「つかの間の定住革命」を撃つ 『ノマドという生き方』書評 評者:福嶋 聡
福嶋聡
およそ700万年前アフリカの大地に誕生した人類諸民族の自由で多様な歩みを単線的な進歩史観にすり替えた犯罪を暴いたのは、デヴィッド・グレーバーの遺著『万物の黎明』(光文社)であった。共著者である考古学者ウェングロウが渉猟する「物的証拠」が、その推理の大きな力となったのだが、本書『ノマドという生き方――旅暮らしの人類学』の「主人公」であるマヌーシュは、現代の「生ける証拠」とも言える。
「マヌーシュ」は「ジタン」や「ロマ」などと並ぶジプシーの下位概念であり、マヌーシュの人びとは南フランスをフィールドとする「ヨーロッパ最後のノマド」である。
マヌーシュは郊外のスーパーマーケットの駐車場に、あるいは大学のキャンパスにキャラヴァンと呼ばれるキャンピングトレーラーで到来し、数日滞在していく。
なぜ、彼らは移動を続けるのか?
この問い自体が、「定住こそが人間本来の生き方である」という臆見の表明だと著者は言う。その問いには、「なぜ、私たちは移動しないでいられるのか?」という逆向きの、しかし正当な問いが投げ返される。人類が定住を始めたのは、約1万2000年前頃であり、我々は700万年の人類史のごく僅かな期間、「つかの間の定住革命」の時期を生きているに過ぎないのだ。特殊に思われがちなノマディズムこそが、人類史の大半を占める生き方なのである。
1 「商業移動民」の生存戦略
とはいえ、マヌーシュは「進化」に抗って昔ながらの生活を続けている「過去の遺物」では、決してない。かれらは、狩猟採集民や牧畜民のように自然資源を活用するのではなく、定住民社会が生み出す余剰や人的資源の地域的偏り、隙間に残された経済的・文化的資源を利用する商業移動民である。需要と供給のバランスが一時的に崩れる場所で求められる経済活動には、移動が必須である。受け入れ側の農村社会にとっても、長居することなしに必要なサービスを適宜提供してくれる彼らは、とても好都合な存在なのだ。こうした、性格を異にしながら相互に好都合な関係こそが、今も変わらず、経済活動の前提ではないか。マヌーシュは、経済活動の機会に合わせて適度なタイミングで動き、定住民社会と適度な距離を保って暮らしてきた。マヌーシュは、定住民や「近代」がやって来る前に存在していたノマドではなく、定住民の社会のなかで生まれてきた、西洋近代を知っていたノマドなのだ。
更に言えば、それにも関わらず定住民の社会に呑み込まれず、西洋近代の同調圧力にも抗し、マヌーシュ独特の生活習慣、文化の特徴を生み出し、維持し続けてきたのだ。
同時に、時代の変化にも柔軟に対応してきた。マヌーシュは1960年ごろから、ポー地域での定着を開始する。1980年代に入り、都市化の進行によって宿営の場が奪われ、移動生活が春から秋への一時期に縮小されていくと、仕事もスクラップ回収業、建物のメンテナンスなどのサービス業、ワイン用ブドウ収穫を主とする農作業に限定、広範囲の移動を必要とする経済活動は農作業のみとした。
2. バンライファーとマヌーシュを分かつ「動く住まい」の本質
だが、その生き方、精神の核の部分は変わらない。マヌーシュは家を手にしても、キャラヴァンを手放さない。かれらが重視するのは、家の内部というよりも、家の外、キャラヴァンを家の横に設置するためのスペースなのだ。更にそのキャラヴァンもまた、われわれの「住まい」の概念からはズレがある。
マヌーシュは、キャラヴァンを購入すると、トイレやシャワー、キッチンの流しをとり外すか、物置に変える。調理や食事、入浴や排泄は、キャラヴァンの外の生活領域やそこに建てられた小屋や衛生設備で行う。キャラヴァン外部の生活領域は、家族の食事や団欒の場であると同時に、家族以外の人間や訪問を迎え入れる場でもある。(中略)キャラヴァン内部は他者からの視線を排除することのできる空間で、睡眠、休息、身体の手入れや着替え、性交といった親密性の高い身体的行為のための領域だ。(53-54ページ)
今日、欧米でも日本でも増えてきている、家を持たず車内で生活するバンライファーと異なるのが、この点である。新たなバンライファーたちは「インドア派」で、焚き火をしたいわけではないので、調理は簡易ガスコンロで十分、むしろ、車内で快適に過ごすことを重視する。ICTを活用し、PC一台でリモートワークを行うバンライファーたちの車内のネット環境は万全。テレビやPC、アレクサなどの音声アシスタントが搭載されている。
彼らは、リモートワークが特別なことではなくなった時代の、新たな形のノマドなのだ。車に載ってスクラップを回収し、御用聞きサービスの顧客を探すマヌーシュと仕事の内容は異なるが、産業社会の隙間を開拓し、仕事の場や組織に縛られず、長時間労働や長時間通勤から解放された自己裁量型の働き方を選ぶ点では似ている。
しかし、先に挙げた家や車内、車外の使い方が象徴するように、現代のバンライファーとマヌーシュとの間には、決定的な違いがある。
車に家財道具を搭載して暮らす現代のバンライファーは、「共同体のくびきから解放された自由な個人」という近代の物語の延長線上にある。一方マヌーシュの「動く住まい」は、離散する家族や仲間とつながるために移動する。マヌーシュは、いわば「共同体のくびきから解放された自由」からも解放されているのだ。
3 「密にゆるくつながる」離合集散のファミリア
マヌーシュの人びとは、「私たちはエスカルゴ」、「キャラヴァンは繭」と言うが、それは決して「閉じこもり」「引きこもり」を意味するものではない。マヌーシュたちはキャラヴァンに乗って、遠方に暮らす家族に頻繁に会いに行く。普段は散在し、必要な時に集結する。彼らは、この離合集散のリズムを好む。家の取得後、長年停止していたキャラヴァンでの移動生活を活発化させる家族も多い。集合宿営地や非合法の宿営地など、各家族が専有権をもたない、いつ追いだされるかわからない状況下で暮らす方が、移動の実行に不自由をもたらしていたからだ。
マヌーシュの「家族」は、「ばらばらに一緒にいる――密にゆるくつながる家族」である。マヌーシュは「子だくさん」であり、父系にこだわらず、夫婦中心に双方的に広がるネットワークを結婚後も保持しようとするから、マヌーシュのファミリア(家族、共同体の両方を指す言葉)の範囲は非常に広い。更に地縁共同体も大切にする、つまり血縁にも人種にもこだわらず、旧来の関係性のネットワークの外部にいる他者との関係を生活の必要性にそって新規開拓できるようなイデオロギー的ゆるさを持つ。この「ゆるさ」が求心的にも遠心的にも働くから、移動の最中にメンバーは離合集散を繰り返すので、マヌーシュのファミリア(共同体)の内と外を区切る境界は不明瞭で、動的なのだ。
4. フランス共和国の普遍主義と、持続可能性としての「分解・移動」
こうして見ると、マヌーシュのフィールドがフランスであることが面白い。フランスこそ18世紀末から19世紀の革命で自由・平等・友愛を謳う共和制国家を立ち上げた国だからだ。だが、マヌーシュらジプシーは、国家と個人のあいだに特定の集団を設定する民族や宗教の差異を捨象した市民の平等を掲げる「共和国の普遍主義」に抗う「共同体主義」として警戒され、その理念の外部とされた。それが今日、個人主義が強調され「各々が自分の領域に閉じこもる」現代のフランス社会こそ、マヌーシュのように「開かれ」ていて「自由を享受する」姿勢を学ぶべきだと、あるマヌーシュの女性は言う。マヌーシュが「共同体のくびきから解放された自由」からも解放されていると言う所以である。
国民国家は危機的事態において、敵味方を分断し、領域を固定化し、統制をもっぱらとする。しかし、マヌーシュは、定住化を進めても、集団を統一し、結びつきを維持するために定住農耕民社会がつくりあげてきたような規範や権力を設けようとはしなかった。あくまでも移動を解決手段とし続ける。問題が発生した時にマヌーシュが選択するのは、「移動し離れる」ことである。動くことが持続可能性を保証する。
それは、私たちの身体にも見てとれる仕組みだ。生命体にとって重要なのは、自らを「壊す」「分解する」能力だとされる。体内にたまっていくエントロピー(乱雑さ)を解消するために、私たちは絶えず自らの一部を壊し、部分を活発に入れ替えることで、全体としての恒常性を保つ。(P93)
同じことを、藤原辰史が『分解の哲学』(青土社)や『生類の思想』(かたばみ書房)で述べている。藤原が『縁食論』などで取り上げる「縁側」、かつての日本でもあった家族の枠内に引きこもらない人びとの交流は、マヌーシュの生活風景と重なる。
5. 「別様でありうること」への往来――より良き生への希望
2006年からポー地域のマヌーシュのもとで調査する過程で、同年代の女性たちと一緒に年を重ねてきた著者・左地亮子がマヌーシュの生き様を丹念に描き報告する本書は、未来志向の思想と親和性が強く、また示唆に富んでいる。
冒頭で取り上げたグレーバーとウェングロウが希求する3つの自由、「移動する自由」「命令に従わない自由」「まったくあたらしい社会的現実を形成したり、異なる社会的現実のあいだを往来したりする自由」は、マヌーシュの、「こうでしかありえない」ではなく「別様でありうること」に向けて自らの居場所を変化させる移動と、重なる。
狩猟採集民の頻繁な移動が自然資源を採りつくさない方法でもあったことは、もはやティッピング・ポイントを超えたかもしれない環境危機に警鐘を鳴らし、反進歩主義を訴え続ける斎藤幸平の渾身の主張にも繋がる。
自らの枠に閉じこもらず、どころか枠そのものをつくろうとせず、「アイデンティティ政治」の呼びかけに徹底して無関心でいるマヌーシュは、アレントやバトラーらの思想的水脈にいる。何より彼らの自由な移動生活は、昨今強化され悪化する、「国家」や「国民」に閉じこもる排外主義の愚かさを露わにするだろう。
権力やヒエラルキーをつくらない方法、自由と平等を確保する方法である移動は、より良き生への希望そのものなのである。
ふくしま あきら/書店員

【目次】
はじめに
I部 ノマディズムという生存戦術
1 近くにいるノマドたち
2 様々な呼称と様々なルーツ
3 エスカルゴのように転がる――住まいと共に動く暮らし方
4 住まいと身体をつくりあげる―モバイルハウスの住まい方
II部 動きの中の共同性
5 二つの文化を生きる――定住する移動生活者
6 ばらばらに一緒にいる――密にゆるくつながる家族
7 群れすぎない――共同体の分散力と持続力
8 ノマディズムの楽さと自由
Ⅲ部 別様の社会的現実を生きる
9 ガジェとまじわる――ジプシー巡礼祭
10 神とつながる――ペンテコステ派の信仰集会
11 あいだで生きるディアスポラの構え――アイデンティティ政治を超えて
むすび
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