精読と伝記――「流動するテクスト」の後に 巽孝之
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ポストコロニアリズムの論客にして文学研究者のエドワード・
1 解放された文学
20世紀の文学批評は文学作品そのもののイメージをめぐって、絶え間なく変容を遂げた。それは第一義的には、 19世紀までの文学批評が、作品とそれを生み出した作家の人生や歴史や社会が密接に連動しているとみる大前提からの離陸であった。旧来、作品は人間と世界の従属物ないし奴隷だったのである。だが、20世紀は文学作品が作家的権威と世界的制約から独立する展望を照らし出した。歴史や社会の再評価も、あくまでそれまでの時点で、19世紀においてはありえなかったぐらい豊かになった文学作品のイメージをふまえたうえでのことである。解放された文学作品が、むしろ歴史や社会の抜本的再解釈を促したのだ。
では、一体どんなイメージの変容が起こったのか。
ふりかえってみよう。
1910年代から30年代までソシュール言語学と同期するように勃興したロシア・フォルマリスムにおいて、文学作品は一種の技術論的な装置(ディヴァイス)であった。1930年代から40年代まで隆盛を極めたアメリカ批評(ニュー・クリティシズム)において、文学作品は有機的形式(オーガニック・フォーム)であった。そして戦後、1960年代以降に影響力を振るうフランス新批評やそれに付随する構造主義、ポスト構造主義において文学作品は織物(テクスト)であり、批評書のタイトルにも「テクストを解きほぐす」(Untying the text)といったものが多かった。かつて新批評の先駆者とも呼ばれる T・S・エリオットは、 1919年に執筆した画期的論考「伝統と個人の才能」のなかで19世紀的な通時的時間観を排し、20世紀初頭のソシュール的共時的時間観を援用して「文学史の同時存在秩序」を提唱した。それは半世紀以上のちには、クリステヴァ的な文学作品の相互関連性すなわちインターテクスチュアリティに発展解消したと言ってよい。そして、まさにそのように人間からも世界からも解放された自律的文学宇宙として作品を精読するのが、長く20世紀的批評の金科玉条とされてきた。
だが21世紀を迎え、北米を代表するハーマン・メルヴィルの研究者ジョン・ブライアントは、新批評から脱構築、ポストコロニアリズムへ至る批評理論史をしっかりふまえたうえで、「流動するテクスト」のイメージを提起する。
装置から有機体、織物、そしてさらには流動体へ。
こうした文学作品におけるイメージの変容は、以後、いかなる文学批評の最前線へわれわれを連れ出すのだろうか。
2 9.11同時多発テロ以後の『白鯨』
9.11同時多発テロの直後、約三千名に及ぶ死者が出たのと引き換えに、メルヴィルの世界文学的古典『白鯨』(1851年)のラストシーンが広く召喚され蘇生した。とりわけ同時代を代表する知識人エドワード・サイードが、このテロと『白鯨』ラストシーンを類推し、エイハブ船長をブッシュ大統領、テロ首謀者ウサマ・ビン・ラーディンを白鯨に喩えたことの影響力は絶大だった。ただし、サイードは以下のようにも述べた。
小説の最終場面で、エイハブ船長は、自身の銛のロープに絡め取られて白鯨に巻きついて海に引きずり出され、明らかに死の運命に向かいます。ほとんど自滅的といってよい最終場面でした。
(エドワード・W・サイード『戦争とプロパガンダ』中野真紀子・早尾貴紀、みすず書房、二〇〇二年、九七―九八頁)
だが、小説版にはそんなシーンは存在しない。そこに描かれたエイハブ船長の最期は、白鯨と対決するどころか、あまりにもあっけないものとして描かれている。
エイハブは銛を投げた。身構えた鯨は前方へ逃げる。銛についたロープは凄まじい速さでくるくる回転して放たれたが、しかし途中でもつれてしまう。エイハブは屈んでそのもつれをほどこうとけ んめいになり、うまく解きほぐす。その刹那、銛に連なるロープが彼の首を捉え、もの言わぬトルコ人が弓のつるで犠牲者を絞殺するときのごとくにひそやかに、エイハブをボートから外へ抛り出してしまい、乗組員が知ったときには、すでに遅すぎた。間髪入れずに、綱のいちばん端のところの索眼が、あとはからっぽの桶から飛び出し、漕ぎ手を打ち負かしたあげくに海へ飛び込み、海中深くに消えていった。
(『白鯨』第135章、拙訳)
してみると、ここでサイードはジョン・ヒューストンが1956年に監督した映画版と小説原作版を混同するという、文学研究者にあるまじき致命的な過ちを犯したことになる。この過ちが見逃せないのは、そもそも西欧中心主義的帝国主義を一貫して批判してきたポストコロニアリズムの論客サイードが、エイハブ船長とその腹心の友であるゾロアスター教徒フェダラーを混同し、東洋的なるもの、オリエンタルなものを抹消するという過失を犯してしまったという、きわめつけのアイロニーを含んでいるためだ。この点については、北米を代表する語学文学学会『近現代語学文学協会(Modern Language Association)』(通称MLAの機関誌PMLA)2004年1月号の拙論でも批判した (Takayuki Tatsumi,“Literary History on the Road: Transatlantic Crossings and Transpacific Crossovers,”PMLA 119.1[January 2004]:98—99)。同種の批判は、翌年に刊行された拙著『『白鯨』アメリカン・スタディーズ』(みすず書房、 2005年)にも収録している。
では、いまなぜこのときの問題意識を再び持ち出すかといえば、それから6年を経て、まったく同じPMLAの2010年10月号に、北米メルヴィル協会の立役者で学術誌『リヴァイアサン』の編集長ジョン・ブライアントが、最新論文で私の論文を引きながら、ほぼ同じポイントを、さらに新しい視点で発展的に開こうとしていたからである。
サイードの記憶違いを特別扱いするのは不当かもしれないが、まさにこの記憶違いこそは、テクストをめぐるわれわれの文化的健忘症を物語る。ゆえに私は、サイードはここで些細でも本質的なかたちで自分なりに『白鯨』を書き直したのだという見解にこだわりたい。(中略)以後の『白鯨』は、サイードが西欧による東洋の悪魔的解釈を弾劾するつもりであったとしても、結果としてブラッドベリによる東洋すなわちフェダラーの抹消に加担してしまったことはもちろん、メルヴィルの原作小説には拝火教徒フェダラーが登場するものの映画版においては彼が不在であることを明らかにするものになるだろう〔このアイロニーについては巽論文99ページを参照〕。
(John Bryant,“Rewriting Moby-Dick: Politics, Textual Identity, and the Revision Narrative,” PMLA 125.4 [October 2010]: 1043-60)
当初、私はいったいなぜブライアントがこれほどまでにサイードの記憶違いを擁護するのか、まったくわからなかった。いささか憤りを覚えたと言ってもよい。けれども、ブライアントの一貫した持論が「流動するテクスト(The Fluid Text)」という概念に収束することを考えると、これは、アメリカン・ルネッサンスの物語学を編集学の視点でさらに読み替える戦略だったのかもしれない。ここでブライアントが言っているのは、 MLA会長を務め、欧米文学の殿堂とも呼ぶべきライブラリー・オヴ・アメリカ版の『白鯨』を編集し、序文まで執筆したはずの偉大なるサイードでさえ、記憶違いによって小説と映画を混同してしまう場合がある、というケアレスミスの指摘にとどまらない。弘法も筆の誤りという決まり文句は、「流動するテクスト」なる概念の前には意味をなさない。そうではなくて、ブライアントが末尾に私の論文への応答メッセージを記しつつ提起しているのは、まさにこの記憶違いによって、サイードはまさに自身の「晩年のスタイル」を発揮し、自らの『白鯨』を創造的に再編集したのではないか、ということなのだ。
3 流動するテクストとメタ伝記的研究
ブライアントの見解に違和感を覚える読者は少なくあるまい。
サイードが9・11同時多発テロの時に示した『白鯨』観は、精読という点からすれば完全にアウトである。では、ブライアントはブルームを超える誤読理論、ポスト脱構築の斬新な方法論を編み出したのだろうか?
そうではない。ブライアントはメルヴィルを中心に、構造主義以前の地道な本文校訂としてのテクスト研究から出発しつつ、ジャック・デリダやポール・ド・マンら構造主義以後の過激なテクスト批評にも深い理解を示す稀有な学者批評家である。彼は「流動するテクスト」を「理論ではなく厳然たる事実」と定義する。ひとつ以上の異本(バージョン)を持つ文学作品はいずれも流動性を免れないからだ。「流動するテクスト」を分析するのは、テクストの即興的演戯(フリープレイ)を歴史化することにほかならない。ポスト構造主義は脱構築から新歴史主義に至るまで、いわゆる伝統的な作者像(the Author)に死刑宣告したが、「流動するテクスト」はむしろ、多様なバージョンを生み出した書き手像(the Writer)を復活させてやまない(John Bryant, The Fluid Text: A Theory of Revision and Editing for Book and Screen, University of Michigan Press, 2002, pp.1, 11&13)。
こうしたブライアントのテクスト観に基づけば、ジョン・ヒューストンが監督し、レイ・ブラッドベリが脚本を提供した映画版『白鯨』もまたひとつの異本(バージョン)であり、仮にサイードがそれに惑わされたとしても、その読み自体がさらなる異本を創造するという、まさに「流動するテクスト」観の実践なのだ。
その結果、ブライアントは10年以上の歳月をかけて脱稿・出版した最新の伝記『ハーマン・メルヴィル――半知半解の生涯(Herman Melville: A Half Known Life)』2巻本(全3巻を予定)においても、作家メルヴィルと『白鯨』の語り手イシュメールを基本的に区別しない。作者と作品の主人公ないし登場人物を混同してはならないという新批評の教えは、ここでは意味をなさない。ブライアントは、この伝記のサブタイトル「半知半解の生涯(A Half Known Life)」が示すとおり、作者の人生には不明な箇所が少なくなく、むしろだからこそ、その作品における登場人物をもメルヴィル自身の人生理解のために積極的に援用していく戦略を練り上げた。作家の人生と登場人物の人生に必ずしも明確な一線を引かず、むしろ両者の相乗効果を狙うこと、そのためにはメルヴィル自身の人生をめぐる徹底調査とその作品の克明な精読との区分を脱構築すること――これは言うまでもなく、ブライアントが自身の「流動するテクスト」観を、ほかならぬメルヴィルの伝記執筆においても積極的に援用し発展させ、その結果、伝記というジャンル自体を抜本的に変革するための策略である。そこでは、作家人生の動かぬ事実と彼の文学作品における多様な引喩とが互いに互いを支え合う。ローラ・ダッソー・ウォールズは、そんなブライアントの過激きわまる戦略の成果をこんなふうに評している。
ここでは何ひとつ背景に安住していない。(中略)それはあたかも、ありとあらゆる脚注がいきなりページの底辺から前面に躍り出て融合し、また新たな一冊の本へと生まれ変わったような光景だ。(中略)伝記というのはもともと不可能な企てであり、それはこれまでにも多くの先例が証明するとおり。けれどもブライアントのメタ伝記は、さまざまな補助線が一本の物語学で貫かれているために、最初から最後までしっかり読み通さねばならない。
(Laura Dassow Walls, review of John Bryant, Herman Melville: A Half Known Life, Leviathan: A Journal of Melville Studies, Vol.24, No.2 [June 2022], pp.95 & 99)
かつて 20世紀後半、脱構築批評家ポール・ド・マンは、イギリス・ロマン派を代表するウィリアム・ワズワースを論じつつ、自伝というジャンルでは原因と結果の絶え間ない逆転が起こり、人生があるから自伝が書かれるのみならず、自伝によって人生が生み出されるという逆説を脱修辞学的に展開した(Paul de Man, “Autobiography as De-Facement”[1979],The Rhetoric of Romanticism, Columbia University Press, 1983, pp. 69, 70 & 81)。
それから半世紀近くの歳月を経た21世紀現在、アメリカ・ロマン派を代表するメルヴィルを探究してやまないブライアントは、伝記というジャンルのなかに「流動するテクスト」観を持ち込み、作家の人生もその作品も互いが互いの異本(バージョン)として相乗効果をもたらす、まったく新しい「メタ伝記」を構築した。この方法論は、一朝一夕に出来上がったものではない。むしろメルヴィル『白鯨』第 89章「しとめ鯨とはなれ鯨(Fast Fish and Loose Fish)」から着想されている。メルヴィルはこう定義する。
一、しとめ鯨は、所有者がはっきりしている。
二、はなれ鯨は、いったん解禁された獲物であるから、誰であれ最初に捕獲した者に属する。
ここで定義される「しとめ鯨」と「はなれ鯨」の構図を、ブライアントはメルヴィル的文学言語の成り立ちにも応用してみせる。メルヴィル自身が前掲の『白鯨』第89章の末尾で「鼻持ちならないほど巧みな美文家にとって、先行する思想家たちの作品というのは、はなれ鯨以外のものであろうか?」と述べているからである。ゆえにブライアントは、メルヴィルの文学というのは、「はなれ鯨」と化した先行者の言語を加工して自分自身の「しとめ鯨」に変容させ、まったく新しい言語を作ることにその本質があったのではないかと考察する(Bryant, Herman Melville: A Half Known Life, Vol.2, Chapter 101 “Melville in Eruption,” p.1203)。メルヴィルの文学的方法論は、精読と脱構築に根ざすブライアント自身のメタ伝記に着実に継承されているのである。
はじめに
Ⅰ 記号と物語
第1章 構造主義(下澤和義)
第2章 物語論(赤羽研三)
第3章 受容理論(川島建太郎)
第4章 脱構築批評(巽孝之)
◆コラム 法と文学(川島建太郎)
Ⅱ 欲望と想像力
第5章 精神分析批評(遠藤不比人)
第6章 テーマ批評(小倉孝誠)
第7章 フェミニズム批評(小平麻衣子)
第8章 ジェンダー批評(小平麻衣子)
第9章 生成論(鎌田隆行)
◆コラム 研究方法史の不在(小平麻衣子)
Ⅲ 歴史と社会
第10章 マルクス主義批評(竹峰義和)
第11章 文化唯物論/新歴史主義(山根亮一)
第12章 ソシオクリティック(小倉孝誠)
第13章 カルチュラル・スタディーズ(常山菜穂子)
第14章 システム理論(川島建太郎)
第15章 ポストコロニアル批評/トランスナショナリズム(巽孝之)
◆コラム 文学と検閲(小倉孝誠)
Ⅳ テクストの外部へ
第16章 文学の社会学(小倉孝誠)
第17章 メディア論(大宮勘一郎)
第18章 エコクリティシズム(波戸岡景太)
第19章 翻訳論(高榮蘭)
◆コラム 世界文学──精読・遠読・翻訳(巽孝之)
あとがき
参考文献
事項索引
人名・作品名索引