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シンポジウム「文学批評――その理論と展望」@慶應義塾大学

全体討論――文学研究はどこへ向かうのか

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シンポジウムを締めくくるのは全体討論。小平麻衣子氏、巽孝之氏、川島建太郎氏、小倉孝誠氏が演壇に並んで座り、フロアからの質問に答えました。文学を研究する立場からの専門的な質問が次々と寄せられ、これからの文学研究をめぐって活発な議論が交わされました。

ポストヒューマンの試みが問うもの

参加者A:東京大学の大学院で英文学を専攻しています。小平先生に、「ポストヒューマン」との関係をお伺いしたいです。人間というものを脱中心化することで、男性/女性というものの違いをなんとか別構築していこうとする「ポストヒューマン」の試みも出てきています。
 「ポストヒューマン」の論客としては、ダナ・J・ハラウェイ、キャサリン・ヘイルズがいます。2000年代に入ってからの、ロージ・ブライドッティのポストヒューマン理論も画期的なものだと思います。ブライドッティ自身が「フェミニストが私の原点だ」と言っていて、人間脱中心主義をフェミニストの観点から論じるところに特徴があると思います。
 ご発表のなかで挙げられていた諸研究のなかにも、動物というものが前景化しているものがあります。ジェンダー理論やフェミニズム理論というものを考える時に、動物、非人間的なもの、インパーソナル、あるいはノンヒューマンなものに開かれていくような、ポストヒューマン性が持つ意味とは何か? 逆に、ポストヒューマン性が、人間のなかにある格差や階級などを隠蔽いんぺいしてしまう可能性があるとすれば、それをどういうふうに乗り越えていけばいいのか? それについてご意見をお聞かせいただければ幸いです。

小平:ありがとうございます。重要な問題提起をいただきました。おっしゃるとおり、ジェンダー批評やフェミニズム批評において、人間以外が話題になることがありますし、動物という視点は非常に重要であると思います。私自身、そうした議論に刺激を受けながら考えていこうと思っています。
 現在、ジェンダーに関わって、再び身体が問題になる局面があり、その意味でも、動物という視点はとても重要だと思います。また、ポストヒューマンという概念には動物以外の無生物もいろいろ含みますから、そうしたものを考えていけば、ジェンダーに関してある種の脱構築も可能であろうと思います。
 しかし、私自身が研究をしているのは、やはり人間のなかにおける制度です。ポストヒューマンのような理論が進んでいく一方で、現実の社会においては、旧態依然とした制度が改善されずに続いている。この間をどう橋渡しするか?というのが大事なのではないかと思っています。 

フェミニズム批評/ジェンダー批評を現場でどう実践するか

参加者B:私は東京大学の大学院でフランス文学を研究しています。フェミニズム批評、ジェンダー批評をするにあたって、各々の研究者が取っているスタンスのようなものがとても気になっています。たとえば、「こう言いたい」と思いつつも、研究者としては「ここまでにとどめておこう」というスタンスもあるかなと想像しています。小平先生は、ジェンダー批評やフェミニズム批評をされる際、そうした立場性に気をつけていらっしゃるのでしょうか。

小平:私自身が運動に携わる立場ではないので、実際の運動や理論と自分の研究をどうつなぐのかは難しいですね。私がテクストを読解する場合、特定のスタンスにだけ立つ主張を取り上げるというよりは、書いていないことや書けなかったことなど複数性に注目することが多いです。
 言いたいことを抑えるというよりは、まず状況の分析が研究者にできることではないかとの思いから、発表では、読むときの「慎ましさ」について申し上げました。そのせいでしょうか、あなたの立場は何なのでしょうか?と尋ねられることもたまにあります。けれども、私自身としては、何か一つのことを言うことによってできるような陥穽かんせいを避けたいという思いのほうが強く働きます。

参加者C:小平先生にお聞きしたいことがあります。私は高等学校で国語科を担当しております。2022年度の高校2年生からカリキュラムが新しくなり、文学国語と論理国語に分かれました。カリキュラムが変わった文学国語でも、依然として『こころ』や『山月記』などの伝統的な定番教材が扱われています。角田光代や川上未映子など現代の女性作家の作品も増えてきてはいますが、ホモソーシャル的な共同体で、女性が抑圧されていくという傾向をもつ文学作品が教科書にはまだ多いです。そういう定番教材を教室で扱わざるをえない状況も学校の現場にはあります。授業の場で、女性が抑圧されていくミソジミー的な状況を相対化するような授業の展開をしたいと思うのですが、先生のアドバイスをお示しいただければと思います。

小平:私は高校の国語の教科書の編集に携わったことがあります。教科書というのは研究と少し違ってさまざまな制約があります。文学の歴史を学ぶという目的や、現場の先生方の便利からも、古い作品を入れておく必要があります。
 とはいえ、教材の更新はどんどんしていくべきだと思います。創造的に読む契機を授業でもできるだけ入れることができれば望ましいですし、そのために研究者と現場の先生方との交流をより深めていくこともあってしかるべきなのかなと思います。
 高校生が若いから自由に考えられるかというと、必ずしもそうではありません。教育の過程で旧来の考え方が再生産されてしまうこともあります。国語のカリキュラムを論理国語と文学国語に分けたことについての議論がよくなされるのですが、文学の読み方を更新していくような論理的な力を、文学を通じて使っていくというような総合性が何より重要なのではないかなと思っています。

作者は死んでも、作家は死なない

参加者D:慶應義塾大学文学部で文学を専攻しています。巽先生が紹介された「流動するテクスト」のお話をとても興味深く拝聴しました。加筆してテクストをつくっていく過程のなかで、どこからか元のテクストではなくなるような気がします。たとえば伝記小説を「流動するテクスト」としてとらえていいのか、いけないのか。その境界はどこにあるのか?というところについて、ご教授いただければ幸いです。

巽:ジョン・ブライアントは、私の知る限り、メルヴィル以外の作家についてはここまで深く研究していないようです。つまり、ブライアントのようにメルヴィル一本でこれだけ深く読み込んでいる人からすると、メルヴィルの作品はほとんどがオートフィクションに読めるんですね。しかし、これがすべての作家に当てはまるかどうかはよくわかりません。ブライアントが普通の伝記から一歩踏み出したのは、対象としているメルヴィル自身にオートフィクションの傾向があるからです。
 ただやはり、どんなに虚構化しても、作家自身が埋め込まれてしまうということがありえます。作家が虚構と自分の実人生の間を脱構築するのです。たとえば、『白鯨』の語り手イシュメールが、自分にとっては「捕鯨船こそは我がイェールであり、ハーバードである」と語る有名な一節があります。そこには、父親の会社が倒産してしまって、自分はあまり教育を受けられないまま平水夫になったというメルヴィル自身の思いが表れていますよね。そういうふうに、作品の主人公と作家自身の区別があやふやにあるところが随所にあります。その区別のあやふやさというのは、作家の作品を深く読み込むだけではなくて、その人生も深く研究すると見えてくることなのではないでしょうか。
 私の大学院時代は70年代末から80年代でしたから、ニュー・クリティシズムの伝統を継ぐ先生方の影響が大きく、「作家の伝記など読まなくていい」「先行研究も読まなくていい」「作品だけを語れ」とさんざん言われたものです。でも今となっては、作家自身のことを知れば知るほど、作品の理解が深まることは疑えません。

参加者E:慶應義塾大学の大学院で、アメリカ文学を専門しています。巽先生のお伺いしたいことがあります。映画や伝記もひとつのテクストとして読み解いていく時に、それまでのオーサーシップをメルヴィル自身に帰していたからこそ成立したような解釈というものが損なわれてしまわないかと気になります。そのあたりについて、お考えがあればお聞かせください。

巽:バルトやフーコーなどのフランス系の批評理論では「作者の死」が強調されました。しかし、ジョン・ブライアントのThe Fluid Textという本では、「作者(author)は死んだかもしれないけれども、作家(writer)は生きているのだ」という複雑な表現を選んでいます。つまり、社会的な機能としての作者は死んだとしても、人間としての作家は生きていて、自分の作品を書き直したり、加筆・改稿をして違う版を提供したりして、さまざまなバージョンを生み出します。
 たとえば、シェイクスピアは、上演にあたって毎日のようにテクストを書き換えていたといいます。私の好きなデイヴィッド・ヘンリー・ウォン(ホワン)という中国系アメリカ人作家・劇作家なども、自分の戯曲が舞台で上演される時には、観客の反応が悪いと、台本を毎日書き換えるそうです。だから、テクストが無数にできるわけです。
 作者ではなく作家を重視するというのが、ジョン・ブライアントの立場です。もちろん、そこで出てくる膨大なバージョンをあえて「流動するテクスト」と呼ばなくても、それはこれまでの正統的なテクスト研究がいくらでもやってきたことでしょう。しかし、伝統的な学問として作家研究だけをやってきた人たちは、おそらく脱構築にも新歴史主義が前提とするテクスト化した作家像には関心がないのではないでしょうか。
 対して、ジョン・ブライアントはいわゆるポスト構造主義的な理論も含んだうえで、さらにラディカルな理論を提案しているところが斬新でリベラルです。伝統的で保守的なテクスト研究と、非常にラディカルで実験的なテクスト批評を融合させようとしています。作家が生み出すさまざまなバージョンだけではなくて、映画作家の生み出すバージョン、読者の反応が生み出すバージョン、それこそサイードの記憶違いでさえ新しいテクストのバージョンと言い切ってしまうぐらい、非常に実験的な方法を目指しています。その成果がメタバイオグラフィーなのだと思います。

掟を支配しているのは誰か

参加者F:早稲田大学の博士課程で日本近代文学を専攻しています。川島先生が、法と文学について、裁判のところを中心にお話しくださいました。それに先立つ警察の捜査においても法と文学の関係が当てはまるような気がしています。つまり自首をするということと、実証的な証拠に基づいて分析・捜査を進めていくということが、私の専門の日本近代文学だと、戦後の民主主義の流れと関わりながら変遷していくように思います。民主主義という法の意思決定をするメカニズムの問題と、今回の議論がどのように関わるのか伺いたいです。

川島:ベンヤミンのところで申し上げたとおり、もともとは神々の法が支配していて、それを人間は左右できませんでした。アテネで民主主義が成立してくるなかで、法の形が整っていき、裁判のなかで証言者を集めたり、貴族の考えだから正しいというわけではなくて、羊飼いの証言が決定的な証拠になったりしていきます。何が真実か?と問う過程に、民衆が関わっていけるようになる、それがアテネのデモクラシーだ、とベンヤミンは言いました。
 それと同じことをフーコーが、「試練」から「調査」へ、と言葉を換えて言っているのではないかと思います。「調査」というのはさまざまな証拠や証言を集めて、それらを突き合わせることによって真実を見極めていく。それがおっしゃるように、警察が証拠や痕跡を集めるという手続きの先駆なのだと思います。中世に警察という組織はなかったと思いますが、同じ手順を踏んで、真実は何かをみんなで決めていくということが、新しいデモクラシーのなかでの法の在り方ということになるのではないかと思います。

参加者G:日本大学法学部の教員です。今から40年も前にもなりますが、1983年にジャック・デリダが来日して、早稲田大学などで講演しました。日仏会館では「掟の門前」と題して講演し、そこでデリダは、近代文学と近代法の成立は一致している、という非常に興味深い指摘をしました。
 たとえばフィクションという言葉は、1830年以前は「擬制」という意味で使われていました。文学でいうフィクションという意味で使われ出したのは1830年で、これは近代法の成立と同時期なのだと。これはデリダが言っていることで、本当かどうかはわかりません。「掟の門前」についてどう思われるのか、川島先生にお伺いしたいです。

川島:「掟の門前」はカフカの作品のなかで最もよく言及され、カフカ作品のエッセンスが詰まっています。そこで問題になっているのは、掟の前にフィールドがあって、そこで何かが起こっているということです。掟のなかに入っていくことはできず、掟の前に文書の世界――場所を隔てるバー(棒)――がある。官僚が支配している世界というのは、必ずバーで仕切られている。そこに入れるか、入れないかで、その人の運命が決まってきます。
 カフカの『審判』では、さまざまな扉があって、それを開けられるかどうか、中に入れるか入れないかが問題になっています。どういう権力が中に入れて、だれが中に入れないのか? それを仕切っているのは誰なのか? それがカフカにとっては、この世界の仕組みでした。それを凝縮しているのが「掟の門前」で、『審判』の中にそれが挿入されていて、入れ子状になっています。エッセンスの形でその問題をとらえており、まさに法と文学をめぐるテクストの最たるもののひとつだと思います。デリダの話は非常に重要ですし、デリダの読み方が法と文学という研究の礎になっていると思います。

法学と文学のあいだで研究する

参加者H:慶應義塾大学でドイツ文学を専攻していて、とくにハイリンリッヒ・フォン・クライストという作家を研究しています。川島先生に二つ質問がございます。
 一般的に法と文学の研究の起源ということでは、ドイツのグリム兄弟がよく挙がるのではないかと思います。グリムは言語学者で古代語の研究もしていました。19世紀のドイツでは、たとえばルドルフ・フォン・イェーリングという有名な法学者が、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』について、著書『権利のための闘争』のなかで論じたりしています。ベンヤミンの前から、法と文学をめぐる理論の歴史は長くあるように思います。なぜ先生のご発表ではベンヤミンがその出発的になっているのか、その理由を伺いたいです。
 二つ目の質問ですが、現代の法と文学の研究潮流では、アメリカの1970年代以降のLaw and Literature運動のことがよく話題にあがるかなと思います。そのあたりの議論とドイツにおけるこうした法と文学の議論はどれぐらいかみ合っているのでしょうか。

川島:ハイリンリッヒ・フォン・クライストは、まさに文学と法のテーマの一番重要な作家といっても過言ではありません。『オイディプス王』を喜劇にひっくり返した『こわれがめ』という作品があります。裁判官自身が犯人であるという喜劇になっています。
 グリムのことはまさしくおっしゃるとおりだと思います。この時代からそれぞれの民族のなかに歴史があって、それを表現しているものに文学があったり、メルヘンがあったり、法があったりして、それを言語も含めて混然一体に研究したのがグリムです。したがって、ある意味ではグリムこそが、われわれの文学研究の先祖であって、法と文学という観点は、すでにそこに先取られているというのは、まさしくそうだと思います。
 ベンヤミンを私が重視しているのは、私がベンヤミン研究者として研究を始めたので、やはりここを一番よく知っているからです(笑)。デリダやアガンベンに問題を引き継がれ、アップデートされた形でベンヤミン研究が盛り上がってきているというのが、私の研究のすごく重要な観点だったので、発表でもベンヤミンから話を立ち上げたということです。
 最後に『コリーニ事件』をご紹介しましたが、ドイツでは法学を学んだ作家に重要な人が多いのです。クライストもそうだし、ゲーテもそうだし、E・T・A・ホフマンもカフカもそうです。その伝統は今も続いていて、今日紹介したコリーニ事件のフェルディナント・フォン・シーラッハや、『朗読者』を書いたベルンハルト・シュリンクもそうです。最近では、ユーリ・ツェーという法学で国際法をテーマにした論文で博士号を取って、裁判官として働いている女性がベストセラー作家になったりしています。
 1970年代のアメリカの動向は、私はあまり詳しくないので、もし巽先生がご存じでしたら教えてください。

巽:私が最初にこのトピックを意識したのは80年代半ばです。<ニューヨークタイムズ>の大きな特集がきっかけでした。タイトルは「クリティカル・リーガル・スタディーズ」( Critical Legal Studies。文学批評と法学研究が乗り入れる新しい学問が登場してきたという内容でした。
 それを担っていたのは、スタンリー・フィッシュという批評家です。この人は文学研究では、読者反応論批評の大御所なのですが、法学も教えている人なのです。法学のほうのプロのオーウェン・フィスという教授がいて、フィッシュとフィスの論争では、当時の論争の記録を見ると、バルトやフーコーやデリダなどがたくさん言及されます。
 ニューヒストリシズムにはいろいろなテクニックがあるのですが、「不動産と文学」も法と文学の一環だと思います。ウォルター・ベン・マイケルズという批評家がホーソーンの『七破風の屋敷』をこの観点から分析しています。『七破風の屋敷』は、セイラムの魔女狩りに加担したホーソーンの先祖が呪われたという話にヒントを得た、一種のゴシックロマンスです。魔女なんていうものはいなくて、他人を魔女に仕立て上げて、その人の土地を分捕るというのは、じつはピューリタンの土地転がしの方法だったのです。だから、当時の不動産の状況がそういうゴシックロマンスを生んだのではないかという、非常にシャープな読解が、やはり80年代の後半に出てきました。ですから、法と文学はもっともっと議論されるべきだと思います。

文学を定量的に分析できるのか

参加者I:小倉先生に、世界文学論に関連する質問がございます。ダムロッシュやモレッティ、カザノヴァというのはたぶんマルクスの世界文学論の延長にあるようなタイプの論理かなと思います。マルクスがグローバル経済の発展と世界文学というものをほぼ同一視していて、ある種、世界市場というものが成立した時に、文学というものが商品になるのだと言っています。
 モレッティの『遠読』は定量的な研究の方向性が強くて、文学がいかに流通するか、どういうふうに伝播するかという話はするのですが、何がどう読まれるか、どう作品が読まれるべきかといった話が往々にして捨象されてしまうようなイメージもあります。定量研究と定性研究というのは相互に補完するものだと思いますので、どちらがということではありませんが、フランスのブルデューの文学場の理論を受けたような人たちのなかで、その辺りのバランスはどうなっているのかをお伺いしたいです。

小倉:モレッティは、本当に定量的、統計学的な分析もしています。モレッティ自身もはっきり言っているように、国境を超えて、かなりの数の作品を量的に、それこそデジタル的に処理しようという意図を隠していません。
 たとえば、ほぼ同時代人であるイギリスのディケンズとフランスのバルザックを比較して、地方から首都に青年がやって来る時に一体何が起こるのか? どちらも教養小説的な図式をまとうのですが、ディケンズとバルザックには決定的に違うところもある。これは個別の作品を見ていてもわからないし、バルザックもディケンズも非常にたくさん作品を書いているので、その辺を量的に半ば処理しているというところがあります。読者によっては好みが分かれるところでしょうが、個人的にはそういうやり方もありかなと思います。
 今日の発表では、ブルデューが個別の作品分析よりも、特定の時代・社会の中で、特定の作家たちが置かれた文学場が一体どういうものであり、それがどう作家たちの自己形成に影響したかという話に焦点を合わせました。単なる文学史的な、あるいは思想史的な枠組みだけでは見えなかったようなことを、読者に知らせてくれるというのは非常に大きな価値だと思います。
 では、ブルデューやその仲間たちがまったく作品分析をしないのかというと、決してそんなことはありません。ブルデューの『芸術の規則』の冒頭はフロベールの小説『感情教育』を非常に緻密に分析した、文字どおりの作品論です。『芸術の規則』全体がフロベールとその世代の文学場の分析になっています。
 ブルデューのいう文学場は文学の話なのですが、必ず同時代の他の知的領域、芸術領域、他の知の制度と往復運動をします。文学者は孤立して生きているわけではありません。さまざまな社会の潮流のなかで生きています。そういう知の制度を担ってきた、さまざまな組織や制度などを全体として分析しようというのがブルデュー的な方法論であり、その継承者にもそういう傾向が強いと思います。
 先ほどの川島さんの話を聞いていて面白いな、やっぱり国によって違うのだなと思ったのは、ドイツには法律を学んで、それから作家になった人が多いという話です。では、フランスはどうなのか。フランスでも法律を学んだ作家は多いです。でも別に法律を学びたくて学んだというよりも、19世紀のブルジョア家庭であれば、息子には法律か医学かを学ばせたんですね。間違っても文学部なんかには行くなよと(笑)。
 ところが作家になる人たちというのは、これはフランスの特徴かもしれませんが、だいたい法律なんかにまったく興味を持てない。典型的な例がバルザックとフロベールです。フロベールもバルザックも、親に言われて仕方なくソルボンヌ大学の法学部に登録します。しかし、法律の勉強はそっちのけで、本を読むか、小説なんかを書いていました。そのおかげで、われわれは偉大な作家を持てたということにもなるかもしれません。

文学における身体性とは

参加者J:慶應大学文学部で英米文学を研究しています。今日のシンポジウムのキーコンセプトとして、身体性があるように思います。文学批評の立場から身体性をどのようにお考えになりますか。

川島:マクルーハンの「メディアは人間身体の拡張である」という言葉があるとおり、メディアと身体は深く関わります。文字から声、そして写真やビデオとさまざまなメディアが導入されることによって、どう法と政治との関係が揺れ動いていくのかを、フィスマンは書いています。出版されていませんが、フィスマンはコンピューターと司法の関係についても考察していたようです。

小倉:身体そのものがまさに社会的に構築されるものであって、特に文学というのは言葉で書かれている芸術で、言葉そのものは社会的な意味を帯びているわけですから、文学の中に表象される身体も必然的に社会性を帯びてしまう。それこそジュディス・バトラーに言わせれば、ジェンダーはセックスに先立つ。われわれにとって身近な身体そのものが非常に強く社会性を刻印されている。
 フランス文学でそもそも身体が描かれるのはいつ頃かというと、19世紀に入ってからです。18世紀のフランスを代表する小説に『マノン・レスコー』があります。実はこのヒロイン、マノンの身体はほとんど描かれていません。絶世の美女なのかなという印象を読者は持つのですが、どういう髪型をしているか、どういう目をしているのかといった、19世紀のバルザックやフロベール、ゾラならば数ページを費やすような細部がほとんど出てこないのです。美しいといわれるヒロインの身体が全く不在なのです。そう考えると、身体の表象そのものが非常に社会的な要素なのかなと思います。

フェミニズムとジェンダーの視点は何を拓くか

参加者K:慶應義塾大学の大学院生です。教育の場でジェンダー、フェミニズムに関してどう伝えていけばいいかに興味を持っています。先生方が授業で実践されていることや気を付けていらっしゃることをお教えいただければ幸いです。

巽:私が授業を持っている「文芸批評史」の教科書にはフェミニズムとジェンダー・スタディースを扱う章が入っています。ジュディス・バトラーやショシャナ・フェルマンといった理論家の文章を読むだけではなくて、できるだけ実践例を出して講義しています。
 長い間、男性中心の視点でテクストを読むことが正解と思われてきました。それが転覆されたのが、脱構築ですよね。私のコーネル大学の師匠だったOn Deconstruction(邦訳『ディコンストラクション』)という本は、1章からして「女として読むこと」と題されています。
 読み手が作品をどう読むか? それを文学研究の積極的な前提にしてよい時代が来たのです。レスポンシビリティー(応答責任)は、実は読者の側にもあるのです。スタンリー・フィッシュは文学作品が成立する瞬間というのは、作者が書き終えた時ではなくて、読者が読み終えた時だと言います。その読者が女性であるか、男性であるか、LGBTQであるか。それによってさまざまに文学作品が違ってくるわけです。

川島:1800年前後のゲーテと同じ時代は、女性は大学に行かなかったし、自立した職業に就くこともなかったわけで、子供を育てる存在として見なされていました。作家が差別的な意見を持っていたというわけではなくて、社会制度自体が、女性にそういう役割を与えていました。たとえば、『若きウェルテルの悩み』のロッテは、結婚する前から母親みたいな存在として出てきています。
 母と女性と自然が混然一体となっているのが、ロマン主義的な女性像で、それが変わってくるのが1900年頃です。その頃になると女性も大学に行くし、タイプライターを打ち始めて、事務所で仕事をする。潜在的には男女がライバルになって、カフカのように男性よりも出世している女性を恋人として持つ作家も現れました。
 1800年代、1900年代、2000年代と、男性と女性の社会への組み込まれ方がさまざまにあって、文学に描かれている女性像も変容します。どうして女性/男性がこのように描かれているのだろうというところに注目することで、見えてくるものが多くあるだろうと考えています。

小倉:私は、フランス近代の女らしさをめぐるディスクールを分析して本を書きました(『〈女らしさ〉の文化史』)。私の専門は19世紀の文化史や小説です。それらを読んでいると、女性の身体が描かれるケースが非常に多いのです。その背景には、女性の身体性、感情をさまざまな形で規定している社会的・医学的な言説があります。
 19世紀ですから、圧倒的に男の著者が多い。医者は全員男です。19世紀のフランスに女性の医者はいませんでした。女性の書き手が比較的多かったのは礼儀作法書です。面白いのは、女性が女性のために書くマナーブックのなかで、女性の身体が必ずしも解放されるわけではないということです。
 19世紀フランス文学において代表的な女性作家はジョルジュ・サンドです。彼女よりも前にスタール夫人という女性がいましたが、本当に数えるほどです。結果的に、授業であまり女性作家を取り上げてきませんでした。じつは、バルザックと同時代かそれ以前にも数々の女性作家がいました。今読むと、確かに面白いものが多いです。簡単に読める状況にもなりましたから、これから授業の中で取り上げていきたいと思っています。

【目次】

はじめに

Ⅰ 記号と物語

第1章 構造主義(下澤和義)
第2章 物語論(赤羽研三)
第3章 受容理論(川島建太郎)
第4章 脱構築批評(巽孝之)
◆コラム 法と文学(川島建太郎)

Ⅱ 欲望と想像力

第5章 精神分析批評(遠藤不比人)
第6章 テーマ批評(小倉孝誠)
第7章 フェミニズム批評(小平麻衣子)
第8章 ジェンダー批評(小平麻衣子)
第9章 生成論(鎌田隆行)
◆コラム 研究方法史の不在(小平麻衣子)

Ⅲ 歴史と社会

第10章 マルクス主義批評(竹峰義和)
第11章 文化唯物論/新歴史主義(山根亮一)
第12章 ソシオクリティック(小倉孝誠)
第13章 カルチュラル・スタディーズ(常山菜穂子)
第14章 システム理論(川島建太郎)
第15章 ポストコロニアル批評/トランスナショナリズム(巽孝之)
◆コラム 文学と検閲(小倉孝誠)

Ⅳ テクストの外部へ

第16章 文学の社会学(小倉孝誠)
第17章 メディア論(大宮勘一郎)
第18章 エコクリティシズム(波戸岡景太)
第19章 翻訳論(高榮蘭)
◆コラム 世界文学──精読・遠読・翻訳(巽孝之) 

あとがき

参考文献 
事項索引 
人名・作品名索引 

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