第12章 子規の京都
京都を暮らすように旅する――。
正岡子規の評伝『子規の音』(新潮社)を私が上梓したのは二〇一七年の四月である。あれから五年以上が過ぎ、文庫に収まってしまった。この評伝はさまざまな書評をいただいたが、一番うれしかったのは講談社の『子規全集』(一九七五~一九七八年)の編集者から、「こんなに全集を活用してくださってありがとう。今まで出た子規関連本で私の好きな四冊に入ります」と寒川鼠骨、柴田宵曲などの本とともに挙げてくださったことである。
正岡子規は慶応三(一八六七)年の旧暦九月に愛媛の松山で生まれた。父は久松松平家の御馬廻加番(警備の補助をする職務)という下級武士であったが、子規が四歳のときに亡くなってしまう。
子規は子どもの頃から好奇心が強く、ひとつのことに熱中して飽きなかった。母方の祖父、儒者の大原観山がこの子に期待して、四書五経を教えた。漢文は河東碧梧桐の父、静渓に教わった。小学生のときから回覧雑誌を出し、折しもの自由民権の波に影響されて演説にも身が入った。松山の大街道の寄席にも行った。そんなふうに、あらゆる文化を自分から積極的に吸収していく。
母方の叔父の加藤拓川の手引きで一五歳で上京し、子規を見込んだ陸羯南の世話を受け、一年足らず勉強して東京大学予備門(のちの第一高等中学校)に入学。それから三四歳で結核に倒れるまでの子規の一番の楽しみは、食べることと旅をすることだった。
森鷗外は一〇歳で上京してから一度も故郷津和野に帰っていないが、子規の方は、松山に母八重と妹の律を残してきたので、学校が夏休みになると故郷に帰った。その頃の夏休みは二ヶ月もあって、子規は東海道線を用いたり、ときには中山道を通ったり、途中下車して、あちこち見て歩いた。
子規が初めて京都に行ったのは、明治二〇(一八八七)年の夏かもしれない。まず松山に帰り、そこから東京に戻る際に京都で遊んだ。明治二一年は帰省しなかったが、明治二二年の冬には正月に帰省する際に京都に寄り、三十三間堂を見に行っている。
三十三間堂を私は高校のときに訪ねたが、三〇年ほど経って、もう一度行ってみた。圧倒された。国宝級の仏があれほどずらりと並んだ様子は見たことがない。そのときは文化財修復の宇佐美松鶴堂の仏師の方に案内してもらったのだが、その五〇がらみの人はいった。「最初に修復に関わったのがこの仏様です。そして毎年、修復して、また最初の仏様を直す順番がきました」。私は気が遠くなった。一生を三十三間堂専属で文化財のメンテナンスに捧げておられるのである。
興味深いのは、明治二五(一八九二)年夏、親友、夏目漱石と一緒に京都に行ったことである。これについては漱石に「京に着ける夕」という随筆がある。
江戸の草分け名主の末裔で、末っ子のため里子や養子に出されて親にかわいがられなかった漱石と、父亡き後の家長として母や妹、親戚に大事にされた子規とは境遇があまりに違う。漱石は、子規をある意味、傍若無人な田舎者と思ったかもしれないし、子規はこの都会育ちの友達が米の飯を食いながら、早稲田の田んぼに揺れる稲穂がなんの植物かわからないのに驚いている。でも、ともに寄席好きなこともあって気は合った。これほど拮抗する知性の持ち主が親友になるとは。
漱石は家族に肺結核が多かったので、子規が一〇代で最初に喀血したときも、看病したり、医者に容体を聞きに行ったりしている。さらに夏休みになるとすぐに帰省してなかなか帰らない子規のために、成績や試験の合否を知らせてもいる。
始めて京都に来たのは十五、六年の昔である。その時は正岡子規といっしょであった。麩屋町の柊屋とか云う家へ着いて、子規と共に京都の夜を見物に出た時、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。
ぜんざいは関西のもので、江戸っ子の漱石には珍しいものだった。しかし食べてはいない。店の赤い大提灯を見ただけだが、京都=ぜんざい、がインプットされた。これは明治四〇年の冬に京都を訪れた漱石が、数年前に亡くなった親友を偲ぶ文章になっている。
それにしても、学生の身分で当時は柊屋に泊まれたのであろうか。俵屋、炭屋と並ぶ京都最高級の宿である柊屋に、若い子規や漱石が泊まったならば私も一度泊まってみたいと思ったが、宿代を調べたら一泊九万円くらい。断念するほかはなかった。
子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多いところを歩行いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。
夏蜜柑を食べながら、二人は狭い街に出る。漱石が「何だ」と聞くと、子規は「妓楼だ」と答える。両側の家々は門並(何とも江戸っ子漱石らしい言葉だが)一尺ばかりの穴を戸に開けて、中から女が「もしもし」と呼びかける。穴から手が出て制服を捕まえられたら大変だ、と漱石は一間幅、すなわち一・八メートルもない小路の真ん中あたりをそろそろと「不偏不党」に練っていく。このとき、漱石は二五歳だが、遊郭を知らなかった。「子規は笑っていた」というから、子規の方がよほど、世慣れていたのであろう。場所は円山のようだ。このときはたぶん冷やかし。二人は、夏の夜の月に浮かれて、「清水の堂」のあたりも徘徊した。
子規が四度目に京都を訪ねたのは、同じ明治二五年の一一月九日。このときも、柊屋に泊まっている。弟分の高浜虚子が京都の第三高等中学校(のちの第三高等学校)に入って聖護院あたりに下宿しているのを激励した。翌年には河東碧梧桐も同校に入学。しかしこの二人にはかわいそうな結末が待っていた。第三高等学校は京都帝国大学への昇格を視野に入れ、本科・予科を廃止したため、在学生は離散する。そして、二人は仙台の第二高等学校に振り分けられたのだが、温暖な松山育ちの二人は、仙台の寒さに耐えかねた。さらに、東北弁がさっぱりわからなかった。それでそろって学業をやめてしまうのである。
このときの京都で子規は、産寧坂に天田愚庵を訪ねている。子規より一回り上の愚庵は幼名を久五郎といい、福島の磐城平藩の藩士の子。この藩は奥羽越列藩同盟に参加した負け組である。愚庵は戊辰戦争のどさくさに、親きょうだいと生き別れになった。明治四(一八七一)年に単身上京、ニコライ神学校に入ったり、西南戦争に巻き込まれたり、清水次郎長に預けられたり、江崎礼二門下の写真師になったりした。これもみんな親きょうだいを探すためである。首尾を得ず、滴水禅師のもとで参禅し、産寧坂に愚庵なる庵を結んだ。山田風太郎さんは「行方不明の両親を探して全国行脚した天田愚庵のことを考えるとかわいそうで涙が出る」と私にいった。風太郎さん自身、早くに父母を亡くしているので、同情は深い。
愚庵は司法省法学校にいたことがあり、そのとき、子規の叔父の加藤拓川、陸羯南と同期だった。子規が愚庵を訪ねたときの一句。
紅葉ちる和尚の留守のいろり哉
その後、虚子とともに嵐山を訪ね、大悲閣まで川を遡った。
私はここは知らなかったし、現地踏査をしなかった。『子規の音』が出た後、版元の新潮社の『週刊新潮』に「とっておき私の京都」というグラビアページがあり、その取材ということで連れて行ってもらった。
四週分を一回で取材するので、自分の得意の古い建築からウィリアム・メレル・ヴォーリズの駒井家住宅、『暗い時代の人々』(亜紀書房)の中からフランソア喫茶室、そして『子規の音』の中から子規の訪れた大悲閣と、子規が天田愚庵のところへ土産に持っていった柚子味噌の店「八百三」を選び、二〇一七年の六月に訪ねた。
嵐山の渡月橋から船に乗って保津川を遡る。よくあることだが、明治の頃、大変、観光地として栄えたところも、今は閑散としている場合がある。平底船の遊覧船に乗ると、約一キロ。途中に、船を居酒屋にした店が見えた。風流なことである。また近くに星野リゾートの宿泊施設ができたためか、迎えの黒い船が見えた。大悲閣千光寺は黄檗宗の単立の寺である。船着場から石段を二〇〇段上る。これが大変。すでに肺結核を患っていた子規は息を切らせはしなかっただろうか。
同寺はもともと一三世紀の後嵯峨天皇の祈祷寺だったようで、当初は嵯峨釈迦堂のあたりにあり、鎌倉建長寺の末寺だった。一時衰微したが、江戸時代の慶長一九(一六一四)年、角倉了以が、嵯峨の千光寺の千手観音を本尊として、嵐山上流の現在地に寺を建立した。知られるように、角倉了以は豪商にして貿易商でもあったが、一方土木事業家として大堰川の開削でも知られ、工事で亡くなった人々の菩提をとむらおうとここに移り住んだが、まもなく亡くなっている。またしても衰微した寺を、江戸時代の末期になって、黄檗宗の僧侶と角倉家の子孫が再興した。明治維新ののち、廃寺になるところだったが、美術史家・岡倉天心が復興に協力したという。
頂上のお堂からの眺めは絶景だった。
さて柚子味噌の八百三は姉小路通東洞院西にあり、享保一二(一七二七)年から続く店。嵯峨の水尾の柚子を用い、精進料理に欠かせない柚子味噌を考案したのは初代の八幡屋三四郎という人。生麩の田楽、ふろふき大根、賀茂茄子の田楽などに合うが、中にはパンにジャムの代わりにつける人もいるそうな。きれいな柚子の形の陶器に入っていた。私はついでに東京ではあまり手に入らない赤味噌も買った。
建物は幕末の文久年間に建てられた京町家で、入るとひんやりする。下は土間ではなく石畳だ。姉小路界隈は古い建物が多く残るところで、帰りがけにふと見たら、かつて漱石や子規の泊まった柊屋の着物姿の女将さんが、客を送って外に出てこられたところだった。
子規はこの後、神戸に、母と妹を迎えに行き、京都に戻って東山、知恩院、高台寺、清水寺などを案内している。八重と律にとってはもちろん初めての京都であり、一度きりの体験であった。母娘にとっては、子規の病気の看病に入る前の心躍る体験ではなかったか。
子規は五七円四〇銭もの旅費を使い、この豪遊は郷里の叔父大原恒徳を怒らせている。大原は、現在の伊予銀行につながる第五十二国立銀行の経営に関わった銀行家であり、子規の郷里における後ろ盾だが、明治二〇年代のこの旅費は今でいえば、一万倍の五七万円をはるかに超えるだろう。そして母と妹を東京に移転させた子規はいよいよ、陸羯南を社長とする日本新聞社に就職するが、そのときの月給はたった一五円であった。いかに遊んだか、思うべし。
目次
はじめに
第1章 樹木気功で体を治す
第2章 バスと自転車
第3章 ゲストハウスとアパート探し
第4章 カフェとシネマ
第5章 がらがらの京都
インタビュー① 法然院貫主・梶田真章さんに聞く――学びの場としてのお寺
第6章 散歩で建築を楽しむ
第7章 古都の保存と開発
第8章 宿の周りでひとりごはん
第9章 京料理屋の大忠にて
第10章 吉田山の話
インタビュー② 女性史・生活史研究の西川祐子さんに聞く――偶然を必然に変えて
第11章 鴨長明『方丈記』と「足るを知る暮らし」
第12章 子規の京都
第13章 吉井勇と祇園
第14章 漱石の女友達・磯田多佳
インタビュー③ 染織家・志村ふくみさんに聞く――“見えないもの”に導かれて
第15章 つたちゃん、たねちゃんのこと
第16章 ヒッピーとタイガース
第17章 居酒屋で聞く話
第18章 五代友厚と二人のスリランカ人
インタビュー④ 田中ふき子さんに聞く――農婦として六〇年
京都リヴ・ゴーシュ――あとがき