『東南アジアを学ぶ人のために』序章より抜粋
序 東南アジアを学び、ともに生きる(中西嘉宏・野中葉)
なぜ学ぶのか?
日本と東南アジアはかつてないほど近しい関係になっている。それなのに、私たちの東南アジアに関する知識はまだまだ少ない。東南アジアを学ぶことは、より豊かな世界理解や他者理解につながることはもちろん、日本での日常を見つめ直す手がかりにもなる。この本を読むと、東南アジアと日本、双方への見方が変わるだろう。
格好をつけて言うなら、東南アジアを学び、ともに生きるために、この本はある。
かつて日本と東南アジアは先進国と開発途上国との関係だった。日本にとっての東南アジアは石油やゴムや錫といった天然資源の供給国で、開発援助や人道支援の対象国だった。地理的にも心理的にも遠い異国で、貧しくて、自然があふれて、活気はあるけど雑然としていて、少しばかり猥雑。そんなイメージだった。同じアジアに暮らしているにもかかわらず、日本人はしばしば東南アジアの街並みや文化を「アジアっぽい」と他人事のように評した。物価や生活水準の違いも大きく、この「アジアっぽい」異国情緒を求めて多くの日本人が旅行をした。反対に東南アジアの人びとが日本に旅行することは、ごく限られた富裕層を除けば、とても難しかった。
だが、いまや両者はより対等な関係に近づいている。現代の日本人にとって東南アジアは観光で訪れたり、仕事のために駐在したりする場であるだけではない。短期留学で英語を学ぶこともあれば、家族で移住して新しい生活を始める場にもなる。高層ビルが立ち並ぶ大都会で高級品の買い物を楽しむこともできるし、そのなかのカジノで大金を溶かす人もいる。日本ではなかなかチケットの取れない推しのアイドル・グループのライブを観に行くこともある。成長著しい経済を求めて東南アジアで起業する日本人もいる。関わり方は多様化しているのである。
逆の方向、つまり東南アジアから日本への流れにも勢いがある。日本政府観光局によると、2024年に日本を訪れたタイ人の数は114万人である(大半は観光客)。これは同年にタイを訪れた日本人105万人より多い。日本で働く東南アジアの人びとを目にすることも増えた。近所のコンビニエンスストアの店員がベトナム人であっても誰も驚くことはないだろう。実際、コンビニ大手のセブン-イレブンの店員たちが競い合う接客の全国大会で、2024年に優勝したのはベトナム人女性だった。他にも、日本の水産業全体の人手不足が深刻ななか、多くのインドネシア人が日本の漁船に乗り、また、水産加工の工場で働いている。魚を好む日本人の食は、彼/彼女らが支えているといっても言いすぎではない。(中略)
特徴は何か?
「東南アジアの特徴とは何ですか?」と問われると、専門家たちは少し考え込むに違いない。なにかしらの共通点を見つけることが難しい地域だからである。この共通点の乏しさはしかし、見方を変えれば多様性に富んでいるということだろう。「特徴とは普通、共通点のことを言うのに、多様性が特徴ってどういうこと?」と狐につままれたように感じるかもしれない。そうした戸惑いは他の地域との比較のなかで具体的に見ていくと、いくぶんか解消される。(中略)
たとえば中東であれば、イスラームを信仰する人びとが多い。中東の社会をイスラーム抜きに語ることは難しい。では、東南アジアの宗教はどうか。キリスト教、イスラーム、仏教など、それぞれを信仰する人びとが混ざり合っている。国ごとで言えば、フィリピンはキリスト教徒、マレーシアとインドネシアはムスリム(イスラーム教徒)が多く、タイやミャンマーなど大陸部東南アジアの国々は仏教徒が多数を占める。
他にも、経済を見ると、1人あたりGDPが世界四位のシンガポールや石油と天然ガスで潤うブルネイのように豊かな国もあれば、タイやマレーシアのように着実な成長を遂げて現在では中進国と呼ばれる国もある。ミャンマーは貧困に苦しむ。政治体制もまた多様で、民主的と言ってもよいフィリピンとインドネシアがある一方で、ベトナムやラオスには、ヨーロッパでは消滅した一党独裁の社会主義の政府が残る。一党独裁ではなくとも、特定の与党が長期政権を維持できる仕組みがあるシンガポールやカンボジアのような国があり、ミャンマーはクーデターで生まれた軍事政権の事実上の独裁が続く。
人口構成に目を移すと、フィリピンやインドネシアでは若年人口がとても多い。年齢の中央値は30歳前後である(ちなみに日本は約50歳)。若者が多い社会は概して活気があって変化が早い。社会のデジタル化やキャッシュレス化も急速に進み、そのスピードは日本をはるかにしのぐ。その一方で、少子高齢化が始まっている国もある。シンガポールの合計特殊出生率は2023年に0.97となり、同年の日本の1.20より低く、少子化のスピードは日本を上回る。多くの人が医療にアクセスできるようになって平均寿命が伸びたために、タイではすでに60歳以上の人びとが全人口の20%を超える高齢化社会になっている。
こうして見てくると、多様性がなぜ東南アジアの特徴とされるのかわかってもらえたと思う。社会の多様性をぎゅっと集めた空間が東南アジアなのである。この地域を学べば、さまざまな社会を知ることができる。どうしてその違いは生まれたのか、一見違っているように見えて実は同じような特徴があるのではないか、などと私たちの考えは刺激される。
さらに興味深いのは、この多様性は残されたまま、地域のまとまりのようなものが生まれていることである。いま、ASEANという言葉が、東南アジアという地域名と同じ意味で使われることがある。ASEANは「東南アジア諸国連合」という国際機関の英語名の略称で、その設立は1967年にさかのぼる。ただ当時の加盟国はインドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールの5カ国だけだった。それが冷戦終結後に拡大し、2025年には東ティモールの加盟が実現して、域内のすべての国を包摂する地域機構になった。年に2度あるASEAN首脳会議のうち、秋の会議では日本や中国の首脳との会合を行うなど、ASEANとしてのまとまりは、外交上の重要性も持ちはじめている。(中略)
何を学ぶのか?
(中略)
章とコラムを合わせて21人の専門家が執筆しているが、いずれも長く現地でフィールドワークを行い、各分野において、内外で優れた研究成果を発表してきた面々である。そうした執筆陣に今回、編者がお願いしたのは、与えられたテーマの網羅的な解説ではなく、焦点をしぼった読み物を執筆してほしいということだった。そのため、学術論文のような硬さが軽減されているはずである。さらに各章の最後に読書案内「もっと学びたい人のための必読文献」をつけている。知識を広げるには芋づる式に本を読み継いでいくことが、迂遠なようでいて最終的な到達点は高い。ぜひ役立ててもらえればと思う。
今では数万円あれば、格安航空会社(LCC)を使って、東南アジアのほとんどの国に行くことができる。実際に訪れてみると、知識として知っていたものが目の前に現れて、新たな感動を覚えることがある。また、それまで想像もしていなかったものにも出会い、たくさんの驚きや発見があるはずである。まずは、本書で東南アジアへの「旅」を楽しんでもらいたい。ウェルカム・オン・ボード!

本の詳細やネット書店でのご購入はこちらから
【目次】
序 東南アジアを学び、ともに生きる(中西嘉宏・野中葉)
第Ⅰ部 歴史と自然
1 経済史──スパイスと港町が世界をつなぐ(小林篤史)
2 脱植民地化──終わりのない物語(長田紀之)
3 気候──熱帯泥炭地と人びとの暮らし(小川まり子)
コラム1 心やさしき仏教の末路(伊東利勝)
コラム2 岐路に立つカリマンタンの「森」の世界(寺内大左)
第Ⅱ部 社会と文化
4 民族──支配と生活を映す鏡(田川昇平)
5 宗教──社会のなかで創られ続ける「宗教的なもの」(久志本裕子)
6 若者──ポップカルチャーにみなぎるエネルギー(金 悠進)
7 ジェンダー──保守と進歩の対立を超えて(西川 慧)
コラム3 海の上に暮らす人びと(中野真備)
コラム4 シダ納豆は稲ワラ納豆よりおいしい?(横山 智)
第Ⅲ部 経済と政治
8 経済成長──多様性が織りなすダイナミズム(熊谷章太郎)
9 民主主義──キャラ立つ指導者たちの功罪(中西嘉宏)
10 紛争と和平──民族自決と国家主権のはざまで(谷口美代子)
コラム5 「伝統」で稼ぐ生薬売り(間瀬朋子)
コラム6 ある移民の人生(細田尚美)
第Ⅳ部 日本とともに
11 日本軍政の記憶──インドネシアに残るさまざまな痕跡(津田浩司)
12 東南アジアでの日本ビジネス──拡大、深化から共創の時代へ(梅﨑 創)
13 日本での東南アジアコミュニティ──急激な流入と進む定住化のゆくえ (野中 葉)
コラム7 日本・東南アジア安全保障協力の新展開(鈴木絢女)
コラム8 技能実習生の横顔(山口裕子)
索 引



