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『おいしい育児』はじめに

はじめに

「おとうさん」

妻やこどもから明るい声で呼ばれると、それはそれはうれしいものです。とくに二、三歳のこどもから言われたら、自然に笑みがこぼれてしまう。抱っこなんてお安い御用、高い高いだってしてあげるし、公園にだってすぐにつれて行きます。

ところが、年月をへるにしたがい、「おとうさん」と呼ぶ妻やこどもの声がけわしくなっていく。おとうさんのほうも、怒られてばかりなので、なるべく家族から離れていようとする。

「おとうさ~ん」と、へんにやさしい声で呼ばれたときは要注意です。買ってほしいものがあるか、外で食事がしたいかのどちらかで、とぼしい財布の中身がさらに減っていく。でも、ダメだなんて言ったら、妻やこどもたちからますます相手にされなくなってしまう。

いったいぜんたい、どうしてこんな情けないことになったのか?

それは、おとうさんが家ですごす時間があまりにも短いからです。こどもたちが起きるまえに仕事に出かけて、こどもたちが眠ったあとに帰ってくるのでは、いくら親子だからといって、気心が通じるはずがありません。たまに早く帰ってきても、ぼんやりテレビを見たり、ゲームをしながらゴロゴロしているだけでは、おかあさんだってフォローする気がなくなるというものです。

日本では、父親の家事・育児への参加がいっこうに増えていません。休みの日に、まとめて家族サービスにつとめているおとうさんはかなりいると思いますが、平日のタイムスケジュールに家事と育児がくみこまれているおとうさんはごくわずかなのではないでしょうか。

それも無理はありません。仕事は猛烈にいそがしいし、通勤にも時間がかかる。けれども、心のどこかで、家庭のことは妻にまかせておけばいいと思っているのではないか。父親が子育てにかかわらないほうがうまくいくはずさと勝手に決めて、妻のほうでもそんな夫にサッサと見切りをつけて、ゴミ捨てや庭の雑草抜きくらいしか頼まないのではないか。

家庭は、夫婦が協力してきずいていく生活空間です。両親から受け継ぎ、自分なりに育んできた感性や倫理観が、日々の出来事を通して、わが子に伝わっていきます。夫婦がかわす会話のリズムとテンポは、そのままこどもの口ぶりになります。お茶を飲む仕草や、宅配便を受け取るさいのことばづかいも、こどもによって見事なまでになぞられます。

せっかく親子として長い年月をすごすのです。反面教師としてのみ参考にされるよりも、なごやかな関係が維持されるなかで、おたがいに影響を与え合うほうが、親子どちらにとってもしあわせなのではないでしょうか。

「そりゃあ、こどもと仲良くしたいけど、おれの父親だってほとんど家にいなかったから、息子や娘とどんなふうにかかわったらいいのかなんてわからないよ」

おそらく、これが、世のおとうさんたちのいつわらざる気持ちではないかと思います。そして、小中学生の男の子たちも、結婚を望む成人男性諸君も、父親になったところで家のなかに自分の居場所なんてないさと、ハナから諦めているのではないでしょうか。

たしかに男女の賃金格差は依然として大きく、父親が主たる稼ぎ手となって家の外で働く構造は簡単には変わりそうもありません。それでも、仕事のいそがしさを言いわけにせずに、妻とともに家事と育児にとりくむ男性がひとりでも増えてほしい。おとうさんが家にいて、おかあさんと手分けをして掃除や洗濯をするようになれば、こどもは自然に話しかけてきます。

かく言うぼくは、主夫兼小説家として、ふたりの息子を育ててきました。二〇一八年二月現在、小学校教諭の妻・乃里子は五十六歳、長男・三四郎は二十二歳、次男・十と葉わは十四歳という家族構成です。ぼくは妻より三歳したの五十三歳、結婚したのは一九八九年三月で、時代はバブル経済のまっさかりでした。

以来、三十年のあいだには、阪神・淡路大震災や東日本大震災をはじめとする数々の大災害がありました。パソコンや携帯電話が普及して、ひとびとの暮らしかたは大きく変わりました。女性の社会進出が進み、共働き世帯は、そうでない世帯よりもずっと多くなっています。

もうそろそろ、日本においても、おとうさんが家事と育児をするのがあたりまえになっていいのではないでしょうか。そうなれば、世のなかは確実によい方向に変わっていくと、ぼくは思っています。

おかあさんがつくる「おいしい料理」が家族に笑顔と健康をもたらすように、おとうさんは「おいしい育児」で家族とおとうさん自身をしあわせにしませんか。もちろん、おとうさんが「おいしい料理」をつくるのだってOKです。

この本で、ぼくは自身の子育てをふりかえりながら、その時々で感じたこと、学んだことを書いていきたいと思います。ぼくの経験が新米のおとうさん、未来のおとうさんのはげみになるなら、こんなにうれしいことはありません。

家でも輝くおとうさんが増えて、五年後、十年後に、おかあさんたちの肩の荷が少しでも軽くなっていることを願い、本書を世に問うしだいです。

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著者略歴

  1. 佐川 光晴

    作家
    1965年東京都生まれ、茅ヶ崎育ち。北海道大学法学部卒業。
    出版社勤務ののち、1990年から2001年まで大宮の屠畜場で働く。2000年「生活の設計」で第32回新潮新人賞受賞。2002年『縮んだ愛』で第24回野間文芸新人賞受賞。2011年『おれのおばさん』で第26回坪田譲治文学賞受賞。他の著書に『あたらしい家族』『銀色の翼』『牛を屠る』『大きくなる日』など。芥川賞に5回ノミネート。小学校教員の妻と二人の息子との四人家族。主夫として家事を引き受けながら執筆に励む。

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