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世界ユダヤ紀行

モロッコ――香辛料の香り漂うユダヤ人地区

 「あなたはユダヤ人ですか?ロウソクを灯して祈りますか?」マラケシュのユダヤ人墓地で私を案内してくれたのは、フランス語とアラビア語を話すムスリムの青年だった。そうではないと私が答えると、それならば「あなたの健康のために」と、彼は古いラビの墓廟に建てられたロウソク台に一本だけ燃え残ったロウソクに火をつけてくれた。あなたはイスラーム教徒なのか、そうでないならぜひイスラーム教徒になりなさい、イスラームは素晴らしい。そう彼は続けた。ユダヤ人墓地の中で一番新しい墓は、2ヶ月前に亡くなったばかりの女性のものだという。まだコンクリートの土饅頭の状態で列の端に並んでいた。

 マラケシュ、フェズ、カサブランカといったモロッコの主要都市には、「メラー」と呼ばれるユダヤ人地区がある。私のユダヤ紀行は2006年、マラケシュからはじまった。その年の7月に始まったレバノン侵攻によって予定していたイスラエル旅行が中止となり、行先を同じ中東の国に変えたおかげで、ユダヤ紀行はディアスポラの地から始まることとなったのだった。

環地中海のユダヤ人世界の拠点

 マラケシュのユダヤ人地区には偶然行き当たったわけではなかった。小岸昭氏の『離散するユダヤ人』には、マラケシュ滞在についてユダヤ人の「スペイン追放」(後述)の記憶が、広場に満ちる歌や踊りの強い印象とともに描かれており、私は訪問を楽しみにしていた。とはいえ、観光地である王宮地区に隣接しているはずの「ユダヤ人地区」は、地図や観光案内にそうと書かれているわけでもないし、当時は街に行き先表示があるわけでもなかった。ユダヤ人墓地も、道端で人にたずねまわって行き着いた。

 当時私が記した記録には、このように書かれている。

現在メラーに暮らしているのはほとんどがムスリムで、私がただ一人出会ったユダヤ人はマラケシュのシナゴーグを管理しているラビ(聖職者)だった。ガイドが連れてきた観光客が中庭を通ってシナゴーグの中に入ると、その盲目のラビは淡々といくつかの説明をしたで後20ディラハムを払うように言った。

下働きの雰囲気を持った少年がドアを開けてあとに入ってきた客と交替させようとするのだが気にせず、次の西洋人のグループに混じってしばらくシナゴーグの中を見てまわった。あまり人気が感じられないこの祈りの場にも、金曜ともなれば人は集まるのだろうか。正面にはトーラー(聖書のモーセ五書が記された巻物)の聖櫃を納めた壁に赤地のカーテンが掛けられ、周囲の壁面を青いモザイクが覆うこぢんまりと美しいシナゴーグだ。外見は何の表示があるわけでもなく赤壁のほかの建物とまったく見分けがつかない。

シナゴーグとユダヤ人墓地があることを除けば、メラーの通りを埋めるスパイスや薬の店の様子はまったく他の地区と変わらない。「スペイン風バルコニー」がユダヤ人街特有のものであるという前知識がなければ、ユダヤ人街の雰囲気を感じるよすがさえ得られなかっただろう。

 かつてモロッコは、環地中海のユダヤ人世界の一つの拠点だった。モロッコから海峡を一つ隔てれば、イベリア半島である。ユダヤ法学、ユダヤ哲学に多大な影響をもたらした中世のユダヤ思想家・医師のマイモニデス(1135-1204年)は、スペインを追われた後モロッコのフェズを拠点としていたことで知られ、現在もフェズにユダヤ学院が残っている。ユダヤ人はディアスポラ(離散)にありながらも、現代的な目から見ても広い地域で学的交流を継続していたのである。

 キリスト教、イスラーム、ユダヤ教の文化的共存を誇ったイベリア半島は、15世紀中ごろから封建制の危機を迎え、ユダヤ教徒へのまなざしも変化していった。異端審問制度の設立に続き1492年にカトリック両王がイベリア半島からのユダヤ人追放を命ずると(スペイン追放)、ユダヤ人はキリスト教カトリックへの改宗か、追放かを選択させられた。この「スペイン系ユダヤ人(ヘブライ語でスファルディム)」の内、約2万人がモロッコに逃れ、新たな共同体を築いた。ユダヤ人追放以前の古代まで遡ると信じられる「土着民(ヘブライ語でトシャヴィーム)」と合わせ、1940年代のピーク時にモロッコは25万人以上のユダヤ人口を擁していた。

今を生きるモロッコのユダヤ文化

 「メラー」とはモロッコ各地のユダヤ人地区に与えられた名称である。15世紀頃、フェズで塩気が多い土地にユダヤ人地区が建設されたことに由来し、元来アラビア語で「塩」を意味するこの言葉が全土で用いられるようになった。メラーがマラケシュの王宮地区に隣接しているのは偶然ではなく、ユダヤ人保護のために意図的になされた都市計画であった。20世紀に入ってからこの地区は、マヒヤというアルコール度の強い酒が売られる遊郭街となり、メラーは裏通りの魔窟のような様子であったともいう。

 25万人いたモロッコのユダヤ人の多くが、1948年に建国されたイスラエルや、フランス、北米へと移住した。2018年時点、モロッコでユダヤ人と自己認識している人の数は2150人にまで減り、その3分の2は最大都市カサブランカに居住している。私が訪問した2006年当時のマラケシュには200人強のユダヤ人がいたようだが、現在も残るユダヤ人は100人ほどと考えられている。当時私は、シナゴーグで案内してくれた男性を「ラビ」と思い、また安息日には礼拝が行われているのではないかと単純に考えた。ユダヤ教では、成人男性10人が集まることが集団礼拝の最小人数と考えられている。しかし今では、この男性10人を集めることですら難しいようだ。

 現在のモロッコのユダヤ文化を生かすのは、観光である。イスラエルやアメリカをはじめとするディアスポラのユダヤ人は、旅行先でユダヤ関係の観光地を訪問することが多い。イスラエルとモロッコが正式な国交正常化に至ったのは2020年12月と比較的最近のことだが、実際には観光を通した関係は以前から存在していた。1980年代に、モロッコを出身地とするユダヤ人の訪問が認められた後、さらに1990年代半ばからはイスラエルからの観光客も自由に往来できるようになった。私が見た「西洋人の観光客」の中にも彼らのようなユダヤ人観光客が含まれていただろう。2015年頃からはユダヤ人地区の改修が進み、観光客はますます増える一方だという。町の地図上からは消滅していた「メラー(El Mellah)」という地区名も2017年に復活し、シナゴーグの一部は博物館として改修された。

イスラエルのモロッコ文化

ミムナーの食卓(撮影:山口陽子)

 かたやイスラエルでも、モロッコ系イスラエル人の文化は今でも息づいている。ヨーロッパ・ロシア系のユダヤ人が中心となって建国が進んだイスラエルでは、「ミズラヒ(東洋系)」と呼ばれたモロッコ系をはじめとする中東系ユダヤ人は相対的に劣等の立場に置かれがちであった。しかし、上に挙げた聖者の墓廟巡礼や、音楽、祭りといった慣習は、モロッコ系ローカルの文化活動という狭い意味付けを乗り越え、次第に文化的価値を獲得していくようになった。

 私が2018年、イスラエル・テルアビブのハビマ劇場に聴きに行った「モロッコ音楽祭」では、フランス語とヘブライ語を話す高齢の男女が大きなホールを埋め尽くし、歌謡曲風の音楽やウード(アラブ音楽文化圏で用いられる弦楽器)の響きに盛り上がった。イベントだけではない。現在イスラエルでは、「ミムナー」と呼ばれる、もともとはモロッコ系ユダヤ人の祭りが新たな伝統として知られている。過ぎ越し祭では、旧約聖書の出エジプト記に書かれ、エジプトを逃れたユダヤ人が出発を急かされて種を入れないパンを作ったという故事により、種無しパンを食べ、小麦粉でできた製品(パスタやお菓子なども)を避けるという習慣がある。こうして7日間を小麦粉なしで過ごした後、ミムナーという祭りではふんだんな焼き菓子を作り、祝うのである。このような食文化や音楽など、モロッコ系の起源をもつ家族は独特の文化を受け継いでいると考えられており、イスラエル人の多くが親しみをもっているのである。

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著者略歴

  1. 宇田川 彩

    1984年、横浜市生まれ。東京大学総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。現在、東京大学総合文化研究科中東地域研究センター/スルタン・カブース講座特任助教。文化人類学を専門として、アルゼンチンとイスラエルを中心に現代のユダヤ人にかんする研究を行ってきた。主な著作に『それでもなおユダヤ人であることーブエノスアイレスに生きる〈記憶の民〉』(世界思想社、2020)、『アルゼンチンのユダヤ人ー食からみた暮らしと文化』(風響社、2015)がある。

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