スペシャルトーク「殺して、食べて、育てる」前編@青山ブックセンター本店
世界思想社から刊行した檜垣立哉『食べることの哲学』と佐川光晴『おいしい育児』の刊行記念イベントを2018年4月29日に青山ブックセンター本店で行いました。今回はその様子を、3回にわたってお届けいたします。
哲学者の檜垣立哉さんと、大学卒業後に10年間屠畜場で働いていた作家・佐川光晴さんが、「食べる」ことについて語り合いました。
大きな声では語れない「生き物を殺して食べる」ことに、真正面から迫ります。
屠畜場で働いた小説家、競馬にはまった哲学者
佐川:檜垣さんとお会いするのは今日が初めてなんですが、このイベントが始まる前に1時間半ぐらい、一緒にお昼を食べながら話していたら、2人ともとんでもないおしゃべりだということが分かりました。そして実は同級生です。
檜垣:そうです。
佐川:僕は1965年2月の早生まれです。檜垣さんは?
檜垣:僕は64年の5月なんですよ。完全に同級生。僕は大阪大学の教員をやる前に埼玉大学の教員をやっていたんですよ。佐川さんは大宮の屠畜(とちく)場で働かれていた。僕は大宮駅前の放送大学の学習センターに行ってたんですけど、屠畜場はすさんだ景色だなという印象があります。たぶん、あの中で働かれていたんですよね。その頃はむきだしで見えていたでしょう?
佐川:そうですね。25歳から35歳まで10年半働いていて、1990年7月16日が初出勤、2001年2月10日付けで退職しました。
檜垣:よく覚えていますね。
佐川:それはやっぱり忘れないものでね。現役で北大(北海道大学)に入ったけれど、恵迪寮(けいてきりょう)自治会の執行委員長をしたので学部に移行するときに留年して、5年目の1年間は休学して中南米に遊学していた。
6年目、大学を出るときに結婚したのが、埼玉大学の演劇研究会に所属して、卒業後は自分たちで旗揚げした「劇団どくんご」で役者をやっていた3歳上の女性。実家が埼玉の志木で、一人娘なものですから、1995年に子どもが生まれたのを機に妻の実家に入った。ひもみたいだと言われているんですけれども。
雨の日も、風の日も、毎朝早くカブに乗って、30分くらいかけて大宮の屠畜場まで通っていた。そうした暮らしをそのまま描いた『生活の設計』で、2000年に第32回新潮新人賞小説部門を受賞しました。
それから8年ぐらいして、「牛の仕事をノンフィクションでもう一度書きませんか」と勧められて書いたのが、『牛を屠る』(双葉社)です。『生活の設計』は屠畜場の作業員が書いたということでセンセーションがあり、佐川光晴=牛を解体していた作家というイメージが定着しているようですが、屠畜をメインにした小説は「生活の設計」が唯一です。
家畜を育てる人たちがいて、それを解体する人たちがいるから肉を食べられる。日本では屠畜についてあまりにも語られずにきましたが、だからといってこれ見よがしに語る必要もない。今回、檜垣さんの『食べることの哲学』を読んで、食と性がリンクする、ただしどちらもグレーゾーンであって大きな声では語れない、ということがきちんと書かれていたのが一番印象的でした。
檜垣:そう言っていただけると嬉しいです。
ちょっと僕も自分の話をしますと、僕は哲学者で、本業としてはフランス哲学とか、京都学派を中心とする日本の哲学をやっております。大学院生のときにすぐ結婚して、相手は大学の同級生で働いていたんです。だから、佐川さんと同じ状態で、奥さんの会社の社宅に住んでいた。僕は大学院生だからみじめな生活で、何にもやることなくてぷらぷらしていて、そのときに奥さんの友人から、ちょっと競馬に行ったらどうかと。それで、競馬に行ったら競馬にはまりまして。
佐川:分からないな(笑)。
檜垣:いや、僕のなかでは全部つながっているところがあって。賭博の話は賭けるということなんですね。賭ける。賭けるというのは、人間にとって極めて重要。あと、偶然じゃないですか。佐川さんが小説家で今食っていけるなんて偶然じゃないですか。私が大学の職員というのも偶然ですよ。こういう偶然というものを咀嚼していきながら、人間って瞬間を生きている。哲学って基本的にはすごいやっぱりファンダメンタルな話で。こうやって生き続けているというのはどうなのかなというのが一つのポイントで、そこで生きているリアリティというか、殺すということとか、そういうことをちゃんと書かないといけないと思って書いたのが今回の本です。だから冒頭は、「われわれは何かを殺して食べている」としました。
踏み切るまでの助走期間にどういうものを見ていたか
佐川:僕は神奈川県茅ヶ崎市の団地で5人きょうだいの長男として育ちました。中学、高校のころは部活と勉強ばかり。海は眺めたけれど、草花や樹木には関心がなかった。一次産業とも縁がない。
北大に行ったのは、家にお金がなくて、寮のある国公立大学じゃないと進学できなかったからです。法学部に進むつもりで文Ⅲ系に入学しましたが、北大の元は札幌農学校ですからね。気が合う寮生はなぜか理科系、それも農業系が多かった。それで一緒に構内を歩いていると、そいつが「この草、食えるんだぜ」とか言うわけ。アカザで、茹でて食べたけど、ちっともおいしくない。
檜垣:ああ、すごいですね。
佐川:あとキクイモという、キクみたいな花を咲かせる背の高い草があって、その根が食べられると言う。でも、やっぱりおいしくなかった。今頃の季節に咲くニセアカシアの花も天ぷらにするとおいしいと言うんだけど、ニセアカシアの花の天ぷらばかり食べても、ちっともうれしくないわけよ。そんなふうに自然に接する人間が、北大に行ったら周りに何人もいて、そういう連中に知らず知らず教育されたところがあったんだと思います。あと、獣医学部も水産学部もあるからね。
檜垣:北海道はそうですよね。
佐川:北大に行っていなければ、僕は屠畜場で働くという選択をしていないと思う。法学部卒といえども、われわれは札幌農学校の末裔なので、本当に困ったら、一次産業に逃げ込むんだね。
偶然というのも大事な考えだし、飛躍というのも大事なんですけれども、踏み切るまでの助走期間にどういうものを見ていたかというのも、とても大事なのだということを、檜垣さんの本を読みながら考えました。
檜垣:じゃあこっちの土俵を引っ込めます。僕はやっぱり文献学者なんで、佐川さんみたいに牛を殺す現場とかは駄目なんです。
佐川:駄目ですか。
檜垣:まず、怖くて近づけない。それに、哲学者の頭で、しょせん思考でやっているだけですから、実際働いていた方の話には、かなわないなって感じです。僕は唯一経験したのが関西の熊野。先週も学生と行ったんですが、隣の県なのにすごいんですよ。クジラ、イルカ漁の太地町という所があって、イルカを食べるんですよ。で、やっぱりシー・シェパードとかがいろいろやって来る。
佐川:ああそうか、直接来るんだ。
檜垣:来るんですよ。
佐川:シー・シェパードを見たことはあるんですか。
檜垣:いや、見たことはない。だけれど、太地町へ入るとやっぱり警察が立っているんですよ。
佐川:ああ、なるほど。
檜垣:おお、警察が立っているじゃんみたいな。それでイルカを食べたこともあるんですけれども。さっきのニセアカシアの花じゃないですが、まずい。
佐川:ああ、まずいんだ。
檜垣:イルカの刺し身とか、プラスチックに血が付いている。クジラはおいしいんですけれどもね。イルカも刺し身じゃなきゃおいしいんですけれども。揚げたやつとか。
自分がどうしてここにいるのかを考え続ける
佐川:実は僕は小学校のとき、金魚の解剖ができませんでした。
檜垣:あれはちょっとなかなか難しいですね。
佐川:難しいですよね。
檜垣:難しい。
佐川:食べないのに、生きている金魚を解剖する必要性が分からなくて、メスを持つ手が震えて、結局できませんでした。あとは、やはり小学校のころ、昭和40年代ですから、まだ周りに田んぼや沼があった。そこでザリガニを捕まえて、そのザリガニを生きたままむしって、尾の身を餌にするとザリガニが山のように釣れる。同級生は嬉々としてザリガニを釣っては身をむしっているんだけど、それもできなかった。
檜垣:共食いさせる。
佐川:うん。それは怖くてやっぱりできませんでした。
大宮で初めて働いた日は、豚の放血場という区画に行かされてね。なにも分からず、言われるままに、コンクリート打ちっぱなしの薄暗い場所に立っていたら、10頭ほどの豚がホースの水に追われて、両サイドを木製のキャタピラーに挟まれた通路を一列になってこっちに進んでくる。先頭の豚が通路の端から鼻先を突き出すと、そこに立っていた爺さんが片方の耳を掴んでこめかみにスタンガンを当てる。「ぐわっ」と唸って失神した豚が50センチほど落下すると、爺さんと並んで立っていたおじさんが大振りの包丁を一閃させる。喉から入った包丁はろっ骨を断ち割り、心臓を真っ二つにする。その衝撃で失神から覚めた豚が横になったままバタバタバタと四肢を振るから腸があふれ出て、血が飛び散る。そんな光景を見たのは生まれて初めてで、驚きで声も出ない。
僕の役目は「ひっかけ」。胸を割られた豚の後ろ脚を鎖で縛り、2階との間を循環しているチェーンからさがった鉤に鎖の端についた輪をひっかける。最初の2頭は係長がやって、「ほれ、次はおまえがやれ」と言われた。豚をさわったことなんてないし、しかも断末魔で暴れているから、とてもじゃない。でも、よく見ていると、こっちがいるところまでローラーで運ばれてくる30秒ほどの間に、豚は力尽きておとなしくなる。「よし」と思って軍手をはめた左手で豚の後ろ脚を掴んだとたん、もう動かないと思っていたその脚に蹴られた。
檜垣:それは生き物ということ、そのままですね。
佐川:そうです。
檜垣:死んだと思ったらまだ生きている。
佐川:そうそう。それでたぶん「ひゃっ」とか「ぎゃっ」とか悲鳴をあげて尻餅をついた。そうしたら、係長に怒鳴られてね。「次にそんな声を出しやがったら、叩きだすからな」と。『牛を屠る』では「新井さん」となっている人で、身長180センチ超えのでかい人でね。前日に面接に行ったときも、「ここはおめえみたいな奴の来るところじゃねえ!」と物凄い大声で怒鳴られた(笑)。
檜垣:大体正直言って北大の法学部とかを出ているのに、こんなところ(屠畜場)に来るなみたいな。それはあったわけでしょう。
佐川:でもそれは正しい反応だと思う。
檜垣:おまえが来るとこじゃねえよみたいな。
佐川:そうそう。それはとっても大事なことだと思うんだ。やっぱりなにか一言言うというのはとっても大事なことで、その人が結局一番いい人でした(笑)。よくあることです。
檜垣:そうですよね。
佐川:今、下の子が中3で、これから高校受験なんです。うんと勉強ができるわけじゃないから、とにかく不安がっていてね。そうした不安は、おおよそ一人前になるまで誰もが繰り返し経験するものですが、僕も牛の仕事に就くときは不安でした。この仕事をしていくなかで、自分がどういう人間になっていくのかが分からなかった。
これは『生活の設計』でも、『牛を屠る』でも詳しく書いたことですが、友人がたくさんいる札幌を離れて、首都圏に出てきて結婚生活がスタートしたのに、妻は4ヵ月に及ぶ全国縦断に夢中。就職した小出版社は社長と編集長を相手に喧嘩をして辞めてしまう。まるで縁のない土地の、まるで縁のないアパートに1人ぽつんといて、「この先どうしよう」と不安になりながらも、「ここが人生の勝負どころだ」と感じていました。ただ、バブルでしたから、大きい企業に入ろうかと思ったり、司法試験を受けようかと思ったり、新聞記者になろうかと思ったりもしました。
それで考えに考えて、浦和の職安で「屠畜場の作業員になりたいんです」と言ったら、窓口の女性が、「屠畜場ですね。はい、あります」とあっさり答えて、大宮食肉荷受株式会社を紹介されたわけです。それで翌々日に面接に行って「新井さん」に「ここはおめえみたいな奴の来るところじゃねえ」と怒鳴られた。ただ、僕も伊達や酔狂で肉体労働をしようとしているわけじゃない。とにかく懸命に働いて、空いた時間で本を読み、映画を観ました。
僕は大学2年目の6月に弱冠19歳で恵迪寮自治会の執行委員長になったのですが、当時6年目で、歯学部の学生だった先輩が立候補のパンフレットに推薦の言葉を書いてくれました。「1年目のときから佐川を見てきて、よくやっていると思う。執行委員長に当選して、ぜひ頑張ってもらいたい。ひとつアドバイスをすると、恵迪寮が直面している問題を真面目に考えていると思うけれども、自分がどうしてそういう考えを持つようになったのかを考えてみるといい。それを考え続けることで、さらに成長していけるのではないか」という意味のことが書いてあった。
いまだに僕は座右の銘にしているんですが、その言葉はとっても大きかったです。つまり、せっかく北大に入ったのに、どうして寮の執行委員長のような損な役を買って出たのか。そして25歳のときに屠畜場で働きだすわけですが、どうして出版社を辞めたのか、どうしてナイフを握って牛を解体する仕事をいいと思っているのか。そして、屠畜場で働くことで自分がどんな人間になっていくのかを、日々たゆまず働きながら考える。屠畜場への就職は賭けですが、それは競馬のようにすぐには勝敗がつかない。生活として持続していくなかで、まさに一度しかない人生を賭けて問うことがらです。
今のところ、僕ばかり話してしまい、すみません。
次回へ続きます!
『食べることの哲学』『おいしい育児』の前書き部分を公開中!
おふたりの著書の「はじめに」をホームページで公開中です。
是非ご覧ください。
今回のイベントは青山ブックセンター本店様にご協力いただきました
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