「ユダヤ巡り」からフィールドワークへ
「ユダヤ巡り」からフィールドワークへ
私たちの結婚は、まずアルゼンチンでユダヤ式の結婚契約書「ケトゥバー」に署名し、次に日本の神社で宮司のもと天照大御神に宣誓して執り行われた。二人とも日本生まれの日本育ちで、ユダヤ教徒でも神道の氏子でもない。儀礼好きの文化人類学者である私の調査地アルゼンチンと、日本式の結婚式もやってみたいという好奇心から神社を選んだ結果、実に多神教的なやり方に落ち着いた。ケトゥバーには、結婚から離婚時の条件までが、ヘブライ語(ユダヤ教の典礼言語で、現代イスラエルの主要言語でもある)とスペイン語(アルゼンチンの主要言語)で書かれている。ラビ(聖職者)と2名の証人立ち合いのもとで、「永遠の愛」ならぬ契約関係としての結婚が認められることとなった。本連載では先の話になるが、イスラエルに住んでいた間、この契約という行為が日常に溶け込んでいることに驚いた。たとえば日本ならば形式的にサインするにすぎない賃貸契約書の内容を、一言一句読み込んで交渉しなければならなかったのだ。我が事としてやってみてはじめて学べることもある。
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ユダヤ教やユダヤ人に関心をもった最初のきっかけをはっきりと覚えているわけではない。ことば、書かれた文字、文字が刻み込まれた書物が好きだったから、書物とともに伝統を紡いできたユダヤ人の不思議さに魅了されたのは自然なことだったと思う。たとえば、モーセ五書の巻物を抱きかかえて歌い踊る人びと、あるいは初めてヘブライ語の文字を学ぶ子どもが石板にハチミツで文字を書いて舐めとるという慣習は、異なる世界へのあこがれを誘うには十分なエピソードだった。しかし何よりも、のめり込むようにしてその後の人生を跡付けたのは、旅とともに出会う人びとのおもしろさだった。私はこれまでに、モロッコ、ウズベキスタン、イスラエル、エジプト、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、インド、ギリシャ、ドイツ、ポーランド、フランス、オーストリア、香港、上海の各地域で、ユダヤ人に出会ってきた。中でも、アルゼンチンには2年間、イスラエルには1年半の間住んだ。最初の頃は好奇心が先立った「ユダヤ巡り」は、私自身が大学を卒業して大学院に進むにつれ、文化人類学を専門とした研究の対象へと、旅は「フィールドワーク」という名前へといつの間にか変わっていった。旅先の人びとも、わけもわからずに突然飛び込んでくる私を実に親切に受け入れてくれた。
今でも思い出すのは、真冬のカナダ・モントリオールでのことである。インターネットで探した地図上の適当なシナゴーグ(ユダヤ教会堂)にピンを差し、事前連絡もせずに突然礼拝中に入り込んだ私を、ラビは丁重に歓迎してくれた。そればかりではなく、礼拝が終わると自宅に招いてくれ、安息日のディナーをご一緒することになった。食事の後、初めて目にした乳製品用と肉用とに分かれた台所の流し台(ユダヤ教の食餌規定では肉と乳を混ぜることが禁止されているため、敬虔な人びとは洗い場も分別する)に興奮し、写真を撮った非礼が咎められることもなかった。ラビの妻が何か言いかけた表情で、本来ならば安息日に電化製品を使うことが禁止されていることを思い出したのだ。その夜の帰り道に1メートル先が見えない吹雪に生まれて初めて取り巻かれたことに心折れ、冬が苦手な私はモントリオールを調査地に選ぶことはなかったが、このようにして私は次第にユダヤ・ワールドの中に入り込んでいったのである。
ユダヤ人であること
2018年時点で、世界1460万人のユダヤ人口の内、84%はイスラエルと米国の2か国に集中している。イスラエルが655万人、米国が570万人という規模である。この2か国以外で1万8千人以上のユダヤ人が居住する国は17か国あり、ユダヤ人口の14.6%を占める。それ以下の小規模な人口が、他の79か国に散っている(各国のユダヤ人口については以下の地図を参照)。
各国のユダヤ人口
(American Jewish Year Bookによる報告を、Berman Jewish DataBankがオンラインで公表した統計をもとに作図。
統計データは次のリンクを参照
https://www.jewishdatabank.org/content/upload/bjdb/2018-World_Jewish_Population_(AJYB,_DellaPergola)_DB_Final.pdf)
世界で現在も爆発的な増加を見せているムスリム人口は2018年時点でほぼ18億人と推定され、世界人口の24.0%を占めているという。2050年には27億人を超すという推計もある。イスラームにおいては宣教が徳と考えられており、また人口の自然増加も多い。欧米社会ではマイノリティである印象が強いが、イスラーム自体が世界的に見て少数派であるわけではない。
どのように算出しようとも、世界のユダヤ人口はあくまでも推計である。国籍や「宗門帳」のように世界に共通するユダヤ人の登録制度は存在しない。上の数字は大まかに、「自らをユダヤ人と認識する者」を狭義のユダヤ人の定義とした場合の数字である。
では「自らをユダヤ人と認識する」とはどのような定義なのかといえば、これもまた難しい。先ほど挙げたモントリオールのラビは、黒い衣装と帽子を身に着け、もみあげを長く伸ばした男性である。このような見まごうことなき外見から敬虔なユダヤ人(一般には「超正統派」や「正統派」の名で知られる)は全体から見れば約1割と少数である。彼らはユダヤ教の戒律に全面的に基づいた日常生活を送るため、食餌規定に適合する食料品が手に入りやすく、安息日に徒歩でシナゴーグに通える範囲内に集まって住んでいることが多い。たとえばニューヨーク市ではブルックリン、イスラエルではエルサレムの街の至るところでこうした敬虔なユダヤ人の姿が見かけられる。
他方、母がユダヤ人だから一応はユダヤ人ということになっているという人もいれば、母がユダヤ人ではないためユダヤ法では認められていないが、自分は100%ユダヤ人だと考える人もいる。ユダヤ人の母親から生まれた子、またはユダヤ教に改宗した人がユダヤ法に認められるユダヤ人の定義だからだ。止められこそすれ勧められたことは一度もないが、私も必要とあらばユダヤ人になることができる。改宗を願って三たび扉を叩けば、三度目には扉が開かれることになっている。その後長い時間をかけて座学や実践を通してユダヤ教への理解を深め、ラビと証人たちを前にした諮問に合格すればよい。
ユダヤ新年と家族の集い
異なる言語を話し、異なる相貌をもったユダヤ人は、同じユダヤ暦を異なる季節に祝っている。ユダヤ暦の新年はグレゴリオ暦の9月頃に当たる。イスラエルでは真夏の日差しが少し緩むが、地中海に面した都市テルアビブのビーチはまだ人でごった返している。秋の果物が旬を迎え、鮮やかなザクロやイチヂクが市場を彩る。新年は豊穣を寿ぐ実りの秋である。その頃南米アルゼンチン・ブエノスアイレスの街路はハカランダの花の薄紫色で覆われる。新年は新たな季節にほころぶ春である。
去る9月18日に明けたばかりの新年は5781年に当たり、この数字はアダムとイブ以来の世界の始まりから数えられるものとされる。新年には家族・親族が顔をそろえて食事をともにし、日本の正月に似た華やいだ雰囲気となる。その10日後には一転して厳粛な雰囲気の贖罪日を迎える9月には、一年でも最も重要な祭日が集まる。
2020年の新年は、例年とは異なるものとして記憶されることになるだろう。いまや世界中の誰もが経験しているように、コロナウイルスの影響で集うことができないからだ。イスラエルでは、新年から贖罪日にかけて家庭やシナゴーグで多数の人が国内を移動して集うことを予防する意図で、9月18日(金)午後2時から10月11日(日)に及ぶ外出規制措置がとられている。外出が許容されるのは自宅から500メートル範囲内に限られ、生活に必須の店舗以外は閉業するという、お盆休みの帰省を控えることが推奨された日本よりもよほど厳しい措置だ。背景の一つには、日本の感覚からすれば驚くほど家族の集いが重要視されていることがある。祝祭日だけでなく安息日の夕飯は家族が集って食事をすることが当然とされている。若者も「ちょっと多すぎかもね」などと言いながらもあえて習慣を破ろうとはしない。それほど熱心な彼らの集いを、「推奨」程度で妨げることは不可能なのだろう。こうした家族の集いにも、歴史が息づいている。ホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人をはじめとした大量虐殺)を生きのびてイスラエルへ移住した祖父母をもつ女性は幼少時を振り返り、周辺では祖父母や叔父叔母のいない子どもばかりで、近所に住んでいたイエメン系の大家族がうらやましかったと言う。多くの子どもを設け、一族を作り直して皆が集うことは、あたかも人生の目標や社会の理想のように受け止められてきたのである。
この連載は、私が旅先でユダヤ人やユダヤ教と出会い学んできた道筋を辿りつつ描く「ユダヤ紀行」である。私が巡ってきたすべての国には、独自のユダヤ人の歴史があり、現在まで続くシナゴーグや博物館がある。たとえばポーランドの古都クラクフでは、ユダヤ人の暮らした過去が観光の目玉となっている。破壊されたシナゴーグは華麗に修復され、あたかも過去は忘れ去られたようである。対照的にブラジル・サンパウロのように、ユダヤ人向けの巨大社交スポーツクラブが街中にあるが、外側からは中の様子が目につかない空間もある。ユダヤ人が今もなお生活しているからといって、「外」から明らかにそうと見て取れるわけではない。それぞれの土地を旅するように、ユダヤ人の世界を内から外から垣間見ていこう。