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『京都不案内』試し読み

第6章 散歩で建築を楽しむ

京都を暮らすように旅する――。

市民運動のやり過ぎから免疫低下でがんになった。治療の後、体にいいことをするため京都へときどき転地。気功をし、映画を見、銭湯に入り、ごはんを食べて語り合う。観光客の集まる古都とは違う何かが見えてくる。


  うちの三人の子どもは中学の修学旅行が京都と奈良だった。みんな、「いにしえの都というからどんなに古い町が残っているのかと思ったら、お寺以外はビルとマンションじゃん」と帰ってきた。ただ、どの子も小グループタクシー観光の運転手さんの親切には感激したという。引率の先生は宿で待機するだけで、手抜きじゃないか、と親としては思う。
 とはいえ、二〇一五年からふたたび京都を丁寧に歩いてみると、案外古い建物が残っている。目的のないぶらぶら歩きで出くわす建物も多い。民家はもとより、いわゆる洋風建築にも事欠かない。 

 私の京都滞在を知って友達が東京から訪ねてくるとき、案内するコースはこんな感じ。まずは京都大学農学部の並木道、そこに沿っていくつか古い家があるが、蔦のからまる農学部の表門・門衛所(森田慶一、一九二四年。以下カッコ内は設計者と建築年)はドイツ表現派の影響が見られる。国登録有形文化財。
 新聞はよく「国登録文化財に指定された」と間違えて書くが、正しくは「国の有形文化財に登録された」である。国は上からの指定しかしないと思っている人がいまだに多い。登録は身近にある建造物を持ち主や近隣、自治体の協力も得てボトムアップで守っていこうという制度である。他にも重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)は、市町村からの申し出を受けて国が選定する。
 農学部構内に入ると、早朝など馬術部の学生が馬を引いて歩いていて、このカッポカッポという蹄の音がうれしい。一度、馬の名前を聞いたら「アナスターシャ」とロシアの皇女と同じだった。その奥の方、バンガロー風の平屋の建物、京都大学農学部演習林事務室(大倉三郎、一九三一年)が国登録有形文化財である。
 早朝の気功の後、北白川の住宅街、東京ならば邸宅街だが、低層の建物の中から塔がぬっと見える建物は、旧東方文化研究所(武田五一・東畑謙三、一九三〇年)。今は東アジア人文情報学研究センターとして使われている。東方文化研究所と西洋文化研究所、旧人文科学研究所は統合されて、人文科学研究所となっている。
 蛇足をいえば、人文科学研究所は本部キャンパスで公開講座を開いており、市民も参加できる。一度、たまたま夜が空いていたので、「京都から見た近代仏教」という構内のポスターのテーマに興味を惹かれ参加してみた。京都でも文明開化期の廃仏毀釈の波は大きく、たとえば建仁寺(四条)の境内はよほど縮小されて今の花街祇園になってしまったこともわかった。本願寺派の若い僧侶たちは、京都にいても仏教の危機は乗り越えられない、と東京進出を図り、本郷で『反省会雑誌』を始める。これが現在の『中央公論』の前身だ。そんな面白い話を聞いた。
 今出川通を挟んで、京大の本部キャンパスに入る。時計台とみんなが呼んでいる建物は武田五一設計(一九二五年)、なかには大学史に関する資料等を展示する歴史展示室や、ラ・トゥールというレストランが入っている。
 ともかく、京大関連で一一の国登録有形文化財(建造物)があるという。重要文化財の清風荘(旧西園寺公望私邸)もいずれ拝見したい。京大YMCA会館も国登録有形文化財で、次に紹介するヴォーリズの設計だが、京大の管理ではない。
 旧東方文化研究所から小暗き白川疏水べりに下りてずっと北方向に行くと、明るいスパニッシュ様式に赤瓦の駒井家住宅に出る。駒井卓というショウジョウバエの研究で知られる遺伝学者・京都帝大教授が夫人の静江さんと住んだ家で、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計(一九二七年、京都市指定文化財)。
 ヴォーリズは伝道者、社会事業家でもあったアメリカ人で、近江兄弟社を作り、建築、学校教育、医療、福祉などにも尽くし、一〇〇〇棟を超える建築を残した。今も一粒社ヴォーリズ建築事務所として続いている。四条大橋南西の東華菜館もヴォーリズの設計(一九二六年)。滋賀県の近江八幡に行くと、ヴォーリズ作品がかなり残っている。私の息子が宮大工の修業中、最初に修復に関わったのが近江八幡にあるウォーターハウス邸(一九一三年、国登録有形文化財)だった。
 駒井家住宅も細部まで丁寧に造られた繊細な建物で、紫色のクリスタルのドアノブや階段室のステンドグラスなど、見とれてしまう。現在は日本ナショナルトラストの財産で、日を決めて公開されており、ゴールデンウィークに行ったときに案内してくれたのは京都市の職員だった。
 その並びにも京都帝大教授がかつて建てた家がある。一説には、大正から昭和初期の帝国大学教授の給料は価値にして、現在の三倍くらいはあったという。
 それまで地名がつかなかった唯一の帝国大学に東京帝国大学とついたのは、明治三〇(一八九七)年に日本で二番目の帝国大学として京都帝国大学が創立されたときである。最初の頃の教授たちは、下鴨のあたりに住み、その頃は北白川なんて肥臭い農村だったというのである。たしかに白川女という女たちが、花を頭の上に乗せて売り歩く絵を見たことがある。紺木綿の筒袖の着物の裾をからげ、頭には白い手ぬぐいを巻いて。「最後の白川女」という人が二〇〇七年まで生きていたそうである。
 その後、開発で農村は都市に変わり、京都大学教授が家を構えるようになる。今や高級住宅街化した北白川あたりは手が出なくて、「僕ら、滋賀県民や」と友人がいうように、車で二〇分も上がった比叡平ひえいだいらという住宅地にも大学教授が多い。ただ、今でも白川通沿いの裏手の道沿いに、結構畑があって、かつての農村の面影が想像できる。 

 あるときたまたま、宿舎に帰るときに横丁をのぞくと、白い囲いの奥にとんでもない巨大な廃屋が見えた。窓は破れ、蔦がからまっている。近所の方に聞いてみた。「あれは光華寮といってね、かつての中国人留学生の宿舎です。戦後、台湾が購入したものの、所有権をめぐって台湾と台湾の正統性を認めない中国との間で係争中で、壊すに壊せないらしい」。
 ここでもまた現代史の証言を見てしまった。この話をフェイスブックに載せると、「あそこに恋人が住んでいたのでよく訪ねました」というメールが友達から届いた。
 ある日、吉田山の麓で立派な洋館を壊しているという情報が入り、駆けつけたところ、熊倉工務店という一八九七年設立の由緒ある企業が造ったもののようである。若い人たちが、モルタルスタッコ仕上げの外壁の下に貼られたモザイクタイルを丁寧に剥がしていた。
 現在の持ち主にお話を聞いた。

 「最初に建てた方は息子さんが三人いて、京都大学に入ったらここに住まわせようと思っていたらしいんですが、誰も京大に行かなかった。それで私の父が譲り受けてここで出版社をやっていました。父は岡田虎二郎先生の静坐の弟子で、京都での静坐の会の世話役もしていたようです」。

 岡田虎二郎は田中正造や画家の中村つねもその道場に通った人で、東京日暮里の本行寺に墓がある。持ち主の女性がいうには「自分一人なので、もう少しコンパクトな、使いやすい住まいに建て直す」ということだった。この建物の遺物を保存した本間智希さんたちによって、のちに「静坐社」展が出町座のギャラリーで行われた。
 本当に犬も歩けば棒に当たる。あるとき、宿舎から道を渡った向こう側の横丁のお屋敷が売りに出て、チラシがポストに入っていた。敷地一四六坪で建坪七一坪、一億一五〇〇万円。とうてい手が出ない価格だが、東京の私の家のあたりならこの数倍すると思う。なんと昭和二年、藤井厚二設計だ。
 藤井厚二(一八八八〜一九三八)は広島県福山市の裕福な酒造家の家に生まれ、東京帝国大学建築学科を出て、最初竹中工務店に勤めた。一九二〇年から京都帝国大学で教えながら、小住宅の設計に才能を発揮した。通風、採光、洋風の生活の日本家屋へのなじませ方など、環境工学を取り入れた先人である。早速見学に行った。これまた、丁寧でセンスの良い住まいである。不動産屋さんも「できたら壊さないで使ってくれる方に」といっていた。
 藤井厚二は大山崎に一万坪の土地を買い、住宅を建てて住んでは人に譲り、四棟建てた。最後のひとつ、藤井が最後の一〇年を暮らした聴竹居ちょうちっきょ(一九二八年)は現在、竹中工務店の所有であり、社員の松隈章さんが保存と管理の中心を担っておられる。本当に繊細な造りで、部屋も家具も小ぶり。私はこの家ではできるだけ静かにそうっと、どこにもぶつからないように歩く。紅葉の多い庭もすばらしい。
 藤井厚二の生まれた郷里福山の山の上にも彼が設計した住宅が一棟ある。東大の大月敏雄さんや京都女子大の北尾靖雅さんと福山で町並みの調査をした帰り、松隈さんに連絡すると、持ち主さんが今おられるので拝見できるそうです、と間を取り持ってくださった。これは、福山出身の方が譲り受け、リタイア後を過ごす家として見事にリフォームされ、海の見えるお座敷でお茶をご馳走になり、うっとりする時間を過ごした。
 京大と敷地を接する、売りに出されていた家は一九二七年築の池田邸だとわかった。大趣味人でもあった藤井が四九歳で没したのは惜しいことである。この家は不動産屋さんが願った通り、心ある人の手に渡ったらしく、壊されずに改修された。行くたびにその様子を見るのもうれしかったし、大山崎の聴竹居は、めでたく重要文化財になった。
 京都に来たときは、せっかくだからと、国立京都国際会館(大谷幸夫、一九六六年)、都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)の佳水園(村野藤吾、一九五九年)など、京大周辺以外の戦後の建築物も見て歩いている。もちろん町中にも興味深い建物は多い。
 「静かな昼下がり、京大近くの進々堂で本を読んでいます」とメールしたら、編集者の友人が「まあ、なんて優雅な響きでしょう」と返信をくれた。この建物も施工はやはり熊倉工務店。漆芸家、木工家の黒田辰秋の分厚い卓が私を昔に連れて行ってくれる。


 

目次 

はじめに

第1章 樹木気功で体を治す 

第2章 バスと自転車 

第3章 ゲストハウスとアパート探し 

第4章 カフェとシネマ 

第5章 がらがらの京都 

インタビュー① 法然院貫主・梶田真章さんに聞く――学びの場としてのお寺

第6章 散歩で建築を楽しむ 

第7章 古都の保存と開発 

第8章 宿の周りでひとりごはん 

第9章 京料理屋の大忠にて 

第10章 吉田山の話 

インタビュー② 女性史・生活史研究の西川祐子さんに聞く――偶然を必然に変えて

第11章 鴨長明『方丈記』と「足るを知る暮らし」 

第12章 子規の京都 

第13章 吉井勇と祇園 

第14章 漱石の女友達・磯田多佳 

インタビュー③ 染織家・志村ふくみさんに聞く――“見えないもの”に導かれて

第15章 つたちゃん、たねちゃんのこと 

第16章 ヒッピーとタイガース 

第17章 居酒屋で聞く話 

第18章 五代友厚と二人のスリランカ人 

インタビュー④ 田中ふき子さんに聞く――農婦として六〇年  

京都リヴ・ゴーシュ――あとがき

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著者略歴

  1. 森 まゆみ

    1954年東京生まれ。作家。早稲田大学政治経済学部卒業。1984年に友人らと東京で地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊、2009年の終刊まで編集人を務めた。歴史的建造物の保存活動にも取り組み、日本建築学会文化賞、サントリー地域文化賞を受賞。主な著書に『鴎外の坂』(芸術選奨文部大臣新人賞)、『「即興詩人」のイタリア』(JTB紀行文学大賞)、『「青鞜』の冒険』(紫式部文学賞)、『暗い時代の人々』、『子規の音』など。

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