空気読めない――暗号の国
マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ著『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」 』。一部の章を全文公開中!
イラスト:鈴木千佳子
「アホのサコ、奴隷の旅からきたんか?」
マリでは、苗字によって民族や社会的属性がわかります。たとえば、私の苗字「サコ」(SACKO, SAKHO, SAKO)は、ソニンケ族(サラコレ、マラカ)のもので、代々商人を生業としてきた家系です。
また、「サナンクヤ」(Sanankuya)と呼ばれる慣習があります。これは、ゆかりのある苗字同士のあいだで冗談を言いあい、コミュニケーションを交わす文化です。
たとえば、私がマリに帰って入国審査を受けたさい、審査官にいきなり「アホのサコ、奴隷の旅からきたんか?」と言われたことがありました。ひさしぶりのマリでびっくりしてしまい、「なんやねん!」と強い言葉で返すと、審査官から「君はまだまだマリ人として一人前になっていないね」とたしなめられてしまいました。本来ならば、私も相手がサナンクヤの関係にある苗字かどうかを確認して、「君こそ僕の奴隷」と冗談で返すべきだったのです。
ほかにも、とある会社に用事があったとき、窓口の担当者が冗談を言いあう関係にある苗字の人だったことがありました。その人はほかの客たちに、「このガキは私の手下なので、先にとおしてあげて」と笑ってお願いしてくれました。
冗談を許しあうことは、おたがいが良好な関係にあることの証です。そして、相手に対して無償の支援と愛を注いでいることも意味しているのです。
サナンクヤの冗談をふっかけてきた砂売り。
苗字を伝えたところ、
「お前は奴隷だろ! これ手伝え!」とさけんできた
日本語のあいまいさ
これまで世界中を旅して、いくつかの国や民族の言葉を話せるようになった私ですが、日本語ほどむずかしい言語はありません。
私はよく、「日本語には論理性がない」と口にします。厳密には論理的な構造があるのかもしれません。しかし、日本語を理解するためには、言葉だけではなく、日本文化についての知識もそなえている必要があります。そうでなければ、言葉の裏にある真意や、行間にひそむメッセージをつかみそこねてしまうのです。
外国人の多くは、はじめに日本語の文法から教えられ、しだいに会話を習っていきます。学習のなかでの教科書的な日本語であれば、まだ論理的に理解できることもあります。ところが、実際の生活のなかでは、「にぎやかでよろしいね」が「うるさくて迷惑です」を意味するなど、教科書どおりにはいかないのです。
文法の学習のなかでも、どういうことやねん、と違和感を覚えてしまうことがありました。たとえば、喫茶店で注文をする場面の練習です。「何になさいますか?」という質問に対し、「僕はコーヒーだ」と答えることが、どうしても腑に落ちませんでした。たとえば英語で、“What do you want ?”と聞かれて“I’m coffee.”と答えるなんてありえません。何らかの言葉が省略されているためか、文法構造がいったいどうなっているのか見当もつかないケースが、無数にあったのです。
日本文化の外で生まれ育った私のような人間にとって、あいまいな表現を用いたり、言葉を省略したりする日本のコミュニケーション・スタイルは、理解に苦しみます。
日本のコミュニケーションでは、非言語的な部分が非常に大切です。たとえば、乾杯のときのグラスの位置、名刺を交わすときの高さ、顔の表情など、言外の部分にかなりのメッセージが含まれています。
日本で生まれ育った人は、こういったコミュニケーション・スタイルを無意識に身体化しています。そのため、私が日本語に疑問を感じて質問しても、論理的に答えてもらえることはまれでした。
こうした経験をへて、私は日本語の学習方法を途中から変更しました。疑問をもたないこと、もったとしてもあえて質問せず、まずは日本語を身体化することを優先したのです。
もちろん、ほかの国にも、その文化を知らない人からすると不可解な「生活コード」がたくさんあります。マリのサナンクヤも、そのひとつでしょう。
マリを訪れる外国人たちには、多くの場合、ホームステイ先の苗字があたえられます。そうなると、サナンクヤの関係にある人と出会ったさいに、きつい冗談がふっかけられます。フィールドワークのために私がマリに連れていった日本人学生のなかには、あまりのきつさにたえきれず、泣き出してしまった人もいました。
しかし、マリとはちがって、日本の「空気を読む」文化は、しくみがわかれば即座に理解できるような、シンプルなコードではありません。その特殊なあいまいさのなかで生きるためには、複雑な体験を一つひとつ積み重ね、じっくりと時間をかけて経験していく必要があります。
「ちょっと」という難問
日本で生活しはじめ、ある程度まで日本語が理解できたと思えるようになったころ、かえって多くの誤解が生じはじめました。日本語の独特なニュアンスのために、他人に迷惑をかけたり、とまどわせたりすることが増えたのです。
当時、やっと覚えた日本語を日本の友人や知人たちに披露したくて、よく電話をかけていました。そして、そのたびに都合を聞いて、「よかったら会いませんか?」と誘いました。そこでよく耳にしたのが、「ちょっと……」とか「少し……」という返事です。
なるほど。
ちょっとの時間なら
会えるんか。
「じゃあ、いつ会えますか?」とつづけると、おそらく緊急のことだと思ったのでしょう、ほんの少しだけ会ってくれた人もいました。この「ちょっと」「少し」が表と裏の二重の意味をもっていることを知ったのは、だいぶ時間がたってからです。
同じように「結構です」にも、かなりふりまわされました。もちろん、いまでは「結構です」が、その場の空気によって否定的な意味になったり、肯定的な意味になったりすることは理解しています。
イントネーションや音の強弱で言葉のニュアンスが変化する言語は、ほかにもあるでしょう。また、リップサービスのようなものは、どの文化にも存在します。
でも、日本語の場合、そうした音の区別がなかったり、日常で使われるありふれた言葉が隠れた意味をもっていたりします。
日本語を覚えたての私は、「近くにきたらいつでも立ち寄って」と言われたとき、本当に自分が誘われているのだと信じ込みました。そう言ってくれた知人の自宅を訪ねたときに、本当にきちゃった!? とおどろいていたその人の顔は、いまでも忘れられません。
「いつ帰る?」ってなんで聞くの?
マリ人は、他者に迷惑をかけることに対して、遠慮をしません。
たとえば、夜遅くになり帰れなくなってしまったら、当然のように友だちの家に泊まります。家族がいっしょに住んでいようとも、「あっ、リビングあいてんじゃん。ちょっとここで寝て、明日帰るわ」と、堂々と居すわるのです。
私の実家は首都バマコにあるため、地方からよくお客さんが訪ねてきました。「用事があるから、1日泊まる」と言っていた人が、いつのまにか1年間住んでいたことなどざらです。そういった人たちは、食費を払いませんし、平然と家の行事にまで参加します。そして、誰ひとりとしてそれを気にしません。
しかし、こういったマリ的な発想は、日本人には通用しませんでした。
中国の大学を卒業した年、私を含むマリ人3人で、東京にある日本人の友人の実家を訪ねたことがありました。当然私たちは、そこに滞在するつもりでいました。
相手も泊まらせてくれるつもりだったようで、いろいろと準備してくださり、せまいスペースながら、ご両親のふとんの横に私たち3人の寝る場所を確保してくれました。当時、私たちは簡単な単語を断片的に理解しているだけで、日本語はほとんどわかりませんでした。
マリでは、いつまで滞在して、いつ帰る、といったことを言わないし、聞かれることもありません。このときの日本旅行は夏休みを利用していたこともあって、私たちはいつ帰るかをまったく決めていませんでした。
しかし、ホストファミリーは、私たちがいつまで日本に滞在するのかを聞き出そうとしていたようです。パーティーが開かれるたびに、外国語がわかるお客さんが呼ばれていて、私たちに「帰国日はいつですか?」とたずねてきました。もちろん、私たちは「とくに決まっていません」「別に急いでいません」と答えるだけです。そして、知らず知らずのうちに、かれらを不安がらせていたのでした。
しばらくして、ホストファミリーは関西に住んでいるほかの友人に連絡したうえで、私たちに「京都の祇園祭を見にいってはどうですか?」とすすめてきました。当時の私たちは祇園祭のことなど知りませんでしたから、とくに京都にいきたいとは思いませんでした。それでも、京都への新幹線チケットをプレゼントしてまで強くすすめてくれるものですから、ようやく私たちは、そのホストファミリーのお宅をあとにしました。
ふしぎなほどひんぱんに開かれたパーティーで、いつ帰るのかをくりかえしたずねられた意味が理解できたのは、日本でしばらく生活をしてからのことでした。
本音を言わない日本人たち
日本の大学の文化は独特です。日本の大学院に進学した私には、大学文化の知識がまったくありませんでした。
配属された研究室のメンバーから非常にこころよく受け入れていただき、ランチやディナーをともにすることが多かったのは幸運でした。しかしやはり、所属メンバー同士の立場や上下関係、年齢差、先輩・後輩の関係などに応じた言葉の使い分けには、いつも頭をなやまされました。
留学生という私の微妙な立場も、問題を複雑にしていました。当時の多くの留学生は、同級生の日本人学生より2、3歳ほど年上で、場合によっては、もっと年上ということもありました。しかし、研究室では、年齢に関係なく同級生同士で役割分担をしたり、チームを組んで共同作業をしたりします。
さらに、私が所属していた工学研究科には、グループ単位で研究する以外に、独特の文化がありました。昼夜逆転の生活を送っている人が多かったのです。午前中の授業をサボる学生(とくに大学院生)がたくさんいました。
チームを組んでいたメンバーのなかにも、私とは生活パターンが正反対の人がいました。留学生の私が朝から大学にきて授業に出席し、夕方に帰るのに対して、彼は夜から大学にきて作業をし、朝に帰るという生活を送っていたのです。
いや、なんで授業に
出えへんねん……!
私からすれば、その人こそ、授業も作業もサボっている学生にしかみえませんでした。しかし、彼からすれば、私のほうが共同作業をサボっている留学生にみえていたようです。その学生は、私のいないところで不満をもらしていたようですが、私に直接言ってくることはありませんでした。
ある日、その人が研究室のお茶やコーヒー代を集めようとしたときに、事件が起こりました。私が少し冗談をふっかけたことから、彼がいきなり怒ってしまったのです。イスをけるわ、大声でさけび出すわで、びっくりしました。事態を把握していなかった私も、同じくらいの大声で言い返してしまいました。それが相手の予想外だったのか、つかみあいのけんかにはいたりませんでした。
ひとこと言えばすむようなことが、これほどの大事になるまで放置されるなど、夢にも思いませんでした。研究室で私だけが、空気を読めていなかったようです。
しかし、最終的には、ぶつかりあったことでコミュニケーションが生まれ、かえって仲が深まりました。ストレートに言いあう、というマリの文化を体現しながら、その後は授業などのさまざまな場面で協力しあえたのです。研究室を出るときには、おさがりをたくさんくれたりもしました。
大学の教員になって、自分の研究室の学生たちを観察してみても、似たようなことが起こっています。学生たちが研究室に配属されると、はじめのうちは、研究室という場と教員によってグループ・ダイナミックス(集団力学)が生まれ、仲のいい集団になったかにみえます。しかし、時間がたつと、学生たちは小集団に分裂し、小集団同士で無言の競いあいをはじめます。さらに、同じ小集団に属するメンバー同士なら仲がいいのかというと、そうでもありません。空気を読んでほかのメンバーに無理矢理自分をあわせ、不満をつのらせている人が、必ず数名いるのです。
それが明らかになるのは、ゼミ旅行などでチーム分けをする場面です。事前の打ちあわせでは、「いっしょの車にしようね!」「同じ部屋でうれしい!」と、学生たちははしゃいでみせます。しかし、打ちあわせのあと、そのうちのひとりがこっそりと研究室に戻ってきて、「あの人と同じ部屋はいやだ」と部屋割りの見なおしを要求してくるのです。
「なんでみんなのまえで言わなかったの?」とたずねると、「空気を読んだんです。雰囲気を壊して、迷惑をかけたくなくて……」と答えます。
いやっ、ちゃうやんっ?
いま、俺に
めちゃくちゃ迷惑
かけてるやんっ!?
私からすると、このように集団で決めたことをこっそりと裏で変更しようとするから、永遠に仲よくなれないのではと思ってしまいます。
大学院の研究室メンバーと
冷たい「空気」
文化人類学者のエドワード・ホールは、直接的な言葉ではなく、文脈や暗黙の了解を重視しながらコミュニケーションをとる文化を、ハイコンテクストと位置づけました。それに対し、言葉どおりの明確な意味に沿い、論理性を重視しながらコミュニケーションをとる文化を、ローコンテクストと位置づけています(『沈黙のことば』南雲堂、1966年)。日本の「空気を読む」という文化は、ハイコンテクスト・カルチャーの最たる例でしょう。
日本人が「空気を読む」のは協調性があるからなのだと、よくいわれます。しかし私は、その場で本音を伝えない「逃げ」こそ、協調性がない行為だと思っています。「空気を読む」「はっきり意見を言わない」「みんなとは反対の意思を悟られまいとする」など、日本では美徳と思われがちな行為は、むしろ人間関係を冷淡にしているように思います。
そして、多くの外国人はこうした生活コードを共有していないにもかかわらず、日本人はそれが理解されているものと思い込んで行動しがちなようです。
もともと「空気を読む」というのは、相手に対する配慮だったはずです。わかりあうことをあきらめて、人を避けたり、問題を先のばしにしたりすることが、「空気を読む」ことだといえるのでしょうか。
私たちはいま、「空気」とは何かについて、再考すべきなのかもしれません。
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なんでやねん、日本。
茂木健一郎さん・ヤマザキマリさん 推薦!
マリ共和国出身、京都精華大学学長、ウスビ・サコ。
30年にわたる日本生活での失敗と、発見と、希望をユーモラスに語る!
「なんでやねん」から始まるサコ学長の愛のあるツッコミから、日本の姿が見えてくる。著者の生き方がにじむ「空間人類学」が日本人を照射する奇跡の一冊!
――茂木健一郎(脳科学者)
これは外国人による日本の観察記録である以上に、人間そのものを俯瞰で見直すための人生の指南書だ。
――ヤマザキマリ(漫画家・随筆家)
「どういうこと…?」と戸惑いながらも、「ええなあ」と感動してきた日々。
スリッパの使い分けに戸惑ったり、
――うわっ、このスリッパ、
トイレのやつやん…!
日本人に「無宗教なんです」と言われて驚いたり、
――えっ? 無宗教って
どういうこと…?
「花見」が夜に開催されたり、
――いや、暗くて桜、
見えへんやん…!
数々のカルチャーショック体験をふりかえりながら、日本の可能性を見つめる。