宗教と政治を学ぶ(高尾賢一郎)
私たちを惹きつけて止まない奥深い地域・中東。その学びには、どのような楽しさ、難しさがあるのでしょうか。
『中東を学ぶ人のために』(世界思想社、2024年6月刊)を執筆した研究者たちによるイベント「中東を学ぶ――研究者が語る経験と魅力」が、2024年10月23日にオンラインで開催されました。
編者の末近浩太さん・松尾昌樹さんによる司会のもと、4人の執筆者に中東研究の魅力を各章のテーマと絡めて紹介していただきました。イベントの内容を5回に分けてレポートします。
イベント第4部の登壇者は、「宗教と政治」の章を執筆した高尾賢一郎さんです。
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◆宗教と政治を学ぶ
(高尾賢一郎/中東調査会研究主幹)
中東調査会で研究主幹をしている高尾です。私は中東における「宗教と政治」という大きなテーマに取り組んでいますが、それは真正面からというよりは、私はどちらかというと逃げながらやってきたようなところもあります。その理由を、学問的な背景とともにお話しできればと思います。
私は中東というよりも、宗教やイスラームについて研究したいという気持ちを持ってこの世界に入りました。ですので、私は自分のことを宗教学者だと思っています。
ただ意外にも、特にイスラームのことを研究するとなると、政治のことを研究しないといけないということに気づきました。そして、中東という地域を事例に選んだため仕方がないことですが、中東地域を広域的に研究する必要がありました。しかし宗教のことを研究したいので、時に政治研究、中東研究から逃げながら、宗教研究に取り組んできた次第です。
宗教学と中東研究
「宗教を研究したいのに、政治や中東の研究をしないといけない」というジレンマをずっと抱えていることについて、もう少し学問的にお話しします。宗教学というのは、複数の対象を比較して普遍性を求めるという学問です。その一方で、個々の文脈の解析を通じて特殊性を求める地域研究というものがあります。中東研究はその後者に当たります。したがって普遍性よりも特殊性を重んじています。
その特殊性の一つとしてしばしば語られるのが「政治と宗教の結びつき」についてです。あるいは、「政治と宗教が結びついて当然だ」とする考え方です。ここで実は、イスラーム研究と中東研究というのがオーバーラップしてしまう。中東研究者がイスラームや宗教のことについて語らないといけないし、逆にイスラーム研究者が現代中東の政治情勢について語らないといけないという状況が生まれてきます。
これって実はすごく不思議なことです。たとえば、ドイツにはキリスト教民主同盟という政党があります。また、日本の石破茂首相はキリスト教徒です。彼らの政治政策をキリスト教から読み解こうとする人はいるでしょうか。あるいはタイやミャンマーの政治や政情不安を、仏教の教典から読み解こうとする人はいるかというと、たぶんそれはいないでしょう。
にもかかわらず、中東研究やイスラーム教徒が多数派である国の研究に関しては、政治情勢や政策動向をイスラームから読み解こうとすることが、そんなに変なことだとは思われていません。イスラーム入門の授業でも、ガザ情勢の解説を求められることがあります。この不思議さというのは、個人的にはもっと自覚されるべきだと思っています。
今度は逆に中東研究から見た宗教学について言うと、両者の違いは「断絶」と呼べるレベルであると思います。とりわけその「断絶」を、中東研究の側が強みとして活用してきたと私は感じています。それは、「宗教学や西洋の諸理論では、イスラームは理解できない」という力強い主張です。これは別にイスラームに限らず、ジャイナ教にも神道にも言えてしまうことなのではないかと私は思いますが、とりわけイスラーム研究に関しては、この「断絶」が中東・イスラーム研究という独立した学問分野を開拓するうえで、推進力やスローガンとして機能してきました。
こうした経緯を踏まえて、あえて嫌味な言い方をすると、中東研究は宗教学との断絶や違いを肯定し、そこを強調するロジックに基づいて、ある種のガラパゴス的な発展を遂げてきた面があります。そこにおいては、宗教学の諸理論を参照しないということが強みになる、また批判すべき先行研究として恰好の対象になってきたように思います。
糸口となる世俗化論
そうしたなかで、私はこの宗教学と中東研究の断絶をどう克服できるのか、もしくは克服する必要があるのかということを考えています。この断絶を考えるための糸口として、世俗化論というものを挙げたいと思います。
世俗化論には、「社会の近代化によって宗教の影響力は減退していく」というテーゼがあります。これは西洋の現代宗教研究において、とりわけ20世紀後半に最も支配的な理解の枠組として機能してきました。一方、中東・イスラーム研究においては世俗化論を採用せず、それを拒否することでこの独自性を確立しているので、結果的に「世俗化論はイスラームには当てはまらないよね」というにべもない態度を、宗教学者は中東研究者からとられてきたのですが…。
しかし今では、「宗教の影響力は減退した」というテーゼは、世俗化論の中でもかなり限定的な文脈でしか使われません。ありていに言うと時代遅れということです。むしろ世俗化論の関心は、「宗教とは何か」という、より根源的な問いを掘り起こしながら、世俗化論自体を見直していくことに向けられています。
言い方を変えると、世俗化論は内容的にもう通用しなくなってからも、その見直しという作業を通して、宗教研究の方法論的な拠りどころになっています。たとえば、現代宗教に関する研究書の前書きなどで、世俗化論に触れていないものはおそらくないと思います。世俗化論の見直しが進むなかで、今何ができるかということが研究の入口の一つになっています。
このように世俗化論は、その理論自身の否定も含めて、日々見直しとアップデートが進んでいます。その状況を踏まえると、中東研究者も「世俗化論はイスラームに当てはまらないよね」という姿勢のままでいるのではなく、世俗化論に対する評価をアップデートする必要があると考えています。
また、世俗化論が有効である理由として、世俗化論は多様なアプローチを持っています。先述の「社会の近代化に伴って宗教の影響力が減退する」とは、主に社会学的なアプローチです。それ以外にも世俗化論には、神学的なアプローチや哲学的なアプローチがあります。信仰の有無を社会の秩序崩壊の危機と捉える見方もあるし、現世中心主義や無神論という観点から世俗化現象を見つめるアプローチも多くあります。
世俗化論が有効である理由をもう一つ述べます。それは世俗化論と地域研究の近しさにあります。「社会の近代化によって宗教の影響力は減退した」という単純化されたテーゼは今や有効ではありませんが、近代以降において、宗教自体や宗教と社会の関係が変容したことは、いまだ有効で正しいとされる認識です。この変容の解明については一様には語れないため、地域固有の文脈から、社会調査やフィールドワークなどで取り組まれることが多くなっています。この点、今日の宗教研究では地域研究的な世俗化検証がやや盛り上がりを見せています。
中東研究の中で宗教と政治を学ぶ面白さ
私は、シリアとサウディアラビアに実際に住んでフィールドワークをしていました。シリアの事例で言うと、宗教と政治の関係で記憶に残っているエピソードがあります。知人がシリアに留学をした時に、立派なヒゲをたくわえて、現地のイスラーム教徒と同じ格好をして行ったところ、空港の税関で入国目的を尋ねられました。そこで「私はイスラームを学びに来ました」と答えたら、別室に連れて行かれたのです。
その知人は非常に不思議だったようです。シリアはイスラーム教徒が多数派の国で、イスラームの秩序が重んじられている国です。自分はイスラームが好きで、興味があって、そのことを告白したのに、なぜ別室に連れて行かれることになったのか、と。
真相は不明ながら、これはシリアの事情を知っていると納得できるものです。シリアでは1960~80年代にかけて、イスラームを大義とした政治運動が盛り上がりを見せています。それが反体制運動として、要人暗殺やクーデタ未遂にまで発展しました。そんな経緯のある国で、外国人が「私はイスラームに興味があってこの国に来ました」と言うと、「ちょっと変わった人が来たな」とか、場合によっては「危険な人が来たな」と思われても仕方がありません。政治と宗教が結びついているからといって、外部の人がそれに強い関心を寄せる事態が、その国にとって決して好まれるわけではありません。
サウディアラビアの事例で言うと、今はイスラームに基づいた社会規範がどんどん緩和されています。例として、10年以上前だと「女性は真っ黒のベールできちんと髪を隠すべきである」という厳しい宗教実践こそが、正しいイスラームであるとの認識が社会にありました。しかし今は全然違います。首都のリヤドでは髪を出している女性もいます。しかし、それはサウディアラビアにおいて脱イスラーム化や西洋化・世俗化が進んだからなのかというと、少なくとも同国内ではそのようなとらえ方はされておらず、そうした評価もされたくないという姿勢があります。
そこには、「女性は必ずしも髪を隠さなくてもよく、女性にもある程度は自由や権利が与えられる」という寛容なあり方こそが正しいイスラームである、というように認識自体の転換が起こっています。したがって政治と宗教の結びつきは変わりませんが、政治あるいは宗教自体が固定化されてないため、それらは常にダイナミックであるということが言えます。
こうしたダイナミックさの背景には、宗教学的に見れば、イスラームには正統性を決定する機関や制度がないという、特有の不確実性が挙げられます。一方で地域研究的に見れば、政治・社会情勢の不安定性が挙げられるかもしれません。つまり政権交代をしたり、政府がイスラーム過激派を封じ込めようとするトレンドがあったりして、イスラーム解釈における正しさの基準が、ころころ変わることがあるということです。
この不確実性や不安定性が――「不」という否定の接辞が続くと、あまりいい印象がしないですけれど――それが一体どうなっているのだろうという探究心につながることが、中東の魅力と言えるかもしれません。嶺崎先生のお話(「ジェンダーを学ぶ」)で、中東には一種の乱雑さがあるというお話がありましたが、まさにその乱雑さの中で自分の理論を紡いでいくことが中東研究のおもしろいところではないでしょうか。
この乱雑さ、不確実性に関連して言うと、ある先生が昔おっしゃっていました。「中東では用事は午前に1つ、午後に1つ。これ以上のことは、あまり計画を立てても意味がない」と。まあ、うまくいかないことのほうが多いからですね。
もう1つ思い出深いアドバイスがあります。社会人類学者の大塚和夫先生がおっしゃったことです。私がシリアに留学する時に「たくさん無駄なことを経験してください」と言われました。現地に留学して調査をするというと、あれをしないといけない、これを習得しないといけない、といろいろ焦ってしまいます。しかし、そんなにうまくいくものではありません。むしろ「貴重な留学期間に、こんなことで遊んでいていいのかな」というような、当時は無駄に思えるようなことが、意外と後になって役に立つことがあります。
そして、中東諸国に留学したいと思っても、なかなか政治・社会情勢で難しいことがありますが、私は中東でなくても中東は学べると思っています。日本に出稼ぎに来ている中東の人と交流をするのもいいですし、日本の中東レストランをめぐってそれを調べることもできます。その意味では、中東というのは必ずしも十何時間かけて行かないといけない場所では決してなく、むしろ身近なところで見つけられるものであると、最後に申し上げたいと思います。
(終)
登壇された先生方、貴重なお話をありがとうございました!
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【目次】
序章 中東を「学ぶ」 末近浩太・松尾昌樹
第1部 繁栄する文化
1 言語と宗教 竹田敏之
2 歴史叙述 小笠原弘幸
3 アラブ小説 柳谷あゆみ
4 中東の近現代思想 岡崎弘樹
第2部 変容する社会
1 ジェンダー 嶺崎寛子
2 移民・難民 錦田愛子
3 都市と農村 柏木健一
4 メディア 千葉悠志
第3部 躍動する経済
1 経済開発 土屋一樹
2 石油/脱石油 堀拔功二
3 イスラーム金融 長岡慎介
4 中東でのビジネス 齋藤純
第4部 混迷する政治
1 世界のなかの中東 今井宏平
2 紛争 江﨑智絵
3 パレスチナ問題 山本健介
4 宗教と政治 高尾賢一郎
終章 さらなる学びへ 末近浩太・松尾昌樹
コラム 中東の音楽映画 中町信孝
言葉に映し出される家族 村上薫
ほんとうのバーザール 岩﨑葉子
権威主義と民主主義 渡邊駿
中東を学ぶ人のための必読文献リスト
中東を学ぶ人のための国別データシート
索引(人名・事項)