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子どもたちに寄り添う現場で

苦しみの根っこはつながっている

親たちの依頼で始めた塾

 社会学を学ぶ一人の大学院生が、1974年に、父母たちの要望を受けて補習塾を開いた。これが、三鷹市にある「NPO法人文化学習協同ネットワーク」(以下、協同ネットワーク)の前身である。50年近くにわたって学校教育の外側で子どもたちとかかわり、不登校やひきこもりの子たちのためのフリースクールや、若者自立支援の枠組みを立ちあげてきた佐藤洋作代表にお話を伺った。

「1974年という年はね、子どもの文化史、子どもの成育史に重要な時期ではないのかなあと思う。それまでの親世代は、中学を出て、都会に出て働いて、子どもを高校くらいまでは行かせたいというのが大きな課題だった。74年くらいになると、大学進学率が30~40パーセントになって、塾がいっぱいできました。それまでは、元学校の先生が近所の子どもを集めて補習授業をやるみたいな補習塾がベースだったけど、だんだん進学塾もでてきて。そのころにナガセ進学教室、のちの東進ハイスクールができました。東京進学教室という名前にすぐ変えて、吉祥寺に教室を借りて始めましたね、進学塾として。だけど親たちもまだ、進学競争には慣れてない人がいっぱいいるわけ。競争競争と駆り立てるような勉強は、子どもたちの育ちにとってよくないし、考え方としてもおかしい。今となっては競争が当たり前になってしまったけど、当時の親たちにはまだ、そういう気持ちがあり、塾に行かせること自体に抵抗があった。」

 大学まで行かせなくてもいいけれど、と考える親たちがまだそれなりにいた時代、それでも高校は行ってほしい、勉強を見てほしいという要望があった。当時、家庭教師をしていた佐藤さんに、子どもたちを集めて教えてくれないかという依頼が来たという。

「中三の生徒の親が10人くらい集まって、「高校進学まで1年間やってくれない?」と頼まれたのが始まり。学生運動が終盤に向かっていたころで、いろんなことがうまくいかない。そういう時代の空気のなかでちょっと疲れていたのかなあ。学生たちはもういけいけどんどんではなくなってた。まあいいかって引き受けて、子ども相手に塾やってたら楽しかったんだよね(笑)。」 

 私自身も、学生時代の7年間、いろんな塾でバイトをしていた。教師もしたし、受付事務をやったこともあるが、特に小さめの塾を開いている塾長に面白い人が多いと感じていた。高校生のころに通っていた英語塾の塾長は、飄々とした顔つきで「間接民主制は支持しないので、選挙には行かないのだ」と高校生の私からしたら冗談みたいなことを公言していた。そんな大人は周りに見たことがなかった。またある塾長は、ある程度教師を育てると、彼らに塾を任せ、世界中の学校をめぐって子どもたちの写真を撮り、文章を添えて写真集を出版していた。私は写真整理の手伝いをしたこともある。塾長たちには企業や官庁に就職していった人たちとは一味違う、自立へのこだわりや、自由を愛する心、人生を貫く芯のようなものがある気がしていた。学校の先生ほどに安定はしない立ち位置で、子どもたちとかかわることを選択した彼らの持っている雰囲気が私は好きだったのだと思う。それにしても佐藤さんの塾は変わっていた。 

「24、25歳だから元気いいわけよ。エネルギーが余ってて、もう無制限に子どもに付き合ったんだよ。そのうちに親たちが借りてきたアパートでやり始めたんだけどね。子どもたちが帰らないんだよ、夜も。そこに泊って、朝登校して、そこに「ただいまー」って帰ってくるんだよ。そういう生活にどっぷり浸かってね。」 

 特別な宣伝はいらなかった。口コミも手伝って、電信柱に手書きのポスターを貼れば、子どもはいくらでも集まった。10人で始めたのが30人になり、さらに増えていったという。 

「引くに引けなくなりました。一生懸命になっていく子どもってかわいいし愛おしいね。そのうちね、教えあいを始めるんだよ。「俺英語できなくて先生に馬鹿にされるんだ」っていう子がいたから、「見返してやれ!」って言ったのね。教育者が言う言葉じゃないんだけど。どこまでも応援するから見返してやれって。そしたらぐんぐん英語ができるようになるのよ。中学校の勉強なんか、たいしたレベルじゃないから。落ちこぼれてたワルができるようになると、今度はついていけない奴に「教えてやる」って、教え始めるんだ。子どもが悩んだり劣等感かかえながらもけなげに頑張っている姿に惹かれた。」 

 ガリ版刷りで、いろんな教材を作った。手ごたえを得ながら、1年2年と夢のように時間が過ぎていったという。いつの間にか個性的なスタッフも集まってきた。 

「ほんとは大学に行きたかったけど行けなかったという町工場で働く青年や、フリーでロシア語通訳をやっている人もいた。生業にするつもりはさらさらなかったんだけど、続く限りはという感じで続けてた。」 

荒れる学校、息切れする子どもたち

 やがて80年代に入ると学校が荒れ始めた。佐藤さんは受験勉強、比較競争への異議申し立てだと感じた。 

「ほかに言葉を持っていなかったんだろうね。反抗というのもちょっと違うし。声なき声で、俺らはもう嫌なんだ、という感じだったのかな。痛めつけられた子どもは、仕返しをしようって卒業式に学校に乗り込んだりした。親も先生もそこで気がつけばよかったよね。教育ってそもそもなんなんだろうと。そこに立ち返らないで、やっぱり管理的な、締め付け教育になっていったんだよね。だってもう、刃物出して、先生にたてついてくる子どもが出てきたりね、色々したもんだから。学校に機動隊が入るなんていう、アメリカみたいな状態にもなって。」 

 50代の知人から、当時は廊下をバイクが走っていたよ、と私も聞いたこともある。今なお残る理不尽な校則の多くは、この時期の子どもたちを規則で片っ端から縛りつけようとしたものだ。東京都ではようやく最近になって「ツーブロック禁止」が校則から除かれたが、禁止の根拠として「ツーブロックは絡まれる原因になるから」という現代の若者にとってはまったく意味不明な理由が添えられていたのも、そのような時代の残滓だったといえる。しかし、そのような子どもたちの激しい行動も佐藤さんは一面的にとらえず、「声なき声」と表現した。 

「たくさんたくさん、子どもの悲哀とか悲しみとか、聞き取ってきたかなあ。まあそんなこともあって、塾を始めて10年経った1980年代中頃に、親や学校の先生たちと一緒に、子どもたちの実態について腰を据えて考えてみましょう、学びなおしをしましょう、ということになった。」 

 私は最初、50年近くにわたって子どもたちを見てきた佐藤さんから、現代の子たちの特質のようなものを聞き出そうとしていたことに気づいた。それは私自身が、娘たちを育てるなかでどうしても「なぜ最近の子は…なのか」「どうして私たちのころと違って…なのか」という気持ちになることが多かったからだ。しかし、佐藤さんは決してそのように時代ごとに子どもたちをまとめる人ではなかった。「たくさんたくさん、子どもの悲哀とか悲しみとか、聞き取ってきた」という言葉から、時代によって現れ方は違っても、学校という社会のなかで子どもたちが抱いてきた悲しみや苦しみの根っこに大きな違いはないのかもしれない、と考えさせられた。

 佐藤さんは、武蔵野各地から集まってきていた先生たちを、それぞれの地元に帰して塾をやらせ、親たちと協力しながら塾の数を増やしていった。 

不登校の子は幸い

 「不登校児の親の会が主導して「東京シューレ」ができたのが1985年。そのころになると、こちらにも不登校の生徒が混じってきた。それでフレネスクールというフランスのフリースクールを見学に行った。学校の教師たちの民間教育運動でフレネ教育研究会というのがあって、誘われたんだ。」 

 親御さんや地域の人たちがカンパを出し、勉強してきて、と佐藤さんを送り出した。佐藤さんが見学したフレネスクールは「学校教育を外から批判するというよりも、もう一つのオルタナティブな場所」だった。教員だったセレスタン・フレネ(1896-1966)は、第一次世界大戦で肺を毒ガスにおかされ、大声を出せない体となった。しかし、そのハンディキャップが、子どもたちが主体的に考え表現できるよう促す教育への原動力となった。 

「障害があるから教室を歩き回れないし、大声も出せない。だから子どもたちにやらせる。子どもが自由に自分の学びを作る。そのための環境を整備して応援する。個別学習だね。先生は質問に答える。表現活動で絵を描いたり、詩を書いたりもする。協同組合もあって、生徒から集めた会費を基に、鶏を飼って卵を給食に使ったり、卵を売って備品の購入にあてたり、お金の管理も子どもたちがやる。視察に行くとわれわれに絵を売りつけるんだよ(笑)。手作り感満載でいいなあと。」 

 日本に帰ってきた佐藤さんは、フレネスクールのイメージを持ち続けるなかで、不登校の子たちとならいろいろなことができるのではないかと考えたという。不登校の子は大変だからなんとかする、ではなく、一緒に模索する仲間として。前回ミドリちゃんが教えてくれた「“できない人たちのケア”というより、若者たちと一緒になってそういう社会を作っていきたいという社会運動的な側面が大きい」という言葉を思い出す。

 佐藤さんは「不登校の子どもは幸いだなって思ったわけ」と言った。学校という場所は、よい先生に出会えれば素晴らしい経験をできるかもしれないけれど、そうでなければ集団のなかで均質でいることを求められたり、校則に代表される理不尽を受け入れ、疑問を持たない練習をさせられるような場所であるともいえる。いじめが起きても、先生が親身になってくれないこともある。不信感と絶望で命を絶つ子さえいる。周りの子よりも早く、そうした学校教育のうさんくささにNOと意思表示をしたのが不登校の子たちだとすれば、「不登校の子どもは幸いだ」と感じた佐藤さんの言葉も腑に落ちる。もちろん、なんの問題もなく通える子どもたちもいる。しかし大事なのは、このように感じている子どもがいる、増えているということなのだ。 

「不登校の子たちと本格的にいろいろやろうと思ったのが1990年くらい。それからいろんなところから要請されて、実践・取り組みについて報告してください、というオファーがだんだん増えていき、なんだか不登校専門家みたいな感じになった。1998年にNPO法ができて、じゃあそれをやりましょうということになった。行政でも民間でもない、そういう形はイタリアから生まれたと聞いて、また視察に行ってね。」 

 佐藤さんは、1993年に不登校の子どもの居場所として「フリースペース コスモ」(以下、コスモ)を開設。1999年にはNPO法人に改組した。そのころから、ひきこもりなどに象徴されるように、青年期から成人期への移行が不安定になり、国も国家的損失だという危機感を持ち、補助金などの支援策が打ち出された。佐藤さんは、2000年代半ばから、行政の若者サポート事業を請け負うようになった。しかし、公的支援の多くは「学校に戻る」ことが前提とされていたため、そうではない不登校支援には予算がつきにくかった。 

「最終的には、教育システムを変えないとね。学校教育法に書かれているような、学校以外は学校にあらずという方針でやっていると話にならない。フリースクールも義務教育の機関として教育制度のなかに組み込まないと、そこに金を出す根拠が出てこない。それを変えないと、ヨーロッパ並みに。さっきのフレネスクールなんて国立ですからね。ちゃんと教育行政のなかに入っています。学校を作るのももっと簡単です。規模も小さくていいの。デンマークだと、親たちが集まって、私たちの子どものために、こういう教育でこういう学びの場を作りたいです、と申請し認可されれば、学校が作れるそうです。」 

変わった子が存在できない教室

 みなが同じように社会に適応できるように育てる、という従来の日本の教育システムは、不登校という形で多くの離脱者を生んでいる。そこからたくましく自らの道を切り拓く子もいれば、劣等感を引きずってひきこもってしまう子もいる。

 不登校の子どもたちが目立ち始めてから30年余り。佐藤さんには何か変化が見えているだろうか。 

「そうね。最初の方の不登校の子たちは賢い子の息切れみたいな、頑張ってきたけどもう無理…というような適応過剰からの不適応だった。今はみんな同じことをやらなくちゃいけないというコントロールに乗らない子が増えてきた感じがします。そもそも学校のシステムが合わない。保育園から合わない子もいます。」

 もともといた発達障害のような傾向がある子どもを受け入れるキャパシティが学校になくなり、うまくコントロールできない子を教室にいさせる余裕がなくなった気がする、と佐藤さんは話す。以前は、教室が荒れたり教師が立ち往生したときに、佐藤さんのところに相談に来る先生もいたという。 

「うまくいかない子がいるからこそ、教室は活性化するんじゃないの? そういう子どもがみんなとやれるようになっていくプロセスに教育的な契機があるんじゃないの? そこが先生の腕の見せ所じゃん、なんて励ましたものだけど、そういう余裕もなくなってきたんじゃないかな。」 

 佐藤さんの語り口は常に断定から遠いところにあった。不登校の背景が一様ではないことを現場で感じてきた人なのだ。私が娘たちの世代を見ていて感じる繊細さについて質問したときも、慎重に言葉を選んで伝えてくれた。

 「メール送信してレスがないと不安になるじゃない、大人だって。あいつ何考えてんだろ、めんどくさい、やめてくれと思ってんのかなって。日常的にあるじゃない。それは周りに見えないんだよ。教師にも見えない。そういうなかでぷつっと学校に来なくなる。理由は言わないから、なぜだかわからない。人間関係をなんとか維持することも、子どもにとってほんとにつらいこと。心理戦というか、傷つきというか。そういう形で学校に行けない子も増えてるかもしれないね。いじめということではないけど、関係性の傷つきみたいなものが、今の子には多いかもしれないね。だから、もう行けなくなるよね。」

 佐藤さんの言葉で自分を振り返った。80年代生まれの私にとって、携帯を介してのコミュニケーションは大学時代から始まった。友人関係の築き方、維持の仕方は完全に対面のアナログで育っている。今の子たちは、早ければ小学生からSNSの社会に生きている。佐藤さんは、若い彼らの傷つきの感覚を、世代の隔たりを超えて「もう行けなくなるよね」と受けとめようとしていた。想像しようとしていた。そのことにまず心打たれた。私を含めて、上の世代はつい、今の子は繊細すぎる、いったいどうして?と思ってしまう。想像しようとしてもしきれない。「そういう世代」として単純化して見てしまったりもする。しかし、それではだめなのだ、と佐藤さんのお話を聞きながら考えさせられた。理解しきれない相手を断定、断罪するのではなく、その心を感じようとしてみること。 

「昔だって変わった子はいたんだけど、変わった子が変わった子として存在できなくなっているというのはあるよね。変わってていいじゃん。のろい子もいるだろうし、時々とんちんかんな答えしかできないかもしれない。それでも存在できたのが、今は存在できないね。そういうふうに思いますよ。」 

 高一になった長女が、中三の終わり頃に、クラスメイトの一人について言及したことを思い出した。そのときはクラスの担任に度量があり、発達障害があるその子にも適切に声をかけ、笑いを交えて全体をまとめ、クラスとして和やかな雰囲気があったという。長女がぽつりと卒業式の日に言った「あいつ高校いって居場所あるのかな」という言葉は、私には重たく響いた。担任の考えや力量が違えば、クラスの雰囲気は違ってくる。どこの学校でもどこのクラスでも大丈夫とは言えないことを、そのたよりなさを長女も予感していた。佐藤さんの「今は存在できないね」という珍しく強い言葉も、先生たちの余裕のなさや力量の不足、学校の雰囲気自体の変化を感じてのものかもしれない。

「学生がフィールドワークで〔コスモに〕見学に来たりすると、みんな元気がいいということに驚くね。静かな子が不登校になるって印象なのかな。なんでこんなに元気でおしゃべりなのって。」

大事なのは共生できる力

 コスモを見学させてもらった。ふと開けた部屋では中学生くらいの女の子たちが、一人の先生らしき男性とゼミ形式のような形で学んでいた。テーマは「フェミニズム」。子どもたちが学びたいテーマを自分たちで決めるという。先生らしき男性は、佐藤さんの息子・真一郎さんだった。真一郎さんは、コスモの学習塾の教師アルバイトをするなかで、活動にかかわっていくことになったという。大学の夜間部に進学したこともあり、昼間にかかわったのが不登校の子たちだった。

 真一郎さんが担当している現在のゼミが「フェミニズム」に到ったのには経緯があった。もともと武蔵野地域にゆかりのあった、重度障害をもつ天畠大輔さんとの交流がきっかけだという。天畠さんは、医療事故がきっかけで重度障害となるも、研究者となり、立命館大学の研究員として当事者研究を続けたり、「一般社団法人わをん」を立ち上げて重度障害者が自立した生活を送るためのサポートシステムを作ったりしている人だ。れいわ新選組から出馬して参議院議員にもなったアクティブな人である。天畠さんと交流するなかで、一人ひとりの尊厳が守られることについて考えてきた参加者の一人から、こんな発言がでた。 

「女の子らしさとか、男らしさって、そういうのって本当に苦しいと思うんだけど、それってなんでそういうふうに出きてきたの? LGBTQとかにも興味があるんだけど。」

 一様であることを求められる社会において、マイノリティの苦しみの根っこはつながっている。きっと子どもたちは、そのことに気づいたのだ。誰かの苦しみは、自分の苦しみと無関係ではない。「一人ひとりの尊厳が守られる」という深い問題意識から学びが自然と展開されていくところが素晴らしいと思った。ゼミでは平和について学んだ年もあり、集大成として広島まで学習旅行にも出かけたと聞いた。

 自分たちで、学びたいことを学び、仕事にできそうなことを仕事にしていく。なによりも仲間との結びつきを、失った青春の感触を、人を信じ自分を信じられる感覚を身につけていく場所。協同ネットワークはさまざまな事業を展開しているが、佐藤さんはこの数十年で展開してきたことをもっと教育的な機会に還流させていきたいと考えている。

「活動のなかで農業はやるけど農家になるつもりはない。パン屋もするけどパン屋をやっていくわけではない。もう活動の幅は十分に広げてきた。言ってしまえば、必要に迫られて作った仕組みでもあった。学びの資源は増えたから、それをもっと活用していきたい。

 若者支援については、不登校支援の延長として国の要請で広げてきたけれども、今後は少し考えたい。重要なのは思春期の自己の世界を広げるための学び。暗記して穴埋めするなんていうのは、調べればいくらでもできること。そうではなくて、もっと根本にある、いろんな世界を知っていく学び。楽しいなあと思って、知れば知るほど自分の世界も広がるような学び方。進路形成を支えるような活動というのかな。

 主体性についてさらに言えば、人と共生できる力。グローバルシチズンシップというのかね、いまや世界中の人びとと共生する時代になったわけじゃない。ウクライナの話は他人事ではないという時代になった。そういう想像力と、さらに青年期になれば気になったことにアクションを起こせるような力が育つ場を作れればいいなあと。

 そういうふうに、大人になる前の青年期の支援に重点を置いていきたい。学校のような閉鎖的な場所ではなくて、地域で学ぶような場を作りたいな。そのためには、地域も子ども・若者を受け入れる力を回復していかないといけない。」 

 佐藤さんが国の要請を受けて取り組んできた「若者支援」は、どうしても仕事につなげることが求められる。短絡的には、職業技術を身につけるといったことになりやすい。しかし、なぜ学ぶのか、学びたいのかが明確でないまま知識を身につけることは、若者をいずれ挫折してしまうレールに乗せることにもつながりかねない。

「やっぱりどう生きたいのか、というところですね。そこの根っこに立ち戻らないといけない。20~30歳で支援するとなると遅すぎるし、時間的にも余裕がなさすぎる。ヨーロッパでは、若者支援は18歳くらいまでの子たちを対象にしています。本来、思春期から青年期にかけてすべき支援です。」

「生きるか死ぬか」までいかないために

 定職に就けていない若者をどうにかしようという日本の「若者支援」。しかし、それはもっと成長の早い段階で取り組まれなければならないものだと佐藤さんは言う。

 日本では、学校システムからこぼれ落ちた例外的な存在として、これまで実態を把握されてこなかった若者たちへのサポートの必要性がようやく認識されはじめた。高知県が「若者はばたけネット」という情報把握システムを2010年から導入し、県立学校(現在は私立なども含む)の進路未定生徒をサポートステーションにつなげる取り組みを行ったり、佐賀県が「訪問支援による学校復帰サポート事業」を2017年から始めたりしているが、全体としてはまだ限定的なようだ(宮本みち子・佐藤洋作・宮本太郎編『アンダークラス化する若者たち――生活保障をどう立て直すか』明石書店、2021年)。

 『アンダークラス化する若者たち』のなかで、佐藤さんは通信制高校の問題点も指摘している。不登校となった子どもたちの多くが、進学しやすい通信制高校やオンライン教育をうたう広域通信制高校に進む。そこに適応し、スクーリングなどにも積極的に出てこられる子はよいだろう。しかし、学籍を置くだけになる子や、この期間に向き合うべき「仲間と出会い交流し支え合いながら自分の進路をひらいていく」という課題に向き合えないまま終わってしまう子も一定数いる。これを佐藤さんは「本来の後期中等教育の教育機能が空洞化している」と指摘する。

 フリースクールもそうだろうが、自由なシステムのなかで水を得た魚のように学び道を切り拓いていける子もいれば、適切なフォローがなければ、臆病だったり内向きだったりして出ていけない子たちもいる。後者の子たちをどこまでフォローできるかがおそらく大事な点になってくるのだろう。先進的な通信制高校のなかには、フリースクールや技能教育施設と連携を始めているところもあるといい、より一人ひとりの状況にフィットした形が模索されている。

 知人の坂口恭平さんは自身の電話番号を公開して、自殺願望を抱く人たちの電話に応え続けているが、やはり若い世代が目立つようだ。これほどまでに若い世代が病んでしまったことの背景は、ひと言では言い尽くせないだろう。友達の維持にも神経をすり減らすようになった人間関係、貧困世帯や虐待家庭の増加、労働の非正規化による疲弊、家族や友人・身近な人との信頼関係さえ心もとない状態。そのような不安定要因のなかで、自分自身に向き合えていない若者が増えているのかもしれない。

「生きていく価値がない、居場所がないと内向きになっていくと、外が見えなくなる。新しい物語を作るための舞台や設定を一緒に作っていく必要がある。おもしろいことに出会えれば、生きててもいいか、案外いけるかもしれないという希望を持てる。じゃあ、あんたは何やろうか?って話になる。そうやって何か一つのことに取り組んでいくなかで、自分はそういう取柄もあるようだから、それをやってみようか、という気持ちもわいてくる。」

 佐藤さんによれば、年齢がいってしまうと状況も深刻で、「どうやって生きようかっていう話題が、もう追いつめられていって、とにかく生きる方法を考えようとなってしまう」。ぼんやりと、どうやって生きていこうかな…と青年たちが悩む時期に、適切な伴走者がいることが理想なのだ。

「生きるか死ぬかっていうところまで、大人になって悩むのはしんどいよね。そういう人も来るよ。居場所って言っても、最初は「いいよ、そんなところ」と言う(笑)。時間がかかる。ようやく来て自己紹介をしていくと、「あれ、みんな俺と同じような経験してるのか」とちょっとほっとする。そうなってきたら、いろんな活動に誘ったりして呼びかけていく。「いや、いいです」って言われるけど(笑)、だんだん参加したくなってくるのね。人間本来の感情で徐々に徐々に。時間はかかるけど、そういう仕事をやらざるをえない以上、精一杯やります。死ぬか生きるかというところまでいかないようにする教育をやっていきたいですね。」

 子どもたちが成長していくなかで必要なことは、できないことをみんなの前で叱責されることでも、人と比べられることでもない。親の期待に応えて優等生でいることでも、苦痛な学校に欠かさず通うことでもない。人とのつながりを確保したうえで、自分自身の気持ちや興味の方向を見つけていくことなのだ。

 自殺を考えていた若者が、仲間たちの活動に惹かれていく心を、佐藤さんは「人間本来の感情で徐々に徐々に」と表現した。どんなに不器用な人でも、一人でいるのが好きと公言する人でも、人は心のどこかに人恋しさを抱えている。人とつながること、そこに「精一杯やる」と胸に秘めた伴走者がいること。不登校児が増え続ける今、協同ネットワークのような団体が、本来はあらゆる土地にあってほしい。

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著者略歴

  1. 寺尾 紗穂

    シンガーソングライター・文筆家。ライブや映画・CM音楽制作、ノンフィクションやエッセイ、書評などの分野で活動。アルバムに『楕円の夢』『たよりないもののために』『わたしの好きなわらべうた』、著書に『彗星の孤独』(スタンド・ブックス)、『南洋と私』(中公文庫)、『原発労働者』(講談社現代新書)など。

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