世界思想社のwebマガジン

MENU

『世界思想』2025春 52号

なぜ戦争を書くのか――「内臓の言葉」を探して

PR誌『世界思想』52号「争う」特集号から、梯久美子さんインタビュー「なぜ戦争を書くのか――「内臓の言葉」を探して」を全文公開します。戦争の時代を生きた人の深奥に迫るノンフィクション作品を多数手がけてきた梯さん。戦争を書くことは、つらい体験でもあるといいます。それでも書き続ける理由とは。日本の終戦から80年となる節目に、あらためて思いを伺いました。

風変わりな「遺書」との出会い

――ノンフィクション作家としてのデビュー作が、太平洋戦争の末期に硫黄島での作戦を指揮した栗林忠道中将の評伝『散るぞ悲しき』(新潮文庫)です。ご執筆の経緯を教えてください。

 もともとは戦争ものには興味がなかったというか、避けていたところがあるんです。それが、雑誌の取材で何度かインタビューした小説家の丸山健二さんに、硫黄島戦の総指揮官だった栗林中将という人がいて、梯さんは筆力があるから、あなたみたいな人が書くといいんじゃないかと言われて。日本の陸軍には珍しく合理的で、大変家族思いの人だったとおっしゃるんですね。

 調べてみると、当時、硫黄島の戦いはほとんど知られていなかったので、手に入る本は2、3冊だったんです。その中の1冊に、栗林さんが硫黄島から夫人に宛てた手紙を収録しているものがあって。遺書ともいえる内容なんですが、そこに「家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です」という一節がありました。2万の兵を率いた当時50代の軍人が、お勝手の隙間風を心配している。こういう人がいたんだと興味をもちました。

 実は、私の父は陸軍の少年飛行兵だったんです。そのことにずっと抵抗があって、戦争や軍隊のことはあまり見ないようにしてきたのですが、栗林さんのことを知って感動に近いショックを受けて調べ始めたのには、自分の中に15、6歳の若さで軍人になろうとした父への疑問があったからかもしれないと、書き終わってみて気づきました。

 ある年齢になると、誰でも自分が抱えてきたテーマに直面するときがくるんじゃないかと思うのですが、私にとってはそれが戦争や軍人というものだった。軍事についてほぼ何も知らなかった私が一から勉強して書いたのは、父のことを理解したいという思いがあったからなのでしょう。

――米軍と死闘を繰り広げた軍人の評伝に、お勝手の隙間風のような日常の話が出てくるのが意外でした。

 これは、栗林さんが地に足のついた生活人だったことがわかるエピソードなんですよね。当時の高位の軍人としては所帯じみていて、女々しいとさえ思われたんじゃないでしょうか。まさに、私はそこが好きになったんです。

 お勝手の隙間風だけではなくて、お風呂をもう一回沸かすときの湯垢の取り方だとか、空襲のときはどんな靴を履いて逃げたらいいかとかをこまごまと書いている。ほかにも、娘さんのたこちゃん(次女のたか子さん)を疎開させるときに、ちゃんとちり紙を持たせてやったかとか、小遣いを渡したかとか。

 きっとこの人は、日常生活に支えられて戦っていたんだろうと思いました。硫黄島は、米軍が日本本土に爆撃を行う上で中継地となる重要な場所でした。だから、硫黄島が米軍の手に落ちて、本土の一般市民が空襲を受けるのを防ごうと、あそこまで戦い抜いた。自宅での日常と戦場が直結しているんです。

 軍人の美学だと、ひと思いに死にたいわけです。「バンザイ突撃」(死を前提に一斉に敵陣に突っ込む攻撃)のように。それまでの日本軍の戦い方はそうだった。だけど、栗林さんは少しでも長く島を死守しようと、苦しくてつらいゲリラ戦を選んだ。本土が爆撃される時期を遅らせるためです。一つ一つの事実から、一般市民の生活を守るために軍人はいるのだと考えていたことがよくわかってきたんです。

 それは栗林さんだけではなくて、兵士たちも同じ気持ちだったと思います。戦争末期だったので、すでに現役兵は少なく、硫黄島には徴兵されてきた妻子もちの人たちが多かった。40代の兵もいたことがわかっています。彼らは内地の家族を守りたい一心で戦ったのでしょう。

 私がこの本を書いたのが40歳過ぎだったんですよね。その歳まで生きてくると、生活の重みみたいなものがわかる。もしもっと若かったら、ここまで栗林さんにひかれることはなかったかもしれません。

――初めての作品で戦争や軍人という重いテーマを選ばれて、プレッシャーはありませんでしたか。

 間違いのないように、すごく慎重に調べました。軍事の専門家にもずいぶん取材をして。でも、それはそんなに大変なことではないんです。

 プレッシャーを感じたのは、2万人近くの人が亡くなった、これだけ悲惨な話を、遺族でもこの道何十年の研究者でもない私が書いていいのか、ということでした。

 本を書く前に、硫黄島に取材に行けることになったんです。ほんとうはなかなか行けない場所なのですが、遺族のご厚意があって。硫黄島の土の下には、亡くなった人の遺骨が一万柱以上埋まっているのですが、その上を縁もゆかりもない自分が歩いてしまった。

 原稿を書き始めると、硫黄島で亡くなった人たちに見られている感じがありました。最初の読者はその人たちで、いいかげんなことを書いたら許してもらえないだろうな、と。それまで雑誌のライターをやってきて、万全を期しても、やっぱり間違うことってあるんですよね。それは謝るしかない。だけど、死者は何も言ってくれないし、謝りようがない。だから怖いです。

――過去の時代を書く上で、意識されたことは。

 心がけているのは、批評や批判はあってもいいけれど、ジャッジはしないということです。現在の視点から過去を生きた人たちを断罪したり裁いたりするのは違うんじゃないかと思っていて。

 昭和の時代を生きた人たちのことを調べたり取材したりしてきて一番思うのは、その時代ゆえにそのように生きなくてはならなかった人がほとんどだったということです。いま私たちは、ある程度、自分の意志とか努力によって選べる時代に生きていますが、自分の生きたいように生きられなかった、時代による傷を抱えた人たちがたくさんいた。私が書いているのはそういう人たちなんだということを忘れないようにしようと思っています。

市井の女性たちのリアリティ

――『昭和二十年夏、女たちの戦争』(角川文庫)は、当時若く独身だった女性に光をあて、彼女たちが戦中、戦後をどう生きたかを聞き取ったインタビュー集です。ご執筆の動機は。

 『散るぞ悲しき』を出したあとに、三木武夫元首相の夫人である三木睦子さんにインタビューに行ったんです。睦子さんのお兄さんが硫黄島で戦死なさっていて。そうしたら、『散るぞ悲しき』の表紙の栗林さんの写真をご覧になって、「こういう偉い方はこうして記録も残りますけれども、私の兄のような普通の若者は何も残りませんし、何もわかりません」とおっしゃったんです。

 そのとき、硫黄島の若い兵士たちのことを脇役のように書いてしまったことに気づいて衝撃を受けたんですね。それで、睦子さんのお兄さんの戦死の状況を調べてお知らせしました。そして次に、20代で戦争を経験した方たちに取材して『昭和二十年夏、僕は兵士だった』(角川文庫)という本にしました。

 その本を書き終わったあと、若い女性の話が一つも出てこないなと気づいたんです。出てくる女性は、兵士たちの母か妻か娘で。

 そうしたら、NHK・BSの終戦特集の番組で、戦時中にNHKのアナウンサーだった近藤富枝さんのインタビューをやっていたんです。終戦の日に、職場のNHKで玉音放送が終わって家に帰ったら、同居していた若い叔母さんたちがさっそく遮蔽幕を全部外して、きれいな浴衣に着替えてうちわ片手に涼んでいた。それを見たとき初めて戦争が終わったんだと実感して涙が出た、という話をされていて。それがとても新鮮で、近藤さんに話を聞きたいなと思いました。

 その少し前に、写真家の石内都さんの『ひろしま』(集英社)という写真集に出会っていました。広島の原爆で亡くなった人の遺品、特に若い女性たちが身につけていたワンピースやブラウスなどをカラーで撮っているのですが、それがものすごくきれいなことに衝撃を受けたんです。しかも、もんぺなどの地味な服の下にこっそり着ていた人がけっこういたそうなんですね。それで初めて、当時のことがいまと地続きに感じた。だから、若い女の人たちはどうしていたのかを知りたいと思って。

――取材で何が印象に残りましたか。

 いままで気がつかなかった、若い独身女性にとっての戦争のリアリティがありました。近藤さんによると、戦時中の東京では、兵隊にとられて若い男の人がいませんから、妻子を田舎に疎開させている中年の男性と、働く独身女性の不倫が多かったそうなんです。そんなことを聞くのは初めてで。吉沢久子さんの話では、友達が空襲で焼け出されて、焼け跡にお見舞いに行って「何かほしいものある?」って聞いたら、顔につけるクリームがほしいって言った、とか。「炎の熱で顔がヒリヒリしていたんだと思うの」と。

 戦前の日本は、みんな貧しくて、自由もなくて……というイメージが若い人にはありますよね。でも、戦前の日本にも実は豊かさも文化もあって、女の人たちもいまと同じようにおしゃれを楽しんでいたという話がいっぱい聞けました。

 高校や大学で若い人たちに講演をするときに、このような話をしているのですが、あるとき、講演のあとに女子大学生がきて、「今日初めて、戦前、戦中のことがカラーになりました」と言ったんです。それまではモノクロの世界だと思っていた、と。さらに、「こんなに豊かな暮らしをしていて、おしゃれもして、いまとあまり変わらない子たちが生きていたということは、いまだっていつ戦争が起きるかわからないっていうことですよね」とも言われました。まさにそのとおりで。当時の女の人たちの日常のリアリティを知ると、そういう怖さにも気づかされます。

ものが語る土地の歴史

――今年で終戦から80年になります。そのような時期に、戦争を伝える全国の博物館を訪ね歩き、『戦争ミュージアム』(岩波新書)を執筆されたのはなぜですか。

 20年近く戦争の取材をしてきた中で、戦争について語ってくれる人がどんどん減っていることに危機感を覚えています。でも思い返してみると、「もの」が雄弁に語ってくれることがあった。「もの」のもつ力というのがあるんです。

 たとえば、呉市の大和ミュージアムに矢矧やはぎという軽巡洋艦の進水式で使われた銀の斧があるのですが、艦名が彫られていないんです。他艦の斧には彫ってあるのに。矢矧の乗員だった建築家の池田武邦さんの話では、極秘のうちにつくられた船だったそうなんです。だから、機密保持のために斧に艦名が彫られなかった。こうした歴史の証人といえる「もの」が全国にあるんですね。

 その場所を訪ねることもすごく大事です。ミュージアムがそこに建てられた意味がありますから。

 私は硫黄島やサイパンなどいろいろなところに行きましたが、行ったからといって必ずしも新たな事実が見つかるわけではない。だけど、土地が教えてくれることがあると信じています。そこで亡くなった人が踏んだ土を私も踏み、最後に見た景色を見る。それはやはり大切なことだと思っています。

 私はずっと、日本にも国立の戦争博物館があったほうがいいんじゃないかと考えていたんです。日本にそれがないのは、戦争に関して自分たちできちんと検証してこなかったからで。でも、全国のミュージアムをまわってみて、国家としての一つの歴史観にもとづいて戦争博物館をどんと建てるよりも、その土地土地にそれぞれの博物館があるほうがいいと思うようになりました。

 自分たちの土地で起こったことを記録していくべきだと考えて、市民の立場で活動を続けている人たちもいます。長野市松代の象山ぞうざん地下壕(太平洋戦争末期に、本土決戦に備えて大本営などを東京から移すため極秘で建設された巨大な地下壕)では、工事に大勢の朝鮮人労働者が動員されました。戦後、地元の人たちが彼らへの聞き取りをして記録に残しているんですね。土地の経験を次の世代に引き継いでいこうと地道に取り組んでいる人たちには、ほんとうに頭が下がります。

戦争が照らし出す人間

――第二次世界大戦の惨禍を経験してもなお、世界で戦争や内戦が起きています。人間にとって戦争とは何なのでしょうか。

 取材をしてきて思うのは、戦争というのは人間の最も醜いところと、最も崇高なところの両方が現れる場であるということ。捕虜を虐待して殺すように命令した上官がいて、それ自体は残虐なんだけれども、戦後の戦犯裁判で連合国側に裁かれるときに、自分が罪を全部かぶって死刑になり、部下は死ななくてすむようにした人もいるわけです。ずっと醜い人やずっと立派な人がいるのではなくて、ほとんどの人がその場面場面で醜くも立派にもなる。一人の人間の中に眠っている面が、戦争のような極限状態になると出てきてしまうんですね。

 『戦争ミュージアム』にも書きましたが、若い特攻隊員にも立派な人がいます。遺書に自分の心は平静で、むしろ喜んで死んでいくみたいなことを書くのは、家族を悲しませないためでしょう。最後の最後になっても、残された人を第一に考えるような人がいる。ただ、そういうときに出てくる人間の素晴らしさというのは、戦争というゆがんだ状況の中で成立しているわけです。極限状況の中で発揮される美しさに胸を打たれますが、それはゆがんだ土台の上に咲いた美しい花だということをわかっていないとだめですよね。

 ほんとうは、美しくなくても立派でなくてもいいから、普通に生きられる社会が一番いい。ああいう立派さが出てこないような社会にしたほうがいい。それは世界中の戦争でいえることだと思います。

 去年、ある女子高校で戦争についての講演をしました。そのあとで高校生たちと懇談したんですね。彼女たちは真剣ですから、「私たちこうやっていろいろ勉強をして、戦争に反対していこうと思っているけれども、ほんとうにそれで戦争がなくなるんでしょうか」と聞かれたんです。

 私は、なくなる日がくるはずだと言いました。それを信じていないと、すべての活動がむなしいじゃないですか。私やあなたが生きているうちには実現しないかもしれない。でも、勉強をしてちゃんと声を上げて、次の時代に引き継いでいくことが絶対に必要で、希望を失ってはいけないと話しました。

 戦争のない世の中なんてありえないと言う人がたくさんいます。でも、そんなことはないと思うんです。人間がやってきたことなんだから、人間がなくすこともできる。そうでないと人間をやっている意味がない。一歩でも数ミリでもいいから、それに資するようなことをするのが私たちの役割であって、そこを諦めたらおしまいよね、だからがんばろうねと言いました。

生きるために書く

――梯さんの作品にはたくさんの「書く人」が登場します。ご自身も「書く人」ですが、書くことの意味をどうお考えになりますか。

 これを書かないとその人自身が前に進めないとか、生きていけないというような、そういう切実さがある書き手に心ひかれます。世界に向かってものを言うことも大事なことですが、自分が生きるために、自分が理解するために書く。書くことの一番最初はそういうことですよね。

 私は吉本隆明さんの聞き書きをしたことがあるのですが、『ひきこもれ』という本の取材のときに、吉本さんが「皮膚の言葉」と「内臓の言葉」があるとおっしゃったんですね。皮膚の言葉というのは、コミュニケーションのための言葉。外界の他者とやりとりするための言葉です。それに対して、内臓の言葉というのは、自分が納得して理解するための、自分にとって腑に落ちる言葉。吉本さんは、内臓の言葉が大事なんじゃないかとおっしゃっていました。

 なるほどと思いました。たしかに、切実さに胸を打たれることがあるのは、内臓の言葉のほうだな、と。文章を書くのは、誰かが読んでくれるのが前提なので、コミュニケーションのための言葉ももちろん否定はしません。ですが、最近はそればかりが重視されている気がします。

 『原民喜』(岩波新書)を書いたときに思ったのですが、原さんはすごく小さい声でものを言っている感じがするんですよね。でも、その声が意外と遠くまで届く。それがものを書くということのよさだと思います。いま生きている人たちだけでなくて、もうこの世にいない人や、未来を生きる人にも届く言葉が書けるといいなと思います。

――戦争を書くことに、痛みやつらさはありませんか。

 先日、朝日新聞の戦争に関する特集の中で、自分が経験していなくても、戦争について書くことで傷つくことがあると書かれていて、そうか、傷ついてもいいんだって思ったんです。やっぱりすごくつらいのね。

 満洲引き揚げについて取材したこともあるのですが、子どもを連れての逃避行や、チフスなどの病気、飢えなどの悲惨な話がつらく、雑誌に一本記事を発表しただけで、続けて書くことができませんでした。

 こう言うと、繊細な人間だと思われるかもしれませんが、実はそうではなくて、書く人間は皆、どこか図太いところがある。もともと、他人の話を聞いて文章にするのは、暴力的なこと。でも、どうしても聞きたい、そして書くことで理解したいことがある。

 大げさに言うと、自分が生きていくために必要というか、これを聞かないとどこにも行けないということは聞くことにしているんです。それを聞いて答えてもらえなかったことはほとんどないですね。覚悟を決めて踏み込んだときは、ほぼすべて答えが返ってきたと思います。

 写真もそうですよね。一歩近づくと撮れるものがある。ちょっと大丈夫かなって思うぎりぎりのところまで迫って撮る人っていますよね。ライターもそうだなと気がついたんです。その一歩踏み込む判断には、自分がどれだけそのことについて考えてきたかとか、切実さをもっているかというのが必要で。その上で、ちょっとだけ図々しくなれるかどうかが大事だと思います。

――今後も戦争について書き続けていかれるのですか。

 いまは文芸誌『新潮』に、詩人の石垣りんの評伝を書いています。石垣さんの作品は戦争体験を抜きにしては語れないところがあって。石垣さんは1920年生まれで、終戦のとき25歳。振り返ってみると、私が書いてきたのは戦時中に20代だった人がほとんどなんですね。たとえば、『狂うひと』(新潮文庫)で書いた島尾ミホさんは1919年生まれで、石垣さんと同世代です。

 『昭和二十年夏、僕は兵士だった』以来、あの世代の、戦争の時代が青春だった人たちのことを書きたいという気持ちがあります。戦争によって運命を変えられた人たち、時代の傷を抱えて生きた人たちのことをこれからも書いていきたいと思います。


『世界思想』2025春52号目次

争いとは何か
ジェノサイドが否定される世界で  三牧聖子
Interview なぜ戦争を書くのか――「内臓の言葉」を探して  梯久美子
戦場としてのスマートフォン――世界中が目撃者となる時代  五十嵐元道
時を超えるICC の闘い  越智萌
争いの軌道を変える――和解の政治、マンデラ再訪  阿部利洋
ヒップホップ文化は、争いつつ争わない・・・・・・・・  つやちゃん

歴史と希望
戦争と協力の進化的起源  山本真也
圧倒的他者に何ができるか?  永井陽右
ギリシャ悲劇の今日性――報復の連鎖のなかで  小澤英実
戦争は本能ではない――心理学の実験  三船恒裕
考古学からみる「争う」「争い」  中川朋美
暴力のさなかで人を救う  佐川徹

みる、話す、考える
空白の地図――ホロコースト研究者の心地悪さについて  武井彩佳
パレスチナ問題は「紛争」なのか?――戦争と平和の鍵をめぐる探求  山本健介
会話における闘争  三木那由他
私たちの日常に争いを取り戻すために――インターセクショナリティと「真の闘争」  河野真太郎
争いを想像する  永井玲衣
争いのあとの静けさ――能力主義のゆくえ  勅使川原真衣

ブックリスト「争う」

PR誌『世界思想』52は、全国の主な書店の無料配布コーナーなどで無料で入手いただけます。送料がかかってしまいますが、弊社から直接お送りすることも可能です。

関連記事
「語らない人」の語り
https://web.sekaishisosha.jp/posts/8372

バックナンバー

著者略歴

  1. 梯 久美子

    ノンフィクション作家。1961年、熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、編集者を経て文筆業に。近現代史における戦争と人間というテーマを一般読者に向けて執筆。

ランキング

せかいしそうからのお知らせ

マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ。 30年にわたる日本生活での失敗と、発見と、希望をユーモラスに語るエッセイ!

ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」

ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」

詳しくはこちら

韓国の男子高校で教える著者が、学び、実践してきたフェミニズムとは?

私は男でフェミニストです

私は男でフェミニストです

詳しくはこちら

イヌと暮らせば、愛がある、学びがある。 進化生物学者が愛犬と暮らして学んだこと。

人、イヌと暮らす

人、イヌと暮らす

詳しくはこちら
閉じる