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シンポジウム「文学批評――その理論と展望」@慶應義塾大学

近代日本文学研究のフェミニズム/ジェンダー批評  小平麻衣子

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近年、近代日本文学研究において、フェミニズム/ジェンダー批評に基づいた文学研究書の出版が相次いでいます。そこで実践されているのは、インターセクショナリティ、トラウマ論、ケア論、クィア論といった分析方法です。『批評理論を学ぶ人のために』で「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」の執筆を担当した小平麻衣子氏が、それらを実際に読みとき、領域横断的な批評の魅力に迫ります。

1 近代日本文学研究の動向

 フェミニズム・ジェンダー批評が多くの人の関心を集めるのは、日常での多くの人の体験にかかわっているからだが、それは立場の違いをも包含する。たとえば端的に、母性を女性の本質だと思うか、文化によって作り上げられたイメージだから棄却すべきだと考えるのか、立場は大いに違うものの、どちらもフェミニズムである。そのため、労働や婚姻、セクシャリティ…など、テーマを挙げていくことはできても、批評の実践のしかたを概説するのが難しい方法論だともいえる。
 また、フェミニズム・ジェンダー論は歴史学や社会学などにもまたがる領域横断的な問題意識だが、一方、文学テクストを具体的に分析する場合には、たとえば脱構築批評、精神分析批評、受容理論など、複数の批評理論を駆使しながら分析することになり、そこには文学ならではの特色がある。
 ここでは、日本近代文学研究から、最近の研究の動向を概観しつつ、フェミニズム・ジェンダー研究を文学研究で行うことの特色や困難をみてみたい。近年の研究成果をいくつか挙げると、以下のようなものがある。


① 内藤千珠子『「アイドルの国」の性暴力』新曜社、2021年

② 岩川ありさ『物語とトラウマ――クィア・フェミニズム批評の可能性』青土社、2022年

③ 武内佳代『クィアする現代日本文学――ケア・動物・語り』青弓社、2023年

④ 倉田容子『テロルの女たち――日本近代文学における政治とジェンダー』花鳥社、2023年

⑤ 中谷いずみ『時間に抗う物語――文学・記憶・フェミニズム』青弓社、2023年

⑥ 小平麻衣子『なぞること、切り裂くこと――虚構のジェンダー』以文社、2023年

 これらの著作をみると、近年重視されている問題や分析方法として、インターセクショナリティ、トラウマ論、ケア論、クィア論が浮かび上がる。それぞれ簡単に紹介し、相互の響きあいをみてみよう。ただし本エッセイが、大きな研究成果の中から一部だけを抜き出すものであることはお許しいただきたい。

2 インターセクショナリティ

 インターセクショナリティは、差別や抑圧を、セックスやジェンダー、セクシャリティだけでなく、人種、社会的階層や障害の有無など、アイデンティティが複数組み合わされるところに起こるものとして理解するための枠組みである。④倉田容子氏、⑤中谷いずみ氏には階級と性の交差、つまり、プロレタリア階級としての抑圧の解消という方向性と、女性差別の解消という方向性、それぞれを見ているだけでは見えなくなってしまうような問題の分析をみることができる。
 たとえば⑤中谷いずみ氏の著作は、戦前から戦後の大江健三郎や井上ひさしまでを扱い、暴力をめぐる記録/記憶を問題化するものである。その第2章「プロレタリアの「未来」と女性解放の夢――性と階級のポリティクス」では、1920年代後半の小説で、左翼運動における「ハウスキーパー」(カモフラージュや運動の補助のために、男性共産党員と生活を共にした女性党員などのことで、性的な関係になる場合もあった)を取りあげて性暴力の問題を論じている。
 ハウスキーパー女性が感じる性暴力への恐怖は、古い貞操規範を乗り越えることが闘志であるとする運動の論理で抑圧され、運動の前に「個人的」な問題として切り捨てられたとして、現在まで続く公私区分について、見直しを提起している。
 ④倉田容子氏の著書は、女性と政治が隔てられるのはなぜか、何が政治すなわち公共の利益に関わる問題と見なされてきたのかを、明治期の政治小説からプロレタリア小説まで扱って問い直すものである。その第五章「「理知」と「意志」のフェミニズム――平林たい子における公/私の脱領域化」では、平林たい子が、運動における一般的な区分とは異なる、独自の〈公〉基準を持っていたことを論証しており、上記の公/私の論理を突き崩す実践を見出している。

3 トラウマ論、ケア論

 近年の重要な関心として挙げられるのが、トラウマである。トラウマは、よく知られるように、精神医学で心的外傷のことである。過去のできごとによって衝撃を受けると、同じような恐怖などが現在まで影響を及ぼし続ける。それらは意味づけや位置づけを超えた衝撃であり、そうした耐え難い状態の緩和のために、物語化は、位置づけ直しの契機になるとされる。ただし研究においては、治療を目的とするというよりは、位置づけ直しに還元できない体験に耳を傾けることによって、トラウマ的な体験の機構を理解することに関心が持たれる。男性から女性へとは限らないが、ジェンダーに関わる暴力に伴う問題系である。
 ②岩川ありさ氏の著書は、トラウマを抱える人が語りだすこと、それを聞くことの重要性を、文学作品を通して提起したものである。第八章「組みかわる物語――大江健三郎「美しいアナベル・リイ」論」は、本書の中でも重要な位置づけだろう。大江の「美しいアナベル・リイ」(2010年。2007年の「ろうたしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ」の改題)について、過去に性的暴力を受けた作中人物・サクラさんの「アーアー」という声を、いまだ物語化できない異物として重視し、彼女が映画撮影を通して、正史に現れない女性たちの悲嘆と憤怒の声(「口説き」)を借り、「自らが受けた性的暴力の経験とがこだまする場を切り開く」ことを評価するものである。
 こうした傷つきやすい人間という考え方が関連するのがケアの問題である。ケア理論は、こども、高齢者、障害者、病人などのケアのありかたを考えるものである。近代という時代が、フェミニズムも含めて、自由意志を持つ自律的な主体を前提にし、公平と普遍性に基づいた正義を求めてきたのに対し、ケア論は、人間は依存的な存在であり、自律的なわけではない、という人間観に基づいている。ケアの対象を、一方的に保護されるべきものと捉えるのではなく、具体的なニーズをもつものと捉え、ケア者の応答という相互関係を考える。
 ③武内佳代氏は、田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」(1984年)を一例として、障害者とジェンダーの二重拘束を分析した。これまで女性たちがケアを引き受けてきたなかで身につけた問題解決のやりかたを、改めて評価しようとするケア論が、女性にケア役割が圧倒的に偏っている現状を引き継がないためには工夫が必要である。武内論では、田辺の作品のほかに、人間の女性がオス犬に変身してしまう松浦理英子『犬身』(2007年)という小説などを取りあげ、女性だけの問題にしない提案も行っている。
 武内氏は、ケアを通したクィアな関係や、セクシャリティが抑圧された際に生じるトラウマなどを複合的に扱うのが特徴的なので、ここでクィア批評についてもみておこう。

4 クィア批評

 クィア批評はセクシャリティについての研究方法のひとつで、特定の人や集団を〈普通〉とみなし、そうでないものを排除する規範や制度を問い返すものである。クィアは、〈ゲイ/レズビアン〉よりも広範囲に性的少数者を表す言葉で、これまで肯定的に捉えられていなかったアイデンティティやライフスタイルを積極的に引き受けて生きるという批評的立場のことである。
 とりわけ文学研究においては、特に読む手法としての〈クィア〉批評のことを指す。単純化していえば、近代の異性愛中心主義が抑圧したゆえに、表出されることのなかった同性への欲望を、批評者がテクストに積極的に読み込むことで存在させるやり方である。
 ③武内佳代氏の第2章「村上春樹『ノルウェイの森』――語り/騙りの力」を例にみてみよう。イヴ・K・セジウィックは、近代文学に〈ホモソーシャル(同性社会性)〉の機構を見出した。すなわち、異性愛の形式をとりながら、女性は男性たちが同種の欲望を共有していることを確認するための媒介とされるだけで、この確認を通して男同士の絆の方が強められるような歪な関係のことである(『男同士の絆――イギリス文学とホモソーシャルな欲望』原著1985年。上原早苗・亀澤美由紀訳、名古屋大学出版会、2001年)。
 武内氏は、『ノルウェイの森』(1987年)の「僕」、キズキ、直子の関係を、従来の研究が〈ホモソーシャル〉だと批判してきたのとは異なり、そこに直子から姉という同性への欲望を読みこみ、さらにレイコについても、ナラトロジーを援用しながら、直子という同性への欲望を見出している。トラウマを丹念に読みつつ、同性愛を見出すという動機が明確な論文だといえるだろう。

5 文学研究と時間

 抑圧や暴力、それによって被る傷などが重要なテーマとして取りあげられるのは、われわれを取り巻く政治機構の複雑化や、戦争や新型コロナウィルス感染症の蔓延を経た人間観の変化によるものであるだろう。しかし、特に文学研究の特徴や利点にも関係づけられる。というのは、トラウマなどの傷には、想起や忘却、出来事の過去への位置づけ直しなどとして、必ず時間が介在してくる。
 そして、いうまでもないが、文学作品自体が、語りによって時間を現出させ、あるいは混乱させることもできる媒体であり、文学研究は、文学テクストにおける時間の複雑さを読み開くことを得意としてきた。文学研究は、必ずしも因果関係や一方向的な時間進行に収まらずに時間が輻輳ふくそうしてしまうような、複雑な表現形態でしか語られないトラウマ体験について、そこで何が起こっているのかを解きほぐし、傷つく人間に寄り添いつつ、暴力や権力の機構を見顕すことに寄与するといえるだろう。
 ⑤中谷いずみ氏の著書も、現代の作家、津村記久子までを取りあげて、暴力によるトラウマを扱っている。「暴力が振るわれた時点から現在までの時差を介入の余地と見なし、イメージを媒介として、誰かの経験を横領するのではなく知ろうとし続けること、それは暴力に抗する一つの手段になりうるのではないか」(20頁)と、目指すところを明確に述べている。
 そして、こうした分析のスタンスは、個人の時間や語り(あるいは語れないこと)だけでなく、歴史という時間をも射程に入れることになる。文学研究自体が過去を扱うのは当然の前提だが、テクストという過去に研究者がいかに向き合うかが組み込まれるところに、文学研究の特殊性と利点があるといえるだろう。
 同性愛に限定せず、歴史の中で抑圧されてしまったものを論者が積極的に見出すことを広い意味でのクイア批評とすると、そのあざやかな実践として、①内藤千珠子氏を挙げられる。これは、性的まなざしや暴力にさらされる現代の「アイドル」と「慰安婦」をあえて同じ構造に置く刺戟的な著書である。
 男性たちは、新自由主義下での敗北や、敗戦など、自らが恥を負っており、それを女性に転嫁し傷つけることで忘れようとする。その代理が「アイドル」や「慰安婦」であることを看破し、検閲における伏字「××」を比喩として読み解いた。何が隠されているかほぼ知られている伏字は、それを見たいというエロティックな欲望を引き寄せつつ、そうした事態から目を逸らさせもする装置だとする。
 同書は、徳田秋声から桐野夏生、松田青子までの時代を論じ、上記のように男性が被っている傷に注目し、そこから女性に対する抑圧を改善する道筋を見出す点が興味深い。たとえば林芙美子『浮雲』(1951年)を扱った第六章「戦争と恋愛のレトリック」では、主人公ゆき子が、彼女をめぐる男性同士の争いによって傷を被り、また妊娠・中絶を余儀なくされる点に、男性自身が受ける傷を糊塗ことするための女性への暴力構造を見出している。
 そのうえで物語の最後、これまで冷淡だった富岡が、死にゆくゆき子によって喚起される説明不可能な情動や痛みを、傷ついたのが自分の身体でもありえたという恐怖だと読み解いている。つまり、男性側が、自分が被るはずだった傷を女性に押し付けて免れていたことに気づくのであり、この気づきは構造を変えていくある種の希望になる。

6 読むことの倫理

 ①内藤千珠子氏が読み解いた男性側の気づきは、主人公に自覚されたり語り手によって明示されているわけではない。論者が読みとった、すなわち、読むことが可能性になるような実践である。だがそうだとしても、富岡がゆき子を理解したというような物語定型を見出すわけではなく、痛みや情動としてしか現れない点にとどめる態度に注目したい。
 というのは、可能性を読むというのは、極端にいえば読み手の側に強い動機があるわけだが、こうした読み方は創造に傾くものでもあるだけに、特に歴史的事象や長い時間を隔てた過去の作品に適用されるとき、危険もはらむからである。
 内藤氏は、第七章「記憶のなかの戦時性暴力」で、田山花袋の『蒲団』をパロディ化した中島京子『FUTON』(2003年)を取りあげ、作中で戦時の朦朧とした記憶を語る老人ウメキチの話に何かを搔き立てられ、画を描こうとする若い女性イズミについて、こう述べる。「断片的なウメキチの話を、胸に心臓手術の傷跡を残した皮膚に重ね、陶酔し、恍惚とするとき、イズミは「あたしの絵」として他者の物語を表象し、奪ってしまうあやうさに限りなく近づいている」(222頁)。
 これは作中のイズミについて述べたものでありながら、研究者の立場のことでもあるだろう。文学研究は読むこと・読めることを文学研究の独自性として精緻化してきたわけだが、いまだ一部の人しか気づいていない読解のやり方が快楽や愉楽でもあるとき、なにをどのように読むべきか、他者の物語を収奪していないか、という注意深さと繊細さが要求されるだろう。
 ⑤中谷氏も、歴史の遠近法の中でテクストを読み込むことを著書全体の大きなテーマにしている点は興味深い。同性への欲望についても、第5章「歴史の所在/動員されるホモエロティシズム――大江健三郎『われらの時代』にみる戦争の傷痕」で論じており、特徴的である。
 ここでは、『われらの時代』(1959年)の靖男と高それぞれがアメリカ人やアラブ人などと結ぶ関係や、その欲望を分析し、先ほどクィア批評で取りあげたのと類似の、ホモソーシャル関係がホモセクシャルな欲望と重なるような構造を見出している。しかし、ホモセクシャルを見出すことがすぐ希望になるわけではない。朝鮮出身の高にだけその挫折が描かれ、彼が常に歴史とともに描かれていることと、日本人靖男が植民地化を含む歴史から切断できるがごとき描かれ方であるのとの落差を分析する。
 繰り返すが、過去に対しては、何をどのように見出すのか、文学研究者の繊細な手つきが必要である。こうした繊細さは、明快な解決法を示せていないように見えたり、文学研究の得意とする創造的な読み解きすら手放しているように見えたりするかもしれない。しかし、文学研究が、時間との向き合い方を特別に練り上げてきた方法であり配慮であればこそ、こうした態度を手放してはならないといえるだろう。

目次

はじめに

Ⅰ 記号と物語

第1章 構造主義(下澤和義)
第2章 物語論(赤羽研三)
第3章 受容理論(川島建太郎)
第4章 脱構築批評(巽孝之)
◆コラム 法と文学(川島建太郎)

Ⅱ 欲望と想像力

第5章 精神分析批評(遠藤不比人)
第6章 テーマ批評(小倉孝誠)
第7章 フェミニズム批評(小平麻衣子)
第8章 ジェンダー批評(小平麻衣子)
第9章 生成論(鎌田隆行)
◆コラム 研究方法史の不在(小平麻衣子)

Ⅲ 歴史と社会

第10章 マルクス主義批評(竹峰義和)
第11章 文化唯物論/新歴史主義(山根亮一)
第12章 ソシオクリティック(小倉孝誠)
第13章 カルチュラル・スタディーズ(常山菜穂子)
第14章 システム理論(川島建太郎)
第15章 ポストコロニアル批評/トランスナショナリズム(巽孝之)
◆コラム 文学と検閲(小倉孝誠)

Ⅳ テクストの外部へ

第16章 文学の社会学(小倉孝誠)
第17章 メディア論(大宮勘一郎)
第18章 エコクリティシズム(波戸岡景太)
第19章 翻訳論(高榮蘭)
◆コラム 世界文学──精読・遠読・翻訳(巽孝之) 

あとがき

参考文献 
事項索引 
人名・作品名索引 

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著者略歴

  1. 小平 麻衣子

    慶應義塾大学文学部教授。博士(文学)。
    著書に『女が女を演じる』(新曜社、2008年)、『夢みる教養』(河出書房新社、2016年)、『小説は、わかってくればおもしろい』(慶應義塾大学出版会、2019年)、『なぞること、切り裂くこと』(以文社、2023年)など。

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