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『超楽器』プロローグ

プロローグ

 コンサートホールには、いろんなひとが来られます。念願だったある音楽家の演奏にやっとふれられると心を躍らせているひと、音楽の勉強の一環として定期的に訪れる方がおられれば、夫婦で、あるいは親子で久しぶりに憩いの時間をもとうと連れ立って来られるひとや、つきあいで仕方なく来ているひともきっとおられることでしょう。あまり想像したくないですが、時代が違えば、戦線へと若者たちを送り出す式典と行進の場所になっていたかもしれません。

 コンサートホールでじっくり聴く演奏は、ひとの心をいろんなかたちで波打たせるようです。音楽の聴取といえばよく心の慰めとか聴感覚の悦びとかいうことが言われます。たしかに音楽はひとを泣かせもすれば、心の痼(しこ)りを解(と)いて表情をゆるませもする。しかし、音楽はひとの心を苛立たせたり、ときに攻撃へと煽ったりもする。凝り固まった心をほどきもすれば、逆に散漫な心を一つにまとめたり縛ったりもするようです。

 かつて音楽は、それが演奏される場所でしか聴けないものでした。また機械による再生がまだ不可能だった時代は、一つの曲も生涯にわたって数えるほどしか聴けないものでした。音楽はだれもが聴きたいときに聴けるものではなかったわけです。複製技術が進化し、同じ曲をくり返し聴くことが、安価にして素早くできるようになって、音楽を聴く場所もものすごく多様になりました。私室のソファに座って再生用の音響装置で音楽に浸ることもできるし、ヘッドフォンをつければ歩きもって聴くことができるし、作業しながらBGMとして聴くこともできる。名曲喫茶で聴くこともあれば、野外のライヴで踊りながら聴くこともある。そういう場所の一つとして、現在、コンサートホールもあります。

 コンサートホールで聴くというのはしかし、どうもかなり特殊な経験のようです。そこでは音楽をナマで聴くわけですが、物音一つ立てずに、ごそごそ動きもしないで、まるで自分がそこにいないかのように、自分の存在を消して、じっと聴く。いわゆる「集中的聴取」と言われるものです。外界の騒音やノイズを厳重に遮断して、沈黙のなかに音楽が純粋に現れ出るところに居合わせるという、音楽へのこうしたふれかたには、いったいどのような意味があるのでしょうか。音楽の純化なのか、それとも聴くひとががちがちになって聴く「音楽のなれの果て」(小泉文夫)なのでしょうか……。

 なんとも捉えがたいこのコンサートホールという装置、あるいは場所が、現代の音楽にとって、そしてこれからの音楽にとって、どのような意味をもつのか。京都コンサートホールの開館30周年を機に、そしてそれに続くホールの改修を控え、わたしたちはあらためて考えずにいられなくなりました。そうした問題を、音楽の専門家にかぎらず、音楽を愛好するいろんなひとたちに、コンサートホールという装置の存在意義や未だ気づかれていない可能性を幅広く問いかけようと考えました。それを一冊の本に編んだのが本書です。

 タイトルを『超楽器』としたのには、特別な理由があります。《超楽器》というのは、じつは京都コンサートホールの設計者である磯崎新さんが、2020年、京都コンサートホールが開館25周年を迎えるにあたり、記念に寄せてくださったメッセージのなかにあった語です。次にその全文を引いておきます。

開館25周年、おめでとうございます。
「いい音が響いてほしい」
京都コンサートホールは、これだけを願い、設計しました。


コンサートホールとは、それ自体が響きを生みだすひとつの大きな楽器です。
それは、「Hyper Instrument(超楽器)」と呼びうる囲われた空間だといえます。


建築内部が、相互に音響を伝達しあい、空間全体に「響き」が充満し、デジタライズしてしまった現代の音響理論がまだ到達できていない演奏空間となる。


数々の楽器の演奏者がアンサンブルをつくりだす舞台としての場だけでなく、この空間の内部にいる聴衆も、全身体感覚を通じて「聴く」ことができるのです。


「いい音が響いてほしい」
そう願っています。

 ここで《超楽器》は、テクノロジカルな装置としてのコンサートホールではなく、そこで奏でられる音楽、さらにはそこに集う人びとの活動までふくめて言われています。ですから、寄稿も、指揮者や演奏家、音楽の原理と歴史を研究してこられた方はもちろん、コンサートホールとしての設備をテクニカルに構築してくださった方、建物としてのホールを評してくださる方、さらには音楽の専門家ではないけれど音楽をめぐって豊かな経験と深い洞察をお持ちの方たちにお願いしました。

 幸いなことに、さまざまな分野のプロフェッショナルたちには執筆を快く引き受けていただきました。その一つひとつの〝物語〟がそれこそ楽器のように鳴り響き、共鳴し、この本を手に取ってくださった読者の方々の心に届くと同時に、《超楽器》としてのコンサートホールにお越しいただく一つのきっかけになることを心から願っています。



編者 鷲田清一

高野裕子


 

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【目次】

プロローグ

 

第Ⅰ部 律動

 ジャングルとコンサートホール  山極壽一

 一度しかない出来事を繰り返すよろこび  堀江敏幸

 第九から始まる心と街の復興  佐渡 裕

 奏でるよりも聴くことで  三宅香帆

 コンサートホールの「ざわめき」を考える  岡田暁生

 [間奏曲]磯崎新の建築における音楽空間  五十嵐太郎

 

第Ⅱ部 旋律

 神々に届く音  彬子女王

 魔法の音楽  岸田 繁

 指揮者としての原点  広上淳一

 ゆらいとみらい、旋律の  小沼純一

 [間奏曲]磯崎新さんと京都コンサートホール  豊田泰久

 

第Ⅲ部 交響

 果てしない音楽の旅  沖澤のどか

 ワーグナーの楽劇から広がる世界  金剛永謹

 京都が生み出す、木琴の音色  通崎睦美

 [間奏曲]京都コンサートホールのこれまでとこれから  高野裕子

 エピローグ――楽器を超える楽器  鷲田清一

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著者略歴

  1. 鷲田 清一

    1949年京都生まれ。お寺と花街の近くに生まれ、丸刈りの修行僧たちと、艶やかな身なりをした舞妓さんたちとに身近に接し、華麗と質素が反転する様を感じながら育つ。大学に入り、哲学の《二重性》や《両義性》に引き込まれ、哲学の道へ。医療や介護、教育の現場に哲学の思考をつなぐ「臨床哲学」を提唱・探求する、二枚腰で考える哲学者。2007~2011年大阪大学総長。2015~2019年京都市立芸術大学理事長・学長を歴任。せんだいメディアテーク館長、サントリー文化財団副理事長。朝日新聞「折々のことば」執筆者。 おもな著書に、『モードの迷宮』(ちくま学芸文庫、サントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(ちくま学芸文庫、桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(角川選書、読売文学賞)、『くじけそうな時の臨床哲学クリニック』(ちくま学芸文庫)、『岐路の前にいる君たちに』(朝日出版社)。

  2. 高野 裕子

    1981年生まれ、京都市出身。京都コンサートホールプロデューサー、事業企画課長。 京都市立芸術大学音楽学部ピアノ専攻卒業。同大学院修了。博士(音楽学)。フランス政府給費留学生やロームミュージックファンデーション奨学生としてトゥール大学およびトゥール地方音楽院に留学。好きな曲は、リヒャルト・シュトラウスの「あすの朝」。好きな楽器はピアノ。好きなことばは「ほな、また(À bientôt)」。

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