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【ためし読み】ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」

無宗教――「いただきます」って、宗教やん

マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ著『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 』。一部の章を全文公開中!

イラスト:鈴木千佳子

「ブタ」と「トン」

最近はハラール・フードを提供する店が増え、ムスリム(イスラム教徒)である私も助かっています。「ハラール」というのはイスラム教の教義にのっとっているということです(反対に、禁じられているものやことを「ハラーム」といいます)。料理であれば、教義に則して処理された肉などが食材として使用されていなくてはなりません。

しかし、私が来日した1990年代初頭にはそのような飲食店は非常に少なく、ハラール食材を売っている店さえほとんどありませんでした。イスラム教の教義には豚肉禁止、飲酒禁止などが定められており、ムスリムとしてそれらを守ることは必須とされています。

日本の一般的な飲食店では、豚肉がそのまま使われていなかったとしても、そのエキスが入れられていたりします。同じく、調理の段階や仕上げに日本酒や洋酒が使われたりもします。厳密にはみりんでさえ、お酒になります。また、豚以外の肉であっても、本当は、ハラールの肉でないと食べることはできません。

そのため、私が日本にきて選択した対処法は、とにかく「ブタ」を食べないことと、お酒を飲まないことでした。

ただ、まわりの人たちは宗教上の食事の制約にあまりなじみがなく、そこまでの知識もありませんから、ハラールについての気づかいもありませんでした。

当時私は、日本語で豚を「ブタ」と呼ぶことは知っていましたが、部位や調理のしかたによって呼び方が変わることまでは知りませんでした。そのため、よく昼時に研究室のメンバーと「とんかつ屋」にいき、すっかり牛肉だと思い込んだまま、いつもヒレカツを注文していました。また、夜になると「とんこつラーメン」を食べにいくこともあり、チャーシューをダブルでのせて食べていました。

  この「トン」
  っていう食べもん、
  めっちゃうまいやん……。

京都で有名な「王将」の餃子もたびたび食べに出かけました。ハンバーグを食べるときには、それが「アイビキ肉」でつくられていることは聞かされていましたが、豚肉と牛肉を混ぜたものであることは知りませんでした。

「トン」が豚のことであり、「合挽き肉」が豚肉と牛肉のミンチを混ぜたものであると知ったのは、だいぶあとになってからのことです。周囲の人たちは、私が承知のうえで豚肉を食べているのだと思い込んでいたそうで、私が自分で気づくまで、「空気」を読んで何も言ってくれなかったのです。

かたちだけの宗教儀式

日本にきておどろいたことのひとつに、宗教に対する柔軟性や寛容さがあります。

以前、友人から結婚式の案内状がきたので読んでみると、式を教会で挙げると書かれていました。その友人がクリスチャンだったとは初耳でしたので、失礼があってはいけないと思い、作法についてほかの出席者に聞いておくことにしました。すると、「適当にすればいいんだよ」「別に、私たちもクリスチャンではないし、かたちだけですよ」とアドバイスされました。

そのため安心して教会の式に参列したわけですが、なんとアドバイスに反して、儀式は格式にのっとったものでした。そのうえ、賛美歌を合唱したり、聖書の一節を読んだりする場面では、日本人の参列者全員がとどこおりなく儀式をこなしていたのです。まるでどこかであらかじめリハーサルでもしていたかのようで、私にはかれら全員が熟練の役者のようにみえました。私自身も教養として新約・旧約聖書には目をとおしていたものの、日本人の参列者と同じように演じることはできませんでした。

別の友人から呼ばれた結婚式もキリスト教式で、チャペルが完備されたホテルで挙げられました。そのさい、式場に入るまえにたまたまホテルのロビーで会話を交わした外国人が、「今日このホテルでバイトがあるんだ」と言っていました。

式がはじまると、その人がおごそかに牧師を務めていました……。

また、日本のクリスマス・シーズンは大きな盛り上がりをみせます。しかし、これはキリスト教の本来的な文脈からは、大きく外れているようです。

ハロウィン・フィーバーが終わると、クリスマス・フィーバーがはじまり、家庭、職場、友人たちのサークルなど、さまざまなところで行事を意識させられます。日本に移り住んでから、一年間でもっとも大切な日はクリスマス・イブであることがわかりました。その一晩だけ、レストランは料金を高く設定したり、有名なレストランになると予約でいっぱいになったりするほどです。多くのレストランはカップル客でいっぱいになります。クリスマス・イブは恋人に告白するチャンスであり、また、それまでの関係を再確認する機会でもあります。

さらに、クリスマス・イブにはプレゼントが欠かせません。日本のクリスマスは商業的価値をともなう社会現象でもあって、そこへ最近になって、ハロウィンがつけ加わったのでしょう。

「無宗教」という宗教

世界の多くの国では、宗教教育が学校教育の一環としておこなわれています。政教分離の制度をとり入れている国でも、地域によっては、そこで普及している宗教について学校で学んだり、信仰を実践したりしています。学校という人間形成の場において、信仰をはぐくむことが重要視されているのです。

私の生まれ育ったマリでは、国民の90パーセント以上がムスリムだといわれています。残りのほとんどは、キリスト教徒と、自然崇拝などの土着の宗教を信仰する人たちです。

マリの学校やビジネスの制度はフランスから輸入されたものが多く、キリスト教の暦に従っています。たとえば、クリスマスやイースター(イエス・キリストの復活を祝う復活祭)は、学校が休みになります。最近では、クリスマス・イブに各地の教会でおこなわれるミサがテレビ中継されています。

私は小学校低学年をカトリック・スクールで過ごしたため、さまざまなかたちで家庭での宗教と学校での宗教とのちがいを経験してきました。国外に留学するまでは、このような過ごし方が一般的だと思っていました。

しかし、中国の大学に留学したときは、民族によってはイスラム教、仏教、チベット仏教などを信仰する人たちがいたものの、宗教関係者と接する機会はさほどありませんでした。特定の宗教を信仰する留学生同士のあいだで宗教的行事がおこなわれることはあっても、そこに異なる宗教を信仰する人が参加することはほとんどありませんでした。ただ、クリスマス・イブだけは、多くの留学生寮で親睦会的なパーティーがおこなわれました。

日本人に「宗教は?」とたずねると、たいてい「無宗教です」という答えが返ってきます。

  えっ?
  無宗教って
  どういうこと……?

想像をこえた答えだったので、はじめてそう言われたとき、言葉を失いました。日本人のどの行動をとっても、何らかの教えに従っているようにみえたというのに……。宗教を信仰しない人に遭遇したのは、はじめてのことでした。

しかし、もう少し掘り下げて質問をすると、お墓がどこにあるとか、それによって宗派が異なるとか、さらに仏教と神道の両方の行事をあれこれしているといった話がはじまります。地域の行事などには宗教に関係なく参加し、家族の行事では自分の宗派に従う、といったところでしょうか。

さまざまな宗教を無自覚に受け入れる日本人の宗教的寛容さは、日常の行為にもひんぱんに見出されます。日本人の宗教へのフレキシブルな対応は、ある意味で「宗教的」にさえみえてしまいます。日本では、日常生活のさまざまな行為のなかに宗教的な意味が含まれていたとしても、深く詮索されません。

たとえば、「いただきます」「ごちそうさま」「お邪魔します」といった言葉は、誰に向けて発せられているのでしょうか。おそらく、食事を提供してくれた人、自宅に迎え入れてくれた人にだけ発せられているわけではないと思います。

私自身、深く理解できているわけではありませんが、日本の人たちの日常生活を観察していると、さまざまな行為がどこか宗教と深くかかわっているように感じられます。そしてもし、これらの行為を無自覚にしているのだとすれば、日本の社会には宗教意識が深く浸透しているように思えるのです。

宗教とコミュニティ

当然ながら、「宗教」をひとつに定義することはできせん。

しかし、多くの場合は、何か人類よりも大きな存在によって人間社会や自然などがつくられ、それが存続することの許しと恩恵を得るために、この存在を崇拝し、この存在に献身する営みである、とされているようです。あるいは、宗教はコミュニティ内で共有されるさまざまな行動規範や信念を定め、コントロールするものであると解釈されたり、個人や集団の生活習慣や行動規範を規定し、その遵守に根拠をあたえるものだとされたりもします。また、宗教は人間の存在そのものに意味と規範をあたえ、死後の世界にまで影響をおよぼすものだとする見方もあるでしょう。

ともあれ、おおむね個人と他者の関係、集団のありよう、理性的・倫理的な価値観にかかわっているようです。つまり、宗教とは、個人が社会や自然のなかで合理的かつ倫理的に生きる方法を定め、さとしているものだと考えられます。

「幸福」の解釈は、文化や人によってさまざまに異なります。ただ、世界中の宗教を見わたしてみると、ある程度の歴史と規模をもっていれば、一神教か多神教かにかかわらず、ほぼ一様に人間という生き物が他者を尊重し、他者と共存することが幸せの本質なのだととなえています。

これまで私は、何度か日本の学生や研究者を連れてマリにいきました。ラマダン(断食月)の時期であれば、みんながマリの人たちと同じく断食をしたり、集団礼拝にも参加したりしました。

あるとき、日本人の研究仲間から、次のようなことを言われました。

「マリの集団礼拝は非常にホッとします。コミュニティの構成員がおたがいの関係を確認しあい、連帯感を強める習慣ですよね。世代間の序列化や、社会階層間の相互扶助も感じられます。個人的には、宗教というよりは、コミュニティの形成と確認の場なのだと感じますね」


宗教的な営みは、個々の信仰という面以外に、個が集団に帰属する意識を確認する面ももっています。礼拝などの集まりを通じて、コミュニティのアイデンティティがその構成員のあいだで再確認されるのです。

私の地元ソゴニコ地区での犠牲祭の集団礼拝

無宗教コミュニティの包容力

日本社会に目を向けると、たとえ宗派や宗教観がちがっていても、地域でおこなわれる宗教的な行事に人びとが参列できるのは、そこにコミュニティの包容力があるからではないでしょうか。

私たち外国からきた居住者も、日本ではひんぱんに地域行事への参加を求められます。実際に参加してみると、それをきっかけに地域の人びととの距離が非常に近くなり、道ばたですれちがったときのあいさつと笑顔が変わってきます。これこそ、宗教がそなえている真の機能ではないかと思うのです。

あらゆる宗教を受け入れる日本人の柔軟さと寛容さに、私は大きな可能性を感じています。日本社会では、仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、どんな宗教にも共通する共同体維持の機能が日常生活の実践のなかに浸透していて、それがそれぞれの宗教的規範とほぼ矛盾していないことにおどろかされます。

世界各地で宗教的な対立がつづいていますが、宗教的な柔軟性や寛容さをもっている日本のコミュニティでは、異なる宗教同士の共存が可能です。グローバル化したこれからの世界においては、宗教の共存が求められます。

私は、日本社会のなかに、そのような共生社会を実現するためのヒントがあるのではないかと思っています。

 

『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」』

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なんでやねん、日本。

茂木健一郎さん・ヤマザキマリさん 推薦!

マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ。
30年にわたる日本生活での失敗と、発見と、希望をユーモラスに語る!

「なんでやねん」から始まるサコ学長の愛のあるツッコミから、日本の姿が見えてくる。著者の生き方がにじむ「空間人類学」が日本人を照射する奇跡の一冊!
――茂木健一郎(脳科学者)

これは外国人による日本の観察記録である以上に、人間そのものを俯瞰で見直すための人生の指南書だ
――ヤマザキマリ(漫画家・随筆家)

「どういうこと…?」と戸惑いながらも、「ええなあ」と感動してきた日々。

スリッパの使い分けに戸惑ったり、
――うわっ、このスリッパ、
  トイレのやつやん…!

日本人に「無宗教なんです」と言われて驚いたり、
――えっ? 無宗教って
  どういうこと…?

「花見」が夜に開催されたり、
――いや、暗くて桜、
  見えへんやん…!

数々のカルチャーショック体験をふりかえりながら、日本の可能性を見つめる。

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著者略歴

  1. ウスビ サコ

    京都精華大学学長。
    1966年、マリ共和国生まれ。
    高校卒業後、国費留学生として中国に留学。北京語言大学、東南大学を経て1991年に来日。1992年、京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程入学。1999年、同博士課程修了。2000年、京都大学より博士(工学)の学位を取得。
    2002年、日本国籍を取得し、自称「マリアン・ジャパニーズ」となった。京都精華大学人文学部教員、学部長をへて、2018年4月、学長に就任。
    専門は空間人類学。学生とともに京都のまちを調査し、マリの集合居住のライフスタイルを探るなど、国や地域によって異なる環境やコミュニティと空間のリアルな関係を研究。暮らしの身近な視点から、多様な価値観を認めあう社会のありかたを提唱している。
    バンバラ語、マリンケ語、ソニンケ語、英語、フランス語、中国語、関西弁をあやつるマルチリンガル。

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