トム・ソーヤーは「女の趣味が悪い」?
2022年8月30日、東京の代官山蔦屋書店で『ワンダーランドに卒業はない』の刊行記念イベントが行われました。
本書は、作家の中島京子さんが子ども時代に夢中になり、大人になった今も大切なことを教えてくれる児童文学の名作についてユーモアたっぷりに綴ったエッセイです。
対談のお相手は、古典から絵本の翻訳まで手掛けられ、文芸評論家としても活躍されている鴻巣友季子さん。
20年来のご親交があるお二人が、児童文学について語り合いました。息の合った楽しいトークを3回にわたってお届けします。
中島ワンダーランド!
中島 今日は来ていただいて、ありがとうございます。鴻巣さんとは年もだいたい同じくらいですし、読んできたものも似ているのかなと思います。やはり翻訳家でいらっしゃるので、翻訳家ならではのお話を伺えるのも楽しみです。
鴻巣 お招きいただき、本当に光栄です。中島京子さんのこの『ワンダーランドに卒業はない』を読んで感じたのは、やはり中島ワンダーランドだなあ、ということです。そんなことを思いつかなかった、それは見過ごしていた、ということが、中島さんの目を通すといとも当たり前のように呼び出されてきます。
中島さんは本歌取りの達人で、デビュー作の『FUTON』から『イトウの恋』、『パスティス』『女中譚』から最新の『やさしい猫』まで、古典を遊ぶと言ったら語弊があるかもしれませんけれども、自由に使いこなして、その迷宮の中を遊ぶということの達人です。どうしてそんなことができるかというと、やはり眼力なんです。名作、古典と言われるもののどこにおもしろい部分があるのかを探すことができる眼力。
『不思議の国のアリス』だったら、ウサギの後を追ってぽーんと穴に落ちますけれども、ああいうブラックホールに落ちると、普通は「ここはどこ?」となるのですが、中島さんは落ちていった先のワンダーランドを、中島京子のワンダーランドにする力があるからすごくおもしろいのです。
たとえば『トム・ソーヤーの冒険』は誰でも聞いたことがあるし、なんとなく筋は知っていると思うのですが、中島さんが喝破したことで、私が思わず吹きだしてしまったのが、トム・ソーヤーは「いかんせん、女の趣味が悪い」というところです。
中島 悪いんですよー(笑)。
鴻巣 気がつかなかったです。「ガールフレンドのベッキー・サッチャーというのが、キーキー泣いたり、嫉妬に狂ったり、ものすごく子どもっぽい駆け引きをしたり(トム自身もそうした駆け引きに余念がない。……)、なんの魅力もない」とまで言っているんです。
中島 美人さんではないかと思うのですが、ベッキー・サッチャーは特に魅力がないですね。私は『トム・ソーヤーの冒険』が好きで、マーク・トウェインが育ったハンニバルという、小説のモデルになった村に行ったことがあるんです。作家の故郷に行くと、坊ちゃん団子のように、名物があるではないですか。そこは村中ベッキー・サッチャーだらけなんです。ベッキー・サッチャーのクッキーとか、ベッキー・サッチャーのアイスクリームとか。「ベッキー・サッチャーがやりそうなことだわ」と、思ってしまいました。
鴻巣 私で埋め尽くしてやる、という感じですか。
中島 そうそう、商売上手という感じです。商売が上手でも別にいいのですが、私にとってはあまり魅力のある子ではない。
鴻巣 私が打ちのめされたのは、『秘密の花園』なんですね。びっくりしたのが、登場人物紹介のところです。「メアリ・レノックスが叔父の住む広大なミッスルスウェイト屋敷に送られてきたとき、十人が十人、こんなかわいげのない子供は見たことがないと言った」。
中島 これは『秘密の花園』の冒頭の文章です。
鴻巣 これを何に比べるかというと、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』なんです。どうやったって結びつかないと思うのですが、これがそっくりなんですよ。「私がはじめてテリー・レノックスに会ったとき、彼は〈ダンサーズ〉のテラスの前のロールス・ロイス“シルヴァー・レイス”の中で酔いつぶれていた」。レノックスという名前まで一緒だったのですね。
中島 そうなのです。メアリ・レノックスとテリー・レノックスは名前がすごく似ているし、のっけからこき下ろされるところも似ているし。チャンドラーは影響を受けたのではないかという感じです。
鴻巣 こうやって並べてみると、2つの小説には何か同じ水脈が流れているのではないかという気がしてきます。私も古典新訳をやっていますから、古典の意外な一面や一般的なイメージとの違いをわりとわかっているつもりなのですが、それでも「えっ?」という発見の連続でした。本当におもしろい本なので、みなさんぜひ買いましょう!
『クマのプーさん』と石井桃子
中島 鴻巣さんに来ていただいたからには、やはり翻訳のことを聞いてみたいなと思います。いちばん最初の章がみんな大好き『クマのプーさん』なんです。私は原文を読んでいないので、石井桃子訳が『クマのプーさん』だと思ってずっと生きてきました。鴻巣さんはもちろん英語も読んでいらっしゃるだろうし、同世代なので石井桃子訳にも親しまれたかなと思うのですが。
鴻巣 翻訳者にとって石井桃子はやはり巨大な存在です。その前には、『赤毛のアン』を訳した村岡花子や『小公子』を訳した若松賤子などもいます。そういう大先輩の中の一人で、101歳までご存命で、100歳で朝日賞を取られて、100歳過ぎまで新訳の直しをやっていたという、本当にあやかりたい方です。
今回、『クマのプーさん』を原文であらためて読んで感動したのが、「プー作の物音」というポエムです。中島さん、朗読していただけますか。
中島 はい、私の大好きな詩を読みます。
「プー作の物音」
ああ、コチョウとんで 冬は去りゆく
プリムローズが 見らりょと咲けば
ヤマバトたちは ゴロッポとないて
葉かげのスミレ 青く色づく
さあ これからだ 森のさわぎは
ああ ミツバチが はねをふるわし
よい夏こいと 歌をうたえば
牛がすんでに ゴロッポとないて
ヤマバトたちは モーとなきそだ
そこでプーも プーとうたう
春がほんとに きたんだだんだ
耳をすませば ヒバリな音も
ツリガネ草の なる音もきこえて
カッコがカッとやり コウとなけば
プーもたまらず プーとなくよ
鴻巣 韻を踏むことをライミングといいます。ライミングのタイプをA、Bとすると、この詩は、1連目がA、A、A、B、2連目はA、A、A、Bです。原文ではこの塊が3つ、つまり6連あるんです。一方、石井桃子さんの翻訳は3つのパートに分かれています。石井桃子さんが、6連あるのを2つずつ組にして訳しているんですね。
そして素晴らしいのがここなんです。「ああ、コチョウとんで 冬は去りゆく/プリムローズが 見らりょと咲けば」。「見らりょ」とはなにか? 原文を見たら、プリムローズがtrying to be seen、見られるように頑張ってる、と書いてあったんですね。
中島 子どものとき、「見らりょと咲けば」が大好きだったんです。
鴻巣 かわいいし、味わい深いし、いいですよね。もうここで全部持っていかれます。3つ目のパートのところに、「春がほんとに きたんだだんだ」とあります。
中島 ここがまたいいんです!
鴻巣 原文はどうなっているのかなと見たら、springがspringingと書いてありました。春が春春して跳びはねちゃってるんです。springには「湧きでる」「芽吹く」という動詞、「泉」という名詞の意味もありますよね。
中島 現在進行形になってるんですね。それが「きたんだだんだ」になったんだ。
鴻巣 翻訳の正確性とは何か?というのは難しいと思いますけれど、これはもう、「見らりょと咲けば」と「ゴロッポと鳴いて」と「きたんだだんだ」があるだけで、原文とイコールというか、正確性を凌駕しています。
中島 鴻巣さんがあげてくださった3つのフレーズは、子どもだった私の頭にぴっと入って、いまだに残っています。
鴻巣 大人になって自分も翻訳者になってから、あらためて原文を見ると打ちのめされます。この創造性は真似できないなと思います。やはり石井桃子の世界になっているんですね。
プーは頭がわるい、とよく書かれています。英語でstupidやidiotというとよくないのですが、silly Poohと書かれています。sillyには、おばかさんだね、というような愛情がこもっています。だから、石井桃子さんは「ばっかなクマのやつ」とかわいらしく訳しておられますね。
中島 プーさんには、言い間違いのような言葉がたくさん入っています。子どもはまだきちんと言えなかったり、字を間違って書いたりしますよね。正確な言葉とはズレがあるから生まれる、言葉遊びの楽しさのようなものをプーさんの話は最初に教えてくれように思います。プーさんには、言葉を転がしていくおもしろさがあって、それは本当に文学的な体験なんですね。物語のおもしろさというより、言葉自体の楽しさを味わう初めての体験だと思います。
中編に続く
中島京子『ワンダーランドに卒業はない』がためし読みできます!
物語に没頭する、圧倒的な幸福感――ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』
目次
まえがき
1 プーの森で、ことばと遊ぶ――A・A・ミルン『クマのプーさん』『プー横丁にたった家』
2 銀河ステーションから、めくるめく幻想世界へ――宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
3 二人がそれぞれ、親友のためにやったこと――エーリヒ・ケストナー『点子ちゃんとアントン』
4 物語に没頭する、圧倒的な幸福感――ロバート・ルイス・スティーヴンソン『宝島』
5 教訓を見いだそうとする者は追放されるだろう――マーク・トウェイン『ハックルベリ・フィンの冒険』『トム・ソーヤーの冒険』
6 植物とコミュニケートする農系女子――フランシス・ホジソン・バーネット『秘密の花園』
7 ワンダーランドは卒業を許さない――ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』
8 「衣装だんす」で、ファンタジーと出会う――C・S・ルイス『ライオンと魔女』
9 コロボックルはわたしたちの先生なのだ――佐藤さとる『だれも知らない小さな国』
10 愛があれば。愛さえあれば。どんなに世界が苛酷でも。――カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』
11 才能ある女の子の行く末は――ジーン・ウェブスター『あしながおじさん』『続あしながおじさん』
12 ウェンディの哀しみ――J・M・バリー『ピーター・パンとウェンディ』
13 「不要不急」と灰色の男たち――ミヒャエル・エンデ『モモ』
14 人間が想像できることは、必ず人間が実現できる――J・ベルヌ『二年間の休暇』
15 反省、赦し、和解こそが、知恵である――ルーネル・ヨンソン『小さなバイキングビッケ』
16 落語の世界に通じる『ラッグルス家』の物語――イーヴ・ガーネット『ふくろ小路一番地』
17 「時」とはなにか? 時間旅行SFの金字塔――フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』
18 二十一世紀の読者のために作り直された、ル= グウィンからの贈り物――アーシュラ・K・ル= グウィン『ゲド戦記』