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連載:『悪は存在しない』の地平から『急に具合が悪くなる』の奇跡へ

第4回 薪割りの身体性とラストシーンの「謎」

2026年6月19日(金)より全国公開されている濱口竜介監督の最新作『急に具合が悪くなる』。
本作の物語全体を導く重要な着想源であり、劇中演劇の参照元ともなっているのが、人類学者・松嶋健氏の著書『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学』(世界思想社)です。
第79回カンヌ国際映画祭での〈最優秀女優賞〉受賞の興奮も冷めやらぬなか、前作『悪は存在しない』の上映が行われた「旅する大学」真庭企画にて実現した、二人の対談を全5回にわたってお届けします。


【編集部注】
連載第4回は、映画のなかで出てくる「薪割り」という行為が持つ、コントロールを手放しつつ物と接続される身体性についての考察から始まり、さらに、世界中で議論を巻き起こし続けている『悪は存在しない』の衝撃の結末に迫る。監督自身の意図を超えて、俳優の身体が示した行為と、主演の大美賀均氏の放つ圧倒的な存在感が語られる。
(※本記事には映画の結末に関する具体的な記述が含まれます)

地球の便利屋

松嶋:濱口さんのおっしゃる身体性が象徴的にあらわれているのが、『悪は存在しない』の中でも特に印象的な巧と高橋の薪割りです。薪割りは確かに大変気持ちのいい作業です。ただ、芸能事務所で働く高橋が「この十年間で一番気持ちいいかもしれない」と言ったというのは、普段彼がどれほどリアルなモノとの身体的な接続と感触から離れて生きているかということを示唆してもいる。それで、「気持ちいい」薪割りにおける身体性ですが、これは、がんばって自分の意思で「自分がこの丸太を割るぞ」と思いながら斧を振ると余計な力が入ってうまく割れないけれども、全身の構えを整えて斧自体の重さを感じながら重力にしたがうように下に落とすとストーンときれいに割れる。この感覚というのは、自分が頭で考えたようにとか思い描いたように、あるいは自分が望むようにするのではなく、現にそこにあるモノ、自身の身体も含めてそこにあるもろもろのモノ同士がちょうどよいバランスでうまく接続された時に、ストーンと割れるのであって、「〈私〉が丸太を割っている」のとは似て非なる出来事なわけです。ここでもかなり長く続く巧の薪割りのシーンに見入ってしまうのは、バランスのとれたモノ同士のつながりに、観客である私たちの身体も接続され、その「気持ちよさ」に同調してしまうからだと思います。それがあの薪割りのシーンに強い本物感のあるリアリティをもたらしている。

©2023 NEOPA / Fictive

そしてこのリアリティが、巧の言う「問題はバランスだ」という、この映画の鍵となる言葉とつながってくるのだと思います。それは、「自然には悪は存在しないから、人間の世界のルールは無視していい」というのでもなければ、「人間の世界の中でのいろいろなバランスさえとればそれでいい」というのでもなく、人間の世界とそれを成り立たせているその「外」とのバランスが問題だということでしょう。「外」の世界、それを「自然」と呼んでもいいのですが、そことのバランスは一度達成されればそれで終わりというものではなく、常にバランスを調整し続けなければならない。そういう日々の仕事がある。それを巧は、「便利屋」という言い方で表現している。だから彼の言う「便利屋」には、「町の便利屋」にはとどまらない「地球の便利屋」という側面があるのではないかと思います。

濱口:そうですね。根本的にバランスが大事というところがあると思いますが……松村さんから何か?

松村:人間の時間はあと5分です。

『悪は存在しない』のラストシーン

松嶋:人間の時間はあと5分? じゃあちょっと人間の時間と外の世界の時間とのバランスを取りますね。(会場笑)

では最後にやはりラストシーンの意図を聞くことにしましょう。ただあらかじめ皆さんに言っておきたいのですが、映画を撮った監督の意図というのはあくまで濱口監督の意図であって正解ということではありません。濱口さん自身も著書の中で、黒沢清監督の映画のシーンの分析をしていますが、その際、黒沢監督がどういう意図でそのシーンを撮ったかは聞かなかった、それは自分が妄想する権利を保持するためだと書いておられます(『他なる映画と 1』インスクリプト)。もちろん私たちは監督の意図を聞いてもいいんです。たとえそれを聞いたとしても妄想する権利は皆さん保持しているのですから。いいですか?(会場笑)

では濱口監督、お願いします。

濱口:……長い5分になるかもしれません。いやでもね、これを言うと「なに気取ったこと言ってやがるんだ」と思われるようなことを言いますが、やっぱり意図はないんですよ。

松嶋:意図はない?

濱口:脚本を書いているプロセスの話をすると、話ができていきますね。話ができていって、けっこうフリーハンドで書いているような脚本なんですよ。今までよりもかなり自由に、こうなっていいし、こうなっていいし、こうなっていいということを、おそらく現場でも変えるであろうし、思うがままに書いていると。撮影をする口実みたいなものであるということで書いています。そうした時にこれどう終わるんだと。花が行方不明になった。これどう終わるんだっていうことになったときに、巧が高橋さんの首を絞めたんですよ。そしたら、「ああ、こういうことかもしれないな」と。

松嶋:それを見てなにか腑に落ちるものがあった?

濱口:ええ。なるほどなと。これは、皆さんも同じことを思うのかどうかはわかりませんが、私はびっくりするけど、同時にいかにもありそうなことに思えました。これはおそらく今まである程度作ってきた高橋とか巧とかそういうキャラクターがたどり着くべき場所なのだろうと。で何て言うんですかね、私の解釈ではおそらく巧もそうなんじゃないかな、と。おそらく巧もやりながら多少驚いているんじゃないでしょうかね。やりながら「俺がこんなことをしている!」ということを思っているのではないだろうか。でも「これこそがまさにやるべきことなのだ!」ということを彼もまさにやりながら確信していくという感じがあるのではないだろうかと。

ちなみに主演の大美賀均さんという方は『偶然と想像』ではスタッフで入っていただいた方で、もともとこの企画のリサーチのときにドライバーとしてずっと一緒にリサーチをしてくれたスタッフだったんです。カメラテストもしていたので撮影の北川喜雄さんを連れてカメラを据えて、「じゃあちょっと大美賀さん、そこ歩いてもらっていいですか?」みたいなことをやっていて、彼は実際にあのコートを着ていて、そしたら「あれ?いいかも」(笑)と感じたわけです。実際「この人意外といい顔してんな」と思って、大美賀さんに「(主演を)やってみる気ありますか」って言ったら、彼自身も監督を実際やっているので、私が一体、俳優とどういうふうにコミュニケーションをとっているのかといったことに興味を持っていたみたいで、それで快諾してもらったんです。

でも撮りながら「本当にちょっとすごいな」と私は思ったんですよ。それは彼がまったく演技経験がないということを知っているから、というのもあるとは思うんですけど、今日も観ていて、巧、薪をどんだけ割る気や!と驚くわけです。薪割りは、かなり疲れるんです。なのでテイクが重なったらどうしようかな、カットを割るのか、カットを割ったらちょっと面白さが半減するなと思っていたら、彼はコンコンコンコン割っていく。説明会でも、立ち上がって「問題はバランスだ」みたいなことを言い始める。あれは彼が演じ始めて3、4日目ぐらいなんですけど「なんでこんな堂々としているんだ!」と驚きながら撮っていました。巧が高橋の首を絞める場面も、なんですかね、彼の顔を映像ごしに見ているんですけど、なんでこの人は何か、本当に俺はただやるべきことをやっている、という顔をしているのだろうかと思うんです。ちなみに、私は全然そういうことは説明しないんです。「どうぞ自由にやってください」ということを基本的に言うんですけど。そんな彼の表情を見ていたら私自身がこの映画を信じられる気持ちになったので、このようなラストシーンになっているということです。よく言うと、私が脚本時に書いたえも言われぬ確信が、彼にも宿ったのではないか、と。それを見て私はまた改めて確信をしている、という、単なるそういうループなのかもしれません(笑)。

第5回へ続く


映画『悪は存在しない

[2023年/106分]©2023 NEOPA / Fictive
監督・脚本 濱口竜介
音楽:石橋英子/撮影:北川喜雄/録音・整音:松野泉/美術:布部雅人/照明:秋山恵二郎
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之、鳥井雄人、山村崇子ほか
第80回ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞(審査員大賞)受賞


映画『急に具合が悪くなる

[2026年/196分]©2026 Cinéfrance Studios - Arte France Cinéma - Office Shirous - Bitters End - Heimatfilm - Tarantula - Gapbusters - Same Player - Soudain JPN Partners
監督・脚本:濱口竜介
音楽:サミュエル・アンドレイエフ/撮影:アラン・ギシャウア/録音:ピエール・メルタンス/サウンドエディター:ポール・エイマンス/ミキサー:トマ・ゴデール/美術:ミラ・プレリ
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞受賞 


書籍『プシコ ナウティカ:イタリア精神医療の人類学

[2014年/484ページ]©2014 sekaishisosha
著者:松嶋健
出版社:世界思想社
定価:6,380円(税込)
「はじめに&序章冒頭」無料試し読みはこちら
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松嶋さんによる『急に具合が悪くなる』映画評はこちら

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著者略歴

  1. 濱口 竜介(はまぐち・りゅうすけ)

    1978年生まれ。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』が国内外の映画祭で高い評価を得る。その後2015年、317分の長編映画『ハッピーアワー』は、ロカルノ国際映画祭ほか各地の映画祭で主要賞を受賞。2021年、『偶然と想像』でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)、2021年、『ドライブ・マイ・カー』では第74回カンヌ国際映画祭脚本賞など4冠、第94回アカデミー賞国際長編映画賞を受賞。2023年、『悪は存在しない』は、第80回ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞。2026年、『急に具合が悪くなる』は、第79回カンヌ国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
    おもな著書に『他なる映画と1/2』(インスクリプト)『演出をさがして』(三宅唱、三浦哲哉と共著/フィルムアート社)など。

  2. 松嶋 健(まつしま・たけし)

    京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は人類学。広島大学大学院人間社会科学研究科教授。
    おもな著書に『文化人類学の思考法』(世界思想社、2019、共著)、『トラウマを生きる』『トラウマを共有する』(京都大学学術出版会、2018、2019、共編著)、『精神医療・心のケアを問い直す』(遠見書房、2025、共著)、『サブスタンスの人類学』(ナカニシヤ出版、2023、共著)、『世界の手触り』(ナカニシヤ出版、2015、共著)など。

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