世界の縮図であると同時に、抵抗のシンボルなのかもしれない。

 ブリュッセルはモザイクのように多様な人たちで構成されている。だが、多様な人たちは水平に、平等な関係を必ずしも結んでいるわけではない。また一見、マイノリティにみえなくても、さまざまなマイノリティ性を抱え、それぞれの闘いを生きている人たちもいる。

 そんな人びとにとって、パレスチナは世界中で起きている差別や支配、暴力への抵抗のメトニミー(換喩)なのだ。比喩としてのパレスチナを喚起したパレスチナの詩人、マフムード・ダルウィーシュの言葉が思い起こされた。

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著者略歴

  1. 森 千香子

    1972年生まれ。フランス社会科学高等研究院博士課程修了。博士(社会学)。
    南山大学外国語学部准教授、一橋大学大学院法学研究科、同社会学研究科准教授、プリンストン大学移民開発研究所客員研究員等を経て、現在は同志社大学社会学部教授、同志社大学都市共生研究センター(MICCS)センター長、ブリュッセル自由大学客員教授。
    主要著作に『国境政策のパラドクス』(共編、勁草書房、2014年)、『排外主義を問いなおす』(共編、勁草書房、2015年)、『排除と抵抗の郊外』(東京大学出版会、2016年、大佛次郎論壇賞、渋沢・クローデル賞特別賞受賞)、『グローバル関係学6 移民現象の新展開』(共編、岩波書店、2020年)、『ブルックリン化する世界』(東京大学出版会、2023年)などがある。

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