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【ためし読み】ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」

花見――暗くて桜、見えへんやん!

マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ著『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 』。一部の章を全文公開中!

イラスト:鈴木千佳子

花より団子

毎年、春がくると、学長として新入生への祝辞を述べてきました。そこでは必ず、季節についてふれるようにしています。私自身はそれほど季節の変化を意識していないのですが、日本では4月になれば、誰もが自然と気分を一新し、新たな一年のはじまりを祝うのが一般的だからです。この気分は、桜によって高められているようです。

来日した当初、日本の「花見」は私にとって得体の知れない文化でした。なぜ、わざわざ花なんかを見にいかなければならないのか。日本人が花見にかけるエネルギーは尋常ではありません。

マリには四季がありません。ですから、毎年決まった時期に花を見にいく発想が、そもそもないのです。

日本人にとって四季は、ごくあたりまえのことなのでしょう。たとえば、日本人にマリには冬がないことを説明したそばから、どういうわけか、「ところで、マリの冬の気温って何度くらいなんですか?」と質問をされることがあるほどです。

日本人の知人と京都の鴨川沿いではじめて花見をすることになったとき、それが何のための場で、私はそこで何をすべきなのかと、大いにとまどいました。日本では何ごとにつけても作法というものがありますから、花見の作法はいったいどんなものなのか、花をほめたたえるのか、花言葉を覚えて披露しあうパーティーなのか、ひとりでなやんだものでした。

いよいよ当日の朝、「買い出しにいかなきゃ!」「ブルーシートをもっていけ!」などと、メンバーの全員がやたらといそがしそうにしている理由がわからず、困惑するばかりでした。花と飲食物とブルーシートとが、私のなかでまったく結びつかなかったのです。

事前の準備を見ているだけでも、どうしてここまで細かく役割を分担し、徹底的に準備するのだろうかとおどろかされます。とくに、場所とり係の人がブルーシートの上でこごえながら孤独に過ごしている姿を見ると、何ともいえない気持ちになります。日本人は花見という目的が設定されると、全員が一丸となって、全力で協力しあうようです。

さて、このように朝から全力で準備をしたのに、花見そのものは夕方にならないとはじまらなかったのも、ふしぎでした。

  いや、
  暗くて桜、
  見えへんやん……!

花を見なければいけない会だと思っていた私は、必死に花の写真を撮ろうとしたのですが、ぜんぜんきれいに撮ることができませんでした。

しかし、ほかの参加者は花が見えないことなどまったく気にもしていない様子でお酒を楽しんでおり、そもそも、最初から花を見ようとすら思っていないようでした。このときはじめて、私は、「花見」とは「飲み会」のことなのか、と思いいたったのです。

何度も参加するなかで、花見とは、それ自体が目的なのではなく、コミュニケーションの場であることがよくわかりました。

花見だと言って誘えばたいていの人は断らないこともわかってきて、私自身も気がねなく花見を企画するようになりました。春が訪れるたびに、さまざまなグループと何度も花見をするようになり、いまでは花見に必要なあらゆる道具が自宅にそろっているほどです。

その勢いにのって、京都のお盆の風物詩「五山送り火」にあわせてパーティーを企画し、鴨川でピクニックをしようとしたことがありました。

ところが、予想に反して近所の知人はのり気でなく、「サコさん……。送り火はお盆に帰ってくるご先祖さまの魂を送り出す行事でね、パーティーじゃないんだよ……」と注意されてしまいました。

  すみません……。

以来、日本の行事や祭りのすべてがパーティーではないということを、肝に銘じています。

人間関係の壁を崩す花見

花見は、年度が替わるタイミングに毎年催され、人間関係をリセットする機会ともなっています。ふだんはあまり話さない相手とも親しく語りあえるコミュニケーションの場なのです。日本人は一年に一度、桜の下で人間関係を再確認しています。

日本の宴会は、いくつかの儀式をへてはじまります。あいさつをする人や乾杯の音頭をとる人は、組織の序列をふまえてあらかじめ手配されています。儀式のプロセスは非常に長く、参加者全員がおいしそうな料理をまえにして、あいさつが終わるのをじっと待っていなければなりません。

しかし、乾杯が終わってからある程度時間がたつと、状況は一変します。あらゆる人間関係の「壁」が崩れていくのです。たとえば、それまでほとんど話したことのなかった人から、「おい~、サコ~、おまえ~」と急に親しげに話しかけられました。

  この人、ふだんは
  めっちゃ静かなのに、
  急にどうしたん……?

また、別の酔っ払った人からは「サコ~、えらい黒いね~、ハハハ」と声をかけられました。その空間は、乾杯まえとはうって変わって、別世界でした。

日本のいろいろな場で、宴会をとおしてつくられるこのようなコミュニケーションを経験してきました。私が一番おどろいたのは、人間関係の壁が崩れることを全員が容認し、しかも、多少失礼な発言があっても、その人の評価は下がらないことです。また、花見の席では「サコ~」と親しく接してくれた人たちが、翌日にはふだんどおりのよそよそしい距離感を保ったおとなしい人に戻ってしまうことにもおどろきました。

マリで生まれ育った私には、桜の開花のような自然現象が、季節の移ろいのなかでコミュニケーションのきっかけを生み出すという発想はありませんでした。花見の文化は、組織のなかのこり固まった壁を一時的にとり払い、人間関係を再確認する場を周期的に生み出す機能をもっているようです。花見によって、日本人は見ちがえるほど開放的になります。

私は花見のなかで、四季というものがどれほど日本人の精神やふるまいに大きな影響をおよぼしているのかをまのあたりにしました。

マリの自然観

マリの集落では、中央の広場にある大樹の下に集まって、しばしば祭りがおこなわれます。あまり花に注目することはありませんが、木の存在が大きな意味をもっているのです。祭り以外のときにも人びとがつどい、出店が並ぶこともあります。さまざまな人が日常的に、入れ替わり、立ち替わりで木のまわりに集まるのです。

マリにはむかしから、アニミズム(あらゆる事物に霊的な存在が宿っているとする世界観)的に自然をあがめる信仰が多く存在しています。個人ではなく村や社会全体で、「恵みの雨」といった自然現象を享受する感覚が共有されています。

たとえば、葉っぱの色が変わったり、木に花が咲いたりしたとき、それを個人の感性で祝うのではなく、神様が村や社会全体に送るメッセージだと受け止めることが多いように思います。

マリのセグというまちには、ふしぎな樹木が生えています。学術的には「シロアカシア」(Faidherbia albida)のことなのですが、現地では「バランザン」(Balanzan)と呼ばれています。バランザンがほかの樹木と異なるのは、雨季になると落葉し、枯れているようにみえるのに、乾季になると緑にあふれ、生き生きとした姿をみせることです。

バランザンにまつわるエピソードは、セグのさまざまな伝説や説話、伝承、また、語り部の歌にもひんぱんに登場します。かつてのセグの王様の物語にも、さまざまな場面で、奇跡をもたらす植物として登場します。同じように、マリのドゴン族の世界観では、バオバブの木がそうした存在としてあつかわれています。

こうしてみると、マリ人にも季節の移り変わりを示す自然現象を意識してきた面があるのかもしれません。

バオバブの木の下に集まるドゴン族の人びと

桜にはじまる日本の一年

マリと日本の決定的なちがいは気候と季節そのものです。マリには二季しかないのに対し、日本には四季があり、しかもそれが自然現象として目に見えるかたちで表れます。また、日本では季節と一年間の行事とが密接につながっており、それも自然との付きあい方や自然への意識に影響をおよぼしています。

日本では「春」=「一年のはじまり」と考えられていますが、マリ出身の私からするとふしぎな感じがします。というのも、マリの学校は9月か10月にはじまるため、私のなかでは「一年のはじまり」というと、9月か10月だからです。

また、マリの9月は雨季が終わる時期で、10月は新しい穀物がとれる時期です。自然の恵みをいただくこの時期には、さまざまな祭りがおこなわれます。収穫が終わり、「これから一年を楽しむぞ!」というタイミングで一年がはじまるのです。そのかわり、9月まではひたすら働かなければならず、どちらかというと楽しいイメージではありません。

しかし、日本の場合は、これから耕したり、田植えをしたりする時期が一年のはじまりとなっています。マリでは一年が収穫祭からはじまる一方で、日本では耕すところからはじまることを考えると、一年のサイクルは人びとの自然観や社会基盤と密接につながっていることがわかります。

新型コロナウイルス感染症の影響で、日本での9月入学がさかんに検討されてきました。しかし、そうなってしまったらおそらく、多くの日本人はかなりの違和感を覚えるのではないでしょうか。

たしかに大学などの教育機関が、国外のさまざまな学校との共同教育プログラムを充実させるために、4月以外の入学時期を設定することは必要でしょう。

しかし、文化的な背景も考慮しながら、「年度」を季節と自然の流れにあわせることも重要です。日本人は、季節ごとに生え変わる草花をモチーフにしてコミュニケーションをとってきましたし、春に「新しい」というイメージをもち、心機一転しようとしてきました。

私は、「新しいことに挑戦する勇気」や「やりなおせる感覚」が集約される桜の季節が、これからも一年のはじまりでありつづけてくれることを願ってやみません。

 

『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」』

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なんでやねん、日本。

茂木健一郎さん・ヤマザキマリさん 推薦!

マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ。
30年にわたる日本生活での失敗と、発見と、希望をユーモラスに語る!

「なんでやねん」から始まるサコ学長の愛のあるツッコミから、日本の姿が見えてくる。著者の生き方がにじむ「空間人類学」が日本人を照射する奇跡の一冊!
――茂木健一郎(脳科学者)

これは外国人による日本の観察記録である以上に、人間そのものを俯瞰で見直すための人生の指南書だ
――ヤマザキマリ(漫画家・随筆家)

「どういうこと…?」と戸惑いながらも、「ええなあ」と感動してきた日々。

スリッパの使い分けに戸惑ったり、
――うわっ、このスリッパ、
  トイレのやつやん…!

日本人に「無宗教なんです」と言われて驚いたり、
――えっ? 無宗教って
  どういうこと…?

「花見」が夜に開催されたり、
――いや、暗くて桜、
  見えへんやん…!

数々のカルチャーショック体験をふりかえりながら、日本の可能性を見つめる。

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著者略歴

  1. ウスビ サコ

    京都精華大学学長。
    1966年、マリ共和国生まれ。
    高校卒業後、国費留学生として中国に留学。北京語言大学、東南大学を経て1991年に来日。1992年、京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程入学。1999年、同博士課程修了。2000年、京都大学より博士(工学)の学位を取得。
    2002年、日本国籍を取得し、自称「マリアン・ジャパニーズ」となった。京都精華大学人文学部教員、学部長をへて、2018年4月、学長に就任。
    専門は空間人類学。学生とともに京都のまちを調査し、マリの集合居住のライフスタイルを探るなど、国や地域によって異なる環境やコミュニティと空間のリアルな関係を研究。暮らしの身近な視点から、多様な価値観を認めあう社会のありかたを提唱している。
    バンバラ語、マリンケ語、ソニンケ語、英語、フランス語、中国語、関西弁をあやつるマルチリンガル。

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