第4回 経済成長――多様性が織りなすダイナミズム(熊谷章太郎)
宗教、ポップカルチャー、成長する経済、そして日本国内の身近なコミュニティまで――変化の激しい東南アジアの「今」を、私たちはどのように読み解き、学べばよいのでしょうか。
2026年1月に刊行された『東南アジアを学ぶ人のために』(世界思想社)の出版記念イベント「東南アジアの読み方、学び方――プロの視点×学生のリアル」が開催されました。
最前線の研究者による知見を紹介した第1部より、今回は「経済成長」の章を担当した熊谷章太郎さんの発表を紹介します。
日本総合研究所の熊谷章太郎と申します。私の会社は、学生の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、三井住友銀行を含む金融グループの中にある、ITや経済の研究所です。
私はこの会社で、主にタイを中心とする東南アジアと、インドを中心とする南アジアの経済を研究しています。そして、たとえばインドネシアでビジネスしたいというお客様に対してマクロ経済に関する情報提供をしています。また、「東南アジアかインドか、どちらに進出するといいの?」というご質問に対して情報提供をすることもあります。
東南アジアの経済成長
今回、『東南アジアを学ぶ人のために』では、経済についての章を担当しました。本章では、「なぜ、東南アジアでは経済成長が続いているのか」という話や、「地域全体で捉えると景気がいいものの、国によって状況が大きく異なる」という話をしています。
名目GDPの推移
本書ではこのグラフを簡素化したものを掲載しています。GDPというのはグロス・ドメスティック・プロダクト、すなわち経済規模です。こちらのグラフでは、東南アジアと日本とインド、この3つ国・地域のGDPを並べています。2000年代初頭、東南アジアのGDPは日本のだいたい6分の1から7分の1ぐらいでした。それから四半世紀が経過し、現在インドと東南アジアのGDPは日本とほぼ同じ規模になりました。
この間、日本のGDPは低迷し続けています。今後は、東南アジアとインドが日本を抜き去り、その差は徐々に拡大していくと見込まれます。そのため、日本のアジアビジネスの観点から見ても、これらの地域の経済動向を把握することは重要です。
経済成長の3つの要因
では、どのような要因で、これまで東南アジアの経済は成長してきたのでしょうか。本章では3つの要因を指摘しています。
第1に、ビジネス環境の改善です。国をまたぐヒト・モノ・カネの移動の円滑化、物流・エネルギーインフラの整備、人材育成などを含め、様々な面でビジネス環境が改善しました。
第2に、人口動態です。2000年代初頭、東南アジアの人口は約5億人でした。現在は約7億人と、1.4倍になりました。また、東南アジアの平均年齢は約30歳と、日本の約50歳、中国の約40歳よりも若く、高齢化に伴う経済の下押し圧力も限られました。
第3に、サプライチェーンの再編です。これまでは中国が世界のモノづくりの中心でした。しかし、アメリカと中国の対立や、中国におけるモノづくりのコストの上昇を受けて、中国ではなく東南アジアに工場を設けようという動きが出てきています。東南アジアは、こうした動きの恩恵を受けています。
東南アジアは全体としては底堅い経済成長が続いていますが、国ごとに状況は大きく異なります。そのため、経済構造が国ごとにどのように違うかをおさえておくことが重要です。
まず、人口についてみると、インドネシアは約2.8億人と日本の2倍以上の人口を有しています。一方、ブルネイの人口は45万人と、品川区や葛飾区と同じ規模です。
また、所得水準についてみると、シンガポールの1人あたりGDPは10万ドル以上です。それに対し、ミャンマーや東ティモールの1人あたりGDPは約1,500ドルと、シンガポールの約100分の1です
この他、産業構造も国ごとに大きく異なります。ミャンマーは農林水産業が経済全体の約4分の1を占める一方、シンガポールは農林水産業の割合はほぼゼロです。シンガポールは食料やエネルギーをほぼ輸入に依存する一方、国内消費量を上回る天然資源を有するブルネイやインドネシアは食料やエネルギーを輸出しています。
このように、東南アジアは人口、所得、産業構造などが国ごとに大きく異なり、この多様性が独特の経済成長を生み出しています。
各国の経済状況
東南アジア経済はGDPが日本を追いつくほどに成長しましたが、国ごとに経済状況は大きく異なります。
実質GDP成長率
グラフの青いバーが2020年代の実質GDP成長率です。2020年代のベトナムの経済成長率は、平均約6%になると見込まれています。それに対し、ブルネイやタイは約1%と、日本と同等の成長率になると予測されています。ミャンマーにいたっては、2020年代は、マイナス成長になると見込まれています。とりわけタイとミャンマーは、2010年代と比べた成長の減速が顕著です。
タイの成長率が2010年代から大きく鈍化した理由としては、まず、物価上昇やバーツ高に伴う輸出競争力の低下を指摘できます。これは、タイから買うよりも他国から買ったほうが安いという状況が起きていることを意味します。また、政情不安も構造改革の停滞などを通じて、経済に悪影響をもたらしています。
さらに、技術革新に伴うハードディスクドライブ(HDD)需要の減少もタイ経済に下押し圧力をもたらしています。私たちの使用しているパソコンの中には10年ぐらい前まではHDDが搭載されていました。2016年のHDD搭載率は、ノートパソコンで約5割、デスクトップで約9割です。しかし現在は、ソリッドステートドライブ(SSD)という、メモリーチップにデータを書き込む記憶装置に置き換えられてしまったため、HDDはほとんど使われていません。

パソコンのHDD搭載率

世界のHDD出荷台数とタイの生産台数
下のグラフの黒い線が世界のHDDの出荷台数、青いバーがタイの生産台数です。タイは世界有数のHDDの生産国・輸出国でしたが、世界的にHDDの売上が減少し続け、タイのエレクトロニクス産業が低迷する一因となりました。
この他、ガソリン車からEV(電気自動車)にシフトも、ガソリン車を生産するタイ経済に下押し圧力をもたらしています。さらに、EVシフトに伴う石油需要の減少やそれを受けた資源価格の下落も、ブルネイなど資源輸出への依存度が高い国の経済に下押し圧力をもたらしています。
今後の経済展開
東南アジア経済は大きく発展しましたが、その一方で大気汚染をはじめ様々な環境問題が深刻化しています。そのため、経済成長と環境保全のバランスをどのようにとるかが重要課題となっています。 環境対策として、焼畑農業の禁止、石炭火力発電所の新設禁止、再生可能エネルギーやEVの導入促進などの取り組みが進められています。一部の国では日本よりも速いペースでこうした動きが進んでおり、本章ではそれについても紹介しています。
本章の最後では、東南アジアの経済の展望を示しています。私は、ビジネスと経済安全保障、双方の面から今後も東南アジアは日本にとって重要な地域であり続けると考えています。また、最近は多くの方がインドへの関心を高めていますが、私はインドが東南アジアを必ずしも代替できるとは見ていません。両者は、別物として捉える必要があると考えています。
人口や経済成長率の観点から見ると、インドのほうが東南アジアより有望に見えますが、実際にビジネスを展開する際には様々な要因を勘案する必要があります。中国からの部品や素材の輸入のしやすさ、日本企業の進出件数、日本との貿易・投資額などは、現時点では東南アジアの方が日本企業にとってビジネス環境が良好であることを示しています。
東南アジア各国の個別産業や企業などの動向を分析することも重要ですが、同時にマクロの視点で全体像を把握することも必要です。また、東南アジアをそれ以外の国とか地域と比べることも、東南アジアについての理解を深めるうえで重要です。私の発表は以上になります。ご清聴ありがとうございました。

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【目次】
序 東南アジアを学び、ともに生きる(中西嘉宏・野中葉)
第Ⅰ部 歴史と自然
1 経済史──スパイスと港町が世界をつなぐ(小林篤史)
2 脱植民地化──終わりのない物語(長田紀之)
3 気候──熱帯泥炭地と人びとの暮らし(小川まり子)
コラム1 心やさしき仏教の末路(伊東利勝)
コラム2 岐路に立つカリマンタンの「森」の世界(寺内大左)
第Ⅱ部 社会と文化
4 民族──支配と生活を映す鏡(田川昇平)
5 宗教──社会のなかで創られ続ける「宗教的なもの」(久志本裕子)
6 若者──ポップカルチャーにみなぎるエネルギー(金 悠進)
7 ジェンダー──保守と進歩の対立を超えて(西川 慧)
コラム3 海の上に暮らす人びと(中野真備)
コラム4 シダ納豆は稲ワラ納豆よりおいしい?(横山 智)
第Ⅲ部 経済と政治
8 経済成長──多様性が織りなすダイナミズム(熊谷章太郎)
9 民主主義──キャラ立つ指導者たちの功罪(中西嘉宏)
10 紛争と和平──民族自決と国家主権のはざまで(谷口美代子)
コラム5 「伝統」で稼ぐ生薬売り(間瀬朋子)
コラム6 ある移民の人生(細田尚美)
第Ⅳ部 日本とともに
11 日本軍政の記憶──インドネシアに残るさまざまな痕跡(津田浩司)
12 東南アジアでの日本ビジネス──拡大、深化から共創の時代へ(梅﨑 創)
13 日本での東南アジアコミュニティ──急激な流入と進む定住化のゆくえ (野中 葉)
コラム7 日本・東南アジア安全保障協力の新展開(鈴木絢女)
コラム8 技能実習生の横顔(山口裕子)
索 引



