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モザイク都市ブリュッセル

虹色のまち、その光と影

ベルギーといえばチョコレートとワッフルとビール? そんなイメージがひっくり返る!
大国に挟まれ、複数の政府と言語共同体をもつベルギーは多様性の宝庫。まとまることが難しいからこそ、はぐくんできた知恵がある。
都市空間と移民・マイノリティをテーマに研究する森千香子さんが、首都ブリュッセルに住んで、見て、聞いて、考えます。

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 ブリュッセルは好きだけど、気候は耐えられない――ブリュッセルに移り住んだ人に街の印象を尋ねると、よく返ってくる答えだ。夏以外は雨が頻繁で、薄灰色の分厚い雲に覆われた日が多い。特に昨年は6月、7月まで天気が悪く、そのせいで鬱になった人の話も度々きいた。だから私も心の準備をしていたのだが、予想に反して今年は天気のいい年となった。3月ごろから好天で、4月末からは25度を超える初夏を思わせるような陽気が続いた。友人のFには「これほど天気のよい年は滅多にないよ、運がいいね」、Aからは「日本から太陽を運んできてくれてありがとう」と言われた。

 冬場のどんよりした空のもとでは陰鬱に感じられた街の景観も、透き通るような青空の下ではまったく異なる表情をみせるので、街を歩くのが楽しい。5月半ばの夕方、用事があって久しぶりに都心部に足を運ぶと、街並みがこれまでにないほど色彩豊かで華やかだった。何かが違う。そう思った次の瞬間、レインボーフラッグがなびいているのが目に入った。数日後に控えたブリュッセル・プライドのための飾り付けがされていたのだった。

虹色のブリュッセル

 セクシュアル・マイノリティの権利を尊重し、啓発活動を行う「プライドマンス」が6月に指定されているため、この月にプライドマーチを行う都市が多い。今年も6月7、8日は東京、6月22日にはパリ、29日にはニューヨークでプライドマーチが予定されている。だがブリュッセルではひと足早い5月17日土曜に開催された。本番に先駆け、5月7日から16日は「プライドウィーク」としてライブや展示会、講演などが行われ、都心部はレインボーカラーに染まった。通りや商店だけでなく、市庁舎などの公共機関にもレインボーフラッグが掲げられ、横断歩道もレインボーカラーやピンク、白、水色のトランスカラーに塗られた。街の中心の大広場、グランプラスには巨大なレインボーフラッグが敷かれ、王宮ギャラリーもレインボーのイルミネーションに包まれた。

レインボーフラッグが敷かれたグランプラス(筆者撮影)


レインボーのイルミネーションに包まれる王宮ギャラリー(筆者撮影)

 プライド開催日はグランプラスから徒歩5分の「芸術の丘」(複数の美術館や王立図書館が集まっている)にメイン会場が設置され、昼に集会が始まり、その後マーチが中心部を練り歩く。グランプラスの南にあるサンジャック地区にはレインボーヴィレッジが設置され、屋外コンサートが夜まで予定された。これらのエリアは2017年から23年にかけて漸次歩道化され、徒歩で行き来できる(ブリュッセル中心部パンタゴンの地図)。

 当日は、集会の始まる1時間以上前にサンジャック地区に足を運んだ。同地区はバーやレストランが密集し、夜ににぎわうエリアで、特にマルシェ・オ・シャルボン通り(石炭屋通りの意味)界隈はゲイバーやセクシュアル・マイノリティ団体の施設が集まることで知られる。その日は午前中から通りは活気を帯びていた。路上には音響設備が設置され、屋台を準備したり、飲料などを搬入する人の姿があった。人目をひく華やかな衣装の人や、地味な普段着だがレインボーカラーのカバンや装飾品を身につけた人があたりを散策している。若者のグループ、子ども連れの家族、乳母車を引いた同性カップル、年配のカップル、一人で歩いている人、ガイドに引率される観光客の集団など、本当にさまざまだ。


メイン会場の舞台横にひっそり佇むエリザベス女王像(筆者撮影)

 


エンペラー通りのスタンド(筆者撮影)

 メイン会場に行くと、アルベルティーヌ広場に巨大な舞台が設置され、広場にあるエリザベス女王像が一回り小さくみえた。舞台前にはまだ人はまばらだったが、巨大な音量で音楽がかけられ、左右にピンク色のバーカウンターが準備され、数時間後のにぎわいを予感させた。広場から伸びるエンペラー大通りにはプライドヴィレッジが設置され、関連団体のスタンドやフードトラックが早くも来場者でにぎわっていた。

ブリュッセル・プライドの歴史的展開

 29回目を数える今年のプライドには警察発表7万人、ブリュッセル市観光局発表22万人が来場した(RTBF info, 《Brussels Pride : 70.000 personnes selon la police, 220.000 selon visit.brussels, pour défendre la cause LGBTQIA+》, 2025年5月18日)。昨年も来場者は20万を超えており、今日プライドは押しも押されぬ、ブリュッセルの一大イベントだ。だが、最初からそうだったわけではない。

 ベルギーのセクシュアル・マイノリティ運動は首都ブリュッセルで始まったわけではない。1970年代後半より「ピンク色の土曜日(Roze Zaterdag)」が開催されていたオランダの運動の影響を受け、オランダ語圏で先に広がった。1978年にゲントで、1979年にアントワープで「同性愛者デー(Homodag)」が開催され、1990年にはベルギー版「ピンク色の土曜日」がアントワープで、1992年と94年にはゲントで開催された。そして96年に初めてブリュッセルでも開催されることになった。

 オランダ語圏で行われてきたパレードが二言語地域のブリュッセルで行われることで困難も生じた。フランス語圏の団体とオランダ語圏の団体の間では言語の違いから意思の疎通が難しかったし、権利要求を重視するオランダ語圏の団体と祭典のようなイベントを好むフランス語圏の団体の間で方針の違いもあった。だが複数の案を折衷して落とし所を見つける「ベルギー流の妥協」が行われ、"Belgian Lesbian and Gay Pride – Roze Zaterdag – Samedi Rose"(Samedi Roseはフランス語で「ピンク色の土曜日」)という長いイベント名が決定した。そしてブリュッセル在住者だけでなくオランダ語圏のフランドル地方、フランス語圏のワロン地方、さらに海外から2500人が集まり、当時としては画期的な動員を記録した。以降、プライドはBelgian Lesbian and Gay Pride (BLGP)に名称を変更し、毎年ブリュッセルで行われている。

 当初、プライドには冷ややかな目が向けられていた。ブリュッセル市は「都心の商店主が嫌がるので、中心部の目立つ場所には近づかないこと」を要求し、パレードは中心街を取り囲む環状道路での開催を余儀なくされた。沿道の人からの差別的な反応もあった。1996年から99年にBLGPの代表を務めたチル・ドマンはこう語る。「当時は、今のように肯定的な反応はほとんどありませんでした。最初の2回のプライドでは身元を知られたくないという理由で、顔を覆って参加したいという人もいたほどです。一緒に行進するには勇気が必要でした(中略)親指を下に向けて、私たちを受け入れないという意思を示す人たちもいたのです」(Jaleesa Greening, 《Voici à quoi ressemblaient les premières Prides en Belgique dans les années 1990》, VICE DIGITAL, 2020年5月25日)。メディアの報道も、プライド参加者のうち「突飛な」服装をした人たちをステレオタイプ的に表象する差別的なものだった。


1997年第2回のプライドの様子(©Belgium Pride)

 だがそのような敵対的な雰囲気にもかかわらず、運動は続けられた。核となったのは同性カップルの権利の承認だった。社会の制度設計が異性愛カップルのみを家族と想定して行われているため、それ以外の形の「家族」は制度から排除されてきた。同性カップルは法律上の親族になれないため、賃貸住宅の家族向け物件に入居できなかった。パートナーに万が一のことがあったときにも医療上の重要な決定に関与できなかった。亡くなった際にも、一緒に築いた財産を相続できず、家から放り出されるなどの苦しみを味わわされてきた。そうした差別の撤廃がセクシュアル・マイノリティの運動の最初の要求とされたのは必然だった。

 運動はメディアを通した広報活動に力を入れる一方、社会変革につなげるため政治にも積極的に働きかけた。1999年5月のプライドでは一か月後に行われる総選挙を見据え、同性愛者差別反対法の制定と同性カップル承認の制度化という二つの要求を掲げ、著名人100名で構成される支援委員会を組織した。2000年のプライドでは10月の市町村選挙を意識したキャンペーンを行った。そして運動が支持した社会党のフレディ・シールマンスが新市長に就任すると、ゲイであることをオープンにするブリュノ・ドゥ・リールを機会平等担当副市長に任命した。以降、プライドと市の関係は大きく変化した。2001年のプライドでは市庁舎でレセプションが開かれ、市の働きかけで商店街に飾り付けが行われた。

 2002年の総選挙の一か月前に行われた第7回のプライドは、再び性的指向に基づいた差別の禁止法の制定と同性カップル承認の制度化を求めた。そして、ついに2002年12月に差別禁止法が、2003年1月には同性婚法が可決された。これは運動にとって大きな前進だった。とはいえ養子縁組の権利が法律から除外されたり、外国人が配偶者の場合は出身国でも同性婚法が成立していることが条件にされるなどの制約があり(当時、ベルギー以外で同性婚法があるのはオランダだけだった)、差別の完全撤廃とは言えない内容だった。

 そこで第8回のプライドは"We want more"をスローガンに制約の撤廃を要求し、同年、配偶者の出身国に関する制約は外された。さらに2005年、総選挙を控えた第10回プライドは異性愛カップル以外の養子縁組認可を求め、選挙後に法制化が行われた。ブリュッセルのプライドが5月に行われる一つの理由は、政治に効果的に働きかけるうえで、重要な選挙が多い6月の少し前に実施するのが適切だという戦略的判断があった。

 ベルギー国内のセクシュアル・マイノリティに異性愛カップルと同様の権利を付与するという当初の目的が達成された後、プライドは視野を広げて活動を展開した。モスクワでの警察によるプライド弾圧やイランでの同性愛者差別を批判するなど国境を超えた連帯を模索する一方、トランスジェンダーの住民が役所の登記簿に記載される身分証明の性を変更する権利を擁護するなど、国内の多様なセクシュアル・マイノリティが受ける差別に反対し、権利の承認を求めた。

 行政はこのような実績を評価し、プライドとの連携強化を図るようになった。2009年、ブリュッセル市とブリュッセル首都圏地方政府はプライドとパートナーシップ契約を締結し、さらに2012年にはブリュッセル市観光局(Visit Brussels)がプライドの共催者となった。主流化によってイベントの規模も拡大し、2014年には参加者が10万人を超えた。行政のプライドへの接近はマイノリティの権利擁護という側面だけでなく、大きな経済的効果への期待もあった。2000年代にリチャード・フロリダはクリエイティブ都市論を展開し、新たな産業を創出し、経済を発展させるには、クリエイティブな人材が集まるような魅力的な都市づくりが必要であり、そこで重視されるのが多様な価値観を受け入れる寛容度だと説いた。以来、セクシュアル・マイノリティが暮らしやすい都市であるかどうかは、世界の自治体において都市の「魅力度」を高め、観光や企業の投資を呼び込む重要な指標として捉えられてきた。セクシュアル・マイノリティの権利を擁護する国の世界ランキングを発表するILGA-Europeによれば、ベルギーはヨーロッパ第二のセクシュアル・マイノリティ・フレンドリーの国だ(2025年の順位。第1位はマルタ。"2025 rainbow map"より)。ブリュッセル市はそのイメージを最大限に活用し、観光客やビジネス業界にアピールしている。プライドはそのようなアピールの最大の機会である。

 プライドの主流化はパレードのルートにも表れている。以下の地図の赤色の線は今年のルートを、青色の線は1998年のルートを表したものだ。第3回目だった1998年のパレードは環状道路で行われた初回のパレードに比べると都心に近いが、商店が集中するドゥ・ブルッケールやオペラ座など人出の多い中心部から外れたルートになっている。それに対して現在のルートは文化施設が集中し、観光客も多い芸術の丘を出発し、オペラ座を通り、ドゥ・ブルッケールの商業エリアからブルス(旧証券取引所)を通過して芸術の丘付近のプライドヴィレッジに到着する。ルートの内側に観光名所が集中している。

 ちなみに黄色の線は5月11日のパレスチナ支援デモのルートだ。どのルートで歩くことを行政から認めてもらえているかが、運動と行政との関係を表している。


ブリュッセルのパレードとデモのルート(筆者作成)

セクシュアル・マイノリティの歴史を歩く

 プライド主流化がブリュッセルのセクシュアル・マイノリティの状況全体を反映しているわけではない。そのような気づきを得たのは、プライド開催日の前日、ブリュッセルのセクシュアル・マイノリティ・コミュニティの歴史をたどるウォーキング・ツアーに参加した時だった。

 待ち合わせはサンジャック地区の中心、石炭屋通り42番地にあるレインボーハウス前だ。最初のプライドから5年後の2001年、セクシュアル・マイノリティの団体6つが集まって立ち上げたコミュニティ・センターで、ブリュッセルの運動にとっての歴史的な場所である。

 待ち合わせ5分前に着くと、白髪のショートヘアで鼈甲のメガネをかけ、深みのあるラズベリーピンクのセーターを着た、姿勢のよい女性が立っていた。肩にかけた大きな布の鞄から何枚ものプレートがはみ出している。ガイドを担当するマリアン・レンズだった。フランス語、オランダ語、英語が堪能な彼女は、集まってきた参加者一人ひとりに異なる言語で対応し、英語でガイドをして大丈夫かどうかを丁寧に確認してから、話を始めた。


マリアン・レンズさんのガイドツアー(筆者撮影)

 マリアンは1980年代よりレズビアンであることを公にし、ブリュッセルの運動に関わってきた研究者であり活動家で、レインボーハウスの立ち上げにも大きな役割を果たすなど、運動の展開を最前線で見てきた。レインボーハウスは現在加盟団体が70を超え、プライドも市と帯同した大イベントとなり、20、30年前と状況は大きく変わった。だがマリアンによれば、LGBTQIA+(Lesbianレズビアン, Gay, ゲイBisexualバイセクシュアル, Transgender, トランスジェンダーQueerクィア/QuestioningクエスチョニングIntersexインターセックス, Asexualアセクシュアル)への差別がなくなったと考えるのは拙速だ。コミュニティには力を持つようになった人がいる一方、いまだに差別や貧困にあえぐ人が多い。コミュニティのなかの多様性やその中に根ざす差別をしっかりと捉え、団結して権利の向上を目指す必要がある。マリアンのこのような力強いスピーチに、15名ほどの参加者から拍手が起きた。ありがとう、とマリアンは微笑みを浮かべ、私たちを連れて街歩きを始めた。

 最初に訪れたのは、石炭屋通りにある警察署だ。レンガ作りの大きな建物はかつて監獄として使われており、1873年にフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌが年下の恋人で詩人のアルチュール・ランボーとの旅行中に関係が拗れて事件を起こし、収監された場所だった。次に観光名所の小便小僧を訪れた。銅像を作った彫刻家ジェローム・デュケノワの息子が同性愛者で1694年に処刑された歴史がある(ちなみに現在ある銅像はレプリカで、実物はブリュッセル市立博物館に保管されている)。また団体アクトアップが、この銅像に巨大コンドームを被せたこともあった。アクトアップは、1980年代、エイズで大量の死者が出ていたにもかかわらず、政府や社会が無策・無理解であることに抗議して立ち上がり、直接行動など画期的な手法を通してエイズに関する正しい知識を広め、治療薬の開発・普及に多大な貢献を果たした。


HIV連帯のシンボル、レッドリボンを巻いた巨大コンドームを被せられた小便小僧(©︎ www.dhnet.be)

 観光客の間をぬって、小便少女像にたどり着いた。この銅像があるパッサージュ・ドゥ・フィデリテ界隈は20世紀前半よりセクシュアル・マイノリティのバーなどが集まるエリアで、当時寂れていたエリアを活性化させる目的で、1985年に少女像が作られた。観光客が投げた小銭は、エイズ治療薬を開発する団体に寄付されてきたという。


プライドを記念して飾り付けされた小便少女(筆者撮影)


 その後、ヨーロッパ最古のショッピング・アーケード、ギャルリー・サンチュベールを訪れた。ここにあるヴォードヴィル劇場は19世紀にはトランスヴェスタイト(異性装者)のオペレッタ劇場として人気を博した劇場だった。そのような歴史をふまえ、世界で初めて性的適合手術を受けたリリー・エルベの伝記映画『リリーのすべて(The Danish Girl)』(トム・フーパー監督、2015年公開)の撮影はこの場所で行われたのだった。

 周縁化され、忘却されたセクシュアル・マイノリティの記憶を通して、見慣れていたブリュッセルの風景がこれまでとは違ったものに見えてきた。

主流化のなかのマイノリティ

 最後に訪れたのは、サンジャック地区にある壁画の集まる通りだった。石炭屋通りから伸びる小道リュー・ドゥ・ラ・ショフェレットには、2010年代半ばにレインボーハウスがブリュッセル市の助成を受け、啓発活動の目的で設置した数メートル規模のカラフルな壁画が並んでいて、迫力があった。

 マリアンは「私が学生の頃、このような壁画が都心に置かれる日がくるとは想像もできませんでした」と感慨深く述べた。だが壁画には「さまざまな批判も向けられている」と話し、ドイツの人気コミック作家ラルフ・ケーニッヒの壁画前で説明を始めた。1980年代に描かれたイラストを壁画化した作品は、セクシュアル・マイノリティ・コミュニティの多様な人々を描き出していると評価されてきた一方、トランスフォビック( トランスジェンダー嫌悪)な表象や人種差別的な表象があると激しい批判を引き起こした。レインボーハウスは表象を削除したり、書き直すことも検討したが、作者の意向をふまえ、壁画は維持し、問題点を説明するプレートを設置することにした。だがいまだにトランスフォビア、レイシストといった書き込みが繰り返されている。


ケーニッヒのイラスト壁画(筆者撮影)

 次に、ギリシャのアーティスト、フォティニ・ティクによる壁画を見た。11人の多様なセクシュアル・マイノリティの姿を描いたもので、インターセックス、高齢の異人種のゲイカップル、セックスワーカー、HIV感染者、子育てするゲイカップル、バイセクシュアル、トランスジェンダーのポートレートが並ぶ。


セックスワーカーと高齢ゲイカップル(筆者撮影)

 


トランス男性(筆者撮影)


 「しかし、壁画には不自然な点もあります」とマリアンは述べた。ゲイカップルのポートレートは複数あるのに、レズビアンのポートレートは1つだけで、しかも顔が描かれていない。その顔なき女性は頭にスカーフを巻き、添えられた文章を読むと「出身国では同性愛が禁じられており、自由に女性を愛せるこの国に移住できて幸せだ」と書かれている。「まるで、レズビアン差別はイスラーム圏だけにあり、ベルギーにはないかのようですが、この国にもいまだにレズビアンへの差別は根深く存在します」と話し、数年前にパートナーと暮らす自宅に同性愛差別の落書きがされたことを紹介した。


ゲイカップルと顔なきレズビアン像(筆者撮影)


 また、家父長制やフェミニズムの視点からも批判が可能だ、とマリアンは述べた。その他のポートレートに女性は描かれているが、皆、若いシス女性ばかりで、ステレオタイプ的な美が強調されている。つまり、これらのポートレートはセクシュアル・マイノリティ・コミュニティの多様性の一部を描いてはいるが、主流派のイメージばかりを強調している。セクシュアル・マイノリティのなかの多様な人々を尊重し、あるゆる人たちの権利を擁護するには批判的な視点を持ち続け、絶え間なくより良い社会を目指すことが大切だ、とマリアンは語った。ブリュッセル初のレズビアン書店 Artemysを経営したり、研究の世界を志したり、さまざまな取り組みと挫折を経験してきたマリアンの言葉には力があった。現在、ブリュッセルのレズビアンの運動史を執筆中だという。ぜひ読みたいので、楽しみにしています、と伝えて、マリアンと別れた。

デモに見える多様性

 マリアンの言っていた多様性や批判の力というものを、ツアーの翌日、パレードに参加した時にも感じた。22万人ともいわれる参加者の全体像はとても捉えきれないが、現場で目にしただけでもレズビアン、ゲイ、トランス、クィア、インターセックスのグループ、エイズ・アクティヴィズムやポリアモリー(複数のパートナーと交際すること)の団体、障害者や高齢者のセクシュアル・マイノリティなど、実に多様で、年齢層もさまざまな当事者と支援者がセクシュアル・マイノリティの権利擁護を求めて参列していた。


エイズアクティヴィズムの団体とともに歩くポリアモリーの旗を持つ人(筆者撮影)


ベア高齢者LGBTQIA+の権利擁護の旗を持つベアコミュニティのグループ(筆者撮影)



レズビアンフラッグを巻いた女性(筆者撮影)

 またパレードへの参加者だけでなく、開催を組織・支援するボランティアのスタッフも年齢、人種、ジェンダーなどの面で多様な人々で構成されていた。車椅子で生活する人たちがボランティア・スタッフとしてデモ隊を誘導する姿が印象に残った。


車椅子でデモのボランティアをする人たち(筆者撮影)

 色彩豊かな衣装や旗があふれ、あちこちで音楽の演奏やダンスが見られて、実に陽気な雰囲気だったが、そうしたなかでも政治的メッセージがはっきり示されていた。なかでもセクシュアル・マイノリティの権利擁護を国境を超えて訴える内容が目立った。

 その一つが、ハンガリーのセクシュアル・マイノリティとの連帯だ。プライドは2023年にベルギー国内だけでなくヨーロッパも視野に入れたイベントにするとの理由で、名称を「ベルジアン・プライド」からEU本部のあるブリュッセルを前面に出した「ブリュッセル・プライド」に変更した。2025年のテーマ「力をあわせて、我々の権利を守る時だ(Unite, time to protect our rights)」の背景には、ハンガリーで今年のプライドが政府によって禁止されたことがあった。そのためハンガリー政府を批判する横断幕や、ハンガリーに十分な批判を展開しないEUを批判する横断幕も目立った。


ハンガリー政府批判の横断幕(筆者撮影)


欧州委員会委員長ウルズラ・フォン・デア・ライエンへの批判(筆者撮影)

 またセクシュアル・マイノリティの中でも周縁化された人々の権利擁護を訴えるメッセージも散見された。なかでも入管法の厳格化と取り締まり強化のなか、ベルギー国内の難民LGBTQIA+が排除されたり、差別を受けている実態を訴え、批判する声もあった。


難民LGBTQIA +差別を訴えるプラカード(筆者撮影)

 政府が断行する緊縮政策を批判する団体もあった。住宅や雇用、医療などに割かれる予算が激減し、多くのセクシュアル・マイノリティの人々の生活が苦しくなっていることを訴えていた。セクシュアル・マイノリティの権利運動が単なるアイデンティティ・ポリティックスではなく、住宅や雇用、社会制度における差別の撤廃という生存条件の改善を求めていることがわかる。


反資本主義の旗を持つ人たち(筆者撮影)

 さらに、ガザで起きているジェノサイドに抗議し、セクシュアル・マイノリティとしてパレスチナへの連帯を呼びかけるメッセージもあった。


イスラエルによるジェノサイドへの抗議(筆者撮影)

 これらの要求や批判はセクシュアル・マイノリティの権利擁護と一見、無関係に見えるかもしれないが、実はそうではない。マイノリティの権利の獲得は、広い視点から連帯することなしには達成できないということを示している。

 パレードに参加しながら、ふとマリアンとの会話を思い出した。「多様性の尊重と批判精神をブリュッセルのセクシュアル・マイノリティの運動は常に携えてきました。プライドが主流化するなか、いろいろな地域でピンクウォッシュ(自らが行っている差別や人権侵害を隠すために、同性愛者を支援し、人権を尊重しているかのようにアピールし、ごまかすこと)が起きているとの批判がありますが、ブリュッセルのプライドはピンクウォッシュに陥っていません。世界でもっとも政治的なプライドの一つなのです」。毅然と述べるマリアンに、なぜ、ブリュッセルのプライドにそのような特徴があるのかと尋ねてみた。すると「それはベルギーという国の歴史に起因する」という答えが即座に帰ってきた。一つの国のなかに多様な言語や宗教、政治、文化が共存し、深く分裂し、激しい対立を繰り返しながらも、ぎりぎりのところで妥協点を見出してきた歴史の積み重ねが、セクシュアル・マイノリティの運動にも影響を与えているという。世界のあちこちで分裂や対立が深まる今、「ベルギー流の妥協」から学べることは大いにある気がした。

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著者略歴

  1. 森 千香子

    1972年生まれ。フランス社会科学高等研究院博士課程修了。博士(社会学)。
    南山大学外国語学部准教授、一橋大学大学院法学研究科、同社会学研究科准教授、プリンストン大学移民開発研究所客員研究員等を経て、現在は同志社大学社会学部教授、同志社大学都市共生研究センター(MICCS)センター長、ブリュッセル自由大学客員教授。
    主要著作に『国境政策のパラドクス』(共編、勁草書房、2014年)、『排外主義を問いなおす』(共編、勁草書房、2015年)、『排除と抵抗の郊外』(東京大学出版会、2016年、大佛次郎論壇賞、渋沢・クローデル賞特別賞受賞)、『グローバル関係学6 移民現象の新展開』(共編、岩波書店、2020年)、『ブルックリン化する世界』(東京大学出版会、2023年)などがある。

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