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連載:『悪は存在しない』の地平から『急に具合が悪くなる』の奇跡へ

第5回 鹿の「見返り」と現代の神話となった『悪は存在しない』

2026年6月19日(金)より全国公開されている濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。
本作の物語全体を導く重要な着想源であり、劇中演劇の参照元ともなっているのが、人類学者・松嶋健氏の著書『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』(世界思想社)です。
第79回カンヌ国際映画祭での〈最優秀女優賞〉受賞の興奮も冷めやらぬなか、前作『悪は存在しない』の上映が行われた「旅する大学」真庭企画にて実現した、二人の対談を全5回にわたってお届けします。


【編集部注】
特別連載の最終回となる第5回は、映画のラストを読み解く壮大な人類学的解釈が炸裂する。森が人間の世界を見つめるという演劇的構造、諏訪の独自の鹿信仰、そして逃げることを諦めた鹿が振り向いてハンターを直視する「見返り(リガーディング)」と命の贈与。なぜ『悪は存在しない』が現代の「神話」の次元にまで達しているのか、その理由が明かされる。さらに結びには、最新作『急に具合が悪くなる』を観る上での読書案内が手渡される。
(※本記事には映画の結末に関する具体的な記述が含まれます)

「鹿」を人類学的に読み解く

松嶋:人間の世界の時間をあと5分だけ延長してください(笑)。どうしても聞いておかないといけないことがあるので。濱口さんの映画では演劇がきわめて重要で、いわば作品の魂のようなかたちでいつも出てくるわけですけれども、『悪は存在しない』の場合、演劇はないように見えます。でも私は冒頭の石橋英子さんの音楽とこれまた長く続く森の樹冠ごしの空の映像を何度も観るうちに、ああこれはあちら側からこちらを見ているんだと感じるようになりました。いわば森が見ているんですよ。この映画は、人間の世界の悲喜劇を森が見ているという作品だと思います。そして森という生きた全体の先端部にいるのが「森の王」としての鹿です。その鹿が人間をじっと見るというシーンがありますが、あそこはどうやって撮られたのでしょうか?

©2023 NEOPA / Fictive

濱口:これは、世の中、知らないほうがいいことがある(笑)。ということで閉じるのはどうでしょうか……。

松嶋:そうですね。ただ、鹿のことは人類学的にめちゃくちゃ重要なので、最後にその話だけさせてください。今回の映画には、人間の他に鹿、鷹、山鳥といった生きものたちが出てきますが、なかでも鹿と鷹というのはユーラシアにおける最も聖なる動物とされています。この二つの動物が出てきていることにはちゃんと意味がある。撮影がおこなわれた場所である富士見町というのは、諏訪湖の近くで縄文遺跡があるところです。諏訪には複数の神が祀られていますが、もともとの古い神様というのは謎につつまれています。おそらくは山の神、森の神だったと思われます。千鹿頭神ちかとのかみとも呼ばれていますが、それで諏訪大社上社の御頭祭おんとうさいでは昔は75頭もの鹿の頭が奉納されていたと言われています。宮崎駿監督の『もののけ姫』に出てくるシシ神も諏訪一帯の信仰をもとにしていると考えられます。これは農耕民の前の狩猟民の信仰に関わる問題であり、ユーラシアの東から西まで共通して見られるものです。ユーラシア全域にわたってなぜ鹿が聖なる動物とみなされてきたかと言うと、理由が四つあります。

一つ目の理由は、鹿というのは動物であると同時に植物でもあるからです。鹿の角、あれは木であり、枝角と呼ばれます。映画の冒頭で、冬の森の裸になった樹々が数分間にわたって映されますが、あれは鹿の枝角でもあると思います。二つ目の理由は、鹿の角が秋に落ちて春に生え変わるからです。ここから鹿は生命の再生のシンボルになるわけです。三つ目の理由として、『悪は存在しない』の中でも奈良の鹿の話がありましたが、それとは違い森に棲む野生の鹿というのはその生きた姿をほとんど見ることができないからです。見えたとしても遠くの木陰にチラッとだけです。というのは野生の鹿は逃げるから。必ず逃げる。それをハンターは追う。ちなみに、この映画の撮影でもカメラマンは鹿をずーっと追っていったけれども撮れなくて、結局撮影の最終日でしたか?

濱口:ええ、はい。最終日の朝ですね。早朝からずっとカメラを構えて車を走らせていたら、鹿の群れがいて。

松嶋:最終日に初めて撮ることに成功したそうです。ちなみに、カメラで撮影するというのは英語でshootといいますが、ハンターが猟銃で撃つのもshootで、まったく同じです。鹿をずーっと追っていってshootするその時、カメラマンはいわばハンターになっていると言えます。
4つ目は、「半矢はんや」という言葉が映画の中で出てきます。致命傷にいたらなかった手負いの動物のことです。狩猟ポータルなどを見ると、半矢にしないように、たとえ半矢にしたとしても最後まで追跡してちゃんと仕留めましょうと書いてあります。半矢になると狂暴になって人を襲う可能性があるからです。これは半矢でなくともそうなのですが、鹿はひたすら逃げるけれども、もう逃げられないと観念すると立ち止まります。そして、必ずこちらを振り返るんです。これはユーラシア全域の狩猟民の神話に共通したモチーフです。立ち止まってこうやって振り返って、ハンターの目をじっと見る。これはリガーディング(見返り)と呼ばれたりしますが、そこで何が起こっているのかというと、「私を撃っていいですよ」とハンターに自分のからだを贈与しているのです。この自己贈与の構造が、今度は花ちゃんが鹿に向かって帽子を取るという仕草によって反転する。人間が鹿を撃ち捕食するという構造が逆転して、人間のほうが鹿に自分を、自分の生命を贈与するという反転が起こっているわけです。

「あわい」の存在のほうへ

松嶋:こうしたことは人類学では「パースペクティヴィズム」と呼ばれたりしますけれども、そこでは人間が見ているのではなく、動物のほうから人間を見る、自然のほうから人間を見る、という視点の転換が起こるのです。そうすることで、人間は人間でありながら、人間ではないものに変容していく。人間と自然のどちらでもありながらどちらでもない「あいだ」の存在、「あわい」の存在に変容していくのです。濱口さんは意図はないとおっしゃいましたが、おそらく半ば無意識的にそういう次元に関わるものを撮られているのだと思います。

それから最後にさらに一つ付け加えると、見返っている時、鹿は「私を撃っていいですよ」と言っているだけではありません。同時に人間を誘惑しているんです。「こっちの世界においで」と。

濱口:森の世界に?

松嶋:まさしく!人間が人間でなくなる世界、人間と自然が反転する森の世界の奥へ奥へと鹿はいざなっている。だから映画の中で花ちゃんは、いつも鹿や鳥を追って森をさまよっていますよね。あれはずっと、あっち側の世界に誘われているということだと思うんです。だからラストにああなっていくというのは、あちら側とこちら側の反転そのものが描かれているのであって、そこで花ちゃんが死んだのかどうか、高橋が死んだのかどうかということはそれほど重要ではない。こうした反転がこの映画の全体を通して起こっているということが、まさに『悪は存在しない』を現代における神話の次元にまで高めている当のものである。それこそがこの映画を本当にすごいと私が思う理由です。

会場:(拍手)

松嶋:半分以上、私の妄想ですけど。

濱口:いやもう、私もこの点では観客の一人のような存在でもあるので、私も今日「旅する大学」を経て全編を観られたことは特別な体験になりました。言っていただいたようなものとして見えるならば、本当にすごいことだなと思います。ここに柴田修兵さんという方が来られていて、彼は『ハッピーアワー』という5時間くらいの映画に出ていた人で今鳥取でジグシアターというミニシアターをやっておられるんですけど、彼とトイレで一緒になって「どうすか?」と聞かれました。そのとき私が返した言葉をちょっと恥ずかしげもなく言っていいですか?「いやー面白れぇ映画だわ!」(会場笑)と。

松嶋:本当に何度でも観るたびに発見のある面白い映画だと思います。

濱口:ありがとうございます。

会場:(拍手)

濱口:『急に具合が悪くなる』の宣伝も仰せつかって来ています。6月19日から全国各地の劇場で公開され、岡山でも上映されます。3時間16分、いろいろ含めると3時間30分と聞いております。時計の時間では、大丈夫かな?

松嶋:時計の時間を感じさせない映画なのでまったく大丈夫です。『悪は存在しない』もそうですけど、一度観ただけでは受け止めきれないようなすごい映画ですので、皆さんぜひ何回も劇場に足を運んでいただければと思います。チラシが受付に置いてありますのでお取りください。

濱口:『プシコ ナウティカ』も販売していますので、ぜひ。『プシコ ナウティカ』を読んで、『急に具合が悪くなる』を観ていただけると、またいろんな面で「ああ、なるほど」と思うことがきっとあると思います。この場を借りて、『プシコ ナウティカ』を書いていただいたことを松嶋さんに改めて、御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。(終)

写真提供:真庭市立中央図書館


映画『悪は存在しない

[2023年/106分]©2023 NEOPA / Fictive
監督・脚本 濱口竜介
音楽:石橋英子/撮影:北川喜雄/録音・整音:松野泉/美術:布部雅人/照明:秋山恵二郎
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子ほか
第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員大賞)受賞


映画『急に具合が悪くなる

[2026年/196分]©2026 Cinéfrance Studios - Arte France Cinéma - Office Shirous - Bitters End - Heimatfilm - Tarantula - Gapbusters - Same Player - Soudain JPN Partners
監督・脚本:濱口竜介
音楽:サミュエル・アンドレイエフ/撮影:アラン・ギシャウア/録音:ピエール・メルタンス/サウンドエディター:ポール・エイマンス/ミキサー:トマ・ゴデール/美術:ミラ・プレリ
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞 


書籍『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学

[2014年/484ページ]©2014 sekaishisosha
著者:松嶋健
出版社:世界思想社
定価:6,380円(税込)
「はじめに&序章冒頭」無料試し読みはこちら
映画特設ページはこちら
松嶋さんによる『急に具合が悪くなる』映画評はこちら

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著者略歴

  1. 濱口 竜介(はまぐち・りゅうすけ)

    1978年生まれ。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後2015年、317分の長編映画『ハッピーアワー』は、ロカルノ国際映画祭ほか各地の映画祭で主要賞を受賞。2021年、『偶然と想像』でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、2021年、『ドライブ・マイ・カー』では第74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。2023年、『悪は存在しない』は、第80回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞。2026年、『急に具合が悪くなる』は、第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
    おもな著書に『他なる映画と1/2』(インスクリプト)『演出をさがして』(三宅唱、三浦哲哉と共著/フィルムアート社)など。

  2. 松嶋 健(まつしま・たけし)

    京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は人類学。広島大学大学院人間社会科学研究科教授。
    おもな著書に『文化人類学の思考法』(世界思想社、2019、共著)、『トラウマを生きる』『トラウマを共有する』(京都大学学術出版会、2018、2019、共編著)、『精神医療・心のケアを問い直す』(遠見書房、2025、共著)、『サブスタンスの人類学』(ナカニシヤ出版、2023、共著)、『世界の手触り』(ナカニシヤ出版、2015、共著)など。

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