【後編】依存を前提にした社会が必要な理由
名前のない不正義を明らかにし、誰かの負担によって誰かが利益を得る権力構造を問い続けてきたフェミニズム。他者や自分の弱さに向きあい、他者への関心と、誰もが抱える脆弱性から社会を考えてきたケアの議論。両者に共通するのは、「自立した強い個人」を前提とする社会像や、私的なこと/公的なこと、依存/自立といった二分法を問い直す視点です。
弱さから社会を照らし直したとき、知の定説はゆらぎ、生きられる経験の意味は変わりうるのではないか? 『フェミニズムを学ぶ人のために』『ケアを学ぶ人のために』の刊行を記念して、編者の申琪榮さんと西村ユミさんが「ケア的なことは政治的なこと」と題して対談しました(2026年7月25日、UNITÉ〔ユニテ〕)。その内容を2回にわけてレポートします。

西村ユミさん(左)
「自立した人間像」とケアレス・マン
西村:どれもこれもケアだといえばケアに回収されてしまうので、ケアというキーワードだけで一つの仕事をするのは危ない橋を渡るような気持ちはありました。それでも私が引き受けよう思ったのは、ほとんどが男性の「論理」や習慣、仕方で進んでいく政治や社会を、このままにしてはおけないという気持ちがあったからです。
私は地域のいろいろな会議に出ることも多いのですが、ある会議でそうした男性中心の現状を指摘したときに、ある男性に「そんなことはない!」と怒鳴り返されたんですね。思わず感情的になって怒鳴ってしまったのは、私がその人の何かに踏み込んだからでしょう。その場でケンカを買うことはしませんでしたが、こういう反応が当たり前のようにまだ残っているし、再生産されています。
これだけ人口が減少して、社会の枠組みを組み替えていかなければならないときに、今まで通りの枠組みで議論をしていては先行き真っ暗ではないでしょうか。価値をケアのほうに置きなおす、性別にかかわりなく他者に関心を持ち他者を気にかけるということが、今後数十年のスパンで当たり前になっていかないといけないと思います。急には変わらないので、本書が波紋を広げる水滴の一つになれたらいいなという思いがあります。今日お集まりいただいたみなさんと一緒に考えていくのもその一歩です。
申:その部分がまさに今日一番話したかった部分じゃないかなと思います。
西村:熊谷晋一郎先生は脳性麻痺で全身が動かないためにケアを必要としている、と思われるかもしれませんが、彼はまったく反対のことを言います。たとえば階段は健常者が歩く場所として作られていて、身体障害者は利用できない。つまり健常者にはケアが行き届いているのに対し、障害者にはケアが足りていないので不自由している。ケアは外から与えるものというよりも、もうすでに整えられている環境なんだ、というのが彼の主張です。
「自立している」というのは実は自立しているわけではなくて、多くの人からケアを受けているために結果的に自立しているように見えるということなんですね。ここを可視化しないといけない。「自立」のために提供されているものが見えないと、たとえば家事労働や育児や、医師をサポートする看護師の労働は見えてきません。
申:おっしゃるとおりです。近代が個人主義を確立していくなかで、「自立した人間像」を作り上げてきました。近代的な個人とは、関係性のなかにおらず、まるで自分一人で生まれ育ってきたように独立していて、理性的に利害関係を追求して、行動できる人間像です。もちろんこれは幻想なわけです。
フェミニズムはそれを男性主体の人間像ととらえました。その男性主体はケアを担わなくてすむ、ケアレス・マンとして想定されます。その後ろにはケアレス・マンを支える、不可視化された労働がある。この構造が抑圧の根本だとフェミニズムは言ってきました。ケア論もそういった近代的な「自立した人間像」を批判してきたと思うんですよね。西村先生は、その二分法に対して非常に鋭く批判されてきたと思うのですが、そのあたりについてもう少しお話を聞かせていただけますか。
する/されるの二分法はなぜ問題か
西村:心と体とか、自分と他者とか、ケアする者とされる者という単純な二分法をできるだけ解体したい思っています。構造的にはする/されるが表に出てしまうのですが、医療の実践を丁寧に見ていくと、ケアをしている者は患者や利用者という相手がいなければ自分が成り立たないと気づいていきます。そして、相手との関係のなかで自分が育まれていく実感を持っています。
医療の法律では、医師が指示を出して、看護師などの医療職がその指示を受けて診療の補助をすると定められています。諸外国では、ナースプラクティショナー(NP)といって、医療行為をできる看護師資格もあります。日本では診療看護師がそれにあたります。また、特定行為研修を修了した看護師が特定の医行為ができるようになりましたが、それでも医師の包括的指示のもとに動くということになっています。
制度的に二分法になっていますが、実際の実践をよく見ると、医師は必ずしも指示を出していないんです。だいたいナースが、医師が指示を出せるような情報を提供してサポートしています。逆に言えば、ナースが医師に指示を出させているわけです。私は、指示をする/されるという構造ではない医療やケアのあり方を作っていきたいと考えています。ケアはある状況におかれた人たちが一緒に作るもの、あるいは成り立っていくものというふうにケアの定義を読みかえていくべきではないかと思っています。
申:よくわかります。企業の労働現場の調査をしていても見えてくるものがあります。一般職や非正規雇用の女性たちが仕事の中身をよく理解していて、転勤で来る若い正社員の男性がよくわかっていないことはよくあります。一般職・非正規雇用の女性たちが、男性を立てながら、教えながら、指示を引き出し、うまくまとめて実行する、という構図はあちこちで見られます。
自立した人間と依存した人間という二分法も幻想に近いわけです。さきほど熊谷先生の言葉を引いておっしゃったように、健常者はすべてのことをすでにケアされている状況なので、その特権性は目に見えません。健常者に合わせて社会の仕組みが作られているので、その枠に当てはまらない人たちは別のケアを受けなくてはいけない。でも、社会の仕組みは問わずにいるままだと、一方にあらゆるケアを受けながら「自立」しているように見える人たちがいて、もう一方に別のケアを受けなくてはいけないために依存しているように見えることから、社会的に価値がない二等市民のように扱われる人たちがいます。これは作られた二分法ですよね。
依存から社会の仕組みを作りなおす
西村:ケアをたくさん受けている人はたくさん受けているんだと自覚すべきですね。もちろん私自身も自覚しなくてはと思っています。いろんな人がいろんなことをいろんな形で回してくれるから、自分の今が成り立っている。それを見ないままにしていると、多くの方々に迷惑をかけてしまうことになる。
たとえば、私が食べる食材は誰かが生産してくれ、様々なルートで私のもとに運ばれてきます。私の家の近くに線路があるのですが、夜中に線路を整備している人たちを見かけます。そうした一つ一つの労働、仕組みによって私は日々支えられて生きている。どのくらい多くの支援、ケア、労働があって、人が自立しているのか、ということをもっと可視化していく必要があります。
私たちは何を見ようとしてこなかったのか、何に蓋をしてしまってきたのかを考えることで、社会の基盤を積極的に変えていかなくてはいけないと思っています。
申:そうですね。ケアにおける関係性や応答性から考えなおしてみると、いったい完全に自立した人なんているのか?と問わざるをえません。後ろに様々なサポートがあっても見えないこと、つまりそれこそが「特権」です。特権を特権として感じなくてもいいことが特権ですから。本当には存在しない人間像を、近代以降の私たちは求めるべき理想像として作ってきました。その幻の人間像を想定して、ありとあらゆる社会的な仕組みや制度や労働が作られてきたと考えると恐ろしいですね。誰もそれにフィットできる人はいないわけですから。
ありえない人間像を基準としてシステムを作ってきてしまったのが非常に問題です。大変な思いをしていたり、ケアが必要なのに受けられなかったり、「自立」できなかったりといった現実があっても、それは自己責任でしょ、もっと頑張ればよかったのに、と責められてしまうわけです。そうすると、問題が起きたときに、自分一人で抱えこんでしまったり、自殺してしまったり、家族のなかに閉じ込んで何とかしようとする。みんなが孤立して大変な状況を変えていくには、ケアの倫理を共有しつつ、依存から新しい仕組みを作り直すことだと思うんですね。「誰もが、お母さんである誰かの子どもである」とエヴァ・フェダー・キテイが言っているように、人間の生存の条件は依存だというテーゼはとても力強いです。
人は生まれたばかりのときは絶対的に依存状態で、誰かに育ててもらわなくては生きていけません。私も親に育てられ勉強をして、大学まで出て、就職をして、今働いて「自立」できているわけですけれども、これがいつまで続くかはわかりません。歳をとって衰えていくと、再び誰かに依存しなければならない状態に戻ります。このように一人の人間の一生にもグラデーションがある。人間の根本的な条件が依存であるというのは客観的な事実ですから、ここから出発するのがいいと思います。誰かに依存しなければいけない人間どうしがいる、ならばどのような関係性を持つべきかと考えると、どのような仕組みを作っていくべきかが見えてくるはずです。
西村:さらに言えば、最も自立していると思われる時期でさえ、多くのものに依存している。それを自覚すれば、自立しているべきだとか、自己責任だとか、と個人に閉じた枠組みで捉えることもなくなります。自己責任という言葉も必要なくなるのではないでしょうか。依存先を見つめ直すことで、気持ちが楽になるかもしれません。
政治の応答責任
申:社会は依存先を増やすことに投資すべきだと思うんですよね。自己責任で頑張りましょうとみんなを追い詰めるのではなくて、できる限りたくさんの依存先をつくるのが政治の仕事です。ここもありますよ、こっちもありますよ、と。依存を可視化し、依存を前提に制度を設計すれば、一人で老後のために稼がなきゃ、貯蓄しておかなきゃと、大変な生活を送らなくてもすむわけです。頼れるところをたくさん作っておく、それが結果的にみんなが楽になるし、助け合う関係性が作られる。これは政治がやるべきことだと思うんですよね。
西村:政治も誰かがするんじゃなくて、みんながするわけですよね。
申:そうそう、それができていない。高市首相が、わずかなプライベートの時間で家事をこなして大変というようなことをXでポストして話題になっていますけれども、そこを首相の資質の問題とかパフォーマンスだと非難するんじゃなくて、そのメッセージが持つ意味を考えるべきだと思うんですよね。
高市首相が示している大変な様子はまさに私たちの姿でしょ、ということを自覚する必要があると思います。そういったメッセージをトップの女性リーダーが明示的に発信してくれれば素晴らしいですが、彼女はどうも自己責任でやるものとして認識しているようです。だから、前向きなメッセージになりえません。ただし私たちはそのように読むことができます。
女性(ケア責任を担う人)が首相になってもいろんな人に頼りながら、助け合い、その中で誰もがやりがいを感じることができる、そうした政治システムをどうして作ってこなかったのか?ということですよね。政治が怠ってきた大きな課題です。トップでさえそうなんだから、社会全体はどれだけ大変なのかということが、首相のポスト一件から見えてきた気がします。
西村:トップがもっと肩の力を抜き、いろんな人に頼り、いろんな意見を聞き、トップをトップとして成り立たせているものを広く見ながら政治をしていく、ということですよね。
申:今までのトップには「妻」がいたわけですよね。男性のリーダーが仕事をできたのは、後ろにさまざまなサポート、ケアがあったから。「妻」がいない彼女はどれだけ大変なのか、ということです。
西村:でも今までの「妻」じゃダメなんですよね。
申:全然ダメですよね。
西村:みんな平等で、それぞれの役割を担い、それぞれに依存しあっていることが見える。そのような社会にしたいですね。
申:政治の責任が大きいです。政治というのは、社会にどういうニーズがあるのかを常にモニタリングして応答する責任を持つところに意味があるんですけど、その応答性があまりにも実感できないですね。われわれからすると、そこにすでに問題があることは見えているので、力も権威も資源もある政治からこそ考えていただきたい。ケアの倫理から学んでいただきたい。
西村:本を差し上げたいですね(笑)
申:ぜひ差し上げましょう(笑)

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