『ノマドという生き方』はじめに
移動しながら生きる人びと
郊外のスーパーマーケットの駐車場に、あるいは大学のキャンパスに、キャンピングトレーラーの集団が到来し、数日滞在していく。人通りの少ない町はずれの空き地では、そのまま数か月、数年と人びとは住み続ける。パラソルの下で食事をする人びと。走りまわって遊ぶ子どもたち。周囲の車や通行人の視線を気にする様子はない。
花の都パリのきらびやかなイメージとは異なり、フランスの地方都市では、こうしたキャラヴァン居住者の姿が見られる。「キャラヴァン」と呼ばれるキャンピングトレーラーの主は、「移動生活者」と名づけられる人びとであり、「ジプシー」とも呼ばれてきた(呼称については第2章参照)。その中の一集団、「マヌーシュ」のもとで私は長らく人類学の研究を続けてきた。
「流浪の民」とも呼ばれてきた世界のジプシーやロマであるが、その多くが現在、住宅に暮らし、定住する。そうした中、マヌーシュは今もキャラヴァンに住まい、移動生活を続けている。「ヨーロッパ最後のノマド」――かれらはこう呼ばれることもある。「ノマド」とは、移動しながら生きる人びとを指す。日本を含む世界諸地域では、一定の場所に居を構え、定住する「定住民」が多数派である。マヌーシュは、この定住民たちが大多数を占めるフランス社会の中に生きるノマドだ。アフリカやアジアの狩猟採集民や牧畜民のことは知っていても、フランスという産業社会の内部にノマドがいるなんて知らないと、驚く人は少なくないはずだ。なぜ、どのように、この人びとはヨーロッパの只中でノマドであり続けるのか?
本書では、私がマヌーシュのもとで学んできた「ノマディズム」という生き方を紹介しながら、この問いに答えていきたい。
「ジプシー」と呼ばれる人びととの最初の出会いは、高校の歴史の授業である。「教科書には書かれていない」けれど、「ジプシー」もホロコーストの犠牲になった。教師の言葉に私は驚いた――「書かれていない」ことに。そして大学進学後、文献を読み進める中で、ホロコーストの犠牲者であるユダヤ人と同じく、かれらは中世から現代まで過酷な差別を受けてきたヨーロッパのマイノリティであること、けれども、ユダヤ人とは異なり、かれらは自らの歴史を文字で記すことがほとんどなく、かれらを保護する国家や組織ももたなかったことを知った。さらに、「国家なき民」「歴史なき民」「文字なき民」など、数々の「ない」でかれらが表現される背景には、かれらの移動の生活様式が深く関わることを知った。
19歳の時、フランスに留学し、パリ郊外の空き地でキャラヴァン暮らしをする人びとに出会った。南仏の「ジプシー巡礼祭」(第9章)にも足を運んだ。このフィールドワークの真似事は、私の中に新たな問いを芽生えさせた。現代ではかれらが得意としてきた移動式経済活動は制約され、移動生活にはスティグマ(烙印)がつきまとう。それでもなぜ、かれらは移動を続けるのか?
ふり返ってみれば、その問い自体が、「定住こそが人間本来の生き方である」という自分の文化を基準にした発想 (自文化中心主義)に根ざしていたことに気づく。私は、その問いを抱えたまま大学院に進学し、フィールドワークを行うために、フランスに再び向かった。2年間のフィールドワークを終える頃、私の問いは変わっていた。なぜ、私たちは移動しないでいられるのか?という問いへと。
あいだを動く生のスタイル
本書は、ノマディズムという生き方がもたらす様々な豊かさをマヌーシュから学ぶことを目的としている。ノマディズムは一般的には移動の生活様式を指すが、本書では、より広い意味での生のスタイルとして捉えることにする。なぜなら、マヌーシュのノマディズムは物理的な移動の実践を指すと同時に、その移動の実践を通して他者との関係や居場所(ホーム)を編み、生をかたちづくる営みと切り離せないからだ。
「他者と共にある」という状態――本書ではこれを「共同性」と呼ぶ――は、しばしば静態的なイメージで捉えられる――地元の顔なじみ、クラスメイトや部活動の仲間のように、特定の土地や集団に属しているという感覚を共有する人びとが、内と外の境界をめぐるルールや制度に支えられながら育む、安定した関係の束として理解されることが多い。
マヌーシュのノマディズムはこうした定住型社会構造を前提としたそれとは異なる共同性を志向する。家族や仲間は移動により離合集散する。集まって住む土地や集団の境界を維持する制度も、権力も必要とされない。私たちは時に、集団生活を維持するためには、権力が必要だし、自らや他者を○○人や○○共同体のカテゴリーに位置づける必要があると考える。対してマヌーシュは、個人を一つの集団や居場所に閉じこめる強制力をもつことなしに、動きの中で人びとがゆるやかにつながる共同性を維持する。
マヌーシュは長い歴史の中で、ヨーロッパ社会における「内なる他者」として、排斥・強制収容などの抑圧の対象となってきた。多数派社会のルールや制度が支配し、自らが信じる価値とは無関係に変容する世界を生きざるをえなかった。そうした不確実性に満ちた環境の中に自らの場所を探りだすため、かれらは「私たち」の境界を固定して、それを守るために戦うという手段をとらない。集団の境界やアイデンティティを定める領土や制度、つまり、○○文化、○○共同体といった「一つの場所」を固めていく社会文化的装置を練りあげるのではなく、それらの装置を引き算することによって、「複数の場所・文化・人間のあいだ」を動く余地を探りだし、生活や共同体をつくり変える。そうして、圧倒的な力関係にある定住民社会の内を生きぬこうとする。
このようなマヌーシュの生き方を追う中で、私はノマディズムを、複数の場所・共同体や諸文化のあいだを動く状態、そうした動きを志向する生のスタイルとして理解するようになった。マヌーシュのノマディズムは、「環境に寄りそい、動く」生き方で、「~すべし」といった絶対的な主義をもたない。居場所を「こうでしかありえない」と固定するのではなく、むしろ固定化の力に抗して外へと広がる遠心力を備え、ゆえに「どっちつかず」にも見えるノマディズムという生き方。そうした点にこそ、かれらノマドの卓越した知が見てとれる。「自らのもの」の境界を固定し、環境に潜むリスクや変化を管理する方法ではなく、環境の変化に身をそわせ、生活や文化のかたちを変容させながら、「別様であるかもしれない」居場所を模索する。そうしてかれらは不確実な世界に住まう。
なぜ、いまノマドを問い直すのか
このノマディズムは、私たち「定住民」の生き方とは遠く離れたラディカルな生き方に見えるかもしれない。だが、本書を読み進めるうちに、きっと私たちとかれらのあいだのつながりを感じてもらえると思う。
マヌーシュは定住民社会の内部で生きてきたノマドである。また人類史をふり返ると、移動こそが人類が長らく続けてきた生活様式であり、さらに現代世界でも、新たに「ノマドになる」人びとが増えている。マヌーシュのもとで学ぶ中で、私はこの移動に根ざした生き方こそが人類のデフォルトだと考えるようになった。2020年に始まる新型コロナウイルスの流行も、この考えを深めた。国境や公共の場が閉ざされ、「ステイホーム」と「移動制限」を求められる中で、多くの人びとは、ホームとは一つの場所や人間関係に閉じられるものではなく、複数の場所と関係の中を動きながら維持される居場所であることを実感したのではないか。
私が専門とする文化人類学は家族、身体、宗教、経済などの身近なテーマに着目し、それらを異文化の世界のもとで深く理解することを試みる学問である。そして、自分の当たり前を問いなおしながら、人類社会がいかに多様なのか、また様々な差異にもかかわらず、私たちは似てもいるのかを考える。こうして文化人類学は、異文化との対話を通し、「私たちはこうでもありうる」という驚きや異なる生き方の可能性を提示することを試みる。本書も、この目標を共有する。西洋ノマドとして複数の場所のあいだを生きるマヌーシュのもとで、移動の意味が問いなおされる現在を生きる私たちの生と共同性の可能性を探っていきたい。

本の詳細やネット書店でのご購入はこちらから
【目次】
はじめに
I部 ノマディズムという生存戦術
1 近くにいるノマドたち
2 様々な呼称と様々なルーツ
3 エスカルゴのように転がる――住まいと共に動く暮らし方
4 住まいと身体をつくりあげる―モバイルハウスの住まい方
II部 動きの中の共同性
5 二つの文化を生きる――定住する移動生活者
6 ばらばらに一緒にいる――密にゆるくつながる家族
7 群れすぎない――共同体の分散力と持続力
8 ノマディズムの楽さと自由
Ⅲ部 別様の社会的現実を生きる
9 ガジェとまじわる――ジプシー巡礼祭
10 神とつながる――ペンテコステ派の信仰集会
11 あいだで生きるディアスポラの構え――アイデンティティ政治を超えて
むすび
初出一覧



