言語と宗教を学ぶ(竹田敏之)
私たちを惹きつけて止まない奥深い地域・中東。その学びには、どのような楽しさ、難しさがあるのでしょうか。
『中東を学ぶ人のために』(世界思想社、2024年6月刊)を執筆した研究者たちによるイベント「中東を学ぶ――研究者が語る経験と魅力」が、2024年10月23日にオンラインで開催されました。
編者の末近浩太さん・松尾昌樹さんによる司会のもと、4人の執筆者に中東研究の魅力を各章のテーマと絡めて紹介していただきました。イベントの内容を5回に分けてレポートします。
イベント第1部の登壇者は、「言語と宗教」の章を執筆した竹田敏之さんです。
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◆言語と宗教を学ぶ
(竹田敏之/立命館大学アジア・日本研究所教授)
皆さん、こんばんは。私は今京都にいて、もう周りが暗いので挨拶は「こんばんは」にします。日本語だと「こんにちは」や「おはようございます」など、いろいろありますが、アラビア語だと迷う必要はありません。どの時間帯でも「アッサラーム・アライクム(平和が皆さんにありますように)」です。その点でアラビア語は楽だなと思いながらお話しする次第です。
中東をめぐる学びの経験とその楽しさ、苦労などについての話ということですが、実は私はマイナスな気持ちとしての苦労はあまり感じていません。アラビア語や中東に関連したことは、私にとっては楽しく、文献を読んだり、研究に関する文章を書いたり、あるいは研究集会を企画して研究者と議論を交わしたり、フィールドに調査に出かけたり、どれも楽しいので、その楽しいという気持ちがずっと自分の原動力や支えとなって、研究者としてやってこれたのだと思います。
私は言語を切り口に中東を研究してきました。対象は中東地域の主要言語であるアラビア語と、その言語を使っている人たちが生きるアラブ諸国です。今回刊行された『中東を学ぶ人のために』でも、現代アラビア語の成立によって、現代のアラブ世界ができたことを解説しました。このことはとてもとても大事です。
アラビア語とアラブ世界
ということで、いきなりですがクイズです。
アラビア語を公用語・国語としている国は世界に何か国あるでしょうか。
1.6か国
2.13か国
3.22か国
こちら、答えは「22か国」になります。
実は、アラビア語は全部で22か国、話者数で言うとだいたい4億人と言われていて、話者数ランキングは5位です。1位はもちろん英語、2位が中国語、3位にヒンディー語、4位スペイン語、そして5位アラビア語という順番です。ちなみに、アラビア語は国連の公用語にもなっていて、国際語と言うこともできます。
アラビア語は、使われている地域名で言う時は「中東・北アフリカの主要言語」と言ったりします。中東地域における話者数では、アラビア語の次に多いのがトルコ語で9000万人、そしてペルシア語7000万人と続いていきます。
アラビア語を公用語とする国
(『ニューエクスプレス アラビア語』を基に筆者作成)
たとえばピラミッドの国エジプトは、古代エジプト文明やヒエログリフ(古代エジプト文字)で有名ですが、今のエジプトでその言語を使っている人はいません。皆さんアラビア語です。
それから最近、旅行しやすくなったサウディアラビア。ドバイやアブダビ観光で人気のアラブ首長国連邦。ペトラ遺跡で有名なヨルダン。また2023年10月以降ニュースで報じられている、パレスチナもアラビア語です。なお、イスラエルでは2018年までアラビア語は公用語とされていましたが、今はその地位を失いました。
このようにアラビア語を公用語としている22か国の総和、これがアラブ諸国です。そしてその国々は、1945年に設立した地域機構であるアラブ連盟の加盟国でもあります。アラブ諸国はより専門的な地域名で言うと、西のほうは「日が沈むところ」という意味で「マグリブ」と言います。東のほうは、「日が昇るところ」として「マシュリク」。具体的にはエジプトから東の、シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナあたりを指して使うことが多い用語です。さらに、70~80年代以降にオイルマネーで一気に経済発展が進んだ湾岸諸国をアラビア語では「ハリージュ」と言います。こうした3地域に分けて、アラブの国々を分けて位置づけることも多いです。
ではアラビア語を使っている地域の人は、みんなアラブ人なのでしょうか。たしかに「20世紀のアラブ民族主義の父」と言われる知識人サーティウ・フスリーは、アラビア語を話す人はみんなアラブ人であるという定義を出しています。
しかし切り口を変えると、この地域の様々な側面が見えてきます。民族で言えばマグリブ地域はベルベル人(モロッコでは「アマーズィーグ人」とも)のアイデンティティを重視する人たちがいます。歴史的に見て、アラブ人やアラビア語、そしてイスラームがやってくる前から、その地域にいた人々です。彼らが使うベルベル語(アマーズィーグ語)は昔からあった基層の言語であるとも言います。さらに中東地域でも、イランはペルシア語、トルコはトルコ語の国です。さらにクルド語もシリア、トルコ、イラク、イランで使われている中東の代表的な言語です。
国民国家ということで言えば、トルコはオスマン朝崩壊の後、1923年にトルコ共和国を建国した際、現代トルコを国語として成立させて国民意識を高めてきました。そして1928年にそれまでのアラビア文字を廃止します。これを「文字革命」という言い方で評価する見方もありますが、イスラーム世界の見方では、あまり肯定的に評価しない立場があります。アラビア文字を捨てたことで、それまでの重厚なイスラームの歴史や文献、知識との断絶が生まれたという見方です。
次にアラビア語の地域を宗教という切り口から見てみます。なんとなくこの地域全体をイスラームと思われている方が多いと思いますが、間違いではありません。しかしエジプトの国民の約10%はコプト教徒(キリスト教の一派)であり、シリア、レバノン、パレスチナにも多くのキリスト教徒がいます。その人たちも、もちろんアラビア語を母語としています。そしてキリスト教徒の知識人たちは、アラビア語の近代化にも大きく貢献をしました。また、モロッコやイエメン、イラクにはユダヤの文化や伝統があり、アラビア語の世界は必ずしもイスラーム一色というわけではありません。
言語ナショナリズムとアラブ世界の形成
ではこうした多種多様な言語文化や宗教を持つ地域が、いかにして現代のアラブ世界として成立したのかというと、それはオスマン朝の崩壊がキーポイントになります。
1922年にオスマン朝が崩壊すると、この地域は国民国家の時代へ入っていきます。エジプト、イラク、シリア、モロッコなど、それぞれの国が憲法によって言語の地位を規定しました。その際に、アラビア語を各国の公用語にすることになりました。
ここで大きなクエスチョンがあります。どのアラビア語を公用語にするのか? 今、日常で使っている話し言葉であるとか、特定の地域の方言であるとか、一つの言語にもヴァリエーションは様々あります。たとえば中国語であれば北京の言葉を基本にするとか、日本語であれば東京の山の手の言葉を基本にするとか。しかしアラビア語では、そういったヴァリエーションのうち、どれを標準語にするかに迷うことはありませんでした。
イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)や古い詩を基にして、8世紀以降に現在のイラクのバスラやクーファといった町を中心にして整備された文法を基本に、現在までずっと受け継がれてきた「フスハー」と呼ばれる正則アラビア語を公用語としたのです。
ですが現代語になるためには、学校教育のための文法の整備や、新しい専門用語の制定などが必要でした。この時に、それを各国で勝手に決めるのではなくて、調整役としてアラビア語アカデミー(日本の国立国語研究所に相当)が知的議論の場となって、伝統的なフスハーを基調としつつも、アラブ諸国に広く通じる教育やメディア、出版で使われる「現代フスハー」が成立していきました。
カイロ・アラビア語アカデミー
(1932年設立、2008年2月撮影)
ダマスカス・アラビア語アカデミー
(1918年設立、2007年1月撮影)
国民国家ができていくこの流れの中で、もしもたとえばモロッコが日常使われている話し言葉を「モロッコ語」として国語にしたり、あるいはレバノンが同様に日常使われている言葉を「レバノン語」として公用語として規定したり、エジプトがエジプトの口語を「エジプト語」として規定していたら、今あるアラビア語の世界は成立していません。
たとえとして出すのであれば、ラテン語の世界がロマンス諸語として、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語のように各国の言葉として成立していった過程と比較すると、アラブ世界の特徴が見えてきます。
アラビア語と言語社会
アラビア語について研究する時に出てくるキーワードがあります。それは「ダイグロシア」という用語です。これは、アラビア語を使われている地域の口語を学ぶのか、あるいは共通語である標準アラビア語を学ぶのか、という問いの時によく出てくる用語です。アラビア語の口語のことをアーンミーヤと言い、共通語をフスハーと言いますが、「この2つの言語変種が日常において、そのTPOに応じて使い分けがされている状態をダイグロシアと言う」という説明の仕方で登場します。ですが、『中東を学ぶ人のために』で強調して書いたのが、この議論自体が古くなり時代遅れになっているということです。
ダイグロシアは1959年にアメリカの言語学者、チャールズ・ファーガソンが発表した論文で用いた用語です。アラブ世界の場合、共通語のフスハーのほうが高変種であり、口語のアーンミーヤのほうが低変種であると言っています。
この分析概念の提唱そのものは、かつては俗語とみなされていた話し言葉の価値をグッと上げて評価し、新たな研究上の視座を与え、その後の社会言語学の発展に大きく寄与したとして評価されます。特にフスハーの規範力が強いアラビア語の言語社会の実態を読み解く助けとなり、欧米を中心に、口語であるアーンミーヤに関する研究が増えたと言われています。ですが、そのトレンドの陰で現代フスハーへの関心は、相対的に伸び悩んでいるという現状があります。
ダイグロシアという用語は、日本のアラブ・中東研究でもよく使われています。今もなお、アラビア語の説明で必ずと言っていいほど出てきます。しかしこれは、今から70年近く前の学説です。サウディアラビア、カタル、クウェート、UAE(アラブ首長国連邦)といった湾岸諸国が成立し、オイルマネーで非常にお金持ちの地域ができあがって、経済的に勃興する時代の前の学説です。
今ではアラブ諸国の識字率や就学率が上がり、また国によっては、オマーンやモロッコ、イラクなど、多言語社会があるという実態や、さらにフスハーというものが実用的にメディアで使われ、そうした話し言葉的な機能を持つようになったという実態があります。さらに演説で口語のアーンミーヤを巧みに使う宗教者も出てきました。現代アラブ世界の言語社会のこういった実相を捉えるには、ダイグロシア論は、もう時代遅れであり、分析視点としては、あまり適していないと考えられます。
さらにファーガソンはフスハーを書き言葉として、一般の会話にはその言語共同体のいかなる部分においても使用されることはない、とまで言い切っています。これはあまりにも言語運用の実態とはかけ離れた記述となっています。たとえば今の時代、フスハーを知的な討論や会話において自由自在に使いこなせる人は、アラブ世界にたくさんいます。
もう1つ大事な点があります。言語学の記述主義的な立場によれば、モロッコ方言は1言語、エジプト方言も1言語、イラク方言もまた別の言語ということになります。しかし、アラビア語の使用地域の人々、すなわちアラブ世界では、口語レベルではモロッコ方言もアラビア語であり、エジプト方言もアラビア語であり、イラク方言もアラビア語という共通認識が成立しています。これこそが、この地域を理解するうえで大事なことであると思っています。
日本に置き換えると、熊本の方言も、青森の方言も、大阪の方言も日本語ですが、その各方言には特徴があって、なかには相互理解が難しいぐらい多様な語彙や表現があります。しかしどの方言話者も、日本という国の日本語社会に属する日本語話者です。アラビア語の場合、その意識が1つの国ではなく、22か国という大きな言語共同体にあまねく成立していると捉えるとわかりやすいかもしれません。私自身の経験として、このフスハーの学びこそがこの地域を歴史的に、あるいは共時的に理解するうえでは、とても大切だと考えています。
今後の学びに向けて
中東を研究する際に、言語にしても宗教にしても文化にしても、相違点が見えてくるのは、当たり前だと言えば当たり前です。日本各地にも方言があって、様々な文化や慣習、宗派や信仰があるのと同じことだと思います。だからエジプト方言、モロッコ方言、レバント方言など様々な方言に挑戦することもおもしろいです。自分が好きな地域の方言や口語を学べば、特に現地のフィールドに行く人は、一気にその現地の日常に接近できます。
一方でアラブ世界やその地域を研究する醍醐味というのは、そうしたバラエティの豊かさと同時に、貫徹した共通性や統一性があることだとも思います。多様性が重視されるこの今日において、正則アラビア語(フスハー)という共通語や、言葉への帰属意識がつくる言語共同体、こういったものが生き生きと躍動しながら展開しています。その姿が我々研究者の関心に刺激を与えてくれるのではないかと思っています。
次回は嶺崎寛子さんによる「ジェンダーを学ぶ」です。
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【目次】
序章 中東を「学ぶ」 末近浩太・松尾昌樹
第1部 繁栄する文化
1 言語と宗教 竹田敏之
2 歴史叙述 小笠原弘幸
3 アラブ小説 柳谷あゆみ
4 中東の近現代思想 岡崎弘樹
第2部 変容する社会
1 ジェンダー 嶺崎寛子
2 移民・難民 錦田愛子
3 都市と農村 柏木健一
4 メディア 千葉悠志
第3部 躍動する経済
1 経済開発 土屋一樹
2 石油/脱石油 堀拔功二
3 イスラーム金融 長岡慎介
4 中東でのビジネス 齋藤純
第4部 混迷する政治
1 世界のなかの中東 今井宏平
2 紛争 江﨑智絵
3 パレスチナ問題 山本健介
4 宗教と政治 高尾賢一郎
終章 さらなる学びへ 末近浩太・松尾昌樹
コラム 中東の音楽映画 中町信孝
言葉に映し出される家族 村上薫
ほんとうのバーザール 岩﨑葉子
権威主義と民主主義 渡邊駿
中東を学ぶ人のための必読文献リスト
中東を学ぶ人のための国別データシート
索引(人名・事項)