地図に刻まれた未来の地名
地下鉄ポルト・ド・ナミュール駅は、ブリュッセルの中心街パンタゴンとイクセル区の境界に位置する。王宮やEU機関が集まるヨーロッパ地区(Quartier Européen)まで徒歩数分の立地だ。だが、駅を出てユニクロ前を通り、左斜めのワーヴル通りに一歩入った途端、別世界が広がる。車と自転車専用レーンが1車線のみの狭い通りを大勢のアフリカ系の人たちが行き交っている。鮮やかな色の民族衣装ブブを纏う人や、普通の洋服を着た人の姿もある。食料品の詰まった買い物袋を抱えて歩く人も、立ち話に興じる人もいる。通りの反対側にいる相手に大声で話しかける人もいて、にぎやかだ。
両脇には商店が切れ間なく続いている。バナナ・プランテン(調理用バナナ)、サトウキビ、多種の芋類、パプリカなど、他のエリアでは目にすることのないアフリカ直送の食材を扱う八百屋、カラフルな図柄のプリント布パーニュの専門店、縮毛に特化したヘアサロンなどが連なる。海外送金専門の金融機関で、祖国に送金する移民労働者御用達のウエスタンユニオンの角を右折し、ロング・ヴィー通りに入ると、歩行者専用道路が飲食店のテラス席で占拠されていた。コンゴの国民食モアンベ(パームナッツのソースを用いた濃厚な鶏肉の煮込み)や、セネガルやマリの家庭料理マフェ(ピーナッツペーストとトマト味が特徴の煮込み)など、アフリカ各地の郷土料理を求める人たちが詰めかけ、空席は見当たらない。各店舗から漏れてくる音楽と食欲をそそる料理の香りが混じり合い、路上は巨大宴会場のようだ。
熱気のなかを進み、サン・ボニファス教会(Saint Boniface Church)前を通過して、イクセル通りを右に進むと、左手に巨大な壁画が見えてくる(地図のEtam Lingerieの建物)。抱き合ってキスをするカップル、美容師に髪を整えてもらう人、布や洋服を選ぶ人、それらをテラス席に座って眺める人などが色彩豊かに描かれている。大半は黒人だが、それ以外の人もいる。中心には「世界中を旅してきたが、皆が混ざり合っているブリュッセルとマトンゲのような街は見たことがない」との一文がフランス語で記されていた(注1)。
そう、ここはブリュッセルのアフリカ人街、マトンゲだ(地図では「マトンジュ」

マトンゲのシェリ・サンバの壁画
帝都のアフリカ人街マトンゲ
「欧州の首都」と呼ばれるブリュッセルの中心に、なぜ庶民的なアフリカ商店街が広がっているのだろう? その背景には、ベルギーによるコンゴ植民地支配の歴史がある。
1865年に国王に即位したレオポルド二世は領土の拡大を目指して、アフリカの「奥地」へと探検隊を送り込み、1885年、列強国がアフリカの分割を協議したベルリン会議で、コンゴを私有領として獲得した。ベルギー本国の80倍もの広さを持つコンゴ(現在のコンゴ民主共和国)は象牙や木材、ゴム、鉱物などに恵まれており、それらの天然資源を国王と民間企業は現地の人々の強制労働によって採取した。とりわけゴム農園では収穫量のノルマが課され、これらを果たせない人々は容赦なく手首を切り落とされた。こうした無法な支配と残虐行為が繰り広げられた結果、当初2500~3000万人と推定されるコンゴ人口は2000万人へと減少していった。
手首を切り落とされた子どもたち(https://www.lisapoyakama.org/les-mains-coupees-du-congo-belge/)
やがてレオポルド二世によるコンゴ統治への国際的非難が高まると、国王個人からベルギー国家による統治に切り替えて、植民地支配は続けられた。こうして「独立」が達成される1960年まで、植民地コンゴは莫大な富をベルギーにもたらしてきた。19世紀末、ブリュッセルは繁栄を極め、曲線美や植物のモチーフなどで世界を魅了したアール・ヌーヴォー建築の代表作が次々に造られ、現在でも世界遺産に登録されたヴィクトール・オルタによる邸宅群などが都市空間に華を添えているが、これらはコンゴで採掘した鉄をはじめとする資材を用いて造られたものである。


市内にあるアール・ヌーヴォー建築の代表作。いずれもコンゴがレオポルド二世私有領であった時代に建てられた
コンゴ植民地経営に関わる官民の主要組織は、王宮からポルト・ド・ナミュール駅周辺に設置された。王宮裏手にあるブレデロッド通りには、統括本部や開発銀行、植民地統治を宣伝するメディア機関などが置かれた。またマトンゲ入り口にあるスタサール通りには、ベルギー植民地連合本部(植民地活動に関連するプロパガンダや情報提供などを行った団体)や植民地に赴任する夫に同伴する妻の相互扶助団体などが置かれていた。

王宮裏手(テレジエンヌ通り14番地)にある旧ベルギー領コンゴ銀行の入り口。「Banque Congo Belge」の文字とコンゴの星をあしらった鉄細工が見られる。「コンゴの星」は、レオポルド二世の私有領(「自由国コンゴ」)時代にシンボルとして用いられていた
1958年に環状道路が建設され、王宮界隈とマトンゲが分断されたが、それ以前は植民地権力の中枢ゾーンを形成していたのである。だが1960年にコンゴが「独立」すると、マトンゲの性格も変化した。1960年、ベルギー政府は「コンゴの発展に貢献する若者支援」の名目で毎年300名のコンゴ人に奨学金を出すことを決め、その翌年、アルザスロレーヌ通りにある19世紀後半築の4階建ての建物をコンゴ人留学生寮「アフリカ館(Maison Africaine)」とした(注2)。一帯には、レオポルド二世がベルギー国家に寄付した広大な不動産を管理する「ベルギー王室寄付財団」所有の建物が点在しており、その一つが留学生寮となったのだ。この寮は、ブリュッセルのアフリカ移民のアイデンティティを描いた最初の作品と言われる映画『身分証明書』(ムエゼ・ンガングラ監督、1998年)でも繰り返し登場する。
これを機に、一帯は「コンゴ人留学生の街」としての性格を強めた。アフリカ食品店や飲食店、ナイトクラブなどが次々に開店し、コンゴ人だけでなくその他の地域出身のアフリカ人留学生の街として発展した。コンゴ民主共和国の首都キンシャサでもっとも活気ある繁華街、カラム区のマトンゲ地区に因み、一帯が「マトンゲ」と呼ばれるようになったのもこの頃だ(注3)。2000年代には行政でも用いられるようになり、国外でも知られる地名となった。
植民地帝国の帝都でアフリカ人街が形成されるという現象はパリやロンドンなどにもみられる。だがブリュッセルの場合、それが王宮に隣接し、植民地関連組織が集まっていた場所に形成されたという特徴がある。アフリカ人留学生の文化的拠点ともなった「アフリカ館」から徒歩数分の広場には、19世紀末にコンゴ人への暴力を肯定した政治家シャルル・ウエストを讃える銅像が聳えている。すなわちマトンゲは単なるアフリカ人街ではなく、植民地経営の記憶が積み重なる空間に成立したアフリカ人街なのだ。このように複数の文化と歴史が矛盾を孕みながら交錯するエリアで、現在さらなる多文化化が進んでいるのも偶然ではないだろう。たとえばサン・ボニファス教会前の小さな広場には日本のラーメン屋が数軒固まって並び、その一つの店舗名に因んで「リトル・トウキョウ」とも呼ばれている。そのように、とても懐の深いアフリカ人街なのだ。
植民地支配プロパガンダの痕跡
マトンゲ以外にも、コンゴ植民地支配はブリュッセルの都市空間にさまざまな影響を与えてきた。レオポルド二世による「帝都にふさわしい都市改造計画」のもと、数多くの公園、大通り、建造物が造られ、コンゴ植民地支配で得られた莫大な富や資材が投じられた。1880年に独立50周年を記念して造られたサンカントネール公園に聳え立つ、凱旋門などのモニュメントなどがその代表作だ。また植民地支配を讃える彫像や通りの名称も生み出された。それらは植民地支配が公式に終わって65年以上経った今でも、都市景観の一部をなしている。
そのことを実感したのは、フランソワに街を案内してもらった時だった。フランソワはコンゴ人の親のもとにブリュッセルで生まれた移民二世だ。人当たりがとても柔らかく、いつも笑顔で穏やかな人柄だ。「問題を起こさず、ベルギー社会に溶け込むよう」叩きこまれて育ったが、ブリュッセル自由大学でジャーナリズムとコミュニティ文化活動を学んだ後、就労経験を重ねるなかで、ベルギー社会に黒人差別と植民地主義が深く根を下ろしていることを痛感するようになったという。現在は、役者として活動する傍ら、テルヴューランのアフリカ博物館でガイドとして働く。植民地支配の歴史を来場者に伝える仕事に大きなやりがいを感じ、現在はミュージアムだけでなく、ブリュッセル市内を脱植民地支配の視点から捉え直す「デコロニアル・ツアー」も行っている。このツアーに私も参加したことで、これまで目に入らなかった植民地支配の痕跡が至る所に見えてきた。
その一つが「犬に襲われる逃亡奴隷」という大理石像だ。それはブリュッセル市民の憩いの場である「カンブルの森」の入り口付近という、中心部と郊外を結ぶ交通量の多い場所にある。土台に「Louis SAMAIN 1895」と刻まれた彫像を見上げると、全裸で大柄の男性が右手で子どもを抱え、左足を前に出して走り去ろうとしている。だが両手足には鎖がはめられ、左右の太ももには獰猛な二匹の犬が喰らいついている。今にも肉を食いちぎらんばかりのすさまじい迫力だ。男性は痛みに身を捩り、顔を歪めながら懸命に子どもを守り、左手で犬をふりはらおうとしている。暴力と恐怖がむき出しの状態で表現されていて、背筋が凍った。ふと、男性と子どもの耳を劈くような叫び声が聞こえた気がしたが、次の瞬間、脇をとおる路面電車の警笛の鐘音にかき消された。


犬に襲われる逃亡奴隷の像。後ろ側には「NON」という抗議の文字も
なぜこのような彫像がここにあるのかと自問していると、「これはレオポルド二世のコンゴ植民地支配を正当化するプロパガンダの一環で造られたんだ」とフランソワが教えてくれた。16世紀以来、西洋列強は三角貿易を通じて巨額の富を蓄積したが、奴隷貿易に対する批判が高まると、一転して「奴隷制廃止と文明化」を掲げてアフリカ進出が図られるようになった。すなわち、アフリカにおける奴隷制を廃止し、文明をもたらすことが植民地拡張政策のイデオロギーとなったのである。1895年にこの彫像が造られた理由も、そこにある。それは一見、奴隷制の暴力を告発しているように見えるものの、レオポルド二世のコンゴ統治を正当化する役割を果たしていたのだ。
このほかにもサンカントネール公園にある「ベルギーコンゴ開拓者記念碑」をはじめ、ブリュッセル市内には「コンゴに文明をもたらした」と開拓者や軍人、官僚などを讃える記念碑や彫像、地名が至るところに点在する。それらの場所をフランソワに案内してもらうことで、帝都の記憶の生々しい痕跡を目の当たりにした。植民地支配は過去のことだと思われがちだが、現在でも公共空間の一部をなしていた。ブリュッセルという街の知られざる顔を発見したようだった。
そのことをフランソワに伝えると、「このように植民地主義を讃える都市空間で生きることは、コンゴをはじめとするアフリカ出身者にとって屈辱的であり、大きな苦痛をもたらしている」とフランソワは語った。その言葉には静かな怒りが込められていた。
一方、このような都市空間のあり方を問題視し、誰もが安全を感じられるものに変えようという動きもある。2015年に南アフリカのケープタウン大学で、植民地時代の実業家セシル・ローズの彫像がキャンパスから撤去されたが、そのような「空間を脱植民地化する」運動のうねりはブリュッセルでも広がっているという。
その一例が、イクセル区の公園にあったエミール・ストーム像の撤去運動だ。19世紀後半にコンゴで活動したベルギー官僚のストームは、コンゴの村人を虐殺し、奴隷商人ルシンガ・ルワ・ンゴンベの頭部を切り取って戦利品としてベルギーに持ち帰るなど、残虐行為を繰り返した。その事実が2018年の調査報告書で明らかにされると、ストーム像の撤去を求める運動が拡大し、2022年、当局によって彫像は撤去されるに至ったのだ。同じ年には、前述の「犬に襲われる逃亡奴隷」についても撤去を求める報告書が提出されたが、ブリュッセル地方政府は撤去を拒否し、代わりに説明のプレートを設置すると回答した。だが、プレートはいまだに設置されていない。
王宮前に聳えるレオポルド二世像(Monument Léopold II)に対しても抗議活動が続いている。2020年のブラック・ライブズ・マター運動の頃から、王の彫像に真っ赤なペンキが投げかけられ、「人種主義者」などの言葉が書き込まれるようになった。当局は「歴史的記念碑の損傷・破壊」であると非難し、原状回復を行ったが、その後もペンキや落書きは途絶えることがない。レオポルド二世の統治下、ベルギーは経済的に繁栄を極めたが、コンゴでは虐殺された人の数が推定1000万人ともされるなど、大幅な人口減と過酷な搾取が起きた。そのような人物を公的に讃えることへの怒りが、ブリュッセルに住むアフリカン・ディアスポラの間で高まっている。

王宮前のレオポルド二世の彫像。土台に刻まれた「祖国に記憶されるレオポルド二世 ベルギー国王 1865–1909」の文字にスプレーで赤線が引かれている。彫像自体がスプレーで落書きされている写真もメディアで報道されている
脱植民地化運動の象徴、パトリス・ルムンバの名を刻む
だが公共空間の脱植民地化を求める運動は、彫像や地名の撤去だけを求めているのではない。植民地支配と闘った人々の存在を都市空間に刻み、集合的記憶として継承することも要求してきた。その代表的な人物が、コンゴの初代首相だったパトリス・ルムンバだ。
ルムンバは1925年ベルギー領コンゴのカサイ州で生まれた。ミッション系の教育機関で学んだ彼は当初、郵便局職員、ジャーナリストとして働く「親ベルギーの黒人エリート」であったが、第二次世界大戦後、世界的に反植民地闘争が広がるなか、独立運動のリーダーとして覚醒していった。その転機となったのが、1958年12月にガーナで開かれた全アフリカ人民会議に出席し、パン・アフリカニズム(アフリカ大陸の人々と世界中に住むアフリカ系ディアスポラの人々が団結して植民地支配や人種主義と闘い、解放を目指す思想と運動)を発見したことだった。以来、宗主国ベルギーから形式的ではなく経済的にも自立する「真の独立」路線を目指し、国民から熱狂的に支持された。

パトリス・ルムンバ。写真はLeo Zeilig著『ルムンバ、アフリカの失われたリーダー』(シカゴ大学出版局)のカバー。またルムンバ暗殺を描いたヨハン・グリモンプレズ監督のドキュメンタリー『クーデターのサウンドトラック』は、2025年アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞にノミネートされた。予告編を視聴できる
だが冷戦下の欧米にとって、アフリカの独立により、その豊富な天然資源を失うことは容認しがたいことであった。ちなみに日本に投下された原爆のウランもコンゴから採取されたものであった。そこで独立に際して、親欧米の傀儡を権力の座に据える一方、完全な独立を求めるリーダーの排除に乗り出したのである。
コンゴの事例において決定的だったのは、1960年6月の独立時にルムンバが行った歴史的演説だ。ベルギー国王ボードゥアン1世が、ベルギーによるコンゴ植民地支配を讃えるパターナリズムに満ちた演説を行ったのに対し、ルムンバはコンゴ独立は与えられたものではなく長年の苦しみに満ちた闘争によって勝ち取られたものであり、今後はベルギーと完全に対等な関係を築いていくことを国王の面前で高らかに宣言した(注4)。それは支持派の国民を熱狂させると同時に、旧宗主国や米国を激怒させ、CIAがルムンバ暗殺を画策する契機となった。ルムンバは同年9月に失脚し、12月に逮捕され、翌年1月拷問の末、銃殺された。遺体は硫酸で溶かされ、現場に立ち会った警官が記念に持ち帰った歯だけが残された。遺体さえも抹消するという残忍極まりないやり方に、当時の西洋諸国がいかにルムンバを脅威に感じ、憎悪していたかが透けて見える。
これらの事実は長年封印されてきたが、1999年、社会学者ルド・ドゥ・ヴィッテが『ルムンバの暗殺』を刊行したのを機に、真相究明を求める動きが起きた。ルムンバの長男がベルギー政府に訴訟を起こし、2002年ベルギー外務大臣はルムンバ暗殺に対するベルギーの「道義的責任」を認め、コンゴ民主共和国に公式謝罪を行ったのだ。
こうした流れのなか、ブリュッセルにルムンバを顕彰する場所を求める声がベルギーに住むアフリカ系ディアスポラの間で広がった。特に2010年代以降、活動家や研究者、学生たちは行政への働きかけを強めた。その結果、2018年にポルト・ドゥ・ナミュール駅付近の一角が「パトリス・ルムンバ広場」と命名され、その名が初めてブリュッセルの地図に刻まれた。広場の誕生は、ベルギーが植民地責任と向き合い始めた象徴的な一歩とされた。
そのような場所を一目見てみたいと思い、現場に足を運んでみた。だが予想外の光景に唖然とした。
8車線の環状道路に面したその場所は、地下鉄の出口と他の道路の間に位置し、単なる道路脇の空間にすぎなかった。人が集うことは難しく、広場とは名ばかりの空間である。片隅には「スクエア・パトリス・ルムンバ(Square Patrice Lumumba)」のプレートとルムンバの写真入りの説明版が設置されていた。だがプレートの足元にはゴミ箱と自転車・キックボード置き場があり、数台のマシーンが地面に放り出されていた。プレートの下に置かれたゴミ箱を見つめながら、ルムンバが再び殺されたように感じた。

ルムンバ広場の現在
ここにライオンあり――小さな書店に広がる大きな世界
このことを誰かに話したくなり、ドゥリアに会いに行くことにした。
ドゥリアは、マトンゲから15分歩いたところにある、マロール地区のオート通りで「ここにライオンあり(Ici sont les lions)」という小さな書店を営んでいる。コンゴ人の両親のもとに生まれた彼は、大学でアフリカ文学を学び、大手の書店で10年間勤務した。その後、フリーランスの書店員として出版社の見本市や文学イベントの企画・開催などに携わってきた。こうして、主にフランスとベルギー各地を渡り歩き、ついに2021年、ブリュッセルで念願の店を立ち上げたのだった。

「ここにライオンあり」の外観。「AFRO」と大きく書かれているほか、少し見にくいが子ども向けの絵本がウインドーに飾られている
3、4人入ったら動けなくなるほど小さな店内には、ルムンバやトーマス・サンカラ、メフディー・ベン・バルカ、フランツ・ファノン、マルコムXなど植民地独立運動や反人種差別運動のために闘った人物についての歴史書、またチアヌ・アチェベやチママンダ・アディーチェなどのアフリカ文学作品や、マリーズ・コンデなどのアフリカン・ディアスポラ文学作品が置かれている。さらにアンジェラ・デイヴィス、オードリー・ロードやベル・フックスの著作をはじめ、ブラックフェミニズム、アフロフェミニズム、イスラムフェミニズム、クィア、トランスジェンダー、障害など、幅広いマイノリティの闘いに関わる人文書が所狭しと並べられていた。
『Cumbe』(ブラジルの奴隷の抵抗を描いた有名な作品)」や『小さなラシッド』(フランス生まれのアラブ系移民の少年の生活を描いた絵本)など、アフリカ系の子どもや移民の子ども・若者を主人公にした絵本や児童書、漫画が豊富に置かれていた。しかもフランス語や英語などのヨーロッパ系言語だけでなく、リンガラ語、スワヒリ語、チルバ語、ウォロフ語、アラビア語などで書かれた作品だ。
かつてチママンダ・アディーチェが、子ども時代に読んでいた絵本の主人公が「金髪で、曇り空のなかで生きていて、ジンジャービアを飲んでいる」西洋で暮らす白人の子どもばかりで、ナイジェリアの大都市ラゴスで暮らす自分自身とかけ離れていたことが、小説を書くきっかけになった、と述べていたことを思い出した(注5)。ドゥリアが、自分の店にアフリカの子どもを主人公にした本がたくさん置いているのも、ブリュッセルで暮らすアフリカルーツの子どもたちに誇りを持ってもらいたい、という思いがあるに違いない。ドゥリアの書店はわずか3、4平方メートルの小さな空間だが、そこには大きな世界が広がっている。
その日もドゥリアは、入り口の小さなレジの前にいた。端正な顔立ちの彼はドレッドヘアを後ろで束ね、仏像のように静かに座っていた。私がルムンバ広場にショックを受けた話をひとしきりすると、彼はぽつりぽつりと語り始めた。中心部パンタゴンでもマトンゲのあるイクセル区でも、行政が「ルムンバ広場を設置する適当な場所が見つからない」と断ったこと。何年間もたらい回しになった挙句、最終的にパンタゴンとイクセルの境目にある環状道路沿いの「あの空間」があてがわれたこと。さらに、運動側はマトンゲの中心にある一角をよりふさわしい場所と考えていたことなどを教えてくれた。
その経緯を詳しく知りたい、と話すと、一冊の黒い表紙の本を渡された。ルカ・カトリーヌ『コンゴでの散歩――ベルギーの反植民地ガイド』(注6)と書かれていた。ブリュッセルにルムンバ広場をつくり、記憶を継承しようとする人たちがいる一方で、ドゥリアは主流の歴史に対してマイノリティの記憶を継承する闘いを本の世界で行っている人物なのだ。
帰り際に、ドゥリアは「よく来てくれるから」と言って、店内にあったトートバッグをプレゼントしてくれた。淡い緑と青、茶、ピンク、黄色、オレンジが混ざり合った不思議な色合いのコンゴの地図上にルムンバの顔がプリントされていた。軽く眉間に皺を寄せたルムンバの表情は苦痛を表しているようにも、意志の強さを示しているようにも見えた。

ドゥリアがくれたルムンバ・バッグ
もらったばかりのルムンバ・バッグを肩にかけ、帰宅するバスの中で考えた。いったい、運動側が「ルムンバ広場」にふさわしいと考えていた一角とは、どのあたりだったのだろう? そう思って、何気なくGoogleマップを開き、マトンゲ界隈の地図を眺めた。すると、サン・ボニファス教会裏の三叉路の、マトンゲの臍のような地点に「未来のパトリス・ルムンバ広場(Futur Place Lumumba)」と記されていた。
コンゴ人をはじめ、旧植民地出身者への差別に抗し、都市空間を脱植民地化する運動はいまなお続いている。そのなかで、地図上に記された「未来のパトリス・ルムンバ広場」は、いまだ実現していない場所でありながら、運動が向かうべき方向を指し示す羅針盤のような存在なのかもしれない。地図に刻まれた未来の地名を見て、ルムンバをめぐる歴史がまだ終わってはいないのだと確信した。

Googleマップ上の現在のルムンバ広場(赤のピン)と未来のルムンバ広場(青線で囲んだところ)
【注】
(1)コンゴの著名アーティスト、シェリ・サンバが制作した壁画をもとにした複製。オリジナルはブリュッセル王立博物館所蔵。作品の詳細は以下のサイトを参照(https://www.cec-ong.org/cec-depuis-1977/la-porte-de-namur-la-porte-de-l-amour/)。
(2)アフリカ館の創設にかかわったMonique van der Straten Wailletについては同施設50周年を記念した文書(https://maisonafricaine.be/fr/wp-content/uploads/2014/09/2010-decembre-special-50ans.pdf)の6-7ページを参照。
(3)マトンゲの歴史については以下を参照(https://journalisme.ulb.ac.be/longform/__trashed-6/)。またキンシャサのマトンゲ地区の歴史についてはコンゴ国営ラジオテレビ局の番組も参照のこと(L'HISTOIRE : LE QUARTIER MATONGE https://www.youtube.com/watch?v=Ec1k9RCBYgU&t=149s)。
(4)ルムンバの演説は以下のサイトで視聴できる(Discours intégral de Patrice Lumumba https://www.youtube.com/watch?v=dVZ1Gz9YFHY)。
(5)アディーチェの講演は以下のサイトで視聴できる(The danger of a single story https://www.youtube.com/watch?v=F4a7oQ5vwP4)。
(6)Lucas Catherine, 2010, Promenade au Congo. Petit guide anticolonial de Belgique, Les éditeurs singuliers (https://editeurssinguliers.be/livre/promenade-au-congo/).



