アバトワール 都心に存続する屠場
ベルギーといえばチョコレートとワッフルとビール? そんなイメージがひっくり返る!
大国に挟まれ、
都市空間と移民・
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アバトワール市場を訪ねる
ブリュッセルではあちこちに個性ある市がたつ。グラン・サブロン広場のアンティーク市場やアゴラ広場のアート工芸品市場、ジュ・ドゥ・バル広場の蚤の市など、アクセサリーや室内装飾品などのオブジェが売られる有名な市では観光客の姿も多い。一方、住民の生活必需品や食品を売る市場も各所に日替わりでたつ。都心のアネッセン広場では火曜午前に食品と衣服の市が、サント・カトリーヌ広場で水曜午前に有機食品市が開かれる。食品市場というと朝から昼にかけてのイメージだが、14時くらいから夜にかけて立つ市場もある。近所のサン=ジル区役所前では月曜午後から夜にかけて生鮮食品や惣菜、パン、花を売る市がたつ。こうした「午後の市場」ではフードトラックのスタンドもあり、仕事帰りに買い物がてら友人と飲んだり、家族で食事する人でにぎわう。ベルギーは終業時間が日本に比べて早く、ラッシュアワーは夕方16~17時で、帰宅後に家族や友人との時間を楽しむ人が多い。市場ではそのような人々のライフスタイルも垣間見える。
だが私がもっとも面白いと思うのはアンデルレヒト区(ブリュッセル首都圏地域を構成する19の基礎自治体の一つ)のアバトワール市場(abattoirには屠場の意味がある)だ。ここを教えてくれたのは友人のFだ。彼は3歳の時に母親とチリからベルギーに亡命し、以来ブリュッセルで暮らす。1973年、アウグスト・ピノチェトはサルヴァトール・
彼は街歩きが趣味で、いつも面白い場所に案内してくれる。市場が好きだと話したら「一度、アバトワールに行くといいよ」と教えてくれた。ブリュッセル最大の、しかも屠場という名の市場とはどんなところだろう? 興味がわき、さっそく次の週末に行ってみた。
アバトワールは陸の玄関、ブリュッセル南駅から徒歩10分と都心に近いが、最寄りは地下鉄クレマンソー駅だ。Fが小学生の娘二人とともに現れ、しばし立ち話をしたが、その間も大きなカートを持った買い物客の波が途切れることなく市場方面に流れていく。キャッシュディスペンサー(現金自動支払機)の前も長蛇の列だ。ブリュッセルでもキャッシュレス化がすすみ、現金を持ち歩かない人が多いが、この市場ではすべてが現金で取引されるらしい。あわてて私もお金をおろした。
駅から数メートルのショセ・ドゥ・モンス通りを渡ると、もう市場だ。とにかく人が多い。はぐれないよう娘のひとりと手をつなぎ、人混みをかき分けて進み、左手のコンクリートの建物に入った。常設食料市場フードメット(Foodmet)では世界各地の野菜、果物、魚、パン、チーズ、オリーブ、香辛料、飲料(ミカドという名のウクライナ産の謎のワインを発見)が売られている。娘たちは魚屋の大きな生け簀の前で大興奮だ。アバトワールというだけあって肉屋の数が多く、ハラール肉の店舗も目立つ。
フードメット内の様子
フードメットを出ると、巨大な古い建物が目に入った。1890年築の屋内市場は鋼鉄と鋳鉄とガラスで作られた産業建築で、ゆるやかな弧を描く屋根を110本の鋳鉄製の柱が支える。シンプルだが、柱頭に装飾が施されるなど細部にも意匠がある。1988年に歴史建造物指定を受けた建物では家畜の取引が行われていたが、現在はブロカンメット(蚤の市)の会場になっている。牛や豚、羊に代わり、家電、パソコン、携帯、照明器具、寝具、絨毯、カーテン、布、風呂場や台所関連部品、洗剤、おもちゃ、衣料品などが売られる。
1890年築の屋内市場は1988年に歴史建造物指定を受けた
屋内市場の周囲にもさまざまなスタンドがたつ
屋内市場をぬけると正門だ。両脇にレンガと石で作られた太い柱があり、上に二頭の牡牛のブロンズ像が立っている。右の牛は胸をはって静かに威厳をたたえるが、左の牛は前のめりで尻尾を激しく揺らし、今にも飛びかかってきそうだ。牡牛たちの足元は花売り場になっていて、色とりどりの花々があるせいで強面の牡牛も少しは可愛げに見える。
正門の牡牛ブロンズ像
屋内市場からはみだすように、夥しい数のスタンドが一帯にならび、靴、鞄、帽子、下着、靴下、調理器具、家具、工具、電球、鍵まで、本当になんでもある。価格は手頃で、1、2ユーロで買えるものも豊富だ。買う側だけでなく売る側にも敷居が低く、フードメット常設市場以外のスペースでは、5平方メートルにつき26ユーロの料金さえ払えば、誰でも市を出せる。予約はなし、朝5時開門で早い者勝ちだ。商人たちは「カバン三つで5ユーロ!」などと声をはりあげ、客引きに余念がない。フランス語もきこえるが決して主役ではない。アラビア語をはじめ、様々な言語がとびかう。
私は不揃いだが甘みのある苺1パックとラベンダーの袋、ミントとコリアンダーを1束ずつ、中古の延長コードを買って5ユーロだった。Fの娘たちは動物売り場をみるのを楽しみにしていたのであちこち探し回ったが、見つからなかった。あとで知ったのだが、昨年ブリュッセル地方議会で動物売買禁止法が採択され、生き物売り場は廃止になったらしい。彼女たちが気に入った魚屋に戻り、併設の飲食スペースで魚介の盛り合わせでお腹を満たし、帰路についた。
屠場の存続と変容
週末のアバトワールは毎週12万人もの買い物客がつめかける楽しい市場だが、アバトワールという場所により興味をもったのは、この場所が19世紀末より屠場だった歴史をもち、現在も操業していると知ったからだった。週末に色々な商品が売られる屋外スタンドの背後には、卸売店の精肉作業施設が立っており、1890年築の屋内市場の背後の建物では牛、羊、山羊、鹿などが毎日屠畜されている。アバトワール公式サイトによれば、2023年の屠畜数は約5万頭でベルギー全体の5%相当する(https://www.abattoir.be/fr/labattoir-danderlecht)。特徴的なのは、国内で唯一ハラールやコーシャ(ユダヤ教徒が食べてもよいとされる食品)など宗教的な方法で屠畜できる施設で、全体の八割を宗教的屠畜が占める点だ。住民の多様性が著しいブリュッセルの土地柄を反映する屠場なのだ。
平日操業する卸売店の倉庫。その前に週末はスタンドが立つ
これほど都心近くで屠場が操業しているのはめずらしい。ベルギー全国に95か所の屠場があるが(2018年時点)、大半は地方に所在しており、ブリュッセル首都圏ではここ1か所だけだ。19世紀末から20世紀初頭には食肉の需要が増大した欧州都市の行政は衛生管理のため屠場を建設・管理した。ブリュッセルでは運河と南駅の両方に近いアンデルレヒト区のキュレゲム地区で1890年にアバトワールが開業した。
開業当時のアバトワールの様子(©Abattoir s.a.)
近隣には以前より繊維産業や印刷業の工場があり、エリア北部に以前より屠場があったことから油脂、蝋燭、皮革製造も盛んだった。このようなキュレゲムには国内外のさまざまな土地から多くの労働者が流入してきた。19世紀にはフランドル地方農村部からの国内移民が定住し、1930年代に東欧などからのユダヤ人移民が増大した。このような移民労働者の街にアバトワールは開業した。
それ以降、キュレゲムでは食肉産業が発達し「肉のまち」として栄えたが、20世紀後半には屠場をめぐる状況が大きく変化する。農畜産業の大規模化と冷蔵技術の発達で、遠方で安く大量生産された肉を都市に供給できるようになり、そうしたなかで都市の屠場は次々に閉鎖されていった。アバトワールも同じ圧力にさらされた。1950年代には当時のアンデルレヒト区長がアバトワールを廃止し、低所得者向けの社会住宅を建設する計画を発表した。反対運動で計画は撤回されたが、その後も逆風は続いた。精肉業の大規模化が進行してアバトワールの小規模業者は不利な立場におかれた。また欧州の衛生基準の厳格化も追い打ちをかけた。19世紀末に建てられた設備の近代化を迫られたが、高額の費用がかかるため、行政は採算がとれないことを理由に投資しないと決めた。こうしてアンデルレヒト区は1983年アバトワールを閉鎖する意向を示した。
だがパリなど他の欧州首都圏とは異なり、
閉鎖を回避できた背景には、キュレゲムでは精肉産業が地域経済に大きな影響力をもっていたことがある。一時の勢いは失われていたものの、1983年時点ではアバトワール周辺の店舗・企業の38%が精肉、39%が関連産業で、屠場は地域経済の中心だった。また重要なキーパーソンの活躍もあった。カルロス・ブランケは1960年代よりキュレゲムで食肉加工業、印刷業、食品や台所製品の卸売業を営む、地域で一目置かれる実業家だった。彼が立ち上がり、幅広い交友関係を活かし、アバトワールの労働者と近隣の商店・企業を結集させた。
だが閉鎖は回避されたものの、以降、アバトワールの空間は少しずつ性格を変えていった。アバトワール社は都市で操業を続けるため、屠畜・精肉と卸売という元来の事業に加え、サービス業に力を入れるようになった。地下の倉庫スペースのイベント貸しに加え、1990年代末には金、土、日の3日間、あらゆる商品を扱う一般マーケットを始めた。2015年にはEUの補助金を受け、食料品全般を扱う屋内常設市場フードメットを開業した。
新事業が拡大する一方、従来の活動スペースは次第に狭まり、2008年には屋内市場での家畜取引が廃止となった。動物愛護団体による反対運動に加え、小規模業者の撤退と取引の大幅な低下(20年間で80%減)、歴史建造物指定を受けた建物の維持費の増大など、複合的な理由があったという。代わりに同じ場所では2009年より毎週木曜晩にブールメット(Boeremet)という音楽イベントが開かれている。こうしてアバトワールにおいて屠場の存在は次第に縮小し、周縁化されていった。
中古車ビジネスとニューカマー移民の街
アバトワールの敷地内の変化は、近隣の街にも変化を与えた。牡牛のいる正門前の通りには今でも業者向けの肉屋がいくつかあるが、肉屋と関連ビジネスをあわせて八割が肉関係だった頃の「肉のまち」の面影はもはやない。肉屋に代わって新たな複数のビジネスが拡大している。
アバトワール正門から直角に伸びるエヴァルト通りには中古車販売業者が密集する。扉の開いている車庫をのぞくと、きれいに磨かれた車が並んでいる。一帯にはタイヤなどの自動車部品販売や修理などの関連産業も多い。また「船舶運送」「輸出入代行」の看板も目立つ。「カリム海運」社の入り口に「ダカール、コナクリ、ロメ、アビジャン、コトヌ、ドゥアラ、ポールジャンティ、リーブルヴィル、ポワントノワール、ボーマ、マタディ、ルアンダ、ダールエスサラーム、モンバサ、ジブチ」と書かれているように、この界隈はヨーロッパの中古車をアントワープ港まで運び、船便でアフリカに輸出する産業の拠点だ。路上にはスマホを片手に話したり待っているアフリカ系男性の姿がある。2週間おきにブリュッセルとアフリカ都市を行き来するビジネスマンだ。
キュレゲムにある中古車販売店
エヴァルト界隈もかつては業務用精肉店が並んでいたが、1980年代以降は屠場が直面したのと同じ理由から個人経営の店舗閉店が相次いだ。一方、1980年代末より南駅界隈で輸送業を経営するレバノン系移民が中古車をアフリカに輸出する事業を始めた。彼らは車を置ける広いスペースを必要とし、運河や駅にも近く肉屋の閉鎖で空きテナントの増えたエヴァルト通りに拠点を移した。近隣には自動車関連産業も増え、肉屋の通りは中古車店の通りに変わった。アフリカへの中古品輸出ビジネスは拡大し、今では自動車のほか中古の家電や家具の輸出向け卸売店もある。
近隣にはアフリカ系の飲食店や食料品店、美容室などのサービス業も多く、周辺のビジネス関係者だけでなく近隣住民でにぎわっている。人口がきわめて多様なブリュッセル首都圏のなかでもキュレゲム地区はニューカマー移民が多く、外国籍者(ベルギーとの二重国籍を除く)は50%をこえる。なかでもこの一帯はサブサハラアフリカ出身移民が多いが、少し歩くと別のコミュニティが存在感を放つ。
キュレゲムにあるアフリカ系食材店
エヴァルト通りと並行する国道6号線あたりまで来ると、シリア系移民が経営する料理店や菓子屋、喫茶店などが目立ち、店内はほとんどアラビア語しか聞こえてこない。さらに南駅方面に進むと「三角地帯」とよばれる衣料品を中心とした問屋街があり、店主のほとんどがパキスタン・インド系の移民だ。近隣には中国系の飲食店や商店もみられるし、ポルトガル系移民の飲食店のみが5軒固まる一角もある。
キュレゲムには移住して日の浅い人間が暮らしやすい条件が揃っている。その一つが住宅を借りやすい点だ。南駅に近く便利な立地でありながら、老朽化した建物が多く、家賃水準が低い。加えて、ベルギーでは住宅の賃貸契約を結ぶ際には、わざわざベルギーの銀行口座を開設して2か月分のデポジットを入れなければならないなど、厳しいルールがあるが、この街では貸し手にも移民が多く、さまざまな制約を回避できるニューカマー向け物件もあって融通がききやすい。また、移民が必要とするリソースもキュレゲムに集中している。モスクや(アフリカ系移民やラテンアメリカ系移民が多い)福音派の教会などの宗教施設はニューカマー移民にとって宗教実践の面だけでなく、コミュニティにつながるための社会的な機能も果たしている。また炊き出しなどをおこなう慈善団体の存在も、生活をつなぐ上で欠かせない。さらに移民による経済活動が活発で、働き口が見つけやすいこともニューカマーを引き寄せる要因となっている。
キュレゲムは、時代の趨勢とともに「肉のまち」から複数のビジネスが共存するまちに姿を変えたが、ニューカマー移民受け入れの場という性格は19世紀より一貫して保ち続けている。世界各地からの移民を惹きつけ、変化を重ねている点で、キュレゲムはモザイク都市ブリュッセルの縮図とも言える。
屠場が直面する新たな試練
屠場は、社会にとって欠かせぬ食肉を供給する場であると同時に、さまざまなスティグマを課される空間として周縁化されてきた。被差別部落の差別問題と不可避に結びついている日本の状況とは異なるものの、欧州でも屠場は人目につきにくい場所に周縁化されてきた。またアニマルウェルフェア(動物福祉)の議論が進み、動物愛護運動が広がる現代の文脈において、屠場は批判にさらされてもきた。
その一方、近年ではドキュメンタリー映画『呪われたる者――屠場労働者たち』(Anne-Sophie Reinhardt監督、2022年、フランス)が話題になるなど、屠場労働者が置かれた状況にも光が当てられている。また屠場の業務の下請け化と労働条件の悪化が進み、過酷な労働の現場に移民労働者が多いことも知られている。アバトワールの街であるキュレゲムがニューカマー移民受け入れの街でもあることは決して偶然ではないだろう。
だがこの10年あまり、キュレゲムの屠場は新たな危機に直面した。ことの経緯は、1987年に作られた処理施設の老朽化がすすみ、操業ライセンスの更新時期である2027年までに欧州の衛生基準に合致する屠畜ラインを備えた施設を作る必要が生じたことだった。そこでアバトワール社は行政と連携し、新規施設「マニュファクチュール」を建設することを決定した。新たな屠場と精肉、加工、卸売業者スペースを1か所に統合した施設に加え、オフィスや住宅、教育スペースも備えた複合施設として構想された。2014年に欧州地域開発基金 (FEDER)の補助金を申請し、2017年にはブリュッセル首都圏地方政府からも補助金を受けて、計画は進められた。
だが順調に見えた計画は、思わぬ展開となった。計画の途中で施設から屠場・精肉スペースが排除されたのである。FEDER補助金は躯体工事のみで内部設備は対象外となり、新たな資金工面が必要となった。協議が重ねられたが、2024年にアバトワール社は新規設備への投資を断念し、ライセンスの更新をしない方針を決めた。現在のライセンスの期限となる2028年をもってアバトワールの屠場は操業停止となる見込みだ。
なぜ、操業継続を決めていたアバトワール社はこのような決定に至ったのだろうか。ブリュッセルの都市問題シンクタンクIEBの研究員カタリーヌ・セネシャルは、2015年以降に水面下で生じた複数の変化を指摘する。まず精肉関連業者のさらなる減少がある。開業当時からアバトワールにいた原皮処理加工業者が地方に移転し、豚の屠畜業者も撤退した。卸業者がリタイアして店じまいするケースも相次ぎ、施設内に空室が増えた。アバトワール社の構成メンバーも変化した。1983年にはカルロス・ブランケを筆頭に精肉にかかわる近隣の業者・関係者で構成されていたが、近年は精肉業とは無関係の金融関係者も株主に名を連ねるようになった。
決定打となったのは、ベルギーで宗教的屠殺を禁じる法改正が行われたことだった。欧州では動物に恐怖を抱かせない方法で失神させ、迅速に屠殺することが義務付けられているが、ハラールやコーシャなどの宗教的方法での屠殺に関しては「宗教的実践の自由」を保証するために例外措置の対象となってきた。だがベルギーでは2015年にフランドル地方、2017年にワロニー地方で屠殺ルールにおける「宗教的例外」を禁ずる法律が作られた。動物保護の名においての法改正だったが、ベルギーのムスリム権利擁護と差別反対団体CCIBは「ムスリムやユダヤ教徒の権利より動物の権利を優先する、差別的な法改正だ」と批判した。そして国内のムスリム、ユダヤ人団体は憲法で定められる「宗教実践の自由」に抵触する法改正だとして訴訟を起こした。だが2021年ベルギー憲法裁判所は「宗教の自由に抵触しない」との判決を出した。そこで団体は欧州人権裁判所に新たな訴えを起こしたが、2024年同裁判所も「宗教実践の自由に抵触しない」との判決を下したのだった。
ベルギーの他の地方とは違い、ブリュッセル首都圏で宗教的屠殺は認められているが、この間にブリュッセル地方議会でも宗教的例外を禁ずる法律を支持する勢力が増えていた。2024年の欧州人権裁判所の判決は宗教的屠殺の反対派の追い風となった。こうした状況は、売り上げの大半を宗教的屠殺が占めるアバトワール社が「屠場の存続は不可能」と判断する決定的材料となった。精肉スペースにアトリエを構え、フードメットに店舗をおくハラール肉の業者に尋ねたところ「100%の肉を輸入しなければならなくなる。屠場を放棄して、外国の企業に儲けさせるのは残念だ」という。
精肉業の大規模化という逆風のなか、アンデルレヒトの都市屠場はハラールやコーシャの供給に特化することでビジネスを成り立たせてきたが、宗教的屠殺の禁止を受け、3年後の廃止を決めた。40年間をこえる屠場存続の闘いに終止符が打たれようとしている。
アバトワールの記憶をめぐって
先日アバトワールを再訪し、ブロンズの牡牛の脇にたつアバトワール社の事務所を訪れ、サイトの地図をもらった。帰宅後に地図をながめて驚いた。施設の機能からフードメットの常設店舗や卸売業者の企業名までが詳細に記載されているが、食肉処理・加工のスペースだけが空欄になっている。アバトワールがまだ操業している現時点でも、その存在を訪問者に見えなくする動きはすでに始まっているのだ――ふと、アバトワールのあちこちに飾られていた、かわいらしい牛の頭を模したロゴのことが心に浮かんだ。もはや、このようなロゴしか、アバトワールの記憶を「とどめる」ものはなくなってしまうのだろうか。そう考えると、それまで可愛らしくみえていたロゴが怖いもののようにも思えた。
牛の頭のロゴがあちこちにある
アバトワール社が屠場の操業停止を決めた2024年は、ニューヨーク・マンハッタンのミートパッキング地区で最後の食肉業者が撤退を決め、跡地が高級住宅に再開発される――この界隈の地価の驚異的な地価については近刊のP・モスコウィッツ『都市殺し』(明石書店)第四部を参照――と発表された年でもあった(Magdalena Del Valle「NY市のミートパッキング地区、精肉業者が姿消す-住宅街に変身へ」2024年10月29日)。ロンドンでも長い歴史をもつ肉市場、スミスフィールドマーケットが2028年に閉鎖され、跡地にロンドン博物館が移転することが発表された。欧米で人びとの生活を支えてきた食肉の生産と労働の場が都市から消え、ひとつの大きな歴史が終わりを迎えようとしている。
この間、アバトワールの土地所有者は当初のアンデルレヒト区から都市開発の権限をもつ地方(ブリュッセル首都圏)に変更となり、地方政府は敷地内にオフィスビルや住宅を建設する再開発プロジェクトを提案している。再開発はアバトワールの敷地内だけでなく、移民労働者の住居とビジネスが集まる近隣にもおよぶものであり、計画はキュレゲムの様相を大きく変える可能性がある。アバトワールとその一帯の街は大きな転換期にさしかかっている。
ブリュッセル都市圏による再開発計画案(©Abattoir s.a.)
都市はこれまでも変化を続けてきたのであり、アバトワールの街の変化も不可避かもしれない。だが、どのように変えるのかには複数の道があるはずだ。現在が過去の記憶の上に成り立っているとすれば、より良い未来を構想するのに記憶の継承は欠かせない。その点で100年以上にわたってキュレゲムの街を活気づけ、闘い、地域のアイデンティティを作ってきた場所と人びとの記憶を次世代に何らかのかたちで継承していくことはできないのだろうか。その推移を引き続きみていきたい。