ジェノサイドが否定される世界で
PR誌『世界思想』52号「争う」特集号から、巻頭の三牧聖子さ
八〇年前、第二次世界大戦の惨禍を経て、戦争を再び起こさないという誓いとともに国際連合が創設された。国連憲章の第二四条は、平和と安全の維持についてこう定めている。
国際連合の迅速かつ有効な行動を確保するために、国際連合加盟国は、国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任を安全保障理事会に負わせる
国連安保理常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアの五カ国は、一国で安保理決議を葬り去ることができる拒否権を持つなど、特別な地位を与えられているが、国際平和に対して特別な責任も負っているのだ。
二〇二五年の世界を見たとき、憲章第二四条がいかに形骸化しているかを実感せざるを得ない。大国は平和への特別な責任を果たすどころか、平和への深刻な脅威となっている。二〇二二年二月、ウクライナに侵攻したロシアは、国連総会で圧倒的多数の国が侵略を非難しても、軍事行動を続けている。
ロシアの行動を、ウクライナの主権と領土一体性を侵害し、武力行使を禁ずる国連憲章の重大な違反と批判してきたアメリカも、異なる地域では平和を阻害してきた。二〇二三年一〇月、中東パレスチナのガザ地区を拠点とするイスラム組織ハマスが、イスラエルを越境攻撃し、一二〇〇人の犠牲を出した。即座にイスラエルは、「自衛」と「ハマス壊滅」を掲げてガザで大々的な軍事行動を開始。一年超でガザでは四万五〇〇〇人を超える犠牲者が出た。イスラエルが市民を巻き込む無差別的な軍事行動を続けていることは明らかだが、アメリカはイスラエルの行動をあくまで擁護し、武器弾薬を送り続けている。アメリカが二〇二四会計年度に実施した対イスラエル軍事支援は一七九億ドル(約二・七兆円)超にのぼり、過去最高を更新した(『日本経済新聞』二〇二四年一〇月一六日)。元イスラエル国防軍のイツハク・ブリックは、こう語っている。
ミサイルも弾薬も精密誘導爆弾も航空機も爆弾も、すべてアメリカからのものだ……アメリカが水道の蛇口を閉めた途端、イスラエルは戦い続けることはできなくなる。アメリカなしでは戦えないことは、イスラエルの誰もが理解している。(The Nation, 二〇二四年一月三日)
強まるジェノサイドへの懸念
イスラエルがガザで展開してきた軍事行動に対しては、パレスチナ人に対する「ジェノサイド(集団殺害)」ではないかとの懸念もいよいよ強まっている。二〇二四年一二月初頭、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは三〇〇ページ近い報告書を発表し、イスラエルが無差別攻撃や民間施設の破壊、人道支援の妨害により、パレスチナの民間人を大量に殺害し、重度の身体的・精神的危害を加えてきたとして、「ジェノサイドの意図」を指摘した。同月、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチも、イスラエルはガザ地区を故意に水不足に陥らせてきたとして、その行為は「ジェノサイド」にあたるとする報告書を発表した。
二〇二三年末、オランダのハーグにある国際司法裁判所(ICJ)で南アフリカがガザでのイスラエルの軍事行動は「ジェノサイド」にあたると訴え、その審理が続いている。裁判への賛同は、五七カ国が加盟するイスラム協力機構、二二カ国・機構が参加するアラブ連盟に加え、一二〇カ国にのぼる非同盟諸国など、グローバルサウス諸国を中心に広がり続けている。
ジェノサイドを否定するアメリカ
国際社会から寄せられる「ジェノサイド」の懸念や批判に対し、イスラエル政府は猛反発してきたが、イスラエルとともに、「ガザで起きていることはジェノサイドではない」という立場を貫いてきたのが、その最大の庇護者であるアメリカだ。二〇二三年末、南アフリカがイスラエルをジェノサイドの罪でICJに提訴すると、国家安全保障会議のカービー報道官は即座に、「ジェノサイドは、軽々しく使ってよい言葉ではない」と批判した(The Times of Israel, 二〇二四年一月一二日)。
二〇二四年五月、戦争犯罪や人道に対する罪を犯した個人を捜査・訴追する国際刑事裁判所(ICC)が、ハマス幹部三名とともに、イスラエルのネタニヤフ首相とガラント国防相(当時)に対して逮捕状を請求すると、バイデン大統領(当時)は「ハマスとイスラエルを同列に扱うのは言語道断だ」と激昂し、「ガザで起きているのはジェノサイドではない」と断言した。バイデン政権は、アムネスティやヒューマン・ライツ・ウォッチによる報告書も、根拠がないと一蹴した。
二〇二四年一一月、国連安保理は、ガザ地区での即時、無条件かつ恒久的な停戦を求める決議案を否決した。日本を含む非常任理事国一〇カ国が提案したもので、一四の理事国が賛成したが、アメリカが拒否権を行使した。イスラエルとハマスの戦闘が始まった二〇二三年一〇月以降、アメリカがガザに関する決議案で拒否権を使うのは、修正案を含めるとこれで五度目だった。採決後、ロシアのネベンジャ国連大使は「アメリカから「偽善」について説教を受ける必要はない」と述べ、アメリカにはウクライナ侵攻についてロシアを批判する資格はないと主張した。アメリカの強固なイスラエル支援は、ガザの平和を阻害するのみならず、ロシアにウクライナ侵攻を正当化する口実を与えてしまっている。
平和を阻害する領土への渇望
人間は容易に憎悪や争いに駆られる存在だが、他者に苦痛や死を与え続けることに耐えられず、共存や平和を希求する存在でもあるはずだ。ロシアやイスラエルの人々に、そうした感情がないわけではない。しかし、そうした感情を凌駕して、戦争を継続させる源泉となってきたのが領土への固執だ。
ウクライナ侵攻が始まってから二年半後の二〇二四年一〇月、ロシアの独立系世論調査機関レバダセンターが発表した調査によれば、ロシア国民の四七%が「ウクライナ侵攻は利益よりも弊害をもたらした」と回答し、「弊害より利益をもたらした」と回答した二八%を凌駕した。ウクライナとの交渉にも過半数が前向きだ。しかし、ロシアが一方的に併合した領土をウクライナに返還することには七割の国民が反対している(The Chicago Council on Global Affairs, 二〇二四年一〇月九日)。強権的なプーチン大統領のみならず、平和を望みつつも、そのために獲得した領土を手放すことはしたくないと考えるロシア国民の領土欲も平和への障害となっている。
領土への固執となると、イスラエルも凄まじい。パレスチナとの「二国家共存」についても、今や否定的な世論は、肯定的な世論の二倍超に及ぶ(Gallup, 二〇二四年一〇月一日)。イスラエルとパレスチナの二国家解決の促進を目的に掲げる調査研究ジュネーブ・イニシアティブが二〇二四年一月にイスラエル市民を対象に行った調査によれば、「イスラエル・パレスチナ紛争の解決策」として二国家共存を支持する人は三割超いたが、パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸とガザからパレスチナ人を追放することを「解決策」として支持する人は二六%、ヨルダン川西岸とガザを併合し、パレスチナ人に市民権も与えないことを「解決策」として支持する人は二割近くに及んだ(Geneva Initiative, 二〇二四年一月)。
二〇〇二年以来、イスラエルは「パレスチナ人によるテロ防止」を名目に、イスラエル領内とヨルダン川西岸地区の行き来を隔てる、高さ最大約一〇メートル、全長約八〇〇キロに及ぶ「分離壁」の建設を進めてきたが、これはイスラエルとパレスチナの物理的な障壁として機能するのみならず、心理的な距離も生み出してきた。イスラエルのシンクタンク、イスラエル民主主義研究所の調べによれば、イスラエルのユダヤ人の八割がガザ地区での軍事作戦の展開において、パレスチナ人の苦しみを考える必要がないと考えているという(『朝日新聞デジタル』二〇二三年一二月二〇日)。
新たな世代に宿る平和への希望
しかし、平和への希望がないわけではない。最も大きな世論の変化が見られるのはアメリカだ。アメリカ政府は強固なイスラエル支持を表明してきたが、市民社会を見ればイスラエル支持はもはや自明ではない。二〇二三年世論調査会社ギャラップの調査で、イスラエルよりもパレスチナ人に共感すると回答した人の割合は過去最高の三一%に達した。イスラエル人に共感を持つと回答した人は五四%でいまだ多数派だったが、これは二〇〇五年以来最低の値だった(Gallup, 二〇二三年三月一六日)。とりわけパレスチナ連帯の傾向を強めてきたのがZ世代(一九九〇年代後半から二〇一〇年代序盤生まれ)の若者たちだ。この年代はパレスチナ支持がイスラエル支持を上回る唯一の世代となっている(Pew Research Center, 二〇二二年五月二六日)。
Z世代のパレスチナ連帯は、より根本的な国際認識の変容を反映している。二〇〇一年九月一一日の同時多発テロ事件以降、アメリカは国連を無視した単独行動主義を強め、以降も国連への肯定的な意見は少数派だったが、近年は国連への肯定的な見解が多数派になっている(Pew Research Center, 二〇一九年九月二三日)。とりわけその傾向は若い世代に顕著で、国連への関与はアメリカの国益にかなうと考える割合は、民主党・共和党支持者ともに過半数を超える(United Nations Foundation, 二〇一八年九月二〇日)。
二〇二五年一月、「米国第一」を掲げて国際協調に背を向ける二期目のドナルド・トランプ政権が発足したが、新しい世代の台頭がアメリカと世界との関わり合いを変えていくことへの希望は捨ててはならない。
トランプはガザでもウクライナでも「平和」を追求するとうたっているが、その「平和」の大国中心主義は明らかだ。トランプはガザについて、パレスチナ人を全員追放した上で、リゾート開発すると提案し、世界中から非難を浴びた。ウクライナ戦争については、被侵略国であるウクライナの頭越しに、ロシアとの停戦を急ぎ、ロシアとのビジネスにも前のめりだ。
アメリカの道徳的な混乱状況は、アメリカとの「価値の共有」をうたってきた日本にもさまざまな再検討を迫っている。本当に日米は「法の支配」や「人権」、「ルールに基づく国際秩序」といった普遍的価値を共有できているのか。むしろ今、私たちに求められているのは、アメリカとの間にある価値や利益の齟齬を率直に認め、アメリカに中小国の主権やそこに生きる人々の命、尊厳を尊重する外交を追求するよう働きかけることではないだろうか。日本政府が掲げてきた「人権」や「法の支配」は、単なる対米追随のレトリックだったのか。たとえ日米の「完全な一致」を乱すことになっても、貫くだけの普遍性を持ったものなのか。日本外交も岐路に立たされている。
『世界思想』2025春52号目次
争いとは何か
ジェノサイドが否定される世界で 三牧聖子
Interview なぜ戦争を書くのか――「内臓の言葉」を探して 梯久美子
戦場としてのスマートフォン――世界中が目撃者となる時代 五十嵐元道
時を超えるICC の闘い 越智萌
争いの軌道を変える――和解の政治、マンデラ再訪 阿部利洋
ヒップホップ文化は、争いつつ争わない つやちゃん
歴史と希望
戦争と協力の進化的起源 山本真也
圧倒的他者に何ができるか? 永井陽右
ギリシャ悲劇の今日性――報復の連鎖のなかで 小澤英実
戦争は本能ではない――心理学の実験 三船恒裕
考古学からみる「争う」「争い」 中川朋美
暴力のさなかで人を救う 佐川徹
みる、話す、考える
空白の地図――ホロコースト研究者の心地悪さについて 武井彩佳
パレスチナ問題は「紛争」なのか?――戦争と平和の鍵をめぐる探求 山本健介
会話における闘争 三木那由他
私たちの日常に争いを取り戻すために――インターセクショナリティと「真の闘争」 河野真太郎
争いを想像する 永井玲衣
争いのあとの静けさ――能力主義のゆくえ 勅使川原真衣
ブックリスト「争う」
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